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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(巡幸と記念碑)
巡幸
と記念碑 明治の初め、都が東京に移された後、明治天皇には、前後数回にわたって全国各地に
巡幸
をされた,後に全国各地に明治天皇の
巡幸
を記念した記念碑が建てられ、その数は千数百ヵ所に上ると言われている。 ,天皇
巡幸
の際のゆかりの地を「聖蹟」と呼ぶことがあるが、弘前の聖蹟に建てられた四基の記念碑は、それぞれの,31 行幸記念碑 (青森地方裁判所弘前支部構内) 明治天皇が青森県に足跡を印(しる)せられた
巡幸
,天皇の
巡幸
が、明治初期の十数年間に集中的に行われたことは、明治政府にとっても、これを受け入れた各地方にとっても /
巡幸
と記念碑
通史編4(近・現代1)
(明治九年の巡幸)
明治九年の
巡幸
明治九年(一八七六)の
巡幸
は、本来前年の八年に行われるべきところ、時の政治社会情勢にかんがみて,そのためにも天皇の各地への
巡幸
は大きな意義を持った事業であった。,明治九年の
巡幸
は、天皇の車駕が東京を出発したのは六月二日、関東、東北各県を
巡幸
の上、青森に到着されたのは,七月十四日、青森から北海道へ渡られ、各地を
巡幸
の後、帰途は軍艦を利用して東京へ直航された。,また、
巡幸
を機として県下各方面の功労者五人に褒賞の沙汰があった。 / 明治九年の
巡幸
通史編4(近・現代1)
(巡幸の日誌と弘前)
巡幸
の日誌と弘前 天皇の
巡幸
の際には、文章をもって仕える係官が随行し、
巡幸
が終わってまもなく
巡幸
日誌,この大隈に私的に随行した峰源次郎が、天皇関係の文章係りとは別に
巡幸
日誌を残した。 ,これらの
巡幸
日誌とは、宮内省文学御用掛児玉源之丞による『扈蹕日乗(こひつにちじょう)』、内閣文書記官一等編修官川田剛,より岩木山・千代松原を眺望 次の峰源次郎『東北従遊私録』は、参議大隈重信に随行した人物による
巡幸
私記,以上の三つの御
巡幸
日誌はそれぞれ特徴があるが、共通してみられるのは、岩木山に関する記述である。 /
巡幸
の日誌と弘前
通史編4(近・現代1)
(明治十四年の巡幸)
明治十四年の
巡幸
明治十四年(一八八一)の再度の東北
巡幸
は、前回対象から外れた秋田、山形を主として計画,七月三十日車駕は東京を出発、沿道の各県を御
巡幸
の上、青森に到着したのは八月二十七日、行在所に蓮心寺が充,翌日軍艦で小樽港へ直航、北海道各地を
巡幸
の後、九月七日青森へ到着、往路と同じく蓮心寺を行在所とされた。 / 明治十四年の
巡幸
通史編4(近・現代1)
(学事奨励と天皇御巡幸)
学事奨励と天皇御
巡幸
県内の就学率向上と学事奨励のため、明治七年から県令(県知事)による学校視察がしばしば,九年七月十五日、東北
巡幸
の天皇は青森小学に行幸され、親しく生徒の授業を天覧されたのである。,九年七月、明治天皇
巡幸
の際、青森小学において学事奨励。東奥義塾及び小学生徒が代表参加。 ,十四年九月、天皇再度の東北
巡幸
。有栖川親王弘前内の五校を代巡。 / 学事奨励と天皇御
巡幸
通史編5(近・現代2)
(昭和天皇の来弘)
そのためもあって天皇の
巡幸
は各地で大歓迎された。,天皇の
巡幸
は国民の天皇に対する好意的な印象を引き出した。,昭和天皇が青森に
巡幸
したのは昭和二十二年八月になってからである。,これを最初に青森、浪岡、黒石と
巡幸
し、藤崎を経由して十二日、弘前市に到着した。,写真103 昭和天皇の弘前
巡幸
天皇は八月十三日に青森県をあとにした。
通史編4(近・現代1)
(行在所の奉迎ぶり)
このねぷたが一行に大きな感銘を与えたことは、
巡幸
記の記述に見ることができる。 ,本町五丁目、一番町、下土手町の界隈(かいわい)一帯は、前年の大火災で焼け野原と化したにかかわらず、この
巡幸
,このような短期間において復旧がなされたことは、この
巡幸
を前にして官民ともに全力を傾けた結果にほかならなかった,
巡幸
の際の沿道各県における所要の諸費用は、一応政府負担とはなっていたが、県や末端の戸長役場に至るまで物心,なお、
巡幸
一行は、九月十一日矢立峠を越えて秋田県へ入られ、羽州街道を南下して
巡幸
を続けられた後、東京の
通史編4(近・現代1)
(供奉員の陣容)
供奉員の陣容 この
巡幸
に供奉・随従した陣容を見てみよう。,写真33 御
巡幸
絵図・本町五丁目角 以上の
巡幸
の本隊のほかに、経路に当たる先々に先行して宿泊その,
巡幸
を迎える各地方の地方官に対しては、「地方官心得書」が布達された。
通史編4(近・現代1)
(行在所金木屋)
すでに述べたように、明治九年の御
巡幸
の際、金木屋の当主武田熊七は青森において県参事那須均の付添えをもって,十四年の
巡幸
に際して、弘前における行在所の御下命に接した金木屋は、当主は先代熊七の子清七と代わっていたが
通史編4(近・現代1)
(弘前士族の反発)
明治十三年一月六日に、川越石太郎が明治天皇の弘前
巡幸
のための民情調査にきた元老院議員佐々木高行に提出した
通史編4(近・現代1)
(伊東重と養生哲学)
明治天皇の
巡幸
のときには、青森で珍田捨巳、森可次とともに、御前で英語を暗誦して金五円也を下賜されている
通史編4(近・現代1)
(電信事業)
二線)の架線が完成し、これによって東北地方の日本海側の電線が全通することになるのだが、明治天皇の東北
巡幸
通史編4(近・現代1)
([付図])
含英女小学校集合写真 3 りんごの始祖・菊池楯衛試植を始める〈明治8年〉 4 明治天皇ご
巡幸
通史編5(近・現代2)
([口絵])
口絵27 米軍進駐への準備(昭和20年9月25日東奥日報) 口絵28 昭和天皇弘前
巡幸
通史編4(近・現代1)
(ジョン・イングの貢献)
たとえば、明治九年に明治天皇が東北に
巡幸
した際、七月十五日に青森の蓮心寺において「天覧授業」が行われ、
通史編4(近・現代1)
(肉食と牛乳)
明治天皇は、明治五年に初めて牛肉を召し上がったというが、その後各地への御
巡幸
が地方にこの風を移植する一動機
通史編4(近・現代1)
(町の様子)
このような様子は、それ以前の明治十四年(一八八一)の天皇
巡幸
の際にも見られた。
通史編4(近・現代1)
(新編 弘前市史 通史編4(近・現代1) 目次)
119 第四節 文明開化と東奥義塾 ………………………………………… 128 一 明治天皇の
巡幸
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