• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 442件
辞書ファセット
/ 9ページ
通史編5(近・現代2) (四 民謡)

四 民謡 現在民謡と呼ばれる分野の音楽は、俚謡(りよう)などと呼ばれ、地方色をもった庶民の歌であった,民謡は士族階級の音楽ではなく、庶民の音楽であり、町民よりは農民・漁民の音楽であった。,こうした時代の潮流の中で、弘前市若党町生まれの竹内運平(たけうちうんぺい)(翆泉(すいせん))(明治一四,「平家琵琶」の項目で述べた館山漸之進は音楽教育における邦楽の軽視、洋楽偏重の風潮に対する抗議を明治天皇,昭和三十年代に民謡ブームが起こり、民謡コンクールでは技巧と体力を要する津軽民謡が好んで取り上げられるようになり / 四 民謡
通史編5(近・現代2) (新民謡)

新民謡 明治中期から、大正期までに民謡は全国的なブームになった。,それを背景として、大正から昭和初期にかけて「新民謡(創作民謡)」といわれる様式の音楽が起こる。,文学における北原白秋、野口雨情、音楽における中山晋平(明治二〇-昭和二七 一八八七-一九五二)などによる / 新民謡
資料編3(近世編2) (一 農民の生活)

一 農民の生活 (一)農民の生活 (二)農民の住居  市内で藩政期の農民住宅を探すことは、非常に,ここに取り上げたものは、規模の大きなものであり、当時の一般農民の住居とは言えないものであろう。  ,農民住居に書院住居が取り次いだ形であり、庄屋クラスの住居によく見られるものである。,図31 石戸谷家住宅平面図(弘前市教育委員会蔵原図より) 図32 石戸谷家住宅立面図・断面図,図33 旧対馬家住宅平面図 (弘前市教育委員会蔵原図より) 図34 旧対馬家住宅立面図 / 一 農民の生活
通史編1(古代・中世) (中世の農民)

彼らは農村に住み、支配農民から生産物を年貢として徴収するかたわら直接経営地をもち、自分に隷属する下層農民,中世農民を土地保有の状況から大別すると、「在家(ざいけ)」と呼ばれ、土地を保有する上層農民、つぎにわずかの,土地を保有し、有力農民から土地を借り受けて耕作をする農民、そして自分の土地を保有せずに、有力農民から土地,これによると、津軽地域を平賀(ひらか)郡・田舎(いなか)郡・鼻和(はなわ)郡・奥法(おきのり)郡・馬(,表7「津軽(郡)中名字」にみられる当市域の地名一覧表 郡 郡中名字地名 現地名 平賀郡 大仏鼻 石川 / 中世の農民
通史編1(古代・中世) (農民の住まい)

農民の住まい 中世の農民あるいは庶民層の居住様式は、一般的にはまだまだ不明な部分が多い。,それは当時の農民の住まいが基本的に平地式の家屋であるため、地中にその構造が残りにくく、また近世に書かれた,東田遺跡(群馬県)では、中世後半の農村や農民が暮らしていた家屋(図60)などが発見され、竪穴の建物や掘立柱建物,図60 中世後半の農村と農民の家屋 群馬県東田(ひがしだ)遺跡の復元  おそらく当市域においても / 農民の住まい
通史編2(近世1) (窮民対策)

窮民対策 八月十日ころから、人々は蕨(わらび)の根を掘って飢えをしのぎ(同前No.八五五)、さらに、,この月末には餓死者が出るようになっており(「平山日記」)、十月から十二月までに三万人の餓死者が出たという,餓死者、そして、その後の疫病の流行による死者などを合わせると、三分の一ほどの領民がこの飢饉の犠牲となったともいわれる,十月十日、弘前・青森・鰺ヶ沢・十三に小屋を設置して窮民を収容し、在では一組ごとに目付を置いて御救を実施,これは、有力町人・農民が囲い込んでいる米を放出させようとしたものであった。 / 窮民対策
通史編3(近世2) (平尾魯僊)

