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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (津軽平賀郡への入部)

津軽平賀郡への入部 曽我氏が津軽における拠点としたのが、中世の津軽三(四)郡の内の津軽平賀郡である。,本節二でみたように、奥州合戦ののちに、津軽に入った御家人宇佐美(大見)平次実政が、その拠点を津軽平賀郡,曽我氏が北条氏の地頭代として平賀郡に入部したことが確認できるのは、建保七年(一二一九)、曽我広忠の時のことである,に、廣忠の先代と目される時廣の名がみえ、さらにそこに「曽我検校」という注記があることから、広忠以前の平賀郡入部 / 津軽平賀郡への入部
資料編1(古代・中世編) ([十三世紀])

●建保七年(一二一九)四月二十七日、曾我広忠に平賀郡岩楯村地頭代職。,●貞応三年(一二二四)九月二十一日、曾我惟重に平賀郡岩楯村地頭代職。,●延応元年(一二三九)三月二十八日、曾我惟重、平賀郡大平賀村を、曾我光弘、平賀郡岩楯村を請所として認められる,●仁治三年(一二四二)十月一日、曾我惟重、平賀郡大平賀村地頭代職。,●仁治三年(一二四二)十月一日、平賀郡乳井郷阿弥陀堂別当職を安堵。
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

●文保元年(一三一七)十二月、平賀郡平賀郷年貢結解を注進。,●元亨元年(一三二一)十月十三日、平賀郡岩楯・大平賀両郷の年貢。,●元弘四年(一三三四)二月、曾我光高、平賀郡内諸郷の安堵を申請。,●建武元年(一三三四)三月十二日、安藤高季を平賀郡上柏木郷に補任。,●建武元年(一三三四)三月、曾我光高、平賀郡大平賀郷の保全を申請。
通史編1(古代・中世) (県下の諸郡)

県下の諸郡 さて県下の地には当時の古文書類に記された地名から、津軽平賀郡・津軽田舎郡(津軽山辺(やまのべ,津軽平賀郡は岩木川上流地域、津軽田舎郡は黒石市・南津軽郡尾上町・田舎館村付近、津軽山辺郡は黒石市・南津軽郡浪岡町付近,現在の弘前市域の多くをそのうちに含む津軽平賀郡は、もっとも早くから史料にその郡名がみえるので、おそらく,古代末期の津軽平野の大開拓は、まさにこの平賀郡域から開始された。  
通史編1(古代・中世) (所領の経営)

所領の経営 これらの所領の経営の在り方、とくに所当年貢の内実については、やはり津軽平賀郡の場合が残存史料,平賀郡は、地頭代曽我氏が、郡政所を通さず直接に北条氏に対して所当進納を請負う「別納請所」であるからである,写真123 平賀郡大平賀郷年貢結解状  この結解を一瞥してすぐ気がつくように、おびただしい監査の,陸奥国の得宗領では、一般には一段当たり白布一端というのが地頭得分であったらしいが、平賀郡のように政所を
通史編1(古代・中世) (三 中世寺社の存在形態)

一方、貞応二年(一二二三)十二月六日、僧栄秀が次のように平賀郡の福王寺・極楽寺へ敷地を寄進し、両寺別当職,父栄秀から福王寺と極楽寺の両別当職を譲り受けた僧栄秀は、嘉禎二年(一二三六)、北条泰時より平賀郡乳井郷,写真228 北条泰時書下状  このことは、逆からいえば、平賀郡乳井郷には、福王寺と極楽寺のほかに,写真229 曽我貞光知行分神社仏寺注文案 津軽平賀郡岩楯村地頭曾我太郎貞光知行分所々神社仏寺注文事,前述の僧長秀以来連綿と継承されてきた平賀郡乳井郷の福王寺に関するもので、康永四年(一三四五)、乳井寺の
通史編1(古代・中世) (曽我貞光の奮戦)

