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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (大庄屋制の成立)

そしてこれに伴い、庄屋と五人組が廃止され、大庄屋の下に手代(てだい)、その下に手付(てつき)が置かれ、,それぞれ庄屋と五人組の業務を受け継いだ。,従来の郡奉行―代官―庄屋―五人組体制から、郷士身分の大庄屋の設定によって、郡奉行―代官―大庄屋―手代―,手代と手付は村ごとに置かれ、大庄屋の目にかなった者が、大庄屋の申し立てによって配置された。,つまり、大庄屋の支配単位が農政単位となったわけである。 / 大庄屋制の成立
通史編3(近世2) (金木屋の生活)

金木屋の生活 五月二日、お兼が風邪気味で小山内医師が往診。,大津屋久左衛門の弟が病死したので、悔状・香典を差し上げる。  ,鰺ヶ沢〓菊屋へ京蕗一五把を差し上げる。  ,高屋(たかや)村(現中津軽郡岩木町)の庄屋が嶽(だけ)温泉(現中津軽郡岩木町)へ入湯するので、見舞人を,和徳町(わとくまち)の大坂屋仁兵衛死亡の連絡あり。   / 金木屋の生活
通史編3(近世2) (礼服)

これは一般農民に対してではなく、庄屋・組頭(くみがしら)(庄屋の補佐役)・裕福な者だけに着用が認められている,羽織は庄屋・組頭・裕福な農民に対して着用が認められている(資料近世2No.二一六)。,また庄屋は年間を通して麻羽織だけが許可され、一般農民は羽織の着用が禁じられていることが知られる。  
通史編4(近・現代1) (村制度の変貌)

「農民ハ旧封建ノ時ハ年間農事ニ忙シキ故ニ日暮後ニ庄屋ノ内ニ願届ヲ持チ行キ、庄屋不在ナレバ庄屋ノ妻ニ預ケ,当ルナルベシ、何トナレバ営業ノ為ニハ時間ハ第一ノ資本ナレバナリ」と農村生活に溶け込んでいた昔の簡素な庄屋制度
通史編4(近・現代1) (民次郎百年忌)

セラレシ人名    高杉組鬼沢村彦兵衛二男   斬罪            民次郎    仝組立石村庄屋,  鞭刑三庄屋取放ノ上     兵次郎    仝組十腰内村庄屋   仝             ,武左衛門    仝組十面沢村庄屋   仝             清吉    仝組大森村五人組,彦四郎    仝 上貝沢村五人組   仝 戸〆十五日       専右衛門    木造新田山田村庄屋,  庄屋取放ノ上十日戸〆    太右衛門     当年凶作ニ付大光寺組尾崎組猿賀組其他ノ百姓徒党致
通史編2(近世1) (漆の集荷・販売体制)

「漆実買入方・蝋燭〆方」に任命されたのは、文化八年の時点では和徳町越前屋勘助、翌年に土手町池田屋利助も,加わったが、天保十一年(一八四〇)の時点では紙屋伝八に代わっている。,時代はやや下るが、弘化三年(一八四六)の時点で集荷に当たっていたのは、領内の漆守(漆守がいない地区では庄屋,漆守のもとで各村庄屋が一村単位で買い集め、代銭は代官を通じ漆守に渡され、さらに庄屋が通帳によって受け取,文化三年には成田蔵次郎を通じて庄内の掻子の申し出にしたがい試験的に販売を行ったほか、前述した前田兵蔵は
通史編3(近世2) (戦闘の開始)

戦闘の開始 では、ここにみえる前後の弘前藩の状況を、庄内出兵との関連に注目しながら、振り返ってみたい,これは、弘前藩が討庄応援を命じられたが、庄内藩がいよいよ官軍に反抗し、会津と行動をともにするようになっては,では、庄内方面の動向はどのようになっていたのであろうか。,四月十七日には山形・上ノ山両藩に応援出兵命令が出され、二十三日には新庄に本陣を移した。  ,先に述べたとおり、既に秋田藩には、庄内征討命令が出され、十八日には鎮撫総督軍から軍事役長屋清左衛門・山本登雲助
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

