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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (平泉藤原氏)

平泉藤原氏 こうした清原氏同士のつぶしあいの末に生き残ったのは結局清衡のみであった。,の娘を母にもつこの清衡ただ一人が二大豪族の継承者として残ったことが、鎮守府の実質的な軍政権を継承し、平泉藤原氏,清衡がその本拠を江刺郡豊田館から磐井郡平泉に移すのもこのころのことである。  ,毛越寺を建立し門前を政治・経済の中心地として、宗教の地、中尊寺周辺から分けることで「都市・平泉」の基礎,にやってきた義経を養育し、また兄・頼朝に追われて平泉に落ち延びた義経をかくまった。 / 平泉藤原氏
通史編1(古代・中世) (奥州惣奉行葛西清重)

その上で、十九日、頼朝は平泉への帰途についた。,「平泉郡」という郡は存在しないので、その意味はこれまで奥六郡の総称であるとか、あるいは都市平泉の膝下を,いずれにしろ清重は、平泉藤原氏に代わる頼朝の現地代官として、陸奥国内御家人の統制と平泉郡内の治安維持といった,磐井郡は、平泉の在所。,牡鹿郡の牡鹿湊は、太平洋ルートの物資を北上川舟運を通じて平泉に運ぶ要衝で、平泉での生活を維持する生命線
資料編1(考古編) ((4)12世紀代)

中でも、弘前市中崎館遺跡は、平泉藤原氏の政庁跡とされる柳之御所跡との関係が極めて強く認められる点で注目,「かわらけ」は、京都風の晴れの宴席で使用されるもので、平泉の都市域の中では普遍的に出土している。,平泉とは、直線距離にして約200キロメートルも離れた北辺の地であるにもかかわらず、その内容は、平泉やその,この遺跡は、平泉と直接関わる小規模な出先機関としての性格が想定される。,ほかの遺跡も、おおむね平泉とのかかわりが考えられる。
通史編1(古代・中世) (泰衡の死)

泰衡の死 頼朝は十三日には多賀国府に入り、数日休息した後、玉造(たまつくり)郡を経て平泉を目指した。,二十二日夕方、前日来の台風のなかで二万の頼朝軍はついに平泉に入った。,主を失った平泉は寂漠として人気もなかったという。,泰衡はあわてて平泉館を焼いただけで逃走したので、都市平泉の大部分は無傷のまま頼朝の手に入ったのである(,ここに奥州合戦は終り、平泉藤原氏は滅亡したのである。
通史編1(古代・中世) (奥大道と文物の流通)

』に、後白河院が六六国に建立した国分寺の一つであるとされており(写真78)、奥大道を通じて伝えられた平泉,平泉を中心に、この奥大道を東西南北に多くの交易品が行き交(か)ったのである。  ,外浜に至る二十日余の道程一町ごとに笠卒塔婆をたて、その面に金色の阿弥陀像を描かせた(史料五一五)、と平泉,の流入を可能にし、かの平泉はその流通ネットワークのターミナルとして栄えることとなった。,かわらけは京都との文化的な距離を示す尺度となり、平泉は京都に近い地方都市であったことがわかる。
通史編1(古代・中世) (秀衡と義経の死)

義経の平泉入部がいつ頼朝に知られるところとなったのかについては明らかではないが、この年九月には、頼朝の,義経を討つことによってしか平泉の独立を保持する道はないと考えたのである。  ,平泉には義経びいきのものも多く、泰衡の弟泉三郎忠衡もそれが理由で義経の死の二ヶ月後の六月、殺害された。,平泉政権安定のための義経の殺害は、逆に平泉内部の亀裂を深めるという側面をもっていた。,もちろん後白河としては、頼朝を牽制するために平泉を温存させたいということも念頭にあった。
通史編1(古代・中世) (鎮守府将軍秀衡)

軍事政権樹立を目指す源頼朝にとって、東北地方への勢力拡大は重大事であり、その最大の障害は、いうまでもなく平泉藤原氏,秀衡は後白河法皇(写真88)と深い関係を有しており、後白河のご落胤(らくいん)と目される女性まで平泉に,秀衡が平泉館を現在の柳之御所遺跡(写真89)の地に移したのも、この鎮守府将軍任命が契機であったかと推測,写真88 後白河法皇 写真89 柳之御所跡(岩手県平泉町)
通史編1(古代・中世) (奥州合戦の勃発)

