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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (師団誘致運動)

師団誘致運動 師団拡張にあたり陸軍当局が最も憂慮したのは、敷地の獲得だった。,第八師団の所在地が弘前市に決定すると、弘前市をはじめ周辺の町村からも師団誘致のための運動が盛んに起こった,写真77 第8師団司令部  師団誘致合戦は、互いに自らの地域の特徴や利点をアピールし、関連当局に,師団設置を要望する町長の上申書を陸軍当局に提出している。,師団の敷地は連隊の敷地も合わせると膨大なものだった。 / 師団誘致運動
通史編4(近・現代1) (第八師団の実状)

第八師団の実状 全国各師団の実状は時折天皇に上奏されることになっていた。,それを見ると、第八師団長立見尚文の名で、日露戦争を間近に控えた当時の第八師団管下の様子が、概略的ではあるが,立見師団長は、雪国を管下に控える第八師団では積雪のために新兵の訓練が十分でないことを上申している。,防寒対策、とくに雪対策が北方師団である第八師団に課せられた大きな課題となった。,明治三十五年(一九〇二)の一月下旬、立見師団長が明治天皇に師団の実状を上奏したその月に、師団管下の第五 / 第八師団の実状
通史編4(近・現代1) (第八師団のシベリア派遣)

第八師団のシベリア派遣 シベリア出兵が弘前市民にとって最も身近な問題となったのは、やはり第八師団自体,大正十一年四月十九日、第一一師団と交代するため、第八師団がシベリアに派遣されることになった。,郷土師団の派遣、とくに軍都弘前を象徴する第八師団の出征ということで、弘前市民の関心は一気に高まった。,撤兵が決定するとともに派遣されていた各師団は凱旋を果たした。,第八師団が青森に上陸したのは十月十四日であり、二十八日には師団司令部も弘前に帰還した。 / 第八師団のシベリア派遣
通史編5(近・現代2) (弘前市にとっての第八師団)

第八師団を抱える弘前市については、とくにそうだった。,第八師団は青森、岩手、秋田、山形を管轄し、仙台に拠点をもつ第二師団とともに、東北師団として巨大な施設を,当然、弘前市民も寒さに強い北の師団である「国宝師団」を誇り高く思っていたのである。  ,日中戦争以降、師団が大増設されるまで、陸軍部内でも師団長は天皇に直隷し陸軍次官や参謀次長より上位とされていた,師団司令部が置かれ、師団長を地元に迎える弘前市民にとって、軍隊との関係は他地域よりも密接であったろうし / 弘前市にとっての第八師団
通史編4(近・現代1) (日露開戦と第八師団の派遣)

日露開戦と第八師団の派遣 明治三十七年(一九〇五)二月十日、日本はロシアに宣戦布告した。,しかし郷土師団たる第八師団が大陸出征したり、津軽海峡にロシア艦隊が出没したり、樺太からロシア人捕虜が弘前,郷土師団たる第八師団が出征せず、留守師団として内地に留まっていたのが最大の理由であろう。  ,その第八師団も六月七日に動員されることになった。当時の日本は全部で一二の師団が常備していた。,郷土師団たる第八師団に動員令が下り、いよいよ大陸に出征してからは、弘前市民の戦争熱も高まった。 / 日露開戦と第八師団の派遣
通史編4(近・現代1) (ロシア戦への意識と第八師団の設置)

日清戦争当時の師団は全国で第六師団までしかなかった。,第七師団から第一二師団まで六師団を新たに増設し、弘前に第八師団、金沢に第九師団、姫路に第一〇師団、善通寺,に第一一師団、久留米に第一二師団を置いた。,二年後に正規の師団長を発令し、弘前第八師団の初代師団長には、立見尚文が就任した。,写真76 立見尚文師団長  師団拡張の結果、これまで仙台の第二師団に属していた青森・岩手・秋田三県 / ロシア戦への意識と第八師団の設置
通史編4(近・現代1) (盗伐問題と師団の設置)