津軽弘前藩と盛岡藩に対しては、警衛の持ち場は従来どおりとし、さらに陣屋のある場所において、それ相応の「,について、四藩に対しては、蝦夷地の一部を「領分」として与えると述べているのに対して、弘前・盛岡両藩には陣屋のある,③「地所」を下されるというのは、江戸で屋敷を拝領するようなものと考えられたい。,次いで、十一月二十六日、蝦夷地御用掛を命じられていた老中脇坂安宅(わきさかやすおり)の屋敷に津軽・南部,それにより、津軽家は、陣屋附きの「地所」として、従来警備してきた蝦夷地西海岸のスッツ領からセタナイ(現北海道瀬棚郡瀬棚町
通史編3(近世2) (猿賀神社より盗み)

猿賀神社より盗み 文政二年(一八一九)、三上清吉の次男の庄五郎は、猿賀(さるか)深沙宮(現南津軽郡尾上町猿賀神社,のことで、徒刑は「寛政律」の規定では、取上の御仕置場で鞭刑の執行後に、尾太(おっぷ)銅山(現中津軽郡西目屋村,すなわち庄五郎は「国日記」文化八年十一月七日条にみえる四奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行・郡奉行)の命令,牢屋は元来未決拘置所のことであるが、右の牢居のほかに永牢(ながろう)を科された者が収容された。
通史編2(近世1) (飢饉への対策)

右の政策の実施に当たっては、同年三月に任命された大庄屋(おおじょうや)・運送方(大庄屋格で金銀米銭の御用,大庄屋は通常、一つの組に一人ずつ程度しか置かれないので、遠方の場所については村の有力者に下買いを命じて,『平山日記』には農民から集めた米を不当に蓄財して貸付を行う大庄屋の例などみられるが、買い上げは比較的順調,板柳村の安田次郎兵衛、五所川原村の原庄右衛門、蒔苗(まかなえ)村の蒔苗七右衛門らは一〇〇〇両に及ぶ献金,彼らは自分たちで行き届かない場合は大庄屋に申し出て、来年の収穫で返済するように達しを受けた(『五所川原市史
通史編2(近世1) (農書の成立)

現南津軽郡尾上町)の一戸定右衛門による「耕作口伝書(こうさくくでんしょ)」(元禄十一年成立)が、各組の大庄屋,図123.耕作噺 目録を見る 精細画像で見る  中村喜時は庄屋役を勤め、水田約一〇〇〇役(約七,ほかの著者もいずれも庄屋など上層農民に属する。
通史編2(近世1) (近世初期海運)

その観音堂に、寛永十年(一六三三)、越前敦賀の庄司(しょうじ)太郎左衛門が奉納した北国船(ほっこくぶね,施主の庄司太郎左衛門の奉納意図は、おそらく航海中、嵐に遭った際、無事避難できたことへの感謝の気持ちを表,」(同前No.四九三)によれば、太郎左衛門は茂右衛門とともに敦賀にある弘前藩の御蔵屋敷の留守居を勤めていた,庄司太郎左衛門・茂右衛門の二人は、おそらく敦賀の有力な廻船商人であったと思われる。,なぜならば、前述の重臣宛ての書状において、御蔵屋敷の修理などは、自分の費用で行うとし、同藩から扶持を下賜
通史編3(近世2) (捕虜となった庶民)

同五日にこの部隊は鶴岡(庄内)藩兵と期せずして遭遇戦を展開し、隊長成田以下一〇人が戦死、一一人が負傷して,そこで庄内兵も彼を放置し、四日間陣屋の前に縛られて置かれた。,それから今之助は四日かけて縄つきのうえ鶴岡城下に連れて行かれ、牢屋に入れられた。,今之助としてはまったく生きた心地がしなかったであろうが、庄内藩側も町人一人の命を奪うことまでは考えておらず,、五日で牢屋から出し、一ト市町の美濃屋という商人に預けて、籠居(ろうきょ)(軟禁)処分とした。
通史編3(近世2) (伊勢参り)

245.三日市太夫次郎秀孝書状  伊勢参りについては、寛永十一年、藩庁から出発・到着の届け出を庄屋,翌年、町方よりは町年寄松井助右衛門、在方よりは榊村庄屋杢右衛門が伊勢へ代参に出かけ、太々神楽料五〇両と,各地で伊勢講・代々講が組織されたが(『永禄日記』)、享保六年(一七二一)、庄屋宅に宿をとった伊勢の御師,ところが、正徳二年(一七一二)、大津屋清十郎からの母親の伊勢参りの願い出については、町奉行が許可を与えた,伊勢・高野へ参詣の帰り、葛野村(現南津軽郡藤崎町)の農民仁左衛門(六十五歳)が、福井城下の松本町尾張屋で
通史編2(近世1) (土着策実施への布石(Ⅱ期))

