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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (児能花幼稚園廃園と附属幼稚園)

児能花幼稚園廃園と附属幼稚園 二十年十月、官立青森師範学校は弘前市に移転した。,師範学校の性質上、学生の教育実習の場となる小学校や幼稚園が必要であったが、附属幼稚園として本町の児能花,(このはな)幼稚園に白羽の矢が立てられた。,児能花幼稚園は明治四十二年に設置された仏教を基本とする幼稚園であったが、同幼稚園は青森師範学校に貸与され,翌二十四年三月、青森師範学校はこれを買収して正式の附属幼稚園としたので、児能花幼稚園は三九年の歴史に終止符 / 児能花幼稚園廃園と附属幼稚園
通史編5(近・現代2) (六 幼稚園教育)

六 幼稚園教育 昭和に入っても本県の幼稚園の設置は遅々として進展しなかった。,昭和元年(一九二六)末の時点で県内幼稚園はわずかに九園、そのうち公立は弘前幼稚園、青森県女子師範学校附属幼稚園,(青森市)、東津軽郡大野村立幼稚園の三園、私立は弘前に若葉、愛光、養生、児能花(このはな)の四園、ほかに,青森幼稚園、黒石幼稚園の計六園である。,ただ、弘前市のみ公私立五園の幼稚園が設置されているが、それでも幼児数に対する幼稚園の数は少ない。 / 六 幼稚園教育
通史編5(近・現代2) (柴田幼稚園)

柴田幼稚園 同じく二十九年四月二十日、在府町五〇番地の朝陽小学校隣接地に私立柴田幼稚園が設立された。,同幼稚園は柴田学園の経営になり、初代園長は松野伝、教員四人、園医一人、用務員一人、三学級で発足した。,柴田幼稚園は教育即生活の教育精神により、幼児の心身の調和的発達を図り、豊かな情操を養い、道徳性の芽生えを,昭和五十四年(一九七九)一月、同幼稚園は弘前市清原一丁目一番地一に移転した。 / 柴田幼稚園
通史編5(近・現代2) (五 幼稚園教育)

五 幼稚園教育 戦後、幼稚園は新しい学校制度に位置づけられ、めざましい発展をした。,二十一年三月米国教育使節団は、育児場や幼稚園をもっと多く設けることを勧告した。,勧言に基づいて二十二年三月制定の学校教育法では、従来の家庭教育を補うための幼稚園から、正規の学校体系の,一環としての幼稚園として、その位置を学校制度上で明確にした。,それを受けて、戦後の弘前にも数多くの幼稚園が設置された。 / 五 幼稚園教育
通史編5(近・現代2) (若草幼稚園)

若草幼稚園 三十四年(一九五九)六月一日、富田町一九二番地(現松森町一六七)に若草幼稚園が開園された,同幼稚園は幼児教育に深い関心と理解を持っていた藤田良一が、地域社会のため設置したもので、自家の庭園に園舎,これまで富田地域には幼稚園がなく、地域住民から設置要望があったが、藤田がそれにこたえたもので、同園開園 / 若草幼稚園
通史編5(近・現代2) (幼稚園の廃園)

幼稚園もまたその煽(あお)りを受けた。,平成四年四月東奥義塾幼稚園が、平成八年四月弘前学院聖愛幼稚園が廃園となり、平成十年(一九九八)三月、県内最古,の公立幼稚園として九五年の歴史を持つ弘前幼稚園が廃園となった。,同幼稚園は平成十年三月二十二日卒園式挙行のあと閉園式を行った。,とっても楽しかった弘前幼稚園。長い間ありがとうございました。 / 幼稚園の廃園
通史編5(近・現代2) (聖ヨゼフ幼稚園開園と明星幼稚園開園)

