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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (庄内戦争の結末)

庄内戦争の結末 再び秋田藩の南境に目を転じると、新庄落城後、山道より秋田へ向けて進攻していた庄内藩は,総督軍の迅速な軍備や人員・物資の補給や活動によって、とうとう八月二十八日、角館を攻めた庄内藩は、西南諸藩,海からの砲射には、庄内藩は対抗策を立てられずに逃げまどった。,同日庄内藩兵は鶴岡に向けて総退却を開始し、九月二十七日、正式に降伏を表明する。,既に九月十五日には仙台藩も降伏をしており、庄内藩としても孤立した中での戦争続行は不可能であった。 / 庄内戦争の結末
通史編3(近世2) (庄内征討応援命令)

四月六日、秋田藩に庄内(鶴岡)藩征討命令が出されたが、弘前藩も決して無関係ではいられなかった。,内容は、庄内藩の罪状確認であるが、これについては弘前藩も承知のうえのことであったろう。,この事件は、慶応三年十二月二十五日に起こった庄内藩による薩摩藩邸砲撃事件のことである。,さらに庄内藩屯所への発砲事件などがあり、関東見廻役に任じられていた庄内藩が江戸薩摩藩邸砲撃を実行したのであった,もう一つの問いは、庄内藩が謝罪降伏した際の措置についてであった。 / 庄内征討応援命令
通史編3(近世2) (庄内征討命令をめぐって)

庄内征討命令をめぐって 弘前藩が討庄応援の準備を始め、出兵を繰り返していた間にも、新政府軍と旧幕府軍,四月十日には、ともに朝敵として征討の対象となった会津藩と庄内藩の間に会庄同盟が結ばれた。,反政府軍に対する奥羽諸藩の勢いが強くなる中で、閏四月六日討庄の厳命を受けた秋田藩は、七日、庄内藩征討に,繰り出していたが、庄内藩征討の中心である秋田藩が、ためらいを濃くしていた。,つまり、秋田藩がとうとう庄内藩へ向けて軍事行動を起こす決定をしたのであった(『弘前藩記事』一)。 / 庄内征討命令をめぐって
通史編3(近世2) (藩論の統一)

さらに西舘平馬は、京都で会津・米沢・庄内・仙台藩等、同盟の中心藩が京都役宅を没収されたうえ、入京を禁止,それまで弘前には、仙台・会津・米沢・庄内藩など奥羽諸藩の使者がたびたび往来していた。,さらに藩内には、六月初旬、庄内藩と和親をし、同藩から西洋砲や蒸気船を借り出し、秋田藩を挟み撃ちにする手,はずを整えていたのだが、今回立場を明らかにしたので、それらを庄内藩に送り返し、また、仙台藩からも弘前藩,そして、七月十七日に奥羽鎮撫総督府より再び庄内藩討伐応援命令が出ると、これまでの態度を挽回するように秋田藩 / 藩論の統一
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

庄内藩に「領分」として与える。,さらに庄内藩と会津藩は、蝦夷地警衛を命じられたのに伴い、従来両藩が行ってきた江戸湾内海警備が免除された,①仙台・秋田・庄内・会津の各藩は、これまで仙台・秋田両藩が警衛を担当してきた「奥地」を分割して「不毛之地,この早川の回答から、仙台・秋田・庄内・会津の各藩には、従来仙台藩と秋田藩が警備していた地域を領地として,・盛岡藩へのそれと、仙台・秋田・庄内・会津藩のものとでは、運上金の額に著しい格差がある(表66)。 / 「分領」と津軽弘前藩
通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