なお、寛政元年、大庄屋制が廃止された。,これは、土着によって多くの藩士が農村に入ると、大庄屋レベルでの対応が困難になるからである。,このことはまた、大庄屋を中心とした廃田開発の方針を変更したことにもなる。
通史編3(近世2) (戦争の波紋)

戦争の波紋 当時の様子について、青森商人滝屋善五郎は二月四日の日記に、大坂で徳川慶喜が朝敵になり、蒸気船,で江戸へ逃げ去った、譜代大名は残らず朝廷方につき、幕府征討に向かっており、幕府の味方は、会津、桑名、庄内,、伊予松山藩ばかりとなっているという情報を得たこと、また、蝦夷地詰めの庄内藩士には帰藩命令が出され、松前藩,蝦夷地(えぞち)詰めの庄内兵が引き揚げ、頻繁に各藩の早馬が往復する様子は、庶民にも不安を抱かせる。
資料編3(近世編2) (第一節 後期藩政の展開と社会状況)

天明期の社会状況  (一)宝暦飢饉  (二)天明飢饉  (三)飢饉への対応  (四)廃田開発・大庄屋制
通史編3(近世2) (仕事着)

「国日記」享保九年(一七二四)十月十五日条にみえる倹約令の第三条によれば、庄屋であっても裁付の着用と雨降,さらに寛政二年(一七九〇)二月の倹約令では、第五条―庄屋以下すべての農民は小巾(こぎん)の着用。,庄屋以下すべての農民は股引とする。
通史編3(近世2) (農家の遺構)

農家の遺構 一般農民の家屋は、狭い建坪に田の字型の間取りに土間(どま)と馬屋がついているのが基本型である,これに対し、萢中(やちなか)村(現市内萢中・浜ノ町東)にある石戸谷家は名主(なぬし)(庄屋)を務めたこともある,間口一六間(約三二メートル)、奥口(梁行)六間(約一二メートル)に、縁・玄関などの下家(げや)(母屋(,おもや)にさしかけてつくった小屋根)を加えると百坪余(約三五〇平方メートル)となる。
通史編2(近世1) (裁判と判決)

弘前城二之丸の辰巳櫓(たつみのやぐら)から堀を隔てて三之丸東側の評定所(ひょうじょうしょ)のほかに、庄屋,馬喰町の牢屋から引き出された入牢者は、堀に沿って大浦町(おおうらまち)を南に進み、東門から三之丸に入り,彼らに対する申し渡しは、延享二年(一七四五)ころから町奉行・町年寄・代官(だいかん)・庄屋宅などで行なわれる,牢屋の前での申し渡しは月番(つきばん)(その月の当番)の徒(かち)目付が当たったようで、斬罪・死罪(死刑
通史編3(近世2) (農民意識の変化)

図43.晴雨日記 目録を見る 精細画像で見る  この年の三月二十日、館山村(現平賀町館山)の庄屋弥三郎,この三人が福村(現市内福村)の者と鮭漁(さけりょう)のことで紛争となり、福村の者の網などを取り上げ、庄屋弥三郎,事件の処理のため二月十七日に弘前から鷹匠六人が役人として来ていたが、彼らが指示することには庄屋弥三郎に
通史編4(近・現代1) (戸籍法と戸籍区)

区域内にある家屋敷は華士族、平民の別なく何番屋敷と番号が付けられ、その順番によって戸籍簿が作られた。, 5 (1872)  3 青森県下に区画(戸籍区)を設ける  4 庄屋,(1890)  5 府県制・郡制公布  しかし、この戸長・副戸長の仕事と、従来の村役人-庄屋,大蔵省は布達一四六号で、府県の下に大区、その下に小区を置いて、大区に区長、小区に副区長を置き、町村の庄屋,津軽郡第二〇区内小一区 上銀丁 新屋敷 茂森町 宇庭光海及耕春院并元門前 長勝寺々中一円 同元門前 
通史編3(近世2) (織物会所の施策)

遠隔地のため会所に搬送が困難な場合には、その村の庄屋が会所に連絡をとったうえ、庄屋を通じて頼み売り(委託販売
通史編2(近世1) (土着策施行期の廃田開発)

土着策施行期の廃田開発 天明七年(一七八七)から寛政元年(一七八九)にかけて展開された大庄屋制(おおじょうやせい,この状況に対し、藩は寛政八年十一月、仮子頭による統制をやめ、手代・庄屋による仮子統制に切り替えている。
通史編2(近世1) (土着対象地と在宅分布)