聖ヨゼフ幼稚園開園と明星幼稚園開園 昭和九年(一九三四)四月一日、弘前市百石町小路二〇番地に聖ヨゼフ,幼稚園が開園した。,聖ヨゼフ幼稚園はカトリック主義幼稚園として県内最初の幼稚園であって、これによって弘前における幼稚園は六園,同幼稚園の開設によって、これまで幼稚園に恵まれなかった付近住民は恩恵を受け、カトリック信者はその子女を,しかし幼稚園は継続され、戦後の四十一年(一九六六)三月一日に至って「弘前カトリック幼稚園」と改称された / 聖ヨゼフ幼稚園開園と明星幼稚園開園
通史編5(近・現代2) (若葉・愛光幼稚園の合併と聖愛幼稚園)

若葉・愛光幼稚園の合併と聖愛幼稚園 北瓦ヶ町の私立若葉幼稚園は、私立弘前女学校幼稚園が独立の園舎を建築,し、明治三十一年六月一日付で認可され開園した歴史のある幼稚園である。,一方、私立愛光幼稚園は明治四十一年三月二日、桶屋町に若葉幼稚園の姉妹園として開園された。,両幼稚園は昭和二十六年四月から、ともに弘前学院の管轄となっていたが、三十三年四月合併、中瓦ヶ町一番地に,園舎を新築して「弘前学院聖愛幼稚園」として新発足した。   / 若葉・愛光幼稚園の合併と聖愛幼稚園
通史編5(近・現代2) (みなみ幼稚園)

みなみ幼稚園 四十五年(一九七〇)四月一日、稔町の住宅街に、私立みなみ幼稚園が開園された(現弘前みなみ,幼稚園・原ヶ平字山中)。,同幼稚園は法人立ではなく、個人立であることに特色があった(のち法人化)。 / みなみ幼稚園
通史編5(近・現代2) (幼稚園協会の設立)

幼稚園協会の設立 ひばり幼稚園の開園によって、弘前市の幼稚園は、国立一、公立二、私立一二、合計一五園,を数え、幼稚園教育の全盛時代を迎えることになる。  ,弘前の幼稚園関係者は、戦前には保母会を組織して、公私立を問わず一緒になって保育研究に励んだ。,市内幼稚園数が一三園となった昭和四十四年五月、幼稚園関係者は新しく弘前幼稚園協会を設立して、公私打って / 幼稚園協会の設立
通史編5(近・現代2) (文化幼稚園)

文化幼稚園 二十九年(一九五四)三月一日、紙漉町五番地三に私立文化幼稚園が設置された。 / 文化幼稚園
通史編5(近・現代2) (ひばり幼稚園)

ひばり幼稚園 五十五年(一九七〇)四月十日、小沢字大開(現大開二丁目)に私立ひばり幼稚園が開園された,丘住宅団地の造成が完工、分譲が開始されるとともに、大開地区も市街化区域への編入に伴い人口が増え、当地区への幼稚園 / ひばり幼稚園
通史編4(近・現代1) (愛光幼稚園の設立)

創設、のち桶屋町に移り、民家を改築して幼稚園とした(現レストラン要敷地)。,愛光幼稚園の特徴は地域の労働者の幼児を収容して、保育しようとしたことであった。,愛光幼稚園はそれら幼児を収容して保育に当たろうとしたもので、いわば社会奉仕の念に燃えて設立された幼稚園,失敗に帰したとはいえ、愛光幼稚園が低所得者層の幼児を保育しようとした進歩性は、弘前市の幼稚園教育上特筆,なお、愛光幼稚園は昭和二十六年(一九五一)に若葉幼稚園と合併した。 / 愛光幼稚園の設立
通史編5(近・現代2) (弘前幼稚園類焼)

弘前幼稚園類焼 昭和三年(一九二八)四月十八日、弘前幼稚園はいわゆる「富田の大火」で第一大成小学校とともに,出火はその日の午前十一時半ごろで、幼稚園では火事だという知らせを受けてすぐに園児を帰宅させたので、負傷者,幼稚園新園舎が竣工したのは四年七月である。,この年の卒園者で弘前幼稚園卒園者は一〇二八人となって、一千人の大台を超えた。,これは県内幼稚園最初の快挙であり、関係者は盛大に祝ったのであった。   / 弘前幼稚園類焼
通史編4(近・現代1) (養生幼稚園の創設)