早速、総督府は奥羽諸藩に会津征討を命じたが、仙台藩をはじめどの藩も動く様子はなかった。,しかも前年幕府から江戸市中取り締まりを命じられ、薩摩藩邸を焼き打ちにして朝敵とされた庄内(しょうない),次いで四月ころからは、会津・庄内両藩対政府軍の戦いとなり、徹底的に両藩を攻め落とそうとする政府軍の態度,弘前藩は、あくまでも戦争の回避と藩体制の保全を第一としながらも、東北諸藩のこの動きには逆らうことができなかった,その間、弘前藩が、戊辰戦争の勃発から奥羽列藩同盟結成に至る過程の中で、仙台藩や秋田藩などの周囲の動向にどのように / (一)東北諸藩と弘前藩
通史編3(近世2) (盛岡藩の参戦)

盛岡藩の参戦 こうして、秋田藩を目指して庄内・仙台・米沢藩ら同盟軍が北上を続ける中、今度は盛岡藩が不意,南で行われている庄内征討のための戦闘に力を注いでいた秋田藩は、北方の境には十二所所預(ところあずかり),この時参加した弘前藩対馬官左衛門率いる銃隊は、対庄内戦へ出兵する途中で盛岡藩兵の襲来を知り、荷揚場(現秋田県北秋田郡二,一方、戦線が藩境に迫ったこともあり、藩内では藩境の警備がさらに強化されるとともに、領内要地には砲台が築,九月六日には盛岡藩勢は藩境まで後退して、秋田藩は大館・十二所を回復する。 / 盛岡藩の参戦
通史編3(近世2) (戦闘の開始)

戦闘の開始 では、ここにみえる前後の弘前藩の状況を、庄内出兵との関連に注目しながら、振り返ってみたい,これは、弘前藩が討庄応援を命じられたが、庄内藩がいよいよ官軍に反抗し、会津と行動をともにするようになっては,庄内藩征討のため、沢為量副総督を将とした総督軍は、参謀大山綱良(つなよし)以下薩摩藩兵一小隊および桂太郎,庄内藩でも十九日に全藩動員令を出し、総督軍の進路と予想される最上川沿いと秋田方面に当たる北方海岸沿いを,先に述べたとおり、既に秋田藩には、庄内征討命令が出され、十八日には鎮撫総督軍から軍事役長屋清左衛門・山本登雲助
通史編3(近世2) (総督軍の集結)

七月四日、秋田藩主佐竹義尭(よしたか)は総督府に庄内征討の先鋒を願い出、秋田藩の態度を内外に明らかにした,総督からはこの申し出を受け入れる返事が出され、秋田藩は庄内出兵へ向けて動き出すのである。,同日中には藩内に庄内出兵命令が出された。,図59.庄内戦争関係地図  秋田藩の同盟脱退は、態度を決しかねている諸藩に大きな影響を与えた。,し、庄内藩征討の拠点が形成された。
通史編3(近世2) (藩論の紛糾)

藩論の紛糾 さて、この奥羽列藩同盟参加、鎮撫総督軍の領内通行問題、そして、秋田藩境封鎖に至る過程の中,で、藩の姿勢をどのように定めるかをめぐり、藩論が決定的に二分したのであった。,勤皇派は、奥羽諸藩が同盟を結んだのは、会津・庄内の恭順謝罪を嘆願し、和平的な解決を望むためであったのに,一方で藤川能登や秋田藩の戸田十太夫へも、藩内で激徒が蜂起したため危険であるという藩境封鎖についての説明,また、同日、沢副総督は会津・庄内を征討し、不審の藩についても問罪するとの決意を明らかにしていた。 / 藩論の紛糾
通史編3(近世2) (政府軍の苦戦)

政府軍の苦戦 七月六日より秋田城下から薩摩・長州・佐賀藩など官軍諸隊が、庄内方面へ向け進軍を開始した,しかし、新庄藩の離反を受けた庄内勢は、白川方面へ向けた酒井吉之丞・松平甚三郎の軍を反転させ、新庄攻撃に,一方、海道方面を侵攻して庄内に攻め入るはずの総督軍は、七月末には象潟(きさかた)方面にまで後退していた,し、矢島藩主生駒氏は秋田領へ逃げ延びた。,続いて象潟方面の総督軍陣地が相次いで攻め落とされ、八月一日には官軍諸藩は本荘藩まで退却した。
通史編3(近世2) (戦争の波紋)

