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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (二人市長事件)

二人市長事件 この政治状況のもとに起きた弘前二人市長問題は、時局から離れた政党政治の末期的現象だった,写真94 第13代市長宮館貞一  劣勢の政友派は、市長候補者を県弁護士会長三上直吉に変更した。,後任市長選挙市会は八月三十日午前九時招集された。,成田新市長はすでに七十八歳だった。,写真95 第14代市長成田徳之進 / 二人市長事件
通史編4(近・現代1) (市長の弁明)

市長の弁明 このため、理事者と協議して、自宅にある一切の材料を市に引き継がせ、嘱託を中止することを委員会,議員の質問に対し、石郷岡文吉市長は次のように答えている。  ,弘前市史は、結局、昭和三十三年藤森睿市長時代、市制施行七十周年記念事業として企画、昭和三十七年に上・下二巻 / 市長の弁明
通史編5(近・現代2) (桜田市長リコール問題)

桜田市長リコール問題 昭和二十六年(一九五一)四月二十三日、桜田清芽が岩淵勉市長の跡を継いで第二〇代,の弘前市長に就任した。,写真149 第20代市長桜田清芽  極度の財政難に陥っていた弘前市政を建て直すため、桜田市長が選,桜田市長は、就任早々こうした難しい問題に出くわし、大なたを振るわざるを得なかった。,その結果、市長に対するリコールが起こった。 / 桜田市長リコール問題
通史編5(近・現代2) (知事・市長への陳情)

知事・市長への陳情 弘前商工会議所は、安定成長期に各方面に陳情を活発に行った。,弘前商工会議所は、同様の内容を福士市長にも要望している。,これに対し、市長は回答を寄せ、また、これをもとに懇談を行っている。  ,市長の回答は、駅前と駅東側を結ぶ連絡道路についてや、弘前駅の民衆駅化について努力すること、弘前バイパス / 知事・市長への陳情
通史編4(近・現代1) (弘前市長らの商業金融に関する意見)

弘前市長らの商業金融に関する意見 弘前市長の長尾義連と商工会議所の佐藤才八ほか一五人は、商工業発展策,弘前市長らの提言は、この産業組合に、政府の資金を導入する際に、県の関与を求めているのである。 / 弘前市長らの商業金融に関する意見
通史編4(近・現代1) (助役問題)

助役問題 当時、弘前市会は、佐田正之丞市長代理の政友会派一一人、伊東重の市政刷新会系の自治派一〇人、,弘城政社小山派の弘前同志会派七人、中立二人の勢力分野で、菊池九郎市長辞職後、自治派と同志会派に推されて,伊東重が大正二年十月二十三日第八代市長となったが、翌三年二月十二日、わずか四ヵ月の在任で辞職した。,このため次の助役問題が紛糾し、さらに非政友の民友会主体で市長退職建議案を提出、監督権の発動を青森県知事,三年十一月十三日、小浜松次郎県知事は市長退職建議を取り消し、助役問題も調停した。
通史編5(近・現代2) (市民の政治意識の変化)

市民の政治意識の変化 昭和九年四月、成田徳之進市長は名古屋市で開かれた全国市長会議の帰途、東京にて奇禍,かくて前年に引き続いて再び市長選挙となった。  ,政友派は七十二歳の石郷岡文吉元市長を立て、後れて民政派は弘前出身で東京居住の予備役陸軍少将三浦真を候補,とした興新同盟と組んだため圧倒的に優勢で、六月十八日の選挙結果は二一票対八票の絶対多数で、石郷岡第一五代市長誕生,石郷岡市長は和衷協同の精神で終始すると挨拶した。  
通史編4(近・現代1) (市会乱闘事件)

市会乱闘事件 市会では、九月十八日、反菊池市長派の市会議員佐藤英司、野村忠兵衛、井上皓ら一二人が臨時市会開催,菊池市長は八月十五日病気のため退職しており、弘前市政刷新会の伊東重が十月二十三日から第八代市長に就任する,空白期間中の出来事で、政友会の重鎮佐田正之丞が助役兼市長代理だった。,この動きの中心になった井上らは、小山内鉄弥を担いで市長選挙に敗れた旧弘城政社小山勝次郎派であった。,その後、この党派は、市会において執拗に青森市にある県立女子師範学校を弘前へ誘致する問題で菊池市長を攻撃
通史編5(近・現代2) (忠霊塔の建設)