養生幼稚園の創設 若葉幼稚園設立とほとんど同時に、明治三十九年(一九〇六)七月一日私立養生幼稚園が創設,伊東は明治三十年から幼稚園の設置を主張していたが、隣家の伊東進邸を併せて養生幼稚園を開園した。,伊東は設立に際して「私立養生幼稚園主意書」を配布し、その意図するところや保育方針を明らかにした。,すなわち養生幼稚園は伊東の唱えた養生主義にのっとり、体育に重点を置いて保育を行うもので、幼稚園規則第二条 / 養生幼稚園の創設
通史編5(近・現代2) (弘前明の星幼稚園)

弘前明の星幼稚園 三十一年(一九五六)十月四日、紺屋町一二七番地に私立弘前明の星幼稚園が設置された。,同幼稚園はカトリックの精神に基づき、幼児に適当な環境を与えて、心身の健全な発達を助長することを教育目標,同幼稚園の設立によって、弘前におけるカトリック主義幼稚園は三園となった。 / 弘前明の星幼稚園
通史編4(近・現代1) (若葉幼稚園設立)

若葉幼稚園設立 弘前女学校内の教室で保育を続けていた同校付属幼稚園は、明治三十九年(一九〇六)、北瓦,ヶ町(現中央通りと萱町が交差する土地)に敷地を購入、園舎を新築してこれを若葉幼稚園と命名した。,になる息子がいたために、独自に本国へその必要性を訴える手紙を書くなど、幼児教育に深い関心を抱(いだ)き、幼稚園,若葉幼稚園は三十九年六月十四日に開園発足し、文部省の設置基準も満たして、ここにおいて弘前市には公私立合,わせて二幼稚園を数えるに至った。 / 若葉幼稚園設立
通史編5(近・現代2) (東奥義塾幼稚園)

東奥義塾幼稚園 四十四年(一九六九)四月四日、城西四丁目二番地九に私立東奥義塾幼稚園が開園された。,東奥義塾幼稚園は、東奥義塾の石川移転に伴い、平成四年(一九九二)四月一日廃園となった。 / 東奥義塾幼稚園
通史編4(近・現代1) (弘前市立弘前幼稚園)

弘前市立弘前幼稚園 明治三十五年(一九〇二)七月一日、弘前市立弘前幼稚園が、土手町の第一大成尋常小学校敷地内,これは本県における公立幼稚園の最初であり、独立園舎を持ち、文部省の定めた幼稚園規程に準拠して設置された,最初の幼稚園である。  ,弘前幼稚園設置の経過を同幼稚園沿革は「弘前第二学区の区会議員大高歳行、今村嘉三郎、花田直太郎、野村忠兵衛,当時、県内に幼稚園保母の資格を有する者は皆無で、保母には伝手(つて)を求めて、京都市今出川幼稚園勤務の / 弘前市立弘前幼稚園
通史編5(近・現代2) (弘前大谷幼稚園)

弘前大谷幼稚園 四十二年(一九六七)三月十八日、新寺町一五六番地二に弘前大谷幼稚園が設立認可された。,同園は専徳寺関係者一同の菩提心とその浄財を中心に、幼児教育の重要性に鑑み、四十年十月幼稚園設立委員会を / 弘前大谷幼稚園
通史編5(近・現代2) (戦時下の幼稚園)

戦時下の幼稚園 幼稚園に戦時色が濃厚になるのは昭和十五年ごろからである。,また、幼稚園保母で組織している保母会は一ヵ月一回の研究会に軍隊見学などを行っている。,二、三黙禱をやらない子がいる」と弘前幼稚園の日誌に書かれているが、四歳児や五歳児に宮城遙拝や黙禱の意味,幼稚園のみんなでお願ひ申上げます。  / 戦時下の幼稚園
通史編4(近・現代1) (三 幼稚園教育)