で江戸へ逃げ去った、譜代大名は残らず朝廷方につき、幕府征討に向かっており、幕府の味方は、会津、桑名、庄内,、伊予松山藩ばかりとなっているという情報を得たこと、また、蝦夷地詰めの庄内藩士には帰藩命令が出され、松前藩,や弘前藩の様子も慌ただしく、今後どうなるのかわからないということを記し、最後に「恐怖ノ時勢」になったと,蝦夷地(えぞち)詰めの庄内兵が引き揚げ、頻繁に各藩の早馬が往復する様子は、庶民にも不安を抱かせる。,すなわち三月、津軽弘前藩は軍政局を新設し、近代的な軍政への改革に本格的に着手した。
通史編3(近世2) (白石同盟の動き)

その途中で山中は、秋田藩出役桜庭富蔵が帰藩するのに出会い、仙台藩と米沢藩の談合内容に接したのであった。,それは、①庄内征討の件、②会津藩の謹慎と助命嘆願が米沢藩と仙台藩でなされている件、③仙台に山中兵部を派遣,つまり、庄内藩出兵もやむをえないという向きと、山中の理解した仙台方面の和平工作がまったく相反するものであったため,しかし、一方でこの書簡は、沢副総督から出兵の催促があった事を告げたうえで、早速庄内征討を進めようとする,この会議では、九条総督の仙台帰陣問題や庄内征討問題について衆議がなされた。
通史編3(近世2) (奥羽列藩同盟の成立)

奥羽列藩同盟の成立 さて、白石同盟が成立した後、続いて閏四月二十九日に場所を仙台に移して、列藩会議が,図50.奥羽越列藩同盟参加各藩  盟約書の内容は、諸藩の衆議を前提として、同盟諸藩の相互援助と協力関係,調印は、二五藩の代表の手によって行われたが、この中には、庄内征討の先導役を務めた天童藩の署名もあった。,さらに、同盟は奥羽諸藩だけではなく、北越諸藩にも働きかけ、その結果、藩論を反政府側に決着させた長岡藩をはじめとして,、新発田(しばた)藩、村上藩、村松藩、三根山(みねやま)藩、黒川(くろかわ)藩などが加わり、ここに奥羽越列藩同盟 / 奥羽列藩同盟の成立
通史編3(近世2) (討庄応援兵の派遣)

弘前藩としては、庄内藩の罪状に疑念を抱きながらも、命令が出された以上、速やかに対応する必要があると判断,そして、仙台藩が、総督府に従う方向をみせていた藩執政の三好監物と坂本大炊を藩中枢から退けるという動きを,四月二日、庄内征討の嚮導を出羽矢島藩に命令し、六日に秋田藩には庄内征討命令を、弘前藩にはその応援命令を,したがって十日には、総督府は沢為量副総督の庄内出張を発表し、沢率いる薩長兵二〇〇人から成る総督軍が十四日出兵,その中で、弘前藩は、政府・諸藩の動きから、何らかの意思表明をすることを強いられる時期にさしかかっていたのであった
通史編3(近世2) (近隣諸藩の動向)

近隣諸藩の動向 では、弘前藩と境界を接する近隣諸藩の藩論はどのように定められていったのであろうか。,まず、秋田藩については、先述したように、弘前藩とは連絡が密であったが、京都から仙台藩等が朝敵の対象となった,また、海峡を挟んだ松前藩でも、他藩と同様、藩論は紛糾していた。,はじめ、盛岡藩は、四月に出された会津・庄内征討応援命令には従う姿勢を示したものの、奥羽列藩同盟に加わり,盛岡藩の強い影響下にある八戸藩は、同藩の動向に左右されながらも、一方では、薩摩藩との連絡もないがしろにはできないでいた / 近隣諸藩の動向
資料編3(近世編2) (第二節 戊辰戦争と弘前)