忠霊塔の建設 西茂森の丘上に聳(そび)える忠霊塔の建設について、葛原市長が亡くなってのち、その死を追悼,葛原市長が弘前忠霊顕彰会長でもあったので、この名木を本尊とすることと忠霊像の作者のことを頼んだ。,市長の純朴至誠に動かされ三国は引き受けた。,この苦況を救ったのが、やはり葛原市長の教え子Mの寄附だった。,青森軍政府の宗教政策からいけば、古来の仏天、仏神に基づくものであることを説明すれば理解を得られるはずだと葛原市長
通史編5(近・現代2) (和徳村との合併問題)

土手町  和徳村の合併問題が具体的に再開したのは、昭和九年(一九三四)六月二十一日に石郷岡文吉市長,市長は弘前駅と市の中心部を結ぶ道路の開通が必要であり、建設費用や市街地形成の観点からも合併が必要だと強調,市長は合併を部分的にでも開始すべきと見て、まずは弘前駅周辺の合併を考慮した。,そのため市長は第一案件である駅周辺の合併を、半ば妥協案として提示した。,これに対して弘前和徳町東部協会は、市長の提示した第一案に反対し、三大字の合併を含む第二案を主張していた
通史編4(近・現代1) (市青年団の結成)

市長石郷岡文吉の挙式の辞があってのち団員を査閲、次いで全員が君が代斉唱、団長(市長)による教育勅語と戊申詔書,この日参加した青年団員は六八三人、団長には市長、副団長には市助役を戴くというもので、青年たちの自主的な
通史編5(近・現代2) (弘前市総合開発基本計画(昭和四十六年計画)の策定)

藤森市長は、弘前市総合開発審議会委員を委嘱し、原案を諮問した。,(所掌事務) 第二条 審議会は、市長の諮問に応じ、総合開発計画を審議する。,2 審議会は、総合開発計画について必要があると認めるときは、市長に意見を述べることができる。,2 委員は、次の各号に掲げる者のうちから市長が任命する。   ,この場合において、同条同項中「会長」とあるのは「市長」と読み替えるものとする。  
通史編5(近・現代2) (葛原市政)

葛原市政 昭和十七年の市長選挙では、実業界で手腕を発揮している成田寅之助か当選したが固辞、そのため後任,写真97 第17代市長 葛原運次郎 運次郎葛原先生の世に残した印象は〝蘆葦年々膝下に青し〟という,葛原市長の助役は県商工課の羽賀良太郎で、二人とも政治的駆け引きや市会操縦等には全く超越していた。,鈴木喜助海軍少将の協力を得て桔梗野工場ができ、従業員五〇〇人という軍需工場になったが、用地については葛原市長
通史編5(近・現代2) (乳井市政)

乳井市政 乳井市長は、就任早々、市政革新の意味をもって吏員の和服着用廃止と広範囲な人事異動を断行、貧困者救助事務,写真96 第16代市長乳井英夫  昭和十四年九月に県議選挙が行われたが、戦争下の特殊現象として、,弘前市政も新体制に即応し、市会各派は解体、一致協力の態勢を整え、乳井市長も大政翼賛会弘前支部の首脳となった
通史編5(近・現代2) (桜田市政と合併対策)

桜田市長はこうした宣伝活動で常に先頭に立ち、合併成立に邁進した。,けれども桜田市長は合併終了後の市長選挙に落選した。,当時の市民は合併成立を果たした桜田市政よりも、新しい市政に期待し、新しい市長を選択したのである。,赤字財政で桜田市長は本当に望んでいた事業を展開できなかったうらみがあった。,けれども桜田市長は今日の弘前市の産みの親である。
通史編4(近・現代1) (高等学校誘致運動の展開)

、臨時教育会議において高等学校の増設が検討されるなかで、大正六年(一九一七)九月十九日付で、長尾義連市長,弘前市においても高等学校誘致運動がいっそう盛んになり、同年七月には石郷岡文吉市長から市会に提出された高等学校設置,の県への寄附に関する議案が可決され、さらに、新設の一校が青森県に予定されることを受けて、大正八年には市長
通史編4(近・現代1) (弘城政社の内紛と解散)