三 幼稚園教育 弘前市における幼児教育は明治二十三年(一八九〇)四月、時敏尋常小学校が保育科を設けて,しかし、弘前市に幼稚園が設置されるのは、これよりさらに十余年後のことである。 / 三 幼稚園教育
通史編5(近・現代2) (弘前市立和徳幼稚園の設置)

弘前市立和徳幼稚園の設置 三十二年(一九五七)八月一日、弘前市立和徳幼稚園が和徳小学校に併設された。,和徳小学校学区には私立幼稚園が一園も設置されておらず、地域住民から公立幼稚園設置の請願が市議会に提出され,同園の開園によって弘前の公立幼稚園は弘前幼稚園と合わせて二園となった。 / 弘前市立和徳幼稚園の設置
通史編5(近・現代2) (ベビー・ブームと幼稚園不足)

ベビー・ブームと幼稚園不足 戦後の特色現象として著しい新生児の増加が挙げられる。,戦後の平和の享受と物資の増加によって、いわゆるベビー・ブームといわれる現象が起こり、それら幼児が、幼稚園教育,幼児の増加に比して幼稚園が不足で、新聞は「幼稚園浪人」や「狭き門」などと書き立てて幼稚園の増設を訴えた,幼稚園増設を望む声が挙げられていた。,その要望にこたえて弘前市内に次々と幼稚園が設置される。 / ベビー・ブームと幼稚園不足
通史編4(近・現代1) (弘前女学校と付属幼稚園)

弘前女学校と付属幼稚園 明治三十年、私立弘前女学校(現弘前学院聖愛高校)校長M・E・ウィルソンは、弘前,においては幼稚園開設の需要が強く、専任の教師を派遣してもらえれば、地元での経営その他受け入れの用意ありとして,した若い女性が早速弘前へ派遣され、翌三十一年四月、塩分町の校長宅内にミス・サウザートを園長として付属の幼稚園,サウザート園長と子どもたち (明治31年ごろ)  なお、『弘前学院百年史』によれば、この付属幼稚園,をいわゆる子守学校の後身とする説もあるが、子守学校は幼稚園とは違うもので、当時商家などの子守に出され、 / 弘前女学校と付属幼稚園
通史編4(近・現代1) (児能花(このはな)幼稚園の設立)

)幼稚園が設立された。,これは、本県における仏教関係の最初の幼稚園で、各方面から注目された。,昔から関係の深いお寺の幼稚園というので、檀家のみならず市民からも親しまれた。,同幼稚園は三年保育で定員は四〇人であった。,児能花幼稚園は昭和二十一年(一九四六)まで続いたが、青森師範学校の弘前移転と同時に、同校附属幼稚園として / 児能花(このはな)幼稚園の設立
通史編5(近・現代2) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

弘前カトリック教会 (弘前市) 青森県近代文学館                   弘前カトリック幼稚園,         みちのく銀行 (青森市) 財団法人弘前市体育協会 (弘前市)          養生幼稚園
通史編5(近・現代2) (掲載写真の典拠・所蔵一覧)

67 『百年史』青森県立弘前中央高等学校 2001年 写真76 『創立50周年記念誌 弘前カトリック幼稚園,』弘前カトリック幼稚園 1984年 写真80 山上笙介編『ふるさとのあゆみ 弘前Ⅱ』津軽書房 1981,弘前市立図書館蔵 写真141 『写真で見る弘前大学の50年』弘前大学 1999年 写真145 『弘前幼稚園閉園記念誌,』弘前市立弘前幼稚園 1998年 写真165 つがる弘前農業協同組合蔵 青森県史編さん室写真提供,記録する会 1995年 写真242 弘前市立郷土文学館協力 写真243 同 上 写真244 養生幼稚園蔵
通史編5(近・現代2) (東亜連盟同志会の活動)