盗伐問題と師団の設置 この年八月十二日、信望厚く、七年間も本県知事を務めた佐和正が免官になった。,根拠は、直前の六月十五日に襲来した三陸大津波への対策、年々四〇〇人余の犯罪を生む官有林盗伐の問題、第八師団,一方、同じ清水村で、明治三十一年から第八師団建設工事が始まったため大発展した大字富田のケースもある。,富田から小栗山に通ずる道路沿いに、師団司令部(現弘前大学農学生命科学部)、旅団司令部(同)、憲兵隊(同,写真73 弘前師団通りの松原(明治末年)  これによって、沈滞しきっていた弘前の経済も活況を呈し / 盗伐問題と師団の設置
通史編4(近・現代1) (黒溝台の死闘)

黒溝台の死闘 大陸に出征した第八師団は、第一・第七・第九師団とともに、乃木希典司令官が率いる第三軍に,郷土師団たる第八師団は、この戦闘に一万五七一九人が参加した。,郷土師団の活躍を期待して見送った市民は、黒溝台の会戦が天王山となり、そこで郷土師団の将兵たちが活躍することを,その結果、壊滅的な打撃と被害のために、かえって日露戦争を果敢に戦った北方師団として、第八師団は「国宝師団,師団の地元弘前市民にも「国宝師団」を抱える弘前市という印象が広まった。
通史編5(近・現代2) (軍事色の払拭)

第八師団を抱えていた弘前市にとって、軍事色の払拭は単に建物施設の解体にとどまらなかった。,第五七師団は日中戦争期に増設された師団である。,日中戦争が泥沼化した結果、全国各地の師団が中国や朝鮮など外地に出たこともあり、戦力増強を意図して師団が,昭和十五年(一九四〇)七月十日、第五一師団から第五七師団まで七つの師団が新設された。,このうち第五七師団が、第八師団を母体として編成されたのである。  
通史編5(近・現代2) (郷土部隊の出征)

事変後、各地の師団から部隊が出征し、第八師団管下の各連隊にも出征が命じられた。,三月十二日、第八師団の主力部隊が出動することになった。このときの師団長は西義一中将である。,師団主力が出征するということで、『東奥日報』をはじめ新聞は大々的にその偉功をたたえ、郷土師団の派遣を盛大,第八師団の各部隊は、一部が七月に凱旋を果たしたが、師団主力が凱旋したのは昭和九年になってからだった。,第八師団将兵が常に青森県の師団であることが、ここでも強調されている。
通史編5(近・現代2) (敗戦時の郷土部隊)

第八師団自体は太平洋方面の戦局が絶望的となった昭和十九年(一九四四)七月、フィリピンへの転出を命じられている,他の師団と同様、第八師団管下の各部隊も中国や南方方面に派遣され、悲惨な状況下で敗戦を迎えている。,むろん第八師団管下の各部隊も同様である。,師団・連隊も解散させられ、天皇の軍隊は驚くほどあっけなく解体したのである。
通史編4(近・現代1) (歩兵第三一連隊の移転問題)

第八師団のある弘前市に一連隊を置き、岩手県にも同県出身者で構成される一連隊を配置することは、合理的な軍縮路線,第八師団設置の際もそうだったように、陸軍部隊の設置や移転は地元経済に甚大な影響を与える。,多数の将兵とその家族が地元にもたらす経済的効果は、師団と二つの連隊をもつ軍都弘前市の場合、尋常ではなかった,移転阻止の決議案には、市の財産をなげうってでも師団を誘致した弘前市民の努力を強烈に訴える内容が盛り込まれていた,師団司令部のある地元弘前市周辺に連隊がなくなる事態だけは、陸軍省も避けたのである。
通史編5(近・現代2) (戦後の世相と観光政策)

戦争の終結により、弘前市は軍都の象徴として、政治・産業の基盤だった第八師団を失った。,戦後は第八師団に代わる弘前市の象徴と産業基盤を見出すために、弘前大学を新設し、学都弘前をめざした。,だが学都弘前だけでは戦前・戦中の第八師団と比べ、産業的基盤に欠けるのは否めなかった。  ,しかし大学を設立し、大学生を集めるだけでは戦前・戦中期の弘前市の経済を支えた第八師団の威力に遙かに及ばない
通史編4(近・現代1) (軍縮と歩兵第五二連隊の廃止)