一、弘前市長候補は小山内鉄弥氏の再選を期す  一、次期代議士候補は小山勝次郎氏に決定すること  この,井上浩 宮川富三郎 古田昌三郎 竹内兼七 山中卯太郎 境峰太郎 高倉良蔵  三月二十三日、市会で弘前市長選挙,今回私ハ誤ッテ諸君ノ御推薦ニ預リ市長就任ノ裁可ヲ得タルハ感謝ニ堪ヘズ 御承知ノ通リ私ハ老体ニテ事務ノ経験,ノ御望ニ副フコト能ハザルヤヲ思ヘバ実ニ恐懼(く)ニ堪ヘザルナリ 然レドモ市ノ現状ニ鑑ミ公人トシテ将タ市長
通史編5(近・現代2) (弘前市の工業振興政策)

(奨励措置) 第三条 市長は、工場の新設または、拡充についてこの条例に基いて奨励措置を講ずる工場として,2 市長は、奨励適格工場に対して前項の奨励措置の外、工場の新設または拡充について必要な協力をするものとする,申請及び指定) 第四条 工場の新設または拡充について奨励適格工場の指定を受けようとするものは、その旨市長,2 市長は、前項の申請があつたときは、弘前市内に新たに設置しまたは拡充する工場で左の各号の一に該当し、,(指定の取消) 第六条 市長は、奨励適格工場が左の各号の一に該当するに至つたときは、その指定の取消をすることができる
通史編5(近・現代2) (新編弘前市史 通史編5(近・現代2))

新編弘前市史 通史編5(近・現代2) 題字 弘前市長 金澤 隆
通史編4(近・現代1) (市制の施行)

市長の就任したのが同年五月二十七日、市役所の開庁は同月十八日である。,市役所は東長町外廿二ヶ町戸長役場をもってし、吏員は弘前の五戸長役場から数人ずつ選出し、市長、助役のもと,初代市長菊池九郎、同助役は長尾義連が就任した。,明治、大正の市長は十二代を数える。, 長尾義連 写真70 第3代弘前市長 赤石行三 写真71 第6代弘前市長 小山内鉄弥
通史編5(近・現代2) (終戦直後の弘前市会)

市会ノ現行法規ハ内務次官ノ通牒ニ依テ制限セラレテルノデソレヲ現行法令ノ根本ニ呼戻スノデス   次ニ市長,ヒマス但シ一々個々ノ問題ニ付テハドウカト思ヒマスガ全面的ニハ聊カ無理ガ生ズルノデナイカト思ヒマス 市長葛原運次郎君,六番石澤勇君 現在火葬場ニ薪一本モ無ク市民ハ薪ヲ持参シナケレバ屍体ヲ焼カレヌトハ何タル状態デスカ 市長
通史編1(古代・中世) ([口絵])

[口絵] 1 嘉元鐘(重文)弘前市長勝寺 龍頭 紀年銘 撞座,12 絹本著色当麻曼荼羅図(県重宝) 弘前市貞昌寺 13 菊仙和尚倚像 弘前市長勝寺
通史編5(近・現代2) (バス事業の本格化と戦時下統制)

昭和十一年、石郷岡市長のときには弘前市が弘前乗合自動車を買収し市営バスの実現に乗り出そうとしたが、買収額,次の乳井市長のときに再びこの問題が起こり、市では市営バス調査委員会を設置して局面の打開を図った。,しかし、弘前乗合自動車側は新車輛の購入と路線の拡張によってすこぶる収益を増大させているので、石郷岡市長時代,一方、市当局は、市長をはじめバス調査委員が上京して、鉄道省、内務省、大蔵省等の各当局に事情を訴えて諒解,東京支局発】弘前市営バス問題は鉄道省が原則的には市営に異論はないが買収価格の点について難色を示した為乳井市長等
通史編5(近・現代2) (完結に寄せて)

完結に寄せて 弘前市長 金 澤  隆 『新編弘前市史』編纂事業は、市制施行百周年を記念して、平成元年,、当時の福士文知市長の時代に始められたものでありますが、以来十七年を経て、ここに資料編五巻、通史編五巻,藩祖為信公の領国形成、二代信枚公による弘前城下の建設、東奥義塾創設者にして初代市長菊池九郎の奮闘、りんごに
通史編5(近・現代2) (石川町の存在)

