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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (廃藩置県)

廃藩置県 明治四年(一八七一)七月十四日、弘前藩知事津軽承昭(つぐあきら)は全国二六一藩知事らと参朝,、同日発せられた廃藩置県の詔(みことのり)の書付を太政官から受け取った。 / 廃藩置県
通史編3(近世2) (廃藩置県と帰田法の終焉)

廃藩置県と帰田法の終焉 帰田法の政策推移を考察すると、その本質に大きく変化がみられるのが、明治四年七月十四日,に断行された廃藩置県前後のことである。,それはやはり廃藩置県の影響に他ならない。,幸い、廃藩後の当面の事務処理は旧藩の担当とされたから、この間に弘前藩では帰田法を急いで実施し、既成事実 / 廃藩置県と帰田法の終焉
通史編3(近世2) (廃藩置県後の処理)

廃藩置県後の処理 移管を受けた大蔵省では大蔵大丞(だいじょう)渡辺清が青森県権令菱田重禧(ごんれいひしだしげよし / 廃藩置県後の処理
通史編3(近世2) (旧弘前藩の債務処理)

旧弘前藩の債務処理 さて、以上は藩札発行だけにかかわる債務問題であったが、弘前藩が廃藩までに抱え込んでいた,この中には藩が存続していればほぼ放置し続けることも可能な古借財もあったが、廃藩置県によって藩の全債務を,こうしてみれば、藩財政はもはやまったく破綻しており、廃藩置県という政策断行以前に藩体制は崩壊していたと,たしかに債務額だけを客観的に考察すれば藩財政はすでに破綻しているが、廃藩置県が断行される以前では、藩が
資料編3(近世編2) (第三節 藩政改革と藩制の終焉)

の打開と藩政改革 二 帰田法の実施と賞典禄  (一)帰田法の実施  (二)賞典禄一覧表 三 廃藩置県
通史編5(近・現代2) (明治時代の柔術)

明治維新後、明治四年(一八七一年)七月、廃藩置県により弘前に置かれた県庁は、青森に移ったものの、城下町,/一方、廃藩と同時に、士族の若者達は、エネルギー発散の場として町道場を作り、柔剣術修業に励むと共に、文化面
通史編5(近・現代2) (一 古典邦楽)

一 古典邦楽 箏曲(そうきょく)(注)、尺八、平家琵琶(びわ)、雅楽は廃藩後も伝承を保ったが、能楽に,能の役者は「廃藩ニ際シ全ク職ヲ封閉ス 他産ニ転ス 糊口ノ乏シキニ至ル」と『弘藩明治一統誌 人名篇』に記
通史編3(近世2) (青森商社の終末と意義)

明治四年(一八七二)七月の廃藩置県(はいはんちけん)により、推進主体の弘前藩が消滅したのである。  ,しかし、もし廃藩が断行されなかったとしても、商社内部ではしだいに深刻な対立が生じ、空中分解する危険性があった,廃藩置県によって青森商社の活動は停止し、日記を書き連ねた彦太郎も同年病死した。
通史編3(近世2) (藩から県へ)

藩から県へ 明治四年(一八七一)七月十四日、廃藩置県(はいはんちけん)の詔勅が発布され、藩体制は名実,図79.弘前藩知事辞令  廃藩置県の断行は新政府内で極秘裏に検討され、万一の反対に備えて薩摩・長州,承昭に同行していた大参事杉山龍江は同日太政官に呼び出され、廃藩置県と承昭の罷免とともに、従来の藩名をもって,廃藩置県はいわゆる「第二の王政復古」とも呼ばれる重大な政策断行であったが、これにより新政府に対抗する政治勢力,戊辰戦争後の藩財政窮乏についてはすでに各項で詳述したが、廃藩時に少なく見積もっても藩歳入を超過する借財
通史編2(近世1) (その後の漆栽培奨励策)

その後の漆栽培奨励策 その後の流れを示すと、廃藩置県に至るまで、漆栽培奨励策そのものは続けられ、特に,一つに指定されているが、一方で漆役の栽培ぶりの不徹底さも指摘されており、漆栽培をめぐる藩の試行錯誤は廃藩
通史編4(近・現代1) (若き日の笹森儀助)

廃藩後、県官に採用されて民政に尽くした。
通史編3(近世2) (英学寮)

しかし同年七月十四日に廃藩置県が断行されるに及んで、同月二十七日に英学寮は閉鎖され、その学生は旧家老の
通史編4(近・現代1) (不平の源流)

不平の源流 弘前不平士族の不満の第一は、維新時の藩政と廃藩後の旧藩主家の家政に参加できないことにあった,津軽平八郎も森岡鶴翁も津軽氏の一門であり、廃藩後の津軽藩主家に四〇万円の巨額な財産があり、生活難の士族
通史編4(近・現代1) (旧藩体制改革への動き)

その中で廃藩置県以後、旧来の仕組みを引き継ぎながら、行政事務とその施策の方向は、改革の方向へ進んできたのである,廃藩置県以後、経済制度改革の動きは次第に進んだが、財政のあり方など旧来と同様の仕組みも多く残っていた。
通史編4(近・現代1) (士族授産事業としての銀行設立の奨励)

士族授産事業としての銀行設立の奨励 明治新政府による旧体制改革である廃藩置県と、それに続く秩禄処分によって
通史編4(近・現代1) (私立小学校の乱立)

廃藩置県以来三年を経過して、家禄を失った旧藩士族がようやく窮迫し始めたころで、糊口をしのぐ手段として私立小学校
通史編3(近世2) (弘前の民衆)

まず、政治の中心であった弘前城は廃藩によってひどく荒廃した。,「士族在籍引越之際地図並官社商現図」(弘前市立博物館蔵)は、廃藩から明治十四年ころまでの弘前市街の各戸,すでに幕末のころから市中の治安が相当悪化していたことも前に述べたが、この流れは士族・庶民を問わず、廃藩後
通史編5(近・現代2) (弘前初の洋風建築)

常吉は和徳の士族の出であるが、廃藩後いち早く文明開化の機運を察し、新しい洋風建築技術を身につけようと仙台
通史編3(近世2) (城門番所の警備)

廃藩当時には、追手門(現存)・西坂門、二の丸の内南門(現存)・内東門(現存)・内北門(賀田門)、西の郭
通史編4(近・現代1) (家禄制度改革)

家禄制度改革 明治四年(一八七一)七月に廃藩置県が行われ、旧弘前藩は弘前県となり、知藩事(藩名を付すときは,廃藩置県後も旧知藩事や士族らには禄米が支払われていた。
通史編4(近・現代1) (公園開設)

(『津軽承昭公伝』)  こうして、明治四年の廃藩以来荒廃に任せていた城地は、二四年ぶりで公衆に開放されることになった,そのころの様子については、「廃藩後地は陸軍省の所轄となって門扉を閉せしこと二十有余年、大達荊棘を茂生し
通史編2(近世1) (町年寄の由緒)

町年寄の由緒 弘前の町年寄を廃藩置県に至るまで世襲していた松山・松井家の由緒をみてみると、ともに、近江国坂本
通史編4(近・現代1) (荒城の桜)

城跡は、明治四年七月の廃藩後、主(あるじ)なき荒城という状況で、手入れがされることもなく荒廃していた。
通史編3(近世2) (箱館戦争の終結)

明治三年六月に新政府の強力な指導が入るまで弘前藩のそれは遅々としており、実質的な藩体制の終焉は明治四年の廃藩置県
通史編2(近世1) (まえがき)

十六世紀末、大浦氏の豊臣政権との接触から明治四年(一八七一)の廃藩置県に至る約三〇〇年間の、弘前市を中心
通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

こうして、津軽黒石藩は、廃藩に至るまで存続した。
通史編3(近世2) (藩政改革がもたらしたもの)

樋口の例は特に極端な話ではなく、廃藩前後の記録には類似した扶助願いが散見される。
通史編5(近・現代2) (建築近代化への立ち後れ)

こうした近代化への立ち後れは、また、廃藩置県により政治や行政の中心地が青森に移されたことと無関係ではないであろう
通史編3(近世2) (新政府からの借財と藩札の発行)

その後、弘前藩では藩札発行量の縮小に努めたが、作業は遅々として進まず、明治四年(一八七一)七月の廃藩置県前,四年四月にすでに藩札製造器を破棄して新たな紙幣は流通していなかったが、それでも廃藩時にはなお二六万八〇
通史編4(近・現代1) (東奥義塾開学)

吉川は明治四年に弘前藩で青森に英学校を開設した際に慶応義塾から招聘され、廃藩置県など激動の政治情勢の中
通史編2(近世1) (幕末期の藩財政)

そのうえ、戊辰戦争による多額の出費がのしかかり、廃藩時の藩の借財額は六二万四二三二両に膨れあがり(「藩債調書
通史編4(近・現代1) (城跡の荒廃)

城跡の荒廃 旧藩の政庁であった弘前城は、明治四年七月の廃藩とともにその機能を失った。
通史編4(近・現代1) (軍都以前の弘前市)

とはいえ廃藩置県後の弘前は、青森県最大の軍事都市ではなかった。
通史編3(近世2) (館神)

この稲荷宮は、廃藩の時、城外へ移され、高山開運稲荷神社へ合祀された。
通史編4(近・現代1) (米作奨励と栽培管理)

旧弘前藩の藩士は、廃藩置県、秩禄処分などで失職・困窮したが、士族授産として土地の払い下げによる牧場開墾
通史編3(近世2) (神仏分離政策の転換)

ところが、神職をそのまま任用するという従来の神社制度は廃藩置県以後まったく否定された。
資料編3(近世編2) (-例言-)

-例言- 一、本編では、おおむね十八世紀中葉から明治四年(一八七一)の廃藩置県にいたるまでの期間を対象
通史編3(近世2) (江戸から明治初期への漆工芸)

この図録は、明治四年から明治十八年までの工芸の図案集であり、明治初期の政府が、廃藩以降に落ち込んだ産業
通史編4(近・現代1) ([口絵])

[口絵] 明治 †廃藩置県と近代の夜明け† 口絵1 明治初年の弘前城 口絵2 岩木橋
資料編3(近世編2) (【解説】)

東北戊辰戦争、翌二年の箱館戦争という激動の時代を経た後、新政府の指導による藩治職制の改変に同藩がいかに対応し、廃藩置県,加えて「帰田法」は、廃藩置県後に藩の強権によって庶民より土地を取り上げた政策ではないかとして新政府の疑惑,を受けたためか、または廃藩の混乱によってか、きちんとした史料整理がされておらず、「諸稟底簿」やその他の
資料編3(近世編2) (はじめに)

本巻では、『新編弘前市史』資料編2(近世編1)に続き、十八世紀中葉の宝暦期から明治四年(一八七一)の廃藩置県
通史編4(近・現代1) (県政の展開と産業育成政策)

この制度が廃藩置県以後機能が十分でなくなったので、明治十年十二月に整理に着手し、その拡充を目指した。
通史編4(近・現代1) ([付図])

年測量 今泉道次郎編「弘前市地図」 弘前市立図書館蔵   弘前市史寫眞館(明治・大正) 1 廃藩置県
通史編4(近・現代1) (弘前県から青森県へ)

廃藩置県により二六一藩は藩名を県名としたが、その後の統合、合県による県名は順逆によって賞罰を加味したものであるという
通史編2(近世1) (弘前藩庁日記の開始)

現存の「国日記」が元治元年段階で終わっているのは、廃藩当時にその時点までしか清書が進んでいなかったためではないかという
通史編3(近世2) (新編 弘前市史 通史編3(近世2) 目次)

……  289     二 戦後の経済政策 …………………………………………  306   第四節 廃藩置県前後,……  333     一 弘前藩の解体と神仏分離 ………………………………  333     二 廃藩置県
通史編2(近世1) (江戸での借財の増加)

その業務は明治五年(一八七二)七月に廃藩置県後の残務整理が終わるまで続いた(梅谷文夫『狩谷棭斎(かりやえきさい
通史編4(近・現代1) (町並みの推移)

町並みの推移 廃藩、そして県庁の青森移転で、新時代に取り残されてしまった形の弘前は、商工業は沈滞し、
通史編4(近・現代1) (東奥共同会の設立)

#160;2 (1869)  4 版籍奉還    4 (1871)  7 廃藩置県
資料編2(近世編1) (【解説】)

城下の町年寄は松井・松山の両家が勤め、廃藩置県までその職を世襲している。  
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