平尾魯僊 平尾魯僊(ろせん)(一八〇八~一八八〇 名は亮致、通称初三郎、俳号は芦川、画号は魯仙、著作,図177.平尾魯仙 図178.岩木山図  画人魯仙は、同時に国学者・民俗学者魯僊でもあった,これらは平田派国学が民俗学として展開していった一つの到達点を示す作品といえる。,近代日本における民俗学の成立に大きく貢献したのは柳田國男である。,柳田は民間伝承や習俗の内に織り込められた民間信仰を通して民衆の心の世界を明らかにしようとしたが、国学の / 平尾魯僊
通史編3(近世2) (民衆の精神世界)

民衆の精神世界 歴史には実に多くのカルト的逸話(いつわ)や憑依(ひょうい)・怪奇譚(たん)などが記録,彼女らは盲目、遊歴といった常民(じょうみん)とは異なる特色のために身分制社会の周縁(しゅうえん)に置かれ,、差別や偏見に苦しめられたが、一方では常民には備わっていない能力を持つ者ともみられた。  ,民間宗教の意味がわからなかったのである。,以後、岩木山には宮が営まれ、岩木山に祀られた神は藩領と藩主家を護持する存在とされたが、それ以外の民間信仰 / 民衆の精神世界
通史編5(近・現代2) (用の美と津軽民芸)

用の美と津軽民芸 民芸運動で昭和四十五年県文化賞を受賞した相馬貞三(そうまていぞう)は、昭和二年に柳宗悦,(やなぎむねよし)を知ってから、平成元年八十歳で死去するまでの六二年間、民芸運動の発展に尽くした。,唐竹(現平賀町)の父貞一(ていいち)は青森りんご発展の大恩人で、そのため資産を蕩尽(とうじん)、文化学院,民芸精神の探求は柳宗悦の影響が大きい。,んだ「用の美」を再評価し、作り手の育成と津軽ガラス器の誕生に協力、『みちのく民芸』を発行して民芸運動を / 用の美と津軽民芸
通史編5(近・現代2) (市民体育館の設置)

市民体育館の設置 昭和四十七年三月、五十石町七番地に市民体育館が設置された。,建築面積三一八八・七八平方メートル、うち競技場は四六メートル×三六メートル。,体育館設置によって市民のスポーツの需要を満たすと同時に、体操、バレーなどの一流選手の技を見る機会が増え,、それが市民スポーツを活発化させるもととなった。,なお、市民体育館の建設費は二億九〇五〇万円であった。 / 市民体育館の設置
通史編2(近世1) (民次郎一揆)

民次郎一揆 文化十年(一八一三)九月二十八日、藤代組(ふじしろぐみ)(現弘前市・北津軽郡鶴田町)・高杉組,鬼沢(おにざわ)村(現弘前市鬼沢)の民次郎が首謀者とされたことから「民次郎一揆」と呼ばれる。,罪を一身に背負い、ただ一人極刑となった民次郎について、明治十四年(一八八一)顕彰碑が建立されその後義民,図159.民次郎記念碑 図160.弘前城北の郭北門(亀甲門)  さて、一揆の規模であるが,記類』(文化十年十一月二十五日条)および『伝類』(槍術之部、山本三郎左衛門安諄)では二〇〇〇人、「大平家日記 / 民次郎一揆
通史編3(近世2) (農民意識の変化)

農民意識の変化 「晴雨日記」(別名「万物変易誌(ばんぶつへんいし)」 弘図八)は、大光寺組杉館村(現南津軽郡平賀,(ひらか)町)の上層農民であった常治家が天保十五年(一八四四)から明治五年(一八七二)まで、村に起きた,図43.晴雨日記 目録を見る 精細画像で見る  この年の三月二十日、館山村(現平賀町館山)の庄屋弥三郎,いずれにせよ、武士や役人の前でひたすら平伏する農民の姿はここにはない。  ,このような世相では新しい世の中を庶民が熱望したのも無理からぬことであった。 / 農民意識の変化
通史編4(近・現代1) (民次郎百年忌)