九月には貞光の本拠(平賀郡岩楯カ)も南朝方に襲われ、十月には平賀郡尾崎にて合戦が行われている(史料六八二, この間、貞光は暦応三年には本宗家の師助と同じ左衛門尉に昇格し(史料六八三)、また同四年七月には平賀郡加土計,また何時(いつ)のころからか平賀郡柏木(かしわぎ)郷(現平賀町柏木町付近)も支配することとなった(史料七
通史編2(近世1) (本村と新田)

正保二年(一六四五)の「津軽知行高之帳」(資料近世1No.一一六〇)によれば、津軽郡は三郡からなり、平賀郡一万九二六五石余,平賀郡の新田村は八村であるが、弘前城下からみると、津軽野村と向外之瀬(むかいとのせ)村は北、高崎・高田,表10 初期の新田(弘前市域) 平賀郡新田村名 石   高 (石・斗・升) 鼻和郡新田村名 石   ,貝澤村 24.48 11 大森村 27.52 計 4377.11 計 2602.00 平賀郡新田高合計,表11 初期の本村(弘前市域) 平賀郡本村名 石   高 (石.斗 升) 鼻和郡本村名 石   
通史編1(古代・中世) (嫡流と庶流)

また惟重の系統が伝領した大平賀郷は平賀郡の政治経済の中心地であり、板碑も大平賀郷や岩楯郷には多く現存するのに,拠点を置いたという確証もないので、今のところ断案は保留しなければなるまいが、いずれにしろ、惟重の系統が平賀郡
通史編1(古代・中世) (北条得宗領の形成)

なかでも津軽平賀郡が、早く北条義時の時代に得宗領化していることが、自らの地頭代として曽我氏を任命した文書
通史編1(古代・中世) (得宗北条貞時)

このころ平賀郡の岩楯村・平賀郷・乳井郷などで、貞時による地頭代職の安堵が一斉になされたのも(史料五九六
通史編1(古代・中世) (高麗氏から伝領した所領)

じて得た所領は、いずれも相論の対象になりやすく、確実に曽我氏に伝領されていったことがわかるのは、津軽平賀郡
資料編1(古代・中世編) ((1)南北朝時代の「石川楯」)

石川の地は、この時代、津軽平賀郡岩楯郷に属していたと思われ、給主曽我光高は、国府=建武政府側について奮戦,したが、もと得宗被官で平賀郡に勢力を持つ津軽曽我氏の一族は、工藤・小河氏などと同様、一族が二つに分裂して
通史編1(古代・中世) (曽我氏系図の復原)

曽我氏系図の復原 津軽曽我氏については、平賀郡を中心として鎌倉時代から南北朝時代にかけての比較的豊富
通史編1(古代・中世) (津軽惣地頭宇佐美実政)

なおこの実政については、平賀郡大光寺あたりにあって、「津軽奉行」の任にあったともいわれているが、この説
通史編1(古代・中世) (顕家からの安堵)

また右記したごとく、すでに高季は、勲功賞として平賀郡上柏木郷を安堵されているのに、本領はようやくここに
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の出自)

津軽曽我氏の出自 平賀郡を中心に活躍した津軽の中世武士としてよく知られているのが曽我氏である。
通史編1(古代・中世) (津軽(郡)中名字の世界)

、奥法(おきのり)・江流末(えるま)・馬(うま)の外三郡とに分かれるとされ、現在の弘前市域の地名は、平賀郡
通史編1(古代・中世) (討幕の論功行賞)

討幕の論功行賞 さて一連の戦いの勲功の賞として、曽我貞光には新たに平賀郡法師脇(ほっしわき)郷(史料六六四
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

その後、文亀二年(一五〇二)三戸南部安信(やすのぶ)は、弟の高信(たかのぶ)を津軽郡代とし、平賀郡石川城
資料編1(古代・中世編) (一 大浦城の立地と現状)

ちなみに「大浦」の名は、「東根」(津軽平野東部)の平賀郡を「上浦」というのに対して付けられたという。
通史編1(古代・中世) (嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)