大正十一年八月、加藤友三郎内閣の山梨半造陸軍大臣は、約五個師団分に相当する施設と人員・軍馬の縮小を行った,加藤高明内閣の宇垣一成陸軍大臣は、四個師団を廃止する思い切った軍縮を実行した。,宇垣軍縮による実質的な軍備の近代化は、第八師団管下にも確実に反映した。,大正十四年(一九二五)の第八師団連合演習では飛行機や戦車、軍用犬、携帯無線電話など、新しい武器、兵器が,市の財政をなげうち、市民総出で第八師団を誘致した弘前市民にとって、第五二連隊の廃止はたいへんな痛手だった
通史編5(近・現代2) (歩兵第三一連隊移転問題)

だが師団司令部管下には歩兵二個連隊を附属する必要があるとの原則論があった。,第八師団管下には青森市に五連隊、弘前市に三一連隊と、二つの連隊があったが、師団司令部の地元弘前市には、,結局、弘前市には師団司令部がありながら、連隊は三一連隊だけしかなかったのである。,その三一連隊を盛岡に移転させられることは、師団司令部のある弘前市に連隊が存在しないことを意味した。,五二連隊の廃止で甚大な影響を受けた市にとって、三一連隊まで失うことは「師団設置以来数十年間一日ノ如ク捧
通史編4(近・現代1) (特別大演習と天皇の弘前行幸)

一九一五)十月二十日から三日間にわたって、弘前市を中心に津軽平野一帯において特別大演習が行われ、弘前第八師団,、仙台第二師団、旭川第七師団が参加した。,大演習御統覧のために大正天皇は十九日に弘前に行幸、二十五日まで第八師団司令部に滞在された。  
通史編4(近・現代1) (日清戦争と郷土部隊の出征)

当時、弘前市出身の兵士たちは仙台にある第二師団に属していた。,当時まだ第八師団はなく、弘前市出身の将兵たちは仙台を拠点とする第二師団に属していた。,第二師団の召集は九月二十五日であり、十月六日には後備軍が召集された。,第二師団は第二軍に編入され、一月下旬にかけて山東半島の栄城湾に上陸した。,その意味で弘前市民を含む第二師団の功績には大きいものがあったのである。  
通史編5(近・現代2) (市域の整備と町村合併)

両部落の合併は第八師団設置当時からの長い歴史があった。,第八師団自体が巨大な組織である以上、地域の統一整理が必然となったからである。,しかし師団設置当時の住民は、政治的にも経済的にも非常な打撃を蒙るとして合併に猛反対し、結果的に合併は実現,この合併の最大の特徴は、第八師団司令部と歩兵第五二連隊、弘前高等学校(現弘前大学文京キャンパス)が、合併,弘前市は軍都弘前として名をはせたが、実際に第八師団司令部が市域に編入されたのは、意外にも昭和期に入ってからなのである
通史編4(近・現代1) (連隊区の廃止)

県庁を奪われ政治的位置づけを失い、さしたる生産的都市機能をもたない弘前市にとって、第八師団の設置は政治的,市が財政的に無理をしてまでも敷地を献納してきたのは、師団が設置されることで、その莫大な軍事消費経済の効果,だが平時に膨大な組織と規模を誇る一つの師団が集中していることは、市の敷地の相当な部分を軍事施設に奪われることを,弘前市は第八師団管下の諸軍事施設から、相当な経済的恩恵を受けてきた。
通史編4(近・現代1) ([口絵])

宮川呉服店 口絵20 角み宮川呉服店内部 口絵21 川口染工場の染色場 †第八師団創設,† 口絵22 陸軍第八師団の開設を祝う住民(師団司令部前で) 口絵23 野砲兵第八連隊営門,のデパートメントストア「角は宮川」 †大正4年陸軍大演習† 口絵54 大本営が設置された師団司令部
通史編4(近・現代1) (ロシア人捕虜と弘前捕虜収容所)

この樺太作戦では第一三師団が活躍し、七月三十一日にロシア軍が降伏して、全樺太が平定された。,ロシア人捕虜は第一三師団将兵に連れられ、七月二十三日に青森港に上陸した。,黒溝台の会戦で多くの将兵を失った第八師団管下の弘前市民ないし青森県民にとって、敵国ロシアとロシア人に対
通史編4(近・現代1) (供奉員の陣容)