民次郎百年忌 大正三年一月、津軽の各町村役場に一通の封書が送られてきた。,「義民藤田民次郎建碑趣意書」で、差出人は中津軽郡裾野村大字鬼沢の鳴海柾吉、野呂利江次郎、高杉村の藤田重太郎,大正二年(一九一三)は民次郎一揆の文化十年(一八一三)からちょうど百年目であった。,民次郎一揆の処罰については、当時から真の首謀者は別で、民次郎は身代わりになったと言われていた。,(鏡絵) (絵師:沢田崇節 平成15年鬼沢ねぷた同好会) 写真142 同右(見送り絵・袖絵 / 民次郎百年忌
通史編3(近世2) (平日の食事)

平日の食事 前掲の延宝九年(一六八一)の「農民法度」第一六条に、近年、大部分の者が雑穀を食べずに贅沢,唐竹村(現南津軽郡平賀町)は弘前市域ではないが、農民の食生活には共通部分が多いので、以下これに基づいて,その第一・二条によれば、農民一〇人当たりの日常における朝夕の食事が、米二升に粟五合と薊(あざみ)・大根,この村は元禄三年(一六九〇)には村位が下であるから(『平山日記』)、豊かな村ではなかった実態をある程度示 / 平日の食事
通史編4(近・現代1) (青森県の農民運動)

青森県の農民運動 大正十年(一九二一)十一月六日、浪岡労働組合が発足した。実態は農民組合である。,西郡車力村大字車力は、過去に於て頗(すこぶ)る平和な村として些かの苦情も無かった所であるが、十三川原尻,太平洋戦争後の農地解放に、清水村の農地委員として活躍した石岡彦一は日本農民組合総本部へ次の手紙を出している,我々は、是れ我々無産農民は何時どんな事があっても、是れ我々無産農民の安定な生活に入る事は身のつづくかぎり,我々は貴き処の日本農民組合の力によりて、我々農民は生きるのであります。 / 青森県の農民運動
通史編4(近・現代1) (農民組合の結成)

農民組合の結成 大正年間は、中津軽・南津軽の二郡は稲作の先進地で、その上りんご兼業地帯として農業近代化,大正十一年(一九二二)四月には、日本農民組合が賀川豊彦・杉山元治郎らを中心として組織された。,一方、これとは別の体系をとって日本農民組合関東同盟(日農)が十一月創立された。,日農は順調に発展していたが、大正十五年三月の第五回大会で、運動方針をめぐって左右両派が対立、右派の平野力三,らが脱退、新たに全日本農民組合同盟を結成した。 / 農民組合の結成
通史編3(近世2) (捕虜となった庶民)

捕虜となった庶民 「弘前藩記事」(弘図八)は主に慶応三年(一八六七)から明治四年(一八七一)の出来事,、維新期の事情をみるには必須の史料であるが、この中に何例か各地の戦闘で捕虜となり、弘前に送還された庶民の,やがて夜が明け、嘉七と松は黒石藩平内領の沼館(ぬまだて)村にたどりつき、自分たちは郷夫だからどうか助けてくれと,戻ってくれと諭され、二十九日に狩場沢(かりばさわ)村(現上北郡野辺地町)に出頭したところを隊長手塚郡平に,藩ではこれを放置すれば士気にかかわると判断し、腰縄つきで小湊村(現東津軽郡平内町)の弥助という農民にお / 捕虜となった庶民
通史編3(近世2) (弘前の民衆)

弘前の民衆 さて、青森県の県政が本格的に出発する中で、弘前市域の民衆は具体的にどのような生活を送っていたのだろうか,もちろん、帰田法により一家をあげて農村に移住し、長くその土地に住んで、農民のほかに警官・教員・村吏などに,一方、庶民でも事情は同様であった。,四年九月には穢多(えた)頭長助に対して、今後穢多は民籍に入れることが伝達された。,不平を唱える弘前の士族に対して明治七年(一八七四)四月には集会争論の禁止が告諭され、同九年に青森で最初 / 弘前の民衆
通史編3(近世2) (平日の食事)

平日の食事 断片的ではあるが、食事に関する規制を年代順にみていくと次のようになる。,その後「国日記」安永二年(一七七三)閏三月三日条によれば、農民あてに出されたものであるが、町人も農民に,その内容は、 (1)平日には雑飯(雑穀・野菜を混ぜたカデメシか)を食べること。,これらによって、食事は平日と冠婚葬祭のような特別の場合も同じに規制されていたことが知られる。 / 平日の食事
通史編3(近世2) (戦場に駆り出された民衆)