表38 在宅者数と在宅村数 庄名 組 名 在宅者数 在宅村数 文化10年 村 数 図155 の番号,鼻 和 庄 赤 石 15(人) 7(村) 53(村) ① 藤 代 84   18   54  ,② 駒 越 63   24   46   ③ 高 杉 76   17   31   ④ 平 賀 庄,表39 寛政8年広田組の内容 村 数 28ヵ村  郷 士 3人  手 代 2人  庄 屋 11人,表40 天明3年諸組作毛状況 庄名 組名 田 畑 平 賀 庄 大光寺 30% 40% 猿賀 30&
通史編3(近世2) (操人形芝居)

正徳三年(一七一三)五月には玉屋伊右衛門の操興行があった(『永禄日記』)。,江戸藩邸では宝永四年(一七〇七)一月十二日に、藩主家の人々を客とし、信政が田村藤大夫・吉村宗利・木屋庄八
通史編3(近世2) (城下での生活)

昼飯後に隣松寺(りんしょうじ)へ参り、帰宅後、唐牛与右衛門・鑓屋庄五郎が訪ねてきて午後八時まで酒など飲,七郎右衛門は私宅へ参り、そのうち鑓屋庄五郎もみえ、午後十時すぎに二人は帰っていった。  ,村田久七宅へ夜咄(ばなし)のため、唐牛与右衛門・成田七郎右衛門・山田清左衛門・鑓屋庄五郎・片山弥兵衛が,今日、隣松寺へ唐牛与右衛門・新屋縫殿丞・木立新左衛門・庄五郎・弥三とともに振舞いに行く。  ,唐牛与右衛門・新屋縫殿丞・青沼与四郎・鑓屋庄五郎も招かれていた。
通史編2(近世1) (対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)

安政三年(一八五六)四月、青森の廻船問屋滝屋善五郎は、同じく青森の廻船問屋である藤林源右衛門とともに、,万延元年(一八六〇)、青森の商人は、滝屋が仙台藩、藤林家が会津藩、金沢屋が庄内藩の御用達に任命された。,その一方で、滝屋はスッツの津軽弘前藩出張陣屋の入用品の一部を移送している。,この事業は翌慶応元年から藩の資金をもって、三国屋を責任者として開始されることになった。,青森商人の大村屋庄蔵・西沢善兵衛らは、箱館の外国商人との間に材木の売買契約を結んだ。
通史編3(近世2) (商社の活動内容)

これらは滝屋・金沢屋・河内屋の蔵にいったん収められ、弘前側加担商人の到着を待って売りさばかれることとなった,また、今村の息子勇吉郎が秋田・庄内・越後へ出張し、米・酒・籾(もみ)などを買い付け、雇い船二艘で庄内米一二,これを受けて、青森側商人は同年十月に大木屋円太郎・近江屋弥兵衛と三厩の商人安保(あんぽ)正兵衛を松前・,近江屋・安保ら四人が持ち場の責任者とされた。,また同月、青森と蝦夷地との連絡役として、箱館の商人秋田屋(芦野)喜左衛門(後に津軽屋三右衛門と改名)が
通史編2(近世1) (下級藩士への開発奨励(I期))

について若干触れておくと、藩はその開発を上層農の手で推進しようとしていたことが、天明七年(一七八七)の大庄屋制,これについてはすでに本章第一節三(二)で触れたところであるが、天明五年二月に代官を半減して大庄屋を一七人任命,、三月にはさらに一二人を大庄屋に取り立てている。
通史編2(近世1) (賃銭・物価の統制)

日雇頭は弘前では日雇い一〇〇人に一人を置き、在方では庄屋がその任を果たすよう命じられた(同前No.六七,なお、仮子については前述したようにその統制を仮子頭から手代・庄屋に切り替え、相対で仮子を抱えたり、出奔
通史編2(近世1) (染織技術の導入政策)

図100.蚕飼養法記  元禄十二年(一六九九)、藩は絹布織物師の欲賀(星賀とも)庄三郎・富江次郎右衛門,元禄十三年には、紺屋町の長内三益薬園屋敷が「織物座」として認められた(同前元禄十三年四月七日条)。,元禄十四年二月、欲賀庄三郎・富江次郎右衛門が藩に繭(まゆ)の品質にかかわる要請を行っている。
通史編2(近世1) (家臣団構成)