執権義時のころには平賀郡岩楯村・平賀郷の地頭代職を得ていたことが古文書で知られているが、津軽曽我氏については,どうほう)」についてはまったく不明だが、それに続く「藤原宗直(むねなお)」「藤原宗氏(むねうじ)」は、平賀郡乳井郷
通史編1(古代・中世) (片穂家から伝領した所領)

)郡小井(居)郷を除き、駿河国「かまたのかうししきはんふん(鎌田郷司職半分)」、陸奥国名取郡平岡郷、平賀郡,平賀郡「なかのまち井」郷沼楯(ぬまたて)村の地頭代職(「みうちそりやう」。
通史編1(古代・中世) (安藤高季の活躍)

安藤高季の活躍 高季は、建武方に加わって大光寺合戦にも参戦し、新たに平賀郡上柏木郷(現平賀町柏木町付近
通史編1(古代・中世) (安藤愛季の津軽侵略)

支援し浪岡口への出陣をするなど(史料一〇二四・一〇二五)、大規模な攻撃を行い、天正七年の七月の出陣では平賀郡茶臼山
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

堀越の地は、中世において津軽平賀郡に属していたが、この地は津軽平野南部を南北に縦断して流れる平川(中世
資料編1(古代・中世編) (一 銅鐘)

藤原宗直・宗氏は平賀郡乳井郷(弘前市乳井)の福王寺に関係した小川(河)氏と考えられている。  
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

……………… 吾妻鏡・関東御教書 152 ●延応元年(一二三九)三月二十八日、曾我惟重、平賀郡大平賀村,を、曾我光弘、平賀郡岩楯村を請所として認められる。,…… 岩大新渡戸文書・新渡戸文書 153 ●延応二年(一二四〇)三月十日、平賀郡乳井郷阿弥陀堂別当職を,………………………… 南部家文書 155 ●仁治三年(一二四二)十月一日、平賀郡乳井郷阿弥陀堂別当職を,………………………… 大乗院文書 168 ●文保元年(一三一七)十二月、平賀郡平賀郷年貢結解を注進。
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・岩楯村)

津軽曽我氏の所領・岩楯村 津軽曽我氏の津軽地方における所領は、文書で確認できるもののすべてが津軽平賀郡
通史編1(古代・中世) (中世の農民)

表7「津軽(郡)中名字」にみられる当市域の地名一覧表 郡 郡中名字地名 現地名 平賀郡 大仏鼻 石川
通史編1(古代・中世) (渡嶋の所在)

されて「津軽」の名を冠せられた地域は、津軽鼻和郡(津軽半島南部から、その南方の岩木川左岸地域)・津軽平賀郡
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

●正長二年(一四二九)七月十四日、糠部金森山祠鋳物師大工平四郎、平賀郡広船神社奉納の鰐口を鋳造す。,●永享五年(一四三三)六月十二日、源家行、津軽平賀郡内日照田を天台寺に寄進する。
通史編2(近世1) (本村と新田)

ちなみに「津軽知行高之帳」では、柏木町村は平賀郡の新田として高四八九・二八石とある。  
通史編1(古代・中世) (三 北奥宗教界の中世的転回)

件、以下、     寛元四年(一二四六)十二月五日 (一)は泰時以来の例に任せて、曽我惟重に陸奥平賀郡大平賀村,これからも、幕府が泰時の時には、この平賀郡内を領有していたことが判明する。  
通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

史料には、天文年間の津軽地方の支配状況について、鼻和郡三八〇〇町は「大浦ノ屋形」と呼ばれる南部盛信、平賀郡二八
通史編2(近世1) (知行宛行状の発給)

下中川河原を中川村と仮定した場合、正保二年(一六四五)の「津軽知行高之帳」では同村は平賀郡の新田として
通史編1(古代・中世) (四 執権時頼の東国廻国をめぐって)

正応元年の板碑  「僧證嚴」「沙弥道法」「沙弥覺性」らは不明であるが、「藤原宗直」「藤原宗氏」は、平賀郡乳井郷
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長十五年(一六一〇)四月十七日、平賀郡広船観音堂建立。
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