戦場に駆り出された民衆 さて、戊辰戦争ではこれまで述べた農兵・社家隊・修験隊などのほかに、多くの農民,姓は後日のもの  3 (木村)清蔵 23歳 軍夫 南部野辺地 祭祀米 毎年5俵 松森町平民,姓は後日のもの  4 (佐藤)安之助 43歳 軍夫 箱館二股 祭祀米 毎年5俵 駒越村平民,のもの  5 (花田)定吉 28歳 軍夫 箱館大川 祭祀米 毎年5俵 葛原村(現岩木町)平民, 6 (本川)長之助 22歳 軍夫 箱館峠下村 祭祀米 毎年5俵 植田村(現岩木町)平民 / 戦場に駆り出された民衆
通史編5(近・現代2) (太平洋戦争の勃発)

太平洋戦争の勃発 昭和十六年(一九四一)十二月八日、日本は英米諸国に宣戦布告し太平洋戦争(当時は大東亜戦争,そのため政府や軍部は太平洋戦争の遂行に当たって国民の召集・徴発義務を徹底する必要に迫られていたのである,太平洋戦争の行く末を暗示するような指示事項である。  ,「大東亜戦争完遂ノ一翼トシテ国民徴用令改正相成リ、帝国臣民タル者ハ男女年齢ノ如何ニ不問、全部徴用セラルベキ,仕組ト相成タルハ既二御承知ノコト」とあり、太平洋戦争の勃発で文字どおりの国民総動員が開始されたのである / 太平洋戦争の勃発
通史編5(近・現代2) (スト権ストと国民の評価)

スト権ストと国民の評価 スト一年前の昭和四十九年十月に発売された『文藝春秋』十一月号に立花隆の「田中角栄研究,」が発表され、オイルショック後のスタグフレーション(不況下での物価上昇)に苦しんでいた国民は不公平感を,この自民党のよろめきは保革伯仲という政治状況を現出させた。,また、民間企業では減量経営が推進されて、労働者は厳しい労務管理下に置かれ、「親方日の丸」的な気楽な公労協,の闘争に連帯して立ち上がることはなく、一般の国民も迷惑行為とみた。 / スト権ストと国民の評価
通史編5(近・現代2) (健民運動と女性問題)

健民運動と女性問題 健民運動に関しては近年顕著な動きを示している女性史学の成果を見逃すわけにはいかない,青森県でもすでに青森県女性史編さん委員会の編集により、平成十一年(一九九九)三月二十五日付で『青森県女性史,健民運動は女性の役割が非常に重要だった。ここでは健民運動に関し女性問題を中心に述べていきたい。  ,健民運動が多産政策である以上、健康な子供を産み育てることが、女性の価値や人格を賞する傾向を生み出した。,健民運動は確かに表面的には国民の健康維持を重視し、体力増強を意図するという健全な政策に見えた。 / 健民運動と女性問題
通史編5(近・現代2) (当局による移民の促進)

その改善策の一つとして推進されたのが、満州移民の推進策に基づく開拓事業だった。,これらの事業が官製による満州移民の促進計画だったことは否めなかった。,満州に夢を求め、移民に希望を託して大陸に渡った人々は多かった。,けれども満州の地が想像していたよりは不毛の土地であり、移民に対する処遇が劣悪だったりして、移民を忌避する,ところが満州が空襲されることはほとんどなく、その意味で平和な暮らしを送った移民がいたことも確かである。 / 当局による移民の促進
通史編3(近世2) (箱館戦争をみた農民)

箱館戦争をみた農民 弘前市立図書館八木橋文庫所蔵の「晴雨日記」は別名を「万物変易誌(ばんぶつへんいし,)」といい、大光寺(だいこうじ)組杉館村(現南津軽郡平賀(ひらか)町)の農民常治家が天保十五年(弘化元,また、郷夫や人足に駆り出された町民や農民らが、帰郷し青森の様子や箱館の戦況を伝えたことも自然な成り行きであったろう,ましてや最前線に徴発された庶民は、恐怖の体験を喧伝(けんでん)したと思われる。,「晴雨日記」は戊辰戦争に触れた庶民の驚きが率直に書き記されている貴重な記録である。 / 箱館戦争をみた農民
通史編4(近・現代1) (不平の源流)