整ったものといわれる寛延三年の分限帳には、八〇の役職名と家臣団一六九人の名前が記され、さらに職人頭・庄屋
通史編2(近世1) (隠津出・抜け米の取り締まり)

購入状況を御元方勘定奉行に報告し、支払いの仲介に当たったのが御用達元方の商人であり、一般の商品に対する大問屋の,庄屋自らが炭俵に酒を入れて黒石領に運ぼうとして、摘発されたケースもある。,没収品は現物、あるいは売却代金がその村の庄屋などに払い下げられた。
資料編3(近世編2) (一 農民の生活)

農民住居に書院住居が取り次いだ形であり、庄屋クラスの住居によく見られるものである。
通史編2(近世1) (十三小廻しの成立と町の盛衰)

三九)、鰺ヶ沢・青森沖横目所(同前四一)、平舘・小泊沖横目所(同前四二)、内真部(うちまっぺ)・三馬屋沖横目所,また、船頭の船宿などを生業としていた庄屋助左衛門は、「十三不繁昌」のために、やはり渇命に及んでいたという,こうした事態に直面し、藩では、十三町には酒屋(酒造業)が一軒もないところに目をつけ、弘前城下の酒屋で希望,さらに、さきの庄屋助左衛門を町年寄に任命し、理左衛門との二名体制とし、彼らに扶持を与えて十三町の再興に,酒造生産量はあまり増加しなかったようで(元禄飢饉の影響もあったか)、宝永三年(一七〇六)三月には、十三町の酒屋たちが
通史編2(近世1) (野本道玄の招聘)

,渡辺近江 蒔絵師 山野井四郎右衛門 塗師 大野山六郎左衛門,金兵衛 養蚕 高森太郎兵衛,欲賀庄三郎ほか,造船 美濃屋宇右衛門 大工 竹中安左衛門,坂上専右衛門ほか 瓦師 大坂久三郎,伝兵衛,八兵衛 瀬戸物,1699 元禄12 45 10月3日,道玄の趣意により,養蚕織物師欲賀庄三郎らを京より招く。,4月,紺屋町に糸取場を設置。 11月,京都より男女10余人の織物工を招く。,1701 元禄14 47 3月,紺屋町に織物会所を設置。
通史編2(近世1) (文久の面改め)

図186.文久3年大光寺組金屋村当戸数人別田畑共取調帳 目録を見る 精細画像で見る  この面改,対処できない」と風儀の悪化を嘆き、百姓が農業の名目で実際は商売をしたり、あるいは武士の子弟が町人地に家屋敷,特に武士の商売は藩にとっても望ましいことでなく、隠居や子弟が「田屋所(たやしょ)」(農地の耕作・管理のために,調査に当たっては、在方は代官所手代や庄屋など村役人、町は町役人、寺社は門前(もんぜん)庄屋が取りまとめることになっていた,できるだけ実態に即した調査をしようという姿勢は、持船の調べでは名目上他領の船にしている場合(第四条)、屋敷
通史編3(近世2) (桑の栽培と養蚕)

くから行われていたが、組織的かつ専門的に行われるようになったのは、野本道玄と道玄の斡旋で招かれた欲賀庄三郎,村(現市内小友)や廻堰(まわりぜき)(現北津軽郡鶴田(つるた)町)など六ヵ村の農民たちに、後者では板屋野木,これは欲賀庄三郎が道玄に連絡もなく、織座用には三〇〇間(約五四〇メートル)四方で良いとする判断で、他への,猫右衛門(ねこえもん)町(現市内松森町(まつもりまち))末から松並木の植え留めまでの間両側に七〇軒の屋敷割
通史編3(近世2) (弘前藩の出兵)

統一した弘前藩も、藩境を封鎖するなどの行動で受けた官軍方からの疑惑の念を払拭すべく、鎮撫総督府から征庄出兵命令,を受けると(『弘前藩記事』一)、討庄応援兵の派遣を開始した。,この時、屋敷村から本荘へ他藩兵とともに引き揚げた弘前藩和嶋隊は二人の負傷者を出した。  
通史編2(近世1) (蝦夷地への人口流出)

鯡場(にしんば)稼ぎに代表される漁場労働のみならず、箱館・松前など都市部における「飯炊并勤奉公」・茶屋奉公,あり、また、松前のブローカーと結託して、女性を拘引(こういん)同様の方法で斡旋(あっせん)する口入れ屋まがいの,町方は町名主、在方は庄屋が発行する印形(いんぎょう)を湊口の問屋を経由して湊目付に提出し、改めを受けた
通史編2(近世1) (飢饉のその後)

