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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(自然・原始) (田舎館面)

田舎館面 浅瀬石川南岸および平川流域内に帯状の自然堤防として分布している。,平川流域では平賀町岩館や大坊(だいぼう)付近で四二~四六メートル、下流側の尾上町日沼(ひぬま)や平賀町杉館付近,平川付近でも同様であって、集落が点在するほかにりんご園としても利用されている。  ,一方、平川流域の平賀町大坊(三九メートル)では、〇・一~〇・七センチメートルの円礫を多量に含む砂礫層が
通史編1(自然・原始) (三 津軽平野南部の地形発達)

総じて、平川、浅瀬石川および大和沢川の各流域には、山地および丘陵から供給された砂礫を主体とした膨大な扇状地性,すでに、浅瀬石川や平川流域では黒石面と平賀面、大和沢川流域では松原面と城東面が山地から供給された膨大な,この結果、浅瀬石川流域や平川-引座川間では開析された扇状地が断片的な分布を示し、平川流域では六羽川および,この火砕流は平川および浅瀬石川流域内に比高二〇~三〇メートルの火砕流台地を形成するほどで、その供給量は,このとき、唐竹流域で確認したが、平川流域や平賀町付近では火砕流直下に埋没樹が形成された。
通史編1(自然・原始) (平野南縁の地形区分)

南縁部の主要河川として、十和田湖の外輪山を源とする浅瀬石川と白神山地に隣接する大鰐山地を源とする平川があげられる,唐竹川を除く各河川は平野部で合流し引座(ひきざ)川として平川に合流する。,唐竹川は平野部で平川の分流である六羽(ろっぱ)川と合流し、下流側で引座川に合流する。,平賀町は平川~引座川間のやや高度の低い扇状地性の低地に位置している。  ,平野南縁の地形は、平川および浅瀬石川流域に発達した複合扇状地であって、尾上付近がその接合部にあたると考
資料編1(古代・中世編) (一 乳井茶臼館の立地と現状)

この地は、平川・六羽川(ろっぱがわ)を挟んで西の石川城と向かい合う場所であり、石川と同様、津軽平野の南,また丘陵の西は台地となって続き、先端は約一五メートルの崖となって、平川の支流・六羽川に臨んでいる。,六羽川は現在でこそ単なる用水路にすぎないが、近世の記録には「堀越川」(平川本流)と並ぶ河川として記されており,、地形の状況(扇状地や自然堤防の発達状況)から判断して、もとは平川の有力な派川(分流)であったに違いない
資料編1(古代・中世編) (〈凡例〉)

内陸部については、弘前市内の板碑を第一に挙げ、次いで平川中流域の町村、岩木山東麓岩木町、平川・浅瀬石川合流点,(2) 弘前市内は、平川流域から旧弘前市内、岩木川上流域、岩木山東麓部から岩木川・平川合流点、岩木山東北麓
通史編1(古代・中世) (福村城跡)

福村城跡 福村地区は、弘前駅から東へ約二・五キロメートルの平川下流域、平川と引座(ひきざ)川の合流点付近,福村城跡は福村の南側にあり、平川と腰巻(こしまき)川に挟まれた自然堤防上の標高二七~三一メートルに所在
資料編1(古代・中世編) (二 青森県の板碑分布)

その第一は岩木川と平川の合流点、藤崎町藤崎と弘前市三世寺を北限とする平川・浅瀬石川の流域、黒石~大鰐を,板碑は、津軽地方内陸部のうちでも平川・岩木川流域に多く、浅瀬石川流域以北の常盤村・黒石市北部・浪岡町からは,田舎館村には二基の板碑が現存するが、平川の東岸大袋の板碑は平川水底から発見されたと言われている。
資料編1(古代・中世編) ((1) 南北朝時代の「堀越楯」)

新里もまた堀越北方の平川沿いの土地であり、ともに貞光が本拠の岩楯・大光寺を守る前線拠点として構えたものであろう,その場合、堀の発見された場所が平川寄りの東の地区であることから考えて、当初の堀越楯は平川沿いの段丘状の
通史編2(近世1) (堀越城の限界性)