この立見尚文は、後に第八師団が弘前に設置された際、初代の師団長として来任し、市民たちにも親しまれた人物
通史編5(近・現代2) (本県スキーの父・油川貞策)

本県スキーの父・油川貞策 明治四十四年(一九一一)一月、新潟県高田師団で、オーストリアのレルヒ少佐が,翌四十五年一月五日から三週間の講習会に参加し、レルヒ少佐からスキー技術を学んだ第八師団の四人の将校の中
通史編4(近・現代1) (道路改修問題と佐和知事)

、弘前市元寺町、同親方町、同松森町、堀越村、石川村、大鰐村、蔵館村、碇ケ関村 秋田県界 兵営道 第八師団司令部,弘前市土手町 山道町、住吉町、清水村富田 第八師団司令部 歩兵第三十一聯隊兵営 弘前市親方町 本町、,新寺町 歩兵営 輜重兵第八大隊兵営 弘前市新寺町 清水村富田樹木派立 輜重営 騎兵第八聯隊兵営 第八師団司令部
通史編5(近・現代2) (忠霊塔建設)

建設関係者が弘前第八師団の名が存在しているうちに完成させようと、突貫工事を行ったものである。,竣工式は二十年(一九四五)十一月五日に行われたが、参列した第八師団長は敗戦後のことなので武装解除され、
通史編4(近・現代1) (町並みの推移)

それが明治の三十年代にようやく活況の兆しを見せるようになったのは、二十七年の鉄道開通と三十年の師団設置,へた津軽歴代の城市、商業も工業も活気を失つて、半歳を深雪の中に埋められる淋しい市街も、日清戦役後、第八師団,(田山花袋『生』第一八章、明治四十一年刊)  こうして、師団の設置によっておびただしい外来の転住者と,住吉町あたりには、将校や下士官のための下宿屋、そして兵隊相手の飲食店、小料理屋、各商店が並び建ち、殊に師団通
通史編5(近・現代2) (移民問題の背景)

募集地には第二・第八・第一四師団があり、東北各師団の管区に一致していた。  
通史編5(近・現代2) (満州事変勃発と小学校)

同年十一月十三日、弘前第八師団に動員令が下り、この日大部隊が弘前駅を出発した。,第八師団の渡満後、この郷土部隊への慰問が小学校児童の大きな仕事となった。
通史編4(近・現代1) (大正期観桜会あれこれ)

本大祭は県知事が祭主で、参集者は師団長・大湊要港部司令官・各部隊長・各学校長・国防婦人会代表・在郷軍人会代表,屋形船は、師団司令部が軍紀の乱れることを恐れ、また、主催者側も風紀が乱れると判断したため、大正末期には
通史編4(近・現代1) ([付図])

青森県尋常中学校校舎落成〈明治27年〉 18 奥羽本線~青森―弘前間開通〈明治27年〉 19 第八師団司令部,駿馬之図屏風』 27 工藤行幹代議士急逝〈明治37年〉 28 日露戦争~黒溝台会戦で第八師団激闘,〉※特選受賞作と同名の作品 45 官立弘前高等学校開校〈大正10年〉 46 第八師団歩兵第五二連隊
通史編4(近・現代1) (地域と軍隊の密接化)

しかし日本の勝利といっても、日本は黒溝台の会戦で第八師団が多大な犠牲を払っており、薄氷の勝利といってよかった,写真82 凱旋を祝う第8師団御用達の商店(新寺町)  弘前市民にとっても日露戦争は身近な戦争として,「国宝師団」にふさわしい陣容を整えようとした策でもあった。  
通史編4(近・現代1) (第一次世界大戦の衝撃)

第八師団を抱える軍都弘前市にとって、直接軍隊が出征しなくても、その影響は大きかった。,日本が参戦している以上、全国各地の師団が戦闘準備をするのは当然だった。
通史編4(近・現代1) (遊廓と小学校)

二十九年九月、弘前市に第八師団が設置されることになり、第一陣として歩兵第三一聯隊が仙台から移営し、その,たまたま第八師団が設置されることになって、その移転が急がれ、今度の指定となったのである。
通史編4(近・現代1) (日清戦争終了後の民情)