施行小屋は飢饉の翌年の天明五年まで設置された。,病人一七人は馬に乗せて出生の村へ丁寧に送り届け、身寄りのない者は町方の者は町名主のもとで奉公させ、在方では庄屋,同書では同年秋になって秋田や仙北・本荘・亀田・庄内の周辺から帰国する者が多く、「在方もかなりにぎわしくなってきた
通史編3(近世2) ((三)陶磁器)

三右衛門の後、文化年間初期(一八〇四~)ころまでは、安永八年(一七七九)に藩から招かれた羽州新庄(うしゅうしんじょう,)(現山形県新庄)出身の摺鉢(すりばち)焼師草刈三平(くさかりさんぺい)らによる唐内坂(からないさか),下川原(したかわら)(現市内桔梗野(ききょうの))および大沢(おおさわ)(現市内大沢)・富田(とみた)御屋敷跡,のちの下川原焼の瀬戸師金蔵による―慶応元年〈一八六五〉御用留書〈弘図津〉)と明治四年(一八七一)の富田御屋敷跡
通史編2(近世1) (「標符(通帳)」発行の前提と経過)

同十八日には代官と大庄屋をも元司の直支配とし、領内の御米蔵を残らず運送役と大庄屋の管理とした(資料近世,とすること、⑦他国からの借金については藩が返済するので員数を書き出すこと、⑧年貢米など一切の穀物は大庄屋,毛内は同五月九日、病気を理由に屋敷に引きこもり、同十二月十日、三度目の辞表を提出し、同十四日、願いどおり
通史編3(近世2) (織座)

その場所は紺屋町(こんやまち)(現市内紺屋(こんや)町。,またこの辺は、①水の便がよい、②清水が湧出する、③染屋町(紺屋町の別称)に近くて便利が良い、④西浜街道,「国日記」では織物会所・織方会所・織屋会所・織物場会所・織物師会所・紺屋町会所・会所・織物師役所・織場,織物所の普請について、欲賀庄三郎は元禄十四年(一七〇一)春の建設を願い出ている。,その後は金木屋(後述)による経営がとって代わるようになった。
通史編3(近世2) (村の変容)

こまごまとした服装規定のほかに、たとえば庄屋以外は脇差をさしてはならない、既婚女性は武家の妻をまねて眉,弘前の豪商金木屋では万延元年(一八六〇)四月二日の日記で、青森でも火事があり、近頃は所々に不審な苞(つと
通史編2(近世1) (鉱山の開発)

ところで、津軽領の鉱山の中でも最大かつ代表的な鉱山としては、尾太(おっぷ)鉱山(現中津軽郡西目屋村)の,一七〇三)、銅を扱う商人から幕府の銅座役所に提出された諸国の銅山名の書上である「諸国銅山覚書」(『泉屋叢考,このころ、越前国今庄(いまじょう)(現福井県今庄町)の出身で、南部領田名部(現むつ市)にいた足羽(あすわ
通史編2(近世1) (対外交易の実態)

前出の金木屋又三郎は商売上からか、和親条約締結後の箱館開港という比較的早い時期から異人に興味を示し、接触,また、金木屋のほか、箱館と地理的に近接する青森でも異国を商売相手と考える商人がいた。,箱館奉行所や東北諸藩の御用達(ごようたし)に任命された廻船問屋滝屋(たきや)善五郎や藤林源右衛門などがその,滝屋善五郎の日記によると、この時には一〇〇石分の昆布の輸出が計画された。  ,また、慶応元年(一八六五)年には、青森の商人大村屋庄蔵・西沢善兵衛らが木材の売買契約を外国商人と結んだ
通史編4(近・現代1) (断髪)

明治四年に、弘前では本町一丁目に官所と称して大庄屋詰所があった。,ここに詰める大庄屋と言われる人々は、新しい世の中の指導者としての立場上、率先して断髪を実践し、珍奇な新風俗,その往来を見るに、いかんとも言い様ない異風にて、市中通り候へば、小児見るものみな大庄屋さんなりと、見る
通史編2(近世1) (津軽領の知行制)

したがって、弘前藩の場合には蔵入地・知行地の区別がなく、単独あるいは複数の村に一人ずつ置かれた庄屋が村政
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