第二節 戊辰戦争と弘前 一 戊辰戦争下の奥羽地方 二 軍制改革の展開 三 庄内出兵と野辺地戦争,四 箱館戦争と藩債の増加
通史編3(近世2) (捕虜となった庶民)

捕虜となった庶民 「弘前藩記事」(弘図八)は主に慶応三年(一八六七)から明治四年(一八七一)の出来事,同五日にこの部隊は鶴岡(庄内)藩兵と期せずして遭遇戦を展開し、隊長成田以下一〇人が戦死、一一人が負傷して,そこで庄内兵も彼を放置し、四日間陣屋の前に縛られて置かれた。,今之助としてはまったく生きた心地がしなかったであろうが、庄内藩側も町人一人の命を奪うことまでは考えておらず,)を届け出たのである(「弘前藩記事」明治元年十月二十四日条)。  
通史編3(近世2) (討庄応援部隊の解兵)

しかし、同月のうちに、弘前藩においても奥羽諸藩と情報の交換を繰り返し、奥羽列藩同盟の動きに合わせて、弘前藩,も庄内征討軍の解兵を通告することとなった(資料近世2No.五二七)。,そして、これ以降、弘前藩兵は続々と秋田領から撤退して、秋田藩との藩境に駐屯することになった。  ,弘前八幡宮神主小野若狭(おのわかさ)は社務日記(弘前八幡宮神社文書「公私留記」明治元年五月条 弘前大学附属図書館蔵)に庄内解兵,弘前藩兵は残らず帰藩し、藩内の関所や海岸の警備を仰せ付けられており、藩内が殊の外騒々しくなっている」と
通史編2(近世1) (「分領」はなぜ行われたのか)

われたのか 安政六年(一八五九)、幕府は従来蝦夷地の警衛に当たっていた津軽弘前・盛岡・仙台・秋田の各藩に,、会津・庄内両藩を加えて、警衛の任に当たらせるとともに、東西蝦夷地を分割してこれら諸藩に与えた。,分領は、幕府が蝦夷地出兵諸藩に対して軍役負担を強いたことへの見返りとする見方もあるが(『松前町史』通説編一下,ロシア側から、箱館奉行の力では、とても全蝦夷地の警衛は行き届くはずがないと指摘された幕府が、全蝦夷地に幕藩制国家,の軍事力を導入し、同地も国家内の一部だと宣言したことを意味するという考えもできる(金森正也『秋田藩の政治
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

閏四月、奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)の命により鶴岡(庄内)藩討伐応援として秋田方面に総勢二,〇〇〇人以上の動員計画がなされ、七月に藩論が勤皇に統一されてからは、挙藩体制での鶴岡藩討伐が行われ、同藩,藩 名 藩兵人数 夫卒人数 計  1 鹿児島藩 263 263  2 山口(長州,費   目 金額(両) 備 考  1 庄内藩討伐秋田表出兵 10,380 出兵人数564人, 2 同上 予備領内出張 7,690 出兵人数606人  3 庄内藩討伐矢島口出兵
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

が形成されていったのである(笠谷和比古『関ヶ原合戦―家康の戦略と幕藩体制―』一九九四年 講談社刊)。,すなわち出羽国庄内をめぐる義光と景勝の争い、南奥羽の覇権をめぐっての政宗と佐竹義重・義宣父子の争いである,米沢の押さえとし、また出羽由利郡の赤尾津孫次郎(あこうづまごじろう)・仁賀保挙誠(にかほたかのぶ)を庄内,最上義光は、上杉氏の撤兵の後、かつてその領するところであった庄内地方を上杉氏から奪回する好機とみて、庄内攻略,に乗りだし、北出羽の秋田・戸沢・由利郡内の各氏の協力も得て、翌慶長六年四月に酒田城を陥落させ、庄内は再
資料編3(近世編2) (【解説】)