不平の源流 弘前不平士族の不満の第一は、維新時の藩政と廃藩後の旧藩主家の家政に参加できないことにあった,明治三年夏、山田登は弘前巡回の岩男民部監督らに少参事の非を訴えて逆に説諭された。,その不満ゆえ、なお秋九月に仲間三十余人をもって藩主に強訴したが受け入れられず、同年十一月兼平理左衛門ら,森岡鶴翁、津軽平八郎の山田派十余人が上京、承昭に改変を強要、結局上京旅費を鰺ヶ沢方面より強請した罪により,津軽平八郎も森岡鶴翁も津軽氏の一門であり、廃藩後の津軽藩主家に四〇万円の巨額な財産があり、生活難の士族 / 不平の源流
通史編5(近・現代2) (太平洋戦争始まる)

太平洋戦争始まる 昭和十六年十二月八日 今朝六時既に交戦。,我等国民は今何をすべきや。既に聖断下る。,只管(ひたすら)に信受、而して必勝の為めに今こそ国民は蹶起しなければならない。,これが完遂によって東亜の連盟は可能となり徹底的西洋民族打倒も行はれるであろう。,七月七日 支那事変六周年、日本国民の反省はまだ足りない。 / 太平洋戦争始まる
通史編5(近・現代2) (市の対応策と市民の反応)

市の対応策と市民の反応 進駐軍を迎え入れる弘前市の対応はどうだったのだろうか。,は知事を中心とする県レベルで対応したが、市町村行政の実質的な対応は、進駐軍への便宜をはかり、同時に市民の,、二十二日には公会堂に市内各団体長や町内会長などを集めて、進駐軍についての各種注意事項を説明し、全市民に,国や県、市当局の執拗な対策と市民の心配をよそに、進駐軍はおおかた平和裡に進駐した。,それだけ市民は進駐軍を警戒していたのである。 / 市の対応策と市民の反応
通史編1(古代・中世) (平安時代の律令祭祀)

平安時代の律令祭祀 平安時代には、斎串(いぐし)・土馬(どば)・土鈴・鉄鈴・勾玉(まがたま)(土製・,が行った律令的祭祀のなかで恒常的な祭祀には木製品が用いられ、重要な祭祀には金銅製品が用いられる一方、民間,古墳時代から平安時代にかけて使用された土馬の分布も全国的であるが、畿内地方における出土が顕著であるという,平安時代における土馬の製作目的としては、井戸祭祀、河川祭祀、祈雨(きう)祭祀といった水に関連する祭祀が,道教的呪術普及の背景には、呪禁師に替わって出現する陰陽師(おんみょうじ)をはじめ、遊行する呪術的、宗教的職能民の / 平安時代の律令祭祀
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

津軽領内のアイヌ民族 津軽弘前藩が江戸幕府の命令によって提出した「正保国絵図」の下図を貞享二年(一六八五,現北津軽郡小泊村)に至る津軽海峡に面した地域に、また夏泊半島では、田沢(たざわ)村から茂浦村(いずれも現東津軽郡平内町,現在の北海道地方を除き、近世国家においてアイヌ民族の居住が確認されるのは、津軽領の津軽・夏泊両半島、そして,その点からすれば、北奥地域は、近世国家の中でも、異なった民族が共存していた特異な地域である(森田稔・長谷川成一編,このように津軽領内のアイヌの人々は、藩権力によってさまざまに規制を加えられていたのであり、領民との日常的 / 津軽領内のアイヌ民族
通史編5(近・現代2) (平成十二年弘前市総合計画の策定)

平成十二年弘前市総合計画の策定 平成十二年(二〇〇〇)に至り、弘前市総合開発計画はさらに改められた。,また、県は平成九年(一九九七)に新青森県長期総合プランを策定した。,この計画は、「県民一人ひとりが健やかないのちと心を育み、彩り豊かな暮らしを送ることができる青森県づくり,①ごみの減量・資源化の推進、②市民のリサイクル活動の支援、③ISO一四〇〇一の認証取得、④生ごみリサイクルシステム,、⑤環境学習の推進  このような戦略プロジェクト推進のために、市役所の全庁的な組織体制を整備し、市民とともに / 平成十二年弘前市総合計画の策定
通史編2(近世1) (上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向)