一方で弘前市も桜田清芽から岩淵勉に市長が交替し、その岩淵が病に倒れた翌年二月十八日の選挙で藤森睿が市長
通史編5(近・現代2) (富田小学校の弘前移管と焼失)

それを重視した弘前市長松下賢之進は、十一月二十七日、今後校舎内において点灯後酒類を禁止する旨、各校に通知,四月十八日の「富田の大火」で第一・第二大成の二校を焼き、今度は富田小学校と一年間に三校を焼失したのでは、市長
通史編5(近・現代2) (市域の整備と町村合併)

爾来(じらい)、郡市合併問題は弘前駅周辺の和徳村合併と併せ、歴代市長の課題となっていた。,清水村富田の住民が熱心に合併運動を促進した結果、松下賢之進市長の時代に具体案が完成して合併が成立した。,写真2 第12代市長松下賢之進  清水村との合併実現に対し『弘前新聞』は「大弘前市民たれ」と主張
通史編5(近・現代2) (金澤市政の財政)

金澤市政の財政 平成四年(一九九二)の市長選挙において、第三一代(~第三四代・現在)弘前市長に就任した,金澤隆(かなざわたかし)市長は、就任にあたり市民一人一人の声を聞き、それを真摯に受け止め、公正で能率的,写真160 市政懇談会での金澤市長
資料編2(近世編1) ([奥付])

 弘前市史」編纂委員会 ■ <監修> 乕尾俊哉(弘前大学名誉教授) ■ <刊行> 弘前市市長公室企画課
資料編1(古代・中世編) ([奥付])

 弘前市史」編纂委員会 ■ <監修> 乕尾俊哉(弘前大学名誉教授) ■ <刊行> 弘前市市長公室企画課
資料編1(考古編) ([奥付])

 弘前市史」編纂委員会 ■ <監修> 乕尾俊哉(弘前大学名誉教授) ■ <刊行> 弘前市市長公室企画課
通史編4(近・現代1) (顕彰碑の建立)

出席者は遺族、親族のほかに菊池良一(従兄弟)、伊東重、鳴海文四郎代議士、石郷岡弘前市長、武田東奥日報社社長,、丸瀬市会議長、長尾前市長、藤田重太郎県議など地方有志者約一〇〇名だった。  
通史編5(近・現代2) (観光協会をめぐる紛糾)

新会長は市長や商工会議所会頭でなく、弘前市の商工業界をリードし続けてきた吉井勇を選出している。,会長が市長だと市議会からの制約があり、会頭が会長だと商工会議所の会議に制約されると考えたからだった。,写真226 さくらまつりのポスター(昭和45年)  研究会の代表は桜田弘前市長に現行の観光協会の,解散を要請し、市長は役員会を開催して役員の総辞職を決めた。,岩淵市長を発起人として立ち上がった観光協会も、さまざまな紛糾を経て、ようやく一定の落ち着きを見せるようになったのである
通史編5(近・現代2) (福士市政の財政)

福士市政の財政 昭和五十一年(一九七六)の市長選挙において、第二七代(~第三〇代)弘前市長に就任した,福士文知(ふくしぶんち)市長は、就任にあたり、①長期的な視野に立った広域行政への取り組み、②北東北における,大水害の経験から、福士市長は災害のない町にすることが為政者の責務であると痛感し、河川の抜本的改修が急務,写真156 福士市長就任当時の四役(左から笹森教育長、山内助役、市長、中堂収入役)   ③清掃・,福士市長は弘前市と津軽地域全体との位置づけを五十九年の第一回定例市議会において次のように述べている。
通史編5(近・現代2) (中弘地区の合併推移)

当時の弘前市長桜田清芽は、和徳、藤代、大浦、駒越、清水、千年、堀越、豊田の八ヵ村との合併を考慮していた,市長の意向は昭和二十八年十一月二十四日作成の「新弘前市建設促進要領」にまとめられていた。,桜田市長も合併案は当初打ち出した八、九ヵ村に限定しないと発言し、合併問題は新たな段階に入った。,説明会では合併に対する種々さまざまな意見が出されたが、桜田市長は合併で得た財政力は関係村に還元し、弘前市
通史編5(近・現代2) (若草幼稚園)

には幼稚園がなく、地域住民から設置要望があったが、藤田がそれにこたえたもので、同園開園に当たって藤森睿市長
通史編4(近・現代1) (市会と市役所開庁)