会津・米沢藩らの寛典処分を主張する仙台藩や盛岡藩よりの使者が来弘し、弘前藩を自陣に引き入れようとした。,以後、七月の藩論統一まで弘前藩は奥羽列藩同盟への帰属をめぐる賛否、庄内藩征討応援命令への対応、奥羽鎮撫総督府,ここに至りようやく藩論は勤皇に確定し、以後堰を切ったように弘前藩は庄内藩討伐応援のため派兵をしていった,軍事情勢は一挙に緊迫化し、その中で八月五日には成田求馬隊が羽州由利郡吉沢村で庄内藩兵と交戦し、成田以下死傷二一名,この戦いで弘前藩は死傷四九名を出して惨敗したが、時に会津・庄内・仙台・米沢藩ら朝敵側は降伏しており、盛岡藩
通史編3(近世2) (商社の活動内容)

また、今村の息子勇吉郎が秋田・庄内・越後へ出張し、米・酒・籾(もみ)などを買い付け、雇い船二艘で庄内米一二,しく衰微しており、町内の商業活動は資金が不足して、とても大規模な買い付けなどできる状態ではなかったが、藩の,そこで、藩は新たに水戸口(みとぐち)を開いて、物資流通の円滑化を図ろうとしたのである。,秋田屋は弘前藩が蝦夷地警備についていた寛政~文化年間に藩の御用達であったが、その後没落し、この時期には,藩が積極的に場所経営を考えていたかがわかるケースといえよう。
通史編2(近世1) (漆の集荷・販売体制)

漆の集荷・販売体制 一方、集荷機構であるが、漆守が漆実を集め、城下の商人が藩に代行して買い取りを行うという,漆を特産としている諸藩は東北・北陸を中心として多く、さらに西国では蝋燭の原料として櫨(はぜ)も需要が増,、残りの三割を藩士や町方の需要のため払い下げるという状況で、他領に移出する余裕はなかった。,このような状況に対し、藩は漆の栽培強化策とともに販路拡大の調査に乗り出している。,文化三年には成田蔵次郎を通じて庄内の掻子の申し出にしたがい試験的に販売を行ったほか、前述した前田兵蔵は
通史編3(近世2) (旧幕府軍の軌跡)

十月十三日、薪水補給のため、盛岡藩領宮古に寄港し、開陽・回天・蟠龍・神速・長鯨と、仙台から加わった大江,このとき、千代田形一隻は庄内応援へ差し向けられていた。,このとき榎本武揚らは、蝦夷地開拓と奥羽列藩同盟への援助、この二つを目的として脱走したことが、勝海舟を通,そして目的の一つであった奥羽列藩同盟への援助はほとんど実行できなかったため、彼らの焦点は蝦夷地開拓に絞
通史編3(近世2) (戦線の北上)

(だいごただゆき)は、五月十八日、仙台を出発し盛岡藩を経て秋田藩へと移動した。,会津・庄内両藩の恭順嘆願、和平的解決を目指すどころか、逆に全面的対決への変質を明らかにしつつあったといえよう,会津藩とともに朝敵として厳重処罰の矢面に立たされた藩に桑名(くわな)藩があった。,やがて恭順派であった桑名藩家老吉村権左衛門は暗殺され、定敬は恭順を拒否したため、桑名藩は国元にいる恭順派,と分領にいる藩主のもとにある主戦派の二つに分かれてしまった。
通史編2(近世1) (上方廻米)

同年以後も敦賀・大津への廻米は断続的に実施され、大坂廻米の補足的な役割を果たしていたという(印牧信明「津軽藩における,さらには庄内地方からも乗組員を求めていた。  ,雇船が領主米市場と密接な関係があるということは、津軽弘前藩の領主米市場を大きく規定する条件でもあった。,一般に、蔵元は初期には藩の役人がこれに当たり、寛永末ころから町人蔵元がそれに代わった。,当藩の場合、遅くとも寛文期には町人蔵元がそれを担っていた。
通史編3(近世2) (大政奉還時の状況)