上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向 十八世紀半ば以降は、上層農民・在方商人が発展した時期であった。,元禄七年(一六九四)の段階で酒屋が四軒、質屋が二軒あったという(『みちのく双書 二二 平山日記』一九六七年,これは、町場としての発達を背景に、商品経済が地域社会に浸透していったことにより、上層農民や在郷商人らが,このように発展していった在郷の商人や、質地を集積した村役人などの上層農民に、財政難に陥っていた藩が着目,御用金とは、藩が財政の不足を補うために、富裕な町人・農民から強制的に借用したものである。 / 上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向
資料編1(考古編) ((2)太平洋戦争後から現代まで)

平山は津軽平野を*67、橘は下北半島を中心に、また北林は陸奥湾沿岸をそれぞれ主なフィールドとして調査した,八戸市丹後平古墳群*289・殿見古墳群・下田町阿光坊古墳群・三沢市平畑古墳群の調査が平成元年(1989,いずれも、国立歴史民俗博物館を主体とする調査であり、一つは、5世紀を中心とする時期の天間林村森ヶ沢遺跡,工藤雅樹らによる説、「東北の古代蝦夷を定義するなら、途中まではアイヌ民族となる人々とほぼ同じ歴史を歩んだ,人たちであるとも表現できるし、東日本人のなかで最後に日本民族化した人々といってもよいであろう」*334 / (2)太平洋戦争後から現代まで
資料編1(考古編) ((1)明治時代から太平洋戦争まで)

(1)明治時代から太平洋戦争まで 古代人の行動の痕跡として残された場所を「遺跡」として認識し、しかも,実際は平安時代の集落跡であるが、現在のように竪穴全体を調査するまでには至らず、年代観についても、当時の,昭和2年(1927)には、本県の古代集落遺跡研究の基礎となった佐々木新七による『七戸附近先住民族遺跡調査報告 / (1)明治時代から太平洋戦争まで
資料編1(古代・中世編) (三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元)

三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元 現在の石川城跡は、城域の内部をJR奥羽本線が通過しているほか,そこで、次に挙げる諸資料を用い、現状と照合しながら縄張り(城の平面プラン)の復元を行った。,(1)分限図(明治二十七年測量)(図4)   ア、大字石川字大仏   イ、大字石川字平山   ウ,石川城跡の航空写真(昭和40年代撮影) (4)その他、大仏公園造成前の測量図(弘前市役所蔵)、地元住民からの / 三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元
通史編3(近世2) (平清水三右衛門による作陶)

平清水三右衛門による作陶 「国日記」元禄四年(一六九一)八月十二日条によると、藩士平清水三右衛門はかねて,平清水三右衛門はまた、元禄七年(一六九四)十月、作陶修業のため江戸へ上り、翌八年六月帰国。,)ころまで約二四年間に及び、その間、茶陶を主とした御用物を作っているが、余分は一般にも販売するなど、民需,③窯の屋根の面積 一四坪(約四六・二平方メートル)―宝永元年八月十二日条。  ,元の姓は〝阿保(あぼ)〟で、元禄三年(一六九〇)〝平清水〟と改姓している。 / 平清水三右衛門による作陶
通史編5(近・現代2) (最初の水泳プール)

このプール設置をはじめとして、弘前市第二市民プール(中野三丁目六-三)、第三市民プール(八幡町二丁目五四五,第一市民プールは、老朽化により平成十年九月三十日をもって廃止されたが、市民を水に親しませた功績は最初に,建設された第一市民プールに指を屈するだろう。  ,水泳プールはその後、民間スポーツジムなどで屋内プールが主流となり、市民の間からも公立の施設を求める声が,高まったことから、平成五年に河西体育センター、平成十五年には温水プール石川へ屋内温水プールが建設された
資料編1(考古編) (協力機関及び協力者一覧)