また慶長十一年正月には、堀越川(平川)が大洪水を起こし、町屋まで浸水するという事件があった(同前No.,実際、堀越城跡の発掘調査では、平川の氾濫原に位置していたため、たびたび洪水に見舞われたと報告されている,堀越城は、岩木川東岸で浅瀬石川・平川に囲まれた地帯へ津軽氏が進出する拠点として、政治的・経済的な側面に
資料編1(古代・中世編) (一 石川城の立地と現状)

尾開山(おびらきやま)から北に伸びる丘陵が津軽平野の南端に接する場所であり、広大な津軽平野が終わって、平川河谷,乳井茶臼館跡から見た石川城跡 図2 石川城跡位置図  現在、石川城跡のある台地は、東側を平川,耕地整理以前の航空写真を見ると、地蔵川原から中川原へと続く明瞭な旧河道の跡が読み取れるから、中世にはここを平川
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

城跡のある堀越集落は、岩木川の支流の一つ平川と大和沢川の合流点から南西五〇〇メートルの、津軽平野南部の,沖積扇状地に位置しており、沖積扇状地の東端、東を流れる平川の氾濫原から約三メートルの比高差をもった高みを,堀越の地は、中世において津軽平賀郡に属していたが、この地は津軽平野南部を南北に縦断して流れる平川(中世
通史編1(自然・原始) (市街地の地形区分)

および岩木川以北の水系と等高線図  おもな河川として、白神山地を源とする岩木川と大鰐山塊を源とする平川,れる小河川として、大和沢(おおわさわ)川、腰巻川、土淵川、寺沢川などがあり、いずれも北東方に流路をとり平川,弘前市街地は岩木川-平川間に展開する扇状地上に位置し、岩木川以北にあっては岩木川流域および丘陵周縁に沿,東側を流れる平川流域では岩木川との合流点にかけて自然堤防が発達し、その背後には標高三五メートル以下の低平
通史編1(古代・中世) (一 十三湊と津軽)

津軽平野部を流れる岩木川(いわきがわ)をはじめ平川(ひらかわ)・浅瀬石川(あせいしがわ)・十川(とがわ
通史編1(自然・原始) (清野袋面)

自然堤防帯の中には、大石川との合流付近にあたる三和、平川との合流付近に位置する岩賀(いわか)、そして土淵川,から浜の町、石渡、中崎、三世寺(さんぜじ)、大川、青女子(あおなご)、種市、三和(みわ)が、岩木川-平川間,高度は藤崎以北では一五~二〇メートル、岩木川-平川間では二〇~二五メートル、そして浜の町付近では二五~
通史編1(自然・原始) (境関面)

境関面 平川流域の自然堤防の背後に分布する扇状地性の低湿地であって、古懸浮石流凝灰岩直上にシルト~粘土,浅瀬石川流域に分布する常盤面に相当するが、平川以西ではその分布が小さく、部分的に土淵川流域内に認められる
通史編1(自然・原始) (谷底平野)

谷底平野 浅瀬石川および平川流域内には砂礫を主体とする谷底平野が分布している。
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

堀越の地は、中世において津軽平賀(ひらか)郡に属していたが、この地は津軽平野南部を南北に縦断して流れる平川,太閤蔵入地は、岩木川・平川・浅瀬石川の三つの河川を分岐点とする津軽平野中心部一帯に設定され、為信はその,また、岩木川東岸地帯で平川沿いの太閤蔵入地の代官の地位は、為信が同地へ統治を及ぼすことを比較的容易にし
通史編1(自然・原始) (石棺墓)

さきの再葬土器棺墓と同じく、後期中葉の十腰内Ⅰ群(式)土器に多く、なかでも津軽地方の浅瀬石川と平川流域
通史編1(自然・原始) (城西面)

城西面 谷底平野として、おもに岩木川および平川の流域に帯状に分布する。
資料編1(考古編) (11.大日影山層Ⅸ)(おおひかげやまそう))

模式地は、大鰐町平川支流の虹貝川上流の大日影山付近。模式地付近にほぼ帯状に分布する。
通史編1(自然・原始) (地下水系)