孤清(こせい)と名のり、翌三年の帰田法など藩の重要政務を担当した)と同役赤石礼次郎であろう。,これは蝦夷地警備・京都守衛・時局緊迫に対応する国元の軍事費増大によるもので、ここからも藩財政の窮乏が判明,到着直後の十一月に赤石が世話した藩として仙台・肥後・秋田・米沢・柳川・前橋・会津・二本松・庄内(鶴岡),これは幕府による長州戦争失敗後、長州藩主に官位復旧と同藩兵力の入京差し止めを解除するための措置であり、,事態は緊急の極みにあり、飛鳥井・日野両卿は弘前藩一藩の決議が遅れると全体が進まなくなるとして、怒気をあらわに
通史編3(近世2) (軍事情勢の膠着)

軍事情勢の膠着 明治元年(一八六八)四月から七月上旬にかけては、藩論の統一問題をめぐって政治・軍事情勢,奥羽列藩同盟への参加の是非をめぐる藩内の対立についてはすでに前節で述べたが、五月十一日に秋田藩に身を寄,出陣したが、総督府付き参謀の長州藩士世良修蔵(せらしゅうぞう)が高圧的態度で仙台藩士に奥羽鎮撫を命じたため,その後、沢は仙台を脱出して勤皇色の強い東北諸藩を頼り転々としていたのである。,特に閏四月下旬に列藩同盟が形成されると、会津・庄内征討を命じられていた諸藩は続々と解兵を実施し、軍事行動
通史編2(近世1) (飢饉のその後)

飢饉のその後 津軽弘前藩は幕府に天明三年の作柄を皆無作と届けた。,他の諸藩も八戸藩が表高二万石のうち一万九二二三石の損毛、盛岡藩が表高新田高合わせて二四万八〇〇〇石のうち,一九万石余、仙台藩が表高五九万石(一関藩領を除く)のうち五六万五二〇〇石など、さんざんなありさまだった,同書では同年秋になって秋田や仙北・本荘・亀田・庄内の周辺から帰国する者が多く、「在方もかなりにぎわしくなってきた,土着政策により農村の復興と藩士の窮乏に対処しようとする藩の「寛政の改革」が着手されていくのである。
通史編3(近世2) (二等銃隊の補充と特質)

二等銃隊の補充と特質 さて、こうして創出された二等銃隊は、どのように藩の軍事力に組み込まれていったのであろうか,八月五日とは二等銃隊の発足から第二次討庄援兵期までを、(第2期)の明治元年八月六日~十月十八日とは盛岡藩との,にようやく勤皇に政治的立場が確認され、奥羽鎮撫総督府の庄内討伐援兵命令に従って続々と藩兵が出陣していった,加えて、藩の側でもこの階層を兵員素材とするにはためらいがあった。,小普請・足軽といえば藩士・藩卒とはいえ最下層の者であり、ましてやその子弟は武士としての心構えに疑問をさしはさまれていた
通史編3(近世2) (戦局の展開と兵員の不足化)

奥羽列藩同盟形成を強く主張していた仙台藩や米沢藩、朝敵とされた会津藩や鶴岡藩等は周辺の勤皇諸藩に進攻を,開始し、弘前藩も八月五日に先行部隊が羽州(うしゅう)矢島領で庄内藩兵と衝突し、足軽頭成田求馬以下九人の,一方、北奥羽では同盟側に立った盛岡藩が隣の秋田藩に猛烈な勢いで攻め込んでいた。,ことにその戦場が大館(おおだて)近辺で展開されていただけに、藩首脳としては、盛岡藩の攻撃がやがて津軽領,さらに、この時期の弘前藩にとって厄介(やっかい)だったのは、盛岡藩が野辺地(のへじ)(現上北郡野辺地町
通史編2(近世1) (対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)