黒石市教育委員会 鰺ヶ沢町光信公の館 浪岡町中世の館 尾上町教育委員会 板柳町教育委員会 平内町歴史民俗資料館,野辺地町歴史民俗資料館 下田町教育委員会 三戸町温故館 田舎館村歴史民俗資料館 森田村歴史民俗資料館,倉石村教育委員会 天間林村教育委員会 南郷村歴史民俗資料館 静内町教育委員会 南茅部町教育委員会,名久井農業高等学校 熊野奥照神社 東奥日報社 赤平智尚 阿部義平 市川金丸 宇野隆夫
通史編3(近世2) (「世直し」の意味)

民衆は口々に「世直し」を唱え、勤皇派はそれを民衆扇動に利用して政治的に幕府を追いつめようとした。,「世直し」とはこの時代に社会的・政治的変革を期待する民衆の意識を表出した民衆闘争であり、「世均(よなら,)し」(貧富の差の平均化=経済的平等化)を求めた運動であると説明されるが(『国史大辞典』一四 吉川弘文館刊,)、弘前の民衆はこの定義に当てはまるのであろうか。,以下、市域民衆の精神世界、人々の移動と浮遊化、風俗秩序の変化といった観点から、当時の民衆像の一端を考察
通史編5(近・現代2) (新図書館の建設)

建設 現市立図書館は弘前市制施行百周年記念施設として、下白銀町二番地一(追手門広場内)に設置され、平成二年,建物延べ面積四九二二・七七平方メートル。事業費は一九億八〇〇〇万円。,図書館は市民への情報提供や生涯学習の場であり、市民の文化的要求にこたえるため、図書館資料の収集に努めるとともに,、広く市民の利用に供し、地域の教育、文化および産業に寄与することを目的に活動している。,明治と平成の図書館が同一の敷地に並び建つ光景は、あたかも弘前の図書館の歴史を語っているかのようである。
通史編5(近・現代2) ([付図])

[付図] 弘前市域航空写真 昭和23年8月22日撮影   弘前市史寫眞館(昭和・平成) 1,弘前中学生徒のストライキ~嶽温泉に籠城〈昭和6年〉 6 満州事変~凱旋の第八師団を歓迎する弘前市民〈,年〉 11 国防婦人会弘前支部結成〈昭和11年〉 12 「角は」宮川デパート〝国民精神総動員,2年〉 43 りんご台風〈平成3年〉 44 弘前市名誉市民条例制定〈平成5年〉(左,、花田勝治・奈良岡正夫・工藤甲人・彌冨啓之助・古川武治) 45 駅前地区都市改良事業完工〈平成
通史編5(近・現代2) (郷土文学館)

建築延べ床面積五九四・二六平平方メートル、一階は展示室、ロビー、事務室があり、二階には石坂洋次郎記念室,とラウンジが設けられ、新図書館とともに平成二年七月に開館した。,作家の遺品が数多く遺族から寄贈され、それが元で県内初の文学館建設のきっかけともなったことから、この国民的作家,するとともに、懐かしい映画のポスターも数多く飾られ、戦前、戦後を通じていかに多くの作品が映画化され、弘前市民のみならず,、日本全国の国民から愛されたかを物語っている(なお、郷土の作家の詳細については、本書第八章第一節「文学活動
通史編4(近・現代1) (竹内兼七について)

これは、前月の電車賃値上げ反対市民大会での犠牲者見舞いカンパである。,話は、やがて幸徳秋水や堺枯川らとともに、世界中どこもできなかった日刊の社会主義新聞『平民新聞』発行へ進,幸徳、堺ら二一人の同志は平民新聞社の有給社員になった。,以前の第一次『平民新聞』のときは全員無給であった。,写真149 日刊『平民新聞』発刊記念撮影
通史編1(古代・中世) (エゾ=アイヌ)

のちに詳しく触れるが、後三条天皇の東夷征討による、本州北端に至るまでの平定によって郡郷制の施行が押し進,の境界線が確定することになるが、それに伴って、当時の日本国の境界のさらに北に住む人々を、中央政府が異民族,同時に北海道の側でも、アイヌが民族として独自の世界を形成しつつあった。,その意味で平泉政権は、中央の国家権力を現地で体現するものでもあった。,安倍氏の蝦夷支配と平泉の蝦夷支配は根本的に異なるものなのである。  
通史編5(近・現代2) (岩木川改修運動)