弘前市出身者を含む第二師団の戦功もあり、明治二十八年(一八九五)四月十七日、日清講和条約(下関条約)をもって,とくに第二師団では山東半島上陸以後、青森県や弘前市出身者の戦病死者が増加した。,後年師団の拡充などで実現するが、対外戦争を戦うためには、国民の国家に対する忠誠を引き出さねばならなかった
通史編5(近・現代2) (弘前城内の植物園造営)

弘前城内の植物園造営 敗戦で第八師団が解散させられるまで、弘前城三の丸一帯は兵器廠だった。
通史編4(近・現代1) (シベリア出兵と反戦デモ)

弘前の第八師団管下の第一六旅団に出動命令が下ったのは大正十年(一九二一)十二月十四日、翌十一年四月には,第八師団全部の派遣が決まり、司令部以下青森を出港、ウラジオストクに上陸、治安と交通路守護の任に服した。
通史編5(近・現代2) (忠霊塔の建設)

当時の弘前師団の軍用土地建物係のHは、忠霊塔が一面陸軍墓地の性質を帯びているので建設に関係していた。,このときも市長は活躍し、陸軍被服本廠の特別協力を得、迎えにいった市民の手で、青山石勝で彫った元第八師団長菱刈大将揮毫
通史編4(近・現代1) (日露戦争と小学校)

各校は軍資金を献納したいと弘前第八師団に願い出、献金をしたが、弘前教育会は臨時総会を開いて、教員は戦争終結,明治三十八年二月五日から九日までの五日間に弘前市内の小学校児童は、第八師団後備歩兵第五六連隊の出征兵士
通史編4(近・現代1) (不況からの脱却)

このような活況の背景としては、第一次世界大戦時とその後の景気動向の好転があるが、弘前市においては、陸軍第八師団
通史編4(近・現代1) (弘前市処女会の設立)

弘前市処女会発会式の主催者は市当局であったが、来賓として市会議員や学校教育関係者のほか第八師団から蒲少将
通史編4(近・現代1) (二つの雪中行軍)

雪対策は第八師団管下の部隊に課された課題でもあった。,第八師団には第五連隊と第三一連隊という二つの部隊があり、これまで双方の連隊は何らかの形で雪中行軍の作戦
通史編4(近・現代1) (弘前高等女学校の開校)

来賓のなかでも目につくのは、第八師団の立見師団長をはじめ、軍のお偉方が綺羅星のごとく参列していることであり
通史編5(近・現代2) (日華事変勃発)

七月二十七日北支事変に関する講堂訓話を行い、二十八日には鎮守宮に北支派遣皇軍の健勝祈願、国防献金を第八師団
通史編5(近・現代2) (東門会の佐藤正三)

八師団出動で弘前地方はなんとなく戦争気分です。,写真80 満州へ出動する第8師団  一部資本家や政党政治屋の為めに我等国民の国家を左右されるならば
通史編5(近・現代2) (争議の顛末)

昭和六年九月十八日満州事変が始まり、弘前の第八師団も大陸に出動、軍事色が濃厚となり、電灯争議を終結させようという
通史編4(近・現代1) (第二大成尋常小学校の創設)

新設の第二大成尋常小学校の特色は、在籍児童がすべて男子のみということと、在籍児童が第八師団将校の子弟をはじめ
通史編5(近・現代2) (連合軍の弘前進駐)

そのため連合軍は青森県に対しても、九月二十五日「青森県知事は県庁に止」つて、歩兵第八一師団司令官の「監督
通史編5(近・現代2) (書の伝統)

第八師団の軍人だったが、明治三十五年以来、書を群鵞会会長の岩田鶴皐(いわたかくこう)に学んだ。
通史編5(近・現代2) (不況と失業問題)

また、満州事変の勃発に伴い、市内に所在した第八師団が出動し、市内が寂寥を感じさせる状態であることが指摘
通史編5(近・現代2) (終戦直後の国民学校)

弘前市に米軍が進駐したのは九月二十六日で、米軍第八軍第九軍団ミュラー少将麾下(きか)の第八一師団に属する
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