第三回地方協議会は昭和十八年五月九日弘前養生幼稚園で、会員三五人が集まって開かれた。
通史編5(近・現代2) (秩父宮殿下の御来弘)

弘前駅に御到着になったのは昭和十年八月十日午前八時五十二分、直ちに紺屋町の御仮邸(菊池長之別邸、現明の星幼稚園敷地
通史編5(近・現代2) (富田小学校の弘前移管と焼失)

富田小学校の弘前移管と焼失 富田小学校は当時中津軽郡清水村の所管になる小学校で、現在の紙漉町文化幼稚園
通史編5(近・現代2) (東北女子短期大学の開学)

定員は五〇人で、卒業者には教職課程の履修によって幼稚園教諭二級普通免許状、また、保母課程の履修によって
通史編4(近・現代1) (私設青年団の結成)

大正元年(一九一二)十月、下町の鷹城青年会と下土手町の向上青年会は、元長町の養生幼稚園を会場に連合の演説会
通史編5(近・現代2) (東北女子大学の開学)

定員は六〇人で、その卒業者は、小学校教諭一級普通免許状、あるいは幼稚園教諭一級普通免許状を取得することができた
通史編3(近世2) (藩営紙漉座と蘭医星弘道)

紙漉座の用地として紙漉町熊谷喜兵衛の家屋敷(現市内紙漉町、文化幼稚園敷地)が接収された。,今井屋俊蔵は佐々木新蔵と改名、明治十年(一八七七)に病死するまで、払い下げられた紙漉町一番地(現文化幼稚園敷地
通史編5(近・現代2) (弘前聖愛高等学校の歩み)

また、この年の五月に、従来の専攻科を発展させた短期大学の設置が認可されたことから、学校法人弘前学園は幼稚園
通史編4(近・現代1) (私設市連合青年団)

益子の周旋によって市内各町の青年会や青年団が集まり、大正三年(一九一四)八月十四日養生幼稚園を会場に、
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

現在、伊東梅軒が吉田松陰・宮部鼎蔵と会見した部屋は養生幼稚園に松陰室として保存されているが、この部屋に,写真79 養生幼稚園松陰室  伊東梅軒家は明治二十一年祐宗の死後隣家の伊東重(しげる)に売却され
通史編5(近・現代2) (家政女学校の創設)

唐牛は私財一〇万円を投じて旧富田小学校跡(現弘前文化幼稚園敷地)に新校舎を建設した。
通史編4(近・現代1) (学校看護婦の配置)

表59は『東奥日報』掲載の大正六年七月の市内小学生・幼稚園児のトラホーム罹患状況である。
通史編4(近・現代1) ([口絵])

39 蓬莱橋通り 口絵40 土淵川のほとりで †学びの風景I† 口絵41 養生幼稚園第
通史編3(近世2) (紺屋町末紙漉所)

仕事場として紺屋町末(現明の星幼稚園敷地)に紙漉所新設工事が行われ、四月末には完成し、翌五月から紙漉を
通史編3(近世2) (織座)

図136.織座の場所(現明の星幼稚園の辺り)  なお元禄十三年(一七〇〇)七月、織物所の建設に先
通史編4(近・現代1) (市税の構造)

火葬場使用料 2,612.5 公園使用料 130.0 公会堂使用料 50.0 小学校授業料 3,807.6 幼稚園保育料
通史編5(近・現代2) (新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次)

…………  185   五 旧制弘前高等学校と青森医学専門学校 ……………………  207   六 幼稚園教育,…………  408   四 大学の設置 ……………………………………………………  424   五 幼稚園教育
通史編4(近・現代1) (新編 弘前市史 通史編4(近・現代1) 目次)

…………  397   二 中等教育 ………………………………………………………  425   三 幼稚園教育
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