万延元年(一八六〇)、青森の商人は、滝屋が仙台藩、藤林家が会津藩、金沢屋が庄内藩の御用達に任命された。,滝屋は仙台藩の御用達として、船の調達や、渡海する藩士・物資の輸送、青森における藩士の旅館としての役割を,このように、幕末の青森商人は、箱館奉行所や蝦夷地分領諸藩が必要とする物資の供給面、また藩士や物資の輸送面,津軽弘前藩にもたらされたり、会津藩が行っていた江戸廻米と箱館・蝦夷地の入用廻米の廻送を停止し、会津米を,を問題にした外国商人から一方的に破棄されたため、仙台・秋田両藩からの抗議を受け、津軽弘前藩箱館留守居役
通史編3(近世2) (松前方面の攻防と青森)

松前藩主徳広(のりひろ)からは十月晦日付で援軍を要請する内容の書状が弘前藩主宛てにもたらされ(同前No,また、列藩同盟諸藩に対して、「日本北門」のために尽力することを望むということが述べられていた。,浪士からは庄内酒井氏や盛岡藩に対する処分についてや政府軍の状況について、また清水谷らの行方についての問,さらに、八日には熊本藩へもこの事件を報じる書状を作成し、援兵協力を求めた(『弘前藩記事』一)。  ,藩は自領を守るためにも、政府や官軍諸藩に働きを示すためにもこの機会は逃せなかったといえよう。
通史編3(近世2) (軍制への戸惑いと浸透)

たとえば、弘前藩は明治元年四月十六日に奥羽鎮撫総督府より庄内討伐援兵命令を指示され、同二十一日に足軽頭松野栄蔵,まず、四月になると奥羽列藩同盟形成の気運が高まり、弘前藩もその世論を無視できなくなってきたこと、および,別組織があり、藩士らの私的従者は活動の妨げであるとして、藩はことごとく同行願いを却下(きゃっか)した。,そのため、藩士らは強く軍政局に対して不満の声をあげ、ついに藩は閏四月七日、「今度出張山本三郎左衛門殿附属兵士之面々,藩首脳部が奥羽列藩同盟参加に傾くのに対して、山崎所左衛門や副官白取数馬(しらとりかずま)ら番方上層部が
通史編2(近世1) (材木移出)

津軽領からの材木積出の手続きは、藩の役人(山奉行もしくは山役人)が湊の沖口横目へ、材木の積み出しを求める,材木の積み出しを求めた船頭で、地名を冠した者を拾ってみると、加賀二木・越後・加賀安宅(あたか)・十三・庄内,一方、領内の船頭の場合、万治三年(一六六〇)七月に、十三の船頭甚兵衛は津軽弘前藩が上方市場での販売を目的,「御船頭」とは、藩御用の船頭と考えられ、弘前城下に居住する船頭衆である可能性が高い。,蔵米と並び、材木の販売代金が、藩財政収入に大きく貢献していたと思われる。
通史編3(近世2) (鎮撫総督軍の領内通行問題)

閏四月二十三日に上山藩から知らせを受けて、仙台・米沢藩の動きを察知した沢副総督一行は、秋田藩への転陣を,秋田藩と弘前藩の藩境は目前である。  ,この条を受けて、弘前藩では、五月四日の藩主諭告で討庄応援兵の解兵を布告した。,図57.庄内藩士が描いた碇ヶ関  翌五月十二日、再々度藩の方針は転換された。,つまり、奥羽列藩同盟の締結とその盟約内容は弘前藩にとっても、他藩にとっても看過(かんか)できない大きな
通史編3(近世2) (新編 弘前市史 通史編3(近世2) 目次)