頼朝は、勅許なくして平泉を攻めることについて、故実に明るい「武家古老」の大庭景能(おおばかげよし)をして,東国に軍事政権を確立しようとしている頼朝にとっては、その最大の邪魔者の平泉藤原氏を除くのは、幕府成立の,なぜなら奥羽二国に、院や平氏政権の支援によって成り立っていた自立的な平泉政権は、幕府という新しい政治形態,このとき平泉に向けられた軍勢は、東海道・北陸道・中路の三手から総勢二十八万余の大軍である。,)の軍は山形方面を、畠山重忠(はたけやましげただ)を先鋒とする頼朝の大手軍は中通りをそれぞれ北上して平泉
通史編1(古代・中世) (かわらけと陶磁器)

この在り方は、一二世紀後半に奥州を支配した藤原氏の拠点であった平泉遺跡群や、一三世紀以降に鎌倉幕府の中枢,であった鎌倉市内の遺跡群から出土するかわらけにおおむね対応しており、平泉や鎌倉における政治的影響力や文化的,津軽と平泉・鎌倉から出土するかわらけの類似性は、単純に似ているというだけでなく、儀礼的に使用する器であることを,加味すると、津軽地域の開発や人々の交流は、平泉さらには平泉滅亡後の鎌倉・坂東と一体化していた証拠でもある,つまり、浪岡城跡内館の陶磁器の組み合わせとかわらけの法量は、平泉遺跡群における一二世紀後半の遺物群に類似
通史編1(古代・中世) (エゾ=アイヌ)

そして郡郷制に編成されたかつての蝦夷の地域の統治の実権を、平泉藤原氏による新政権に委ねたのである。,その意味で平泉政権は、中央の国家権力を現地で体現するものでもあった。,安倍氏の蝦夷支配と平泉の蝦夷支配は根本的に異なるものなのである。  ,安藤氏が担った「蝦夷沙汰(えぞのさた)」とは、平泉政権とアイヌとのかかわりに始まるこうした歴史の流れのなかに
通史編1(古代・中世) (北奥における建郡)

もちろん一方で、こうした急激な建郡ではなく、Ⅲ平泉藤原氏の支配下で一二世紀に入ってから徐々に建郡されたという,基頼の指揮のもと、平泉藤原氏・越後城氏・常陸佐竹氏のような新興領主層が育成され、その時代に、まったく新,これは宇那禰社の存在に示される水田開発は平泉周辺でおこり、その後、北奥地域に波及したと考えられること。,また平泉からは京都文化の流れを引く「かわらけ」が大量に出土するが、それは時代が降るものの、津軽にまで及,こうした事実は、まさに平泉藤原氏の時代の建郡の傍証になるとも考えられている。
資料編1(古代・中世編) (三 刀剣)

(表)奥州津軽波岡之住森宗  (裏)永正十三年八月廿一日 2 短刀 -森宗- 弘前市在府町  平泉秀一氏,一五二一)以降か 銘(表)波岡森宗  (裏)奥州津軽 3 刀 -伝、来国光- 弘前市在府町  平泉秀一氏
通史編1(古代・中世) (多宇末井の梯)

多宇末井の梯 平泉から南下を続けたさしもの兼任も鎌倉方の総力戦によって、二月中旬には栗原一迫(いちはざま,)(宮城県)でついに敗れ、兼任は五〇〇騎を率いて平泉衣川まで退いたが、ここも守ることができなかった。
通史編1(古代・中世) (大河兼任の乱)

八郎潟の東に本拠を置く泰衡の郎従大河次郎兼任(かねとう)が、七千余騎を率いて鎌倉に反旗をひるがえすと、平泉方,平泉政権下で多賀国府在庁の最高責任者として民事・行政を司ってきたこの二人にとっては、頼朝の新しい支配方式
通史編1(古代・中世) (津軽氏の系譜と唐糸御前)

写真109)などには、先に触れた「唐糸草子」の所伝が取り込まれ、それが強引に北条時頼とつなげられて、平泉藤原氏
資料編1(考古編) ((1)東北地方南部以南との交易・交流)

12世紀は、奥州藤原氏が、平泉を拠点として東北地方のほぼ全域を支配した時期でもある。,特に、津軽地方は平泉から直線距離にして約200kmも離れているにもかかわらず、遺跡の数、あるいは出土遺物,の中での「京都系かわらけ」や中国製陶磁器・国産陶磁器は平泉の都市域やその周辺、あるいはそれと深くかかわる,特に中崎館遺跡(弘前市)においては、各遺物が質・量ともに平泉の都市域に準ずるものであり、この遺跡は、平泉
通史編1(古代・中世) (治承・寿永内乱下の秀衡)