やませの猛威にさらされ、三分作ないし皆無作だった太平洋側の上北・下北地域に比べれば、弘前地方は収穫に恵,けれども「昭和七年水害」と「昭和十年大水害」は、肥沃な津軽平野をもつ弘前市にも大打撃となった。,しかし前述した二度の豪雨によって岩木川は大氾濫し、弘前市民を含む河岸の各地域に甚大な被害を与えた。,岩木川河岸の地域住民は、岩木川と支流(平川、山田川など)の改修を痛感し、岩木川改修運動が弘前市をはじめ,写真6 岩木川改修工事  しかし弘前市民や青森県民が叫び続けた岩木川改修問題も、日中戦争以降、太平洋戦争
通史編2(近世1) (天明六年以降の飢饉)

この年の収量は平年の三分の一以下で、藩南部の平賀六ヵ組・赤田・赤石は多少は良かったものの、他の一八組は,新田地方では餓死者はなかったが、東根(ひがしね)(津軽平野南東郡山麓沿いの地域)の辺りでは死者が多く出,図184.天保7年京都三条橋畔飢餓民の様子 図185.永宝日記  このような状況下で再,び流民が発生しだした。,天保七年の飢饉は全体に太平洋側の被害がひどく、秋田へは仙台・南部領からも多く飢民が流入した。
通史編5(近・現代2) (四 戦後から市制百周年までの津軽選出国会議員)

明治憲法下での国政選挙ではあったが、その前年十二月に改正された普通選挙法によって、選挙権、被選挙権ともに男女平等,この中選挙区制は、平成六年(一九九六)に小選挙区・比例代表併用制へ選挙制度が変わるまで続いた。  ,官平 三戸町 寺下岩蔵死去のため 昭和五十五年六月二十二日第一二回参議院議員総選挙 四五万六二〇二票,松尾 官平 三戸町 青森・選挙区 昭和五十八年十二月十八日第三七回衆議院議員総選挙 八万六二一七票,自由民主党 木村 守男 藤崎町 七万五八八八票 自由民主党 田沢 吉郎 田舎館村 七万四八四六票 自由民主党
通史編5(近・現代2) (新憲法の公布)

一八八九)二月十一日明治天皇が大日本帝国憲法を宣布されてから五八年目、ポツダム宣言受諾の精神に添い、国民の,国民は新憲法を民主憲法と呼び、平和日本再建の大憲章ととらえて公布を喜んだ。,同日、市内各国民学校は憲法公布記念式を挙行、校長から新憲法についての訓話があって、児童一同に祝菓が配与,市内国民学校の中には、憲法公布記念と名づけて、記念学芸会を開催するところもあって、新憲法の公布は敗戦直後,の苦難の中にあった国民に希望の灯を点じた。
通史編4(近・現代1) (弘前士族の反発)

このメンバーは、この後も弘前士族の中の不平分子の中核となり、明治十四年から十五年にかけての弘前紛紜(ふんうん,彼らの中で最も活発に活動したのは川越石太郎で、彼の思想は不平弘前士族の典型であり、その時代錯誤は悲劇的,明治十三年一月六日に、川越石太郎が明治天皇の弘前巡幸のための民情調査にきた元老院議員佐々木高行に提出した,一、四民の別を明確にし、士族に資産を保障する。  一、洋風建築を一切中止する。  ,この川越ら弘前不平士族の動きに対して、明治十一年の『北斗新聞』第九一号に八戸平民花輪(ママ)素の批評が
通史編4(近・現代1) (普選運動の胎動)

第一回総選挙の有権者は約四五万人で国民の一・一四%にすぎなかった。,期成同盟会には、自由民権派の政客や弁護士、新聞記者がいたが、のちに社会主義研究会、労働組合の主要メンバー,戦時下、『平民新聞』は男女平等普選を主張した。,戦後、院内でも、戦争を担った国民に選挙権を拡張せよとの声が上がり、政友会、憲政本党とも三十九年の第二二議会,普選運動の後期は、大正七年の米騒動と翌年早々のパリ平和会議の影響で始まる。
/ 9ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました