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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
(市浦1~5)
市浦1~5 市浦1 北市浦村相内字相内-蓮華
庵
境内- 市浦2 北市浦村相内字相内-蓮華
庵
境内-,市浦3 北市浦村相内字相内-蓮華
庵
境内- 市浦4 北市浦村相内字相内-蓮華
庵
境内- 市浦5 北市浦村相内字相内,-蓮華
庵
境内-
通史編3(近世2)
(日蓮宗)
本行寺からは
庵
号を用いるように連絡があったため、法嶺院は妙経寺に院号使用を願い出ている。,この年から法嶺
庵
日遷と高館村との間に抱え山の伐木に関して争いが起こり、同四年(一八四七)、本行寺から妙経寺,に対して、僧録所まで法嶺
庵
日遷を同行するように命じた(「五世日遷代記録」妙経寺蔵)。
通史編3(近世2)
(白道院)
白道院 白道院(びゃくどういん)は、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」には、「貞昌寺念仏堂覚入
庵
」,『新撰陸奥国誌』によると、土手町大橋の下に
庵
を構えていた欣求が、寛文三年(一六六三)に本堂を建立し、貞昌寺世誉
通史編3(近世2)
(西光寺)
慶長十四年(一六〇九)、為信が鷹狩りの途中、浪岡にあった草
庵
で休息し、貧寺を哀れんで厨子入りの三尊仏と,弘前城下の形成に伴い、元寺町へ移った跡の草
庵
は、のちに西光院となる。
通史編3(近世2)
(明教寺)
によると、玄龍は常陸国(現茨城県)鹿島郡高松の出身で、寛永二年(一六二五)、賀田村(現中津軽郡岩木町)に草
庵
を
通史編3(近世2)
(寺院の動向)
その他、最勝院のような大寺院ではなく、各村には小さな
庵
や堂社が多数あった。,そして幕末期からこのような小
庵
・小堂の管理を藩が行えなくなっていたことは前にも触れた。,往々にして小
庵
には妻子連れの正体不明な旅僧が住み込み、怪しげな商売を行い、悪人を泊めたり、賭博をしたり,明治四年九月に租税署はかかる事態を憂慮(ゆうりょ)し、小
庵
の取り締まりを具申しているが、これは当然の寺院管理,また、在村の小
庵
整理はいわば治安上から必要とされたものであり、寺院の本末制度から逸脱したものを再び統制下
通史編3(近世2)
(正伝寺)
正伝寺 正伝寺(しょうでんじ)は、文禄四年(一五九五)、森山村(現南津軽郡大鰐町)の
庵
で竜岩が薬師像
通史編3(近世2)
(普門院)
「津軽俗説選」には三十三霊場の第三十三番に、「茂森山観音普門
庵
」とあり、通称山観(やまかん)と呼ばれた
通史編3(近世2)
(野本道玄)
母の家に育てられ、洛北鷹峯(たかがみね)に住んで漢学や仏学に通じ、長じて赤穂浅野家に仕えていた一樹
庵
三世野本道玄,の家を継ぎ、利休以前の茶風である「古儀茶道」を修し、一樹
庵
四世と称した。
通史編3(近世2)
(信政の文治)
、小沢久左衛門、後藤千次郎、松田伝右衛門、三宅貞右衛門 医者 樋口道与、中丸昌益(外科)、渡辺益
庵
、,上原春良、井上玄
庵
、境寿元(詮
庵
と改む)、境寿光(眼科医)、伊崎寿仙、須田宗久、和田玄亮、河野祐作(針医
資料編1(古代・中世編)
(鰺ヶ沢1~12)
松源寺境内- 鰺ヶ沢9 西鰺ヶ沢町赤石町字宇名原-松源寺境内- 鰺ヶ沢10 西鰺ヶ沢町田中町-無量
庵
墓地
通史編4(近・現代1)
(白銀小学を「朝陽」と改称)
朝陽の校名は、同校が所有する市河米
庵
の書『朝陽館』の扁額(旧弘前城能楽堂に掲げられたものを同校がもらい
通史編3(近世2)
(幕末期の稽古館)
兼松は藩の命により昌平校に入り、朱子学の立場を取りながらも西洋の新知識に多大な関心を持っていた古賀侗
庵
(
通史編3(近世2)
(宗教と交通統制の低下)
ところが、後の明治初年の神仏分離以前は神社・仏閣といっても、在村の小堂・小
庵
まで含めるとその数は無数といってもよいくらいに,幕末維新期における宗教と地域社会』一九九七年 清文堂刊)、その半数以上が無人の小社であり、寺院側の小
庵
の,つまり、神仏分離の結果管内には廃社も多くなり、各所の
庵
寺(あんでら)には出所不明の旅僧が住み着き、その,限ってのことでなく、他領からの怪しい旅僧に宿を提供したり、安易に弟子を取り立て、在村や浦々の末寺・末
庵
に
通史編3(近世2)
(蘭学堂)
蘭学堂の教授には亀甲町の町医佐々木俊
庵
の子佐々木元俊(一八一八~一八七四)が迎えられた。
資料編1(古代・中世編)
([付図])
白山神社御神体 131・132 弘前市小友字宇田野 小友小学校校門横 133 弘前市十腰内字猿沢 寺
庵
跡付近,沢町日照田町字野脇 一本松の下 7~9 鰺ケ沢町赤石町字宇名原 松源寺境内 10 鰺ケ沢町田中町 無量
庵
墓地,沢町舞戸町字鷲見 館の地蔵堂横 12 鰺ケ沢町舞戸町字鷲見 斉藤ひさ氏宅地内 市浦 1~5 市浦村相内字相内 蓮華
庵
境内
通史編3(近世2)
(稽古館の儒学者たち)
寧親はその才を愛し、賞を与えて学業を奨励し、成言は昌平黌に入学し、古賀侗
庵
(どうあん)、佐藤一斎に学んだ,で稽古館に入学し、二十六歳の時に稽古館助教になったが、弘化二年助教を辞し、嘉永元年江戸に上り、朝川善
庵
に,二十九歳の天保十四年(一八四三)に藩許を得て江戸に上り、昌谷(さかや)五郎の門に入り、また佐藤一斎、朝川善
庵
、
資料編3(近世編2)
([口絵])
涕泣のあまり新に卒塔婆を建、句を吟する図 元喜帰宅、句を吟する図 津軽図譜 百川学
庵
筆
通史編3(近世2)
(渋江抽斎)
他方抽斎は考証学を市野迷
庵
、狩谷棭斎(かりやえきさい)に学び、安積艮斎(あさかごんさい)、小島成斎(せいさい
通史編3(近世2)
(浄土宗)
入誉が貞昌寺入寺の際、現在廃寺になっている出羽国大館の青蓮
庵
が金戒光明寺の末寺であったことと(遠藤聡明
通史編3(近世2)
(慈雲院)
寛保三年(一七四三)には、油川村(現青森市)に布教の拠点として大円寺から満海
庵
を譲り受けた。
通史編3(近世2)
(江戸勤番と生活)
忠
庵
(門脇忠
庵
カ)が訪ねてきた。 ,十四日、今夜、門脇忠
庵
が来訪し、私の所へ泊まる。 十五日、午前七時出番、午後十時ころ帰宅。 ,二十六日、今朝、作左衛門・忠
庵
(添田も一緒か)坊主湯へ入る。帰宅後に伊沢と小鹿三左衛門が訪ねてきた。
通史編4(近・現代1)
(食生活の変化)
三十九年には市内の東京そば屋は、東京
庵
・観月亭・花月
庵
・品川亭・叶家・東北
庵
などがあった。
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
同右 長勝寺 天正年間 (一五七三~九二) 為信の室の清安 密田 同右 長勝寺三世密田和尚の隠居
庵
。,泉光院 同右 藤先寺 慶長七(一六〇二) 察
庵
大光寺 (平賀町) 同右 慶長十七年、現在地に移転,察
庵
は藤先寺二世。,鳳松院 同右 耕春院 慶長以前 金
庵
喜 種里村 (鯵ケ沢町) 同右 慶長年間、現在地に移転。
通史編2(近世1)
(寺社政策)
同四年閏二月二十七日の寺社奉行から諸寺院に出された「御廻状」によれば、本寺への修行等のため留守居を置いている寺
庵
や,、種々の理由で無住となっている寺
庵
までも書き上げさせており、調査は厳重に行われたようである(同前)。
通史編3(近世2)
(戸口と住民構成)
このほか、寺院九一宇、
庵
三宇、社家二五戸、修験(しゅげん)一一戸、祠堂(しどう)(寺で檀家の位牌を祀る
通史編3(近世2)
(景勝の地としての南溜池)
また同雅帖の奥書(大正六年六月)には、竹谷水魚
庵
の描いたものであって、「鏡の池の実景」であると断っている
通史編3(近世2)
((一)概要)
信義は宮廷歌壇の中心人物中院通茂(なかのいんみちしげ)の門人であるが、医家の匹(疋)田甫
庵
(ひきたほあん
通史編3(近世2)
(施行小屋の設置と犯罪防止)
炊き出し、秋田領の出身地・一族の名前・本人名などを記した人別帳を作成し、死亡した場合には和徳村の専修
庵
(
通史編4(近・現代1)
(出生の真実と仏苗学園)
知り得るが、しかし、ある宗教雑誌に「アメリカ禅事情」という題で論文を寄せた大学教授は「千崎如幻は朝露
庵
と
通史編3(近世2)
((三)主要人物)
○〈和歌〉匹(疋)田甫
庵
(ひきたほあん)(?
通史編3(近世2)
(城下での生活)
それより柳河(川か)素
庵
・木立新左衛門・岡田帯刀・山中六左衛門・唐牛甚右衛門を訪ね、さらに庄右衛門宅へ,七日、医者中村道救が子息の宣春
庵
を伴って往診に来る。唐牛与右衛門が参り、昼飯を出す。,今日素
庵
登城、栗原泰芸(ママ)が初御目見(はつおめみえ)、そのため正午まで城へ詰める。
通史編2(近世1)
(野本道玄の招聘)
検地 財津久右衛門,田中十兵衛ほか 測量 金沢勘右衛門,清水貞徳ほか 医者 樋口道与,中丸昌益,渡辺昌
庵
ほか
通史編3(近世2)
(弘前藩の画事と絵師)
現存品に大画はないが、「奥民図彙(おうみんずい)」挿画や百川学
庵
が写した「外浜(そとがはま)画巻」などから
通史編3(近世2)
(藩政中期四代信政)
⑫新社、新寺、在方における小
庵
の創建は禁止。
資料編3(近世編2)
(【解説】)
寺院建立を再三にわたって禁止し、元禄五年(一六九二)にはこれまである寺院を古跡として認め、これ以後の
庵
室
通史編5(近・現代2)
(伊東梅軒)
門に入って僧月性(げっしょう)らの志士と交遊し、安藤太郎らと海防を論じ、のち禁書『海防臆測』(古賀侗
庵
著
通史編3(近世2)
(小社の神仏分離)
藩はそれらを神職を通して把握してはいたが、幕末になると無人の小
庵
の取り締まりに手が回らないようになり、
資料編1(古代・中世編)
(弘前1~133)
小友小学校校門横- 弘前132 弘前市小友字宇田野-小友小学校校門横- 弘前133 弘前市十腰内字猿沢-寺
庵
跡付近
通史編4(近・現代1)
(アメリカに伝える禅の心)
昭和六年、サンフランシスコからロサンゼルスに移った如幻は、東漸禅窟を構えて白人に布教し、また、朝露
庵
を
通史編4(近・現代1)
(明治二十年度予算審議)
このときの案件は「弘前全市街拝借地処分議案-弘前新寺町報恩寺境外寺
庵
六ヶ処慈雲院界外共」だった。
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
寺院名 宗教名 本寺 創立年次 備考 (16) 清安寺 曹洞宗 長勝寺 清安寺の末寺に、赤石村の松源
庵
、,中野目の村
庵
あり (17) 革秀寺 同右 同右 慶長年中 (18) 梅林寺 同右 革秀寺 (19,同右 同右 (39) 川竜院 同右 同右 (40) 万蔵寺 同右 同右 (41) 梅田村
庵
通史編3(近世2)
(三 八幡宮の祭礼と山車の運行)
った重箱を前にして見物したが、生母久祥院には艮櫓(うしとらのやぐら)、柳川調興(やながわしげおき)(素
庵
)
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
… 津軽一統志・封内事実秘苑・津軽家系譜・寛永諸家系図伝・参考諸家系図・石井三
庵
政満覚書 306 ●永禄十年,… 聞老遺事・石井三
庵
政満覚書・祐清私記 314 ●天正二年(一五七四)三月、大光寺城代瀧本重行、乳井福王寺玄蕃,… 石井三
庵
政満覚書・松岡西
庵
書上・信直記 331 ●天正十一年(一五八三)四月十二日、羽柴秀吉、賤ヶ,… 石井三
庵
政満覚書・南部御系譜 343 ●天正十六~十八年(一五八八~九〇)ころ? ,… 石井三
庵
政満覚書・北信愛覚書・松岡西
庵
書上 357 ●天正十八年(一五九〇)四月十一日、豊臣秀次、
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●慶長六年(一六〇一)七月五日、津軽信建、医師棒
庵
の大坂下向を報じ、参議西洞院時慶へ面会を願う。,●慶長六年(一六〇一)八月十二日、津軽信建、病気回復せざるにより、参議西洞院時慶へ医
庵
斎の下向を依頼する
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