平川・岩木川水系にオーバーラップする地下水系は認められない。
通史編1(自然・原始) (津軽平野中央断層)

平川扇状地性堆積物を切ると考えられることから、活動は後期更新世まで続いていたと推測される。
通史編1(自然・原始) (常盤面)

面の傾斜は下流側で一〇〇〇分の二~三、平川の支流六羽川流域および引座川流域では一〇〇〇分の四~五と緩くきわめて,図21に示したが、浅瀬石川流域から南側の尾上町の舌状台地にかけてと、平川流域から東側の六羽川にかけて分布
通史編1(自然・原始) (一 弘前市の位置および外形)

岩木山東半麓から岩木川と支流である平川より西側にかけて南北に帯状に分布し、また岩木川中流域の大秋(たいあき,最東端は平川から東側に張り出した乳井(にゅうい)および薬師堂(やくしどう)付近の、北緯四〇度三二・四分
通史編1(自然・原始) (掘さくの深度)

したがって、このような盆状構造の存在は、二〇〇メートル以上の層厚で分布する平川扇状地堆積物および三五〇,であるとともに、浅部の地質で述べたように、新第三紀鮮新世~第四紀更新世の大釈迦層相当層および第四紀更新世の平川扇状地堆積物相当層
資料編1(考古編) (49.虹貝層(にじかいそう))

模式地のほかに、平川流域及び弘前市大舘山付近に分布する。
資料編1(考古編) ([口絵])

〕 約1万3,000年前に十和田カルデラ(外側カルデラ)に起因する火砕流(古懸浮石流凝灰岩)が平川流域,〔阿闍羅山から望んだ津軽平野〕 大鰐山地を源とする平川は、後カルデラ丘としての阿闍羅山の裾野を通,十和田火山起源の火砕流凝灰岩は、少なくとも2万8,000年前と1万3,000年前の2回にわたって平川及
通史編1(自然・原始) (平賀面)

平賀面は、おそらく黒石面が浸食された平川流域を、扇状地性の堆積物と火砕流堆積物で新たに埋積し、また舌状,かつて扇状地面上を平川や浅瀬石川、そして引座川などが網状に流れていたものであって、平川や浅瀬石川ではクロスラミナ
資料編1(考古編) (3.浅井火山灰Ⅵ)(あさいかざんばい))

浅井付近での火山灰流凝灰岩は、浅瀬石川と平川の三角形の地域一帯に分布し、浅井北方の金屋付近などでは再堆積
通史編1(自然・原始) (地形の概説)

藤崎以南の弘前盆地では浅瀬石川や平川などの流域に扇状地が形成され、台地状に発達している。
通史編2(近世1) (災害の続発とその影響)

土淵川高水,浸水,橋の流失 享保元(1716)  2~ 3月 水害 岩木川流域 岩木川・平川出水,今別 58軒焼失  2月20日 火災 蟹田 150軒全焼  6月30日 水害 平川,外浜・新田地方)死者数千人 寛延3(1750)  3月 7・16日 水害 岩木川・平川,火災 深浦 40軒焼失 宝暦2(1752)  6月 7~16日 水害 岩木川・平川
通史編1(自然・原始) (駒木浮石流凝灰岩)

平川および浅瀬石川流域にみられる火砕流堆積物を駒木浮石流凝灰岩と呼称し、大不動浮石流凝灰岩に対比される,火砕流堆積物の放出量は各回とも同規模であると見積もっているが、津軽平野へ流下した規模を、浅瀬石川および平川流域
通史編5(近・現代2) (バス事業の本格化と戦時下統制)

なお、戦前には弘前市を起点に平川バス(代官町、平川力の経営、弘前-町居間)、弘前エビスバス(百石町、竹内兼吉
通史編5(近・現代2) (市会の勢力図)

野村峰次郎 工藤重任 植田廣一郎   興新同盟  菊池長之 溝江武秀 境喜一 柏幸次郎   中立派  平川力
資料編1(古代・中世編) (四 板碑の様式と石質)

大鰐町周辺の板碑は、宿川原~大鰐間の鶴ヶ鼻から産する石英安山岩が利用され、分布範囲は平川下流部の弘前市外崎
資料編1(考古編) (1.中野遺跡)