写真60 初代・第7代弘前市長菊池九郎  当選者は次のとおりであった。  ,小野常三郎 鈴木久造 関静逸(以上一級一〇人)  五月十三日に市会を召集、長谷川如泡が議長となり、市長候補
通史編4(近・現代1) (御真影下賜と教育勅語)

写真102 御真影  桐の箱に収められた御真影は相馬校長に恭しく捧持(ほうじ)され、菊池九郎弘前市長,交付式は市役所で挙行されたが、長尾義連市長は式辞を朗読、「聖上臣民ノ教育ニ軫念(しんねん)セラルルノ懇到至切,各校長は市長から手渡された勅語謄本を奉戴して学校に帰り、直ちに全校生徒職員を集めて奉読式を挙行した。
通史編5(近・現代2) (人的資源の動員と健民運動)

弘前市でも厚生省の指示を受けて、乳幼児体力向上奨励週間を実施したが、市長は市が「国策ニ呼応シ滞リナク」,乳幼児体力向上奨励週間などでも、市長は審査員として「市内一流ノ医師ニ出場ヲ求メ献身的奉仕ヲ致シテ貰フ事
通史編4(近・現代1) (産業調査会の結成)

調査委員のなかには弘前市長の長尾義連や弘前商工会議所の佐藤才八も含まれていた。
通史編4(近・現代1) (帰郷してのち)

帰郷してのち 朝鮮における教育活動を終えて帰国したとき、笹森はすでに五十七歳だったが、青森市長の職が
通史編4(近・現代1) (連隊区の廃止)

大正十四年十月十五日、弘前市長石郷岡文吉は、軍縮を実施した宇垣陸相宛に請願書を提出した。,市長の請願書は、部隊があることによる経済的効果よりも、軍隊施設の余剰分を市が活用したい点が強調されていた
通史編5(近・現代2) (雪燈籠まつり)

二月三日には前夜祭として追手門広場で、共催者である三団体関係者が集まり、三者を代表して福士市長が「市民総参加,市長の挨拶は春夏秋のイベントに並び、弘前市の四季すべてにイベントができた喜びを示していた。
通史編5(近・現代2) (弘前観光協会の設立)

七月十二日、「弘前市及びその近郷に於ける観光諸施設を急速に整備し、観光客の便を図るは刻下の急務」として、弘前市長岩淵勉,協会の構成員は会長に市長、副会長に市議会議長と商工会議所会頭、事務理事に弘前市助役がそれぞれ就任した。
通史編5(近・現代2) (弘前市青少年団)

弘前市青少年団長は市長乳井英夫、副団長は助役木立猛のほか神英造、笹森テサ、事務局長兼総務部長伊藤得治、
通史編5(近・現代2) (一 津軽地域の中核都市弘前の財政)

本項では、昭和三十一年の藤森市政以降の財政を各年の第一回市議会定例会における市長の市政運営に関する基本方針
通史編4(近・現代1) (遊廓と小学校)

十月二日の和徳小学校日誌に「学校長出校、去月県令ヲ以テ遊廓地ヲ北横町及ビ学校傍ニ指定セラレシ事ニ付、市長,和徳小学校長今助次郎は肺疾のため永く病臥中だったが、新遊廓地指定に大いに驚き、病軀(く)をおして市長を
通史編5(近・現代2) (敗戦と文書焼却問題)

敗戦と文書焼却問題 これまで見てきた「市長助役書類綴」のなかに、学兵課の事務引継書がある。,弘前市長の引継書を見ると、弘前市でも兵事書類が数多く焼却されたことがわかる。
資料編1(考古編) (「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成6年4月1日現在辞令交付分))

佐藤圭一郎 弘前市教育長 ○監修者  乕尾俊哉  弘前大学名誉教授 ○編纂委員  笹谷正一  弘前市市長公室長,弘前大学名誉教授 ○編集委員長  森山泰太郎 東北女子大学教授 ○編集委員  笹谷正一  弘前市市長公室長
通史編5(近・現代2) (前川設計建築群)

前川設計建築群 藤森市長は、すでに木村産業研究所や弘前中央高校講堂が前川の手になることを知っていた。,市庁舎の改築に当たっては、国の了解を得なければならなかったが、その際のやり取りを藤森市長は後の回顧談『
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