写真90 無量光院跡(岩手県平泉町)  その後、寿永二年(一一八三)には木曽義仲(きそよしなか),こうした内乱状態のなかにあって、秀衡は慎重に平泉から一歩も動くことはなかった。,父義朝(よしとも)の死後、鞍馬寺に預けられていた義経が、平泉の秀衡のもとに下ったのは承安四年(一一七四
通史編1(古代・中世) (守護・地頭の制)

奥羽両国は平泉政権の崩壊によって、広大な新天地として創出された場所であり、頼朝にとって新制度を施行するには
通史編1(古代・中世) (津軽惣地頭宇佐美実政)

津軽惣地頭宇佐美実政 こうして平泉藤原氏の滅亡後の体制整備が進むなか、本州の最北辺にして海運上の要衝
通史編1(古代・中世) (蝦夷か蝦夷の支配者か)

また安倍氏自身が、(平泉藤原氏のように自称したかどうかは別として)蝦夷の末裔(まつえい)と考えられていたとしたら,もちろん安藤氏の蝦夷系譜づけが、こうした政策的措置である以上、平泉藤原氏の場合と同様、厳密に人種的系譜
通史編1(古代・中世) (四 中世前期の交易)

四 中世前期の交易 平泉で栄えた奥州藤原氏の二代基衡(もとひら)は、同地の毛越(もうつう)寺建立にあたって
通史編1(古代・中世) (陸の道・海の道)

たとえば、平泉にもたらされた各種の交易品が、さらに陸のルートを通じて津軽の地まで波及したと想定されるものに
資料編1(考古編) (1.12世紀の様相)

この時期は、安倍・清原氏と平泉藤原氏(間接的には京都の影響)の影響とともに、北陸地方からの影響も見逃すことはできない
通史編1(古代・中世) (四耳壺の出土)

ところが一二世紀段階の平泉遺跡群の調査では数十個体が出土しており、全国的にも群を抜いた出土量がみられる,平泉では同時に出土するかわらけの量が一〇トン以上と厖大(ぼうだい)なことから、お祝い事や主従の契りを交
通史編1(古代・中世) (奥州惣奉行制の確立)

文治六年(一一九〇)三月十五日、平泉と並ぶもう一つの東北支配の要衝多賀国府に、新たに伊沢家景(いさわいえかげ
通史編1(古代・中世) (安藤氏の所領)

安藤氏の所領 すでに詳しく見たように、平泉藤原氏が滅亡すると、奥羽両国は鎌倉幕府の支配下に入り、頼朝,弘前市三世寺の付近には、平泉政権と密接なかかわりを有するものと思われる中崎館遺跡が存在する。
通史編1(古代・中世) (田村麻呂と頼朝)

田村麻呂と頼朝 のちにも触れるが、文治五年(一一八九)九月、奥州合戦に勝利した頼朝が、平泉から鎌倉へ
通史編1(古代・中世) (阿津賀志山の合戦)

かとうかげかど)・工藤行光(くどうゆきみつ)・工藤祐光(すけみつ)らの率いる鎌倉軍と、金剛別当秀綱らの率いる平泉軍,平泉軍の奮闘にもかかわらず、数に勝る鎌倉軍は、午前十時ころには二重堀を越えて秀綱の陣を破り、秀綱は国衡
通史編1(古代・中世) (阿津賀志山の防塁)

阿津賀志山の防塁 これに対して平泉藤原氏側は、奥大道の交通の要衝、陸奥国伊達郡阿津賀志山(あつかしやま,現在でも、東北縦貫自動車道・東北新幹線・東北本線・国道四号線が集中する陸地が狭まった場所で、鎌倉軍が平泉
通史編5(近・現代2) (終戦)

原子、高木、平泉兄等引きつづき来る。せつは相変はらず荒田へ手伝ひ、建物疎開は中止でその後仕末。
通史編1(古代・中世) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

長野県茅野市) 仙台市教育委員会 仙台市博物館 大円寺(南津軽郡大鰐町) 中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町
通史編1(古代・中世) (安藤系図)

