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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(庄内征討応援命令)
同日、西館宇膳は、仙台滞陣中の奥羽鎮撫総督九条道孝から
庄内藩
征討応援命令を受け取ったのである(資料近世,内容は、
庄内藩
の罪状確認であるが、これについては弘前藩も承知のうえのことであったろう。,この事件は、慶応三年十二月二十五日に起こった
庄内藩
による薩摩藩邸砲撃事件のことである。,さらに
庄内藩
屯所への発砲事件などがあり、関東見廻役に任じられていた
庄内藩
が江戸薩摩藩邸砲撃を実行したのであった,もう一つの問いは、
庄内藩
が謝罪降伏した際の措置についてであった。
通史編3(近世2)
(庄内戦争の結末)
庄内戦争の結末 再び秋田藩の南境に目を転じると、新庄落城後、山道より秋田へ向けて進攻していた
庄内藩
は,海からの砲射には、
庄内藩
は対抗策を立てられずに逃げまどった。,九月八日、この両方面からの同時攻撃が
庄内藩
ら同盟軍により行われた。起死回生をねらった作戦である。,同日
庄内藩
兵は鶴岡に向けて総退却を開始し、九月二十七日、正式に降伏を表明する。,既に九月十五日には仙台藩も降伏をしており、
庄内藩
としても孤立した中での戦争続行は不可能であった。
通史編3(近世2)
(庄内征討命令をめぐって)
四月十日には、ともに朝敵として征討の対象となった会津藩と
庄内藩
の間に会庄同盟が結ばれた。,反政府軍に対する奥羽諸藩の勢いが強くなる中で、閏四月六日討庄の厳命を受けた秋田藩は、七日、
庄内藩
征討に,その中で、弘前藩から応援隊を率いて出兵していた館山善左衛門より 政府軍と
庄内藩
の攻防の様子について報告,そこには戦況のほかに、風説としながらも、仙台藩の動きが総督軍の意に反するものであること、
庄内藩
から仙台,つまり、秋田藩がとうとう
庄内藩
へ向けて軍事行動を起こす決定をしたのであった(『弘前藩記事』一)。
通史編3(近世2)
(戦闘の開始)
これは、弘前藩が討庄応援を命じられたが、
庄内藩
がいよいよ官軍に反抗し、会津と行動をともにするようになっては,
庄内藩
征討のため、沢為量副総督を将とした総督軍は、参謀大山綱良(つなよし)以下薩摩藩兵一小隊および桂太郎,
庄内藩
でも十九日に全藩動員令を出し、総督軍の進路と予想される最上川沿いと秋田方面に当たる北方海岸沿いを
通史編3(近世2)
(藩論の統一)
それまで弘前には、仙台・会津・米沢・
庄内藩
など奥羽諸藩の使者がたびたび往来していた。,さらに藩内には、六月初旬、
庄内藩
と和親をし、同藩から西洋砲や蒸気船を借り出し、秋田藩を挟み撃ちにする手,はずを整えていたのだが、今回立場を明らかにしたので、それらを
庄内藩
に送り返し、また、仙台藩からも弘前藩,そして、七月十七日に奥羽鎮撫総督府より再び
庄内藩
討伐応援命令が出ると、これまでの態度を挽回するように秋田藩
通史編2(近世1)
(「分領」と津軽弘前藩)
開発と守衛が時節柄重要になってきたとの認識を示したうえで、蝦夷地を分割して、仙台藩・会津藩・秋田藩・
庄内藩
,仙台藩主伊達慶邦(だてよしくに)、会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)、秋田藩主佐竹義堯(さたけよしたか)、
庄内藩
主酒井忠発,さらに
庄内藩
と会津藩は、蝦夷地警衛を命じられたのに伴い、従来両藩が行ってきた江戸湾内海警備が免除された
通史編3(近世2)
(戦争の波紋)
幕府の味方は、会津、桑名、庄内、伊予松山藩ばかりとなっているという情報を得たこと、また、蝦夷地詰めの
庄内藩
士
通史編3(近世2)
(白石同盟の動き)
つまり、
庄内藩
出兵もやむをえないという向きと、山中の理解した仙台方面の和平工作がまったく相反するものであったため
通史編3(近世2)
(総督軍の集結)
そのうえ、秋田藩に同調して、本荘・新庄(しんじょう)、次いで亀田・矢島(やしま)藩が列藩同盟脱退を表明し、
庄内藩
征討
通史編3(近世2)
(戦局の推移と戦費負担の増加)
費 目 金額(両) 備 考 1
庄内藩
討伐秋田表出兵 10,380 出兵人数564人, 2 同上 予備領内出張 7,690 出兵人数606人 3
庄内藩
討伐矢島口出兵
通史編3(近世2)
(捕虜となった庶民)
今之助としてはまったく生きた心地がしなかったであろうが、
庄内藩
側も町人一人の命を奪うことまでは考えておらず
通史編3(近世2)
(討庄応援兵の派遣)
弘前藩としては、
庄内藩
の罪状に疑念を抱きながらも、命令が出された以上、速やかに対応する必要があると判断
資料編3(近世編2)
(【解説】)
以後、七月の藩論統一まで弘前藩は奥羽列藩同盟への帰属をめぐる賛否、
庄内藩
征討応援命令への対応、奥羽鎮撫総督府,ここに至りようやく藩論は勤皇に確定し、以後堰を切ったように弘前藩は
庄内藩
討伐応援のため派兵をしていった,軍事情勢は一挙に緊迫化し、その中で八月五日には成田求馬隊が羽州由利郡吉沢村で
庄内藩
兵と交戦し、成田以下死傷二一名
通史編3(近世2)
(戦局の展開と兵員の不足化)
会津藩や鶴岡藩等は周辺の勤皇諸藩に進攻を開始し、弘前藩も八月五日に先行部隊が羽州(うしゅう)矢島領で
庄内藩
兵
通史編2(近世1)
(対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)
万延元年(一八六〇)、青森の商人は、滝屋が仙台藩、藤林家が会津藩、金沢屋が
庄内藩
の御用達に任命された。
通史編3(近世2)
(鎮撫総督軍の領内通行問題)
図57.
庄内藩
士が描いた碇ヶ関 翌五月十二日、再々度藩の方針は転換された。
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