……  165     三 軍制改革の展開 …………………………………………  185     四 庄内出兵,と野辺地戦争 …………………………………  223     五 箱館戦争と弘前藩 …………………………,……………  255   第三節 藩政改革と藩制の終焉 …………………………………  289     ,一 藩政改革の断行 …………………………………………  289     二 戦後の経済政策 ……………,    一 弘前藩の解体と神仏分離 ………………………………  333     二 廃藩置県と明治初期
通史編3(近世2) (戦場に駆り出された民衆)

一例を挙げると、明治元年四月二十二日に発令された鶴岡(庄内)藩討伐応援部隊一大隊の総勢は五八〇人であったが,結集したのは箱館総攻撃に際してであったが、『津軽承昭公伝』では明治二年四月時点で各地に展開していた弘前藩兵,同書は弘前藩の維新に対する功績をやや過大に述べる傾向があるので、この数値が正確なものかどうかはなお他の,表15は弘前藩が戊辰戦争で出した戦死者の内、明治二年六月の招魂祭(しょうこんさい)で祀られた者の一覧であるが,藩は招魂祭執行に際して姓を名のることを許し、毎年祭事料として米五俵を下賜した。
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

たとえば、新井白石が著した「藩翰譜(はんかんぷ)」の津軽氏の項(『新編藩翰譜』四 一九七七年 新人物往来社刊,蜂須賀両氏のほかに津軽氏のみであり(堀氏は、さきにみた奥羽・越後各氏による上杉包囲網の一環として出羽庄内,ただ、寛文四年(一六六四)、四代藩主津軽信政に対して発給された領知朱印状・領知目録には上野国勢多郡内に
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

しかし、天正十八年末から翌十九年にかけて、出羽国では庄内藤島一揆、由利・仙北一揆、陸奥国では大崎・葛西一揆,家臣団に対して直書(じきしょ)形式の黒印知行安堵状・宛行状を発給することができるようになるのは、二代藩主,また大名から政権への取次を果たしつつ、最終的には政権に大名を従属させることを任務とする(山本博文『幕藩制
資料編3(近世編2) (【解説】)

の展開と社会状況」「藩政改革の実施と黒石藩の成立」「蝦夷地警備と開港下の政治動向」「後期藩政下の民衆」,ここに、家臣団編成を藩財政窮乏の克服にいかに有効に活用していくかが、藩政の課題として藩当局に認識されてくるのである,の導入によって藩士財政を自立させ、彼らによる農村支配を厳格にすることによって藩財政基盤を確立し、また藩士,幕府は翌二年、松前藩領を除いて再び全蝦夷地を直轄地とし、仙台・秋田・盛岡・松前各藩とともに弘前藩に蝦夷地警備,さらに安政六年、弘前・盛岡・秋田・仙台に庄内・会津を加えた奥羽六藩に蝦夷地の一部を給与し、その開発・経営
資料編3(近世編2) (新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次)

   例言 …………………………………………………………………………………………  4 第六章 幕藩体制,の動揺と民衆 …………………………………………………………………  一  第一節 後期藩政の展開と社会状況,の実施 …………………………………………………………………  一二二   二 化政期藩政の動向と黒石藩,  二 軍制改革の展開 …………………………………………………………………………  一四六二   三 庄内出兵,の増加 ……………………………………………………………  一五一八  第三節 藩政改革と藩制の終焉 …
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

………………………… 南部家文書 236 ●応永二十六年(一四一九)十月六日、出羽庄内来迎寺の年代記に,檜山屋形下国安東愛季、庄内の砂越也足軒宗順(愛季舅)の仲介で越前朝倉家と通交、朝倉家、脇指・鉄砲・装束等,津軽家系譜・寛永諸家系図伝・参考諸家系図・石井三庵政満覚書 306 ●永禄十年(一五六七)、大浦為信、「庄内,」最上義光と好誼を結ぶという(庄内大宝寺氏との通交を誤り伝えるものか)。,庄内の大宝寺義氏、大浦為信の浅瀬石ほか十余ヶ城攻略と大光寺城攻めを賀し、その後の情勢を尋ねる。
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