またやはりこの系図のみにみえる「惟平」なる人物も、他の同時代史料からすると、奥州平泉の藤原清衡の長男で
通史編1(古代・中世) (乳井福王寺の伝承)

院政下で堀河天皇の最後の時代、一一〇六~八年の年号であり、長治(一一〇四~一一〇六)をはさんで藤原清衡が平泉
通史編1(古代・中世) (中崎館の鉄製品)

津軽地域では、碇ヶ関村古館(ふるだて)遺跡に類例があり、岩手県平泉町柳之御所跡の堀跡から出土したものは
通史編1(古代・中世) (防御性集落の消滅)

この北奥の地域は、平泉に誕生した新しい藤原氏の政権にしっかりと組み込まれ、結果として日常的な激しい内部紛争
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦と津軽)

のごとく延久合戦後の僧侶の移住、再興(事実上の創建)、住民を指揮しての開発といった伝説をもち、さらに平泉藤原氏時代
通史編1(古代・中世) (奥羽の特殊産物)

これは平泉政権以来の仕法を継承している可能性もある。  
通史編1(古代・中世) (土器の煮炊から鉄鍋へ)

図34 内耳鉄鍋と内耳土器・把手付土器 1 柳之御所堀跡出土内耳鉄鍋(岩手県平泉町) 2 蓬田大館遺跡出土内耳土器
通史編2(近世1) (「津軽一統志」以降の修史事業)

すれば、奥州藤原氏と安倍氏との血縁関係が存在する以上、安日に行き着くことは当然で、結局津軽家は、最後まで平泉藤原氏
通史編1(古代・中世) (三 北奥宗教界の中世的転回)

三 北奥宗教界の中世的転回 鎌倉前期の幕府は、奥州平定に絡(から)む源義経・平泉藤原氏一族の討滅に流,仍其年内被レ始二営作一随而壇場荘厳、偏被レ模二清衡、基衡、秀衡以上泰衡父祖等建立平泉精舎一訖(中略)。,明年者、所レ相二当于義顕并泰衡一族滅亡年之支千一也  この一文が端的に物語るように、奥州藤原氏の平泉中尊寺
資料編1(古代・中世編) (第二節 五輪塔)

平泉まで来た五輪塔の文化は、奥大道を北上し外ノ浜へ、また下之切道を通り十三湊まで続いていたと考えることが
通史編2(近世1) (刀狩り)

に宛てた秀吉の朱印状によると、九月中ころに「南部境目」の和賀・稗貫に仕置を実施するために、浅野長吉が平泉
資料編1(古代・中世編) ([十二世紀])

●文治五年(一一八九)八月二十二日、源頼朝、藤原泰衡平泉館の倉庫の宝物を検分させる。
通史編1(古代・中世) (阿倍比羅夫の登場)

写真27『大日本国地震之図』  のちに詳しく触れるように、平泉藤原氏の時代のころに、津軽地方は陸路
通史編1(古代・中世) (中世の境界認識)

平泉政権時代に切り拓かれたと想定される奥大道の終着地でもある。
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

また、安倍氏と同様に「東夷之遠酋」あるいは「俘囚之上頭」というごとく、夷社会の統轄者を自称する平泉藤原氏造営,しかも、ともに天台宗を基調とする津軽安藤氏の山王坊と平泉藤原氏の中尊寺の建造物には、建築学的に一定のかかわりも,円仁(慈覚(じかく)大師)の高弟安恵の開創とも伝えられる出羽山寺もまた、紛れもない天台宗寺院であり、平泉藤原氏,の蒔いた天台宗の種が、九世紀における慈覚大師や道忠の高弟を通して、東国天台別院をはじめ、津軽山王坊、平泉中尊寺
資料編1(考古編) ((4)漆器・木器生産)

なお、輪高台を持つ漆器は、12世紀代の奥州平泉藤原氏関連の柳之御所跡をはじめとして数多く出土しており、
通史編1(古代・中世) (一 中世寺院の建立)

』)はもとより、平安後期の頃には、道南と北奥地域に共通分布する「擦文文化圏」に端的に示されるように、平泉
資料編1(考古編) (4.中崎館遺跡)

また、この土器は、12世紀に栄えた奥州平泉藤原氏の後半期の政庁跡とされる柳之御所跡にいても多量に使用されている
通史編1(古代・中世) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

写真73 撮影 写真74 津軽一統志首巻 弘前市立図書館蔵 写真75 撮影 写真76 岩手県西磐井郡平泉町
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