(遺跡番号 未登録)(図32~34) (1)所在地 弘前市中野四丁目 (2)遺跡の立地  平川
通史編1(自然・原始) (古懸浮石流凝灰岩)

関村古懸(こがけ)、大鰐町唐牛(かろうじ)・苦木(にがき)・蔵館(くらだて)・長峰(ながみね)など、平川,平川流域に分布する火砕流堆積物を古懸浮石流凝灰岩と呼称し、年代測定値や重鉱物組成などから八戸浮石流凝灰岩,した特徴として、流下した火砕流堆積物は丘陵寄りでは軽石粒が目立ち、一部は風化により粘土化しているが、平川沿,このほか、埋没樹は図17に示したように、平川流域でも火砕流台地の急崖で確認できるが、各地点て確認された,図17 平川および唐竹川流域での火砕流直下の埋没樹確認地点(5万分の1津軽地域広域市町村圏図〈国土地理院承認番号
通史編2(近世1) (岩木川舟運)

支流には平川(ひらかわ)・浅瀬石川(あせいしかわ)・十川(とがわ)などがあり、平川との合流地点以北では
資料編1(考古編) (45.十和田火山噴出物Ⅰ)(とわだかざんふんしゅつぶつ))

平川流域では、それぞれ駒木浮石流凝灰岩(約28,000年前)・古懸浮石流凝灰岩(約13,000年前)に
通史編3(近世2) (曹洞宗)

(現西津軽郡鰺ヶ沢町)を創建したといわれ、三ッ目内(現南津軽郡大鰐町)に創建の金竜寺もこの派に属し、平川
通史編5(近・現代2) (藤森市政の財政)

津軽広域圏のインフラ整備  津軽広域圏のインフラ整備事業は、岩木山ろく開発、弘西林道開削、岩木川・平川水系,④津軽総合開発  岩木川と同様、三十六年度に着工された平川水系の灌漑・排水施設も翌三十七年度に総工事費四億一,平川(ひらかわ)水系は約六〇〇〇ヘクタールにおよぶ穀倉地域でありながら、これまで灌漑用水不足のため整備,それは平川・大和沢(おおわさわ)川の治水・利水の近代化をめざす早瀬野(はやせの)ダムの建設を始め、津軽地域三万二
通史編2(近世1) (信枚の築城)

木材は碇ヶ関・蔵館・石川の山から伐採し、平川を利用して運んだという。
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

蔵館跡のある台地を「古館」や「館コ」あるいは「宇佐美(うさみ)館」と呼ぶ人もいるが、蔵館跡は平川の河岸段丘,砂沢平(すなざわたい)館跡は、唐牛方面から流れる平川が長峰で大きく曲がる急な台地の杉林付近から、東北縦貫自動車道
通史編5(近・現代2) (岩木川改修運動)

岩木川河岸の地域住民は、岩木川と支流(平川、山田川など)の改修を痛感し、岩木川改修運動が弘前市をはじめ
資料編1(古代・中世編) ((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)

原出陣の際の尾崎・板垣・三目内三将の反乱や、同七年の天藤騒動の際の乱入事件、さらに同十一年の堀越川(平川
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

太閤蔵入地が岩木川・平川・浅瀬石川の三つの河川の分岐点を中心とする津軽平野中心部一帯に設定されたと推定
通史編5(近・現代2) (善蔵と洋次郎)

)が編んだ年譜(『葛西善蔵全集 別巻』昭和五十年 津軽書房刊)によれば、「十三日、帰郷、石坂洋次郎、平川力
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦と津軽)

南の「奥六郡」から津軽平野へ通じる「回廊」地帯であったともいえる鹿角盆地や南津軽の平川河谷地帯には、深
通史編5(近・現代2) (第一、第二大成小学校の統合)

児童数三四一人、一四学級(うち特殊学級二)編成、教職員二五人、校長は平川泰男である。  
通史編4(近・現代1) (道路改修問題と佐和知事)

河川工事では岩木川、平川、浅瀬石川は全額県費、大和沢川、大峰川、栩内川、相馬川が半額補助だった。  
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