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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (洋風建築から近代建築へ)

洋風建築から近代建築へ 大正期の建築の特徴は、前代の手法を踏襲しつつ、装飾に関しては省略化の道をとったことである,傾向は、その後の弘前市公会堂、「角は」デパートの設計に引き継がれ、大正十年代からが弘前地方における近代建築,の始まりの時期であるとすることもでき、その反対に洋風建築が下降していく時期となるのである。 / 洋風建築から近代建築へ
通史編5(近・現代2) (学校建築・公共的建築)

学校建築・公共的建築 学校建築や公共建築物の洋風化をみると、学校建築については、既述のように、学制発布当初,明治二十七年(一八九四)の青森県尋常中学校や明治三十四年(一九〇一)の県立第一高等女学校の場合には、洋風建築物 / 学校建築・公共的建築
通史編3(近世2) (建築材)

建築材 前掲『御用格』元禄十六年(一七〇三)三月条によれば、農民が家を建てるために、山から材木を伐り,これは、従来までの農民の建築に利用されてきた材木の種類は、栗・桂・楢などの雑木であったが、それに檜が加 / 建築材
通史編3(近世2) (四 寺社建築)

四 寺社建築 弘前市周辺に存在する寺社建築は、そのほとんどが既に文化財に指定されており、これまでにもたくさんの,本文では、これまで寺院と神社を分けて述べられた書籍が多い中で、寺社建築を一緒にして年代別にみてゆく。,当時の宮大工たちは、寺院建築も神社建築も一緒にこなしていた。 / 四 寺社建築
通史編5(近・現代2) (進取の建築)

進取の建築 明治末期に現れた弘前市での洋風建築建設の盛況は、年号が変わっても衰えることなく続き、種類,の上でも、公共建築や銀行建築はもちろん、活動写真館(映画館)や会社工場など新しい分野にも及んでいった。,廃し、大正十二年(一九二三)の弘前市公会堂とともにゼゼッシオン(ウィーン分離派)の影響を色濃く受けた建築物,戦勝景気を受け活発になった工場建築では、現存するものとしては富名酒造株式会社倉庫(明治四十年〔一九〇七,高谷英城別邸の洋館はコンクリート造二階建てで、フラットな軒の造りや、随所に大谷石を用いて、アメリカの建築家 / 進取の建築
通史編5(近・現代2) (洋風建築の黎明)

洋風建築の黎明 わが国の近代(洋風)建築の黎明は、幕末の洋風建築までさかのぼり、そこには大きく二つの,一つは、幕末及び雄藩の産業的建築物であり、いま一つは、安政六年(一八五九)の開港に伴う箱館、横浜、長崎,、神戸などの外国人居留地における洋風建築群である。  ,産業的建築は、西洋人建築技術者によって設計・施工の指導がなされて、日本人技術者はこれらの施工にかかわる,明治十年(一八七七)、工部大学教授としてわが国に本格的建築家を養成するためにイギリス人建築家ジョサイア・コンドル / 洋風建築の黎明
通史編5(近・現代2) (「建築家」の誕生)

「建築家」の誕生 わが国に初めて正統の様式建築の設計技術を伝えたのがジョサイア・コンドルであることは,こうして誕生したわが国の建築家が実務で活動するのは明治二十年(一八八七)以降のこととなる。,以来、これを受けてわが国でも建築教育が盛んになり、各地の大学や専門学校にも建築学科が設置されることになる,明治四十三年(一九一〇)、弘前に県立工業学校が設立され、建築科を置いた。,ここにきて、ようやく建築の設計だけを仕事とする「建築家」の誕生をみ、建築の近代化が遂げられることになるのである / 「建築家」の誕生
通史編5(近・現代2) (教会堂建築)

教会堂建築 弘前は一方で、建築洋風化の要素を持ったキリスト教伝導の先進の地でもあり、当然のことながら,宣教師、建築家)であると言われている。 / 教会堂建築
通史編4(近・現代1) (洋風建築と蔵造り)

洋風建築と蔵造り そのころ、町の建物は商家も住宅もほとんど柾葺(まさぶ)きの石屋根であった。,それが次第に洋風建築や蔵造りなど、都会風な新しい外観に変わっていった。,洋風建築の始まりは、明治七年に本町一丁目に建った佐々木元俊邸だが、その後、百石町小路の天主堂が明治十五年,蔵造りは、二十七年和徳町に建った久一呉服店が最初で、次第に商家の流行建築になった。,三十九年には最も斬新な洋館建築の弘前市立図書館(現在追手門広場に移築)が、大手門前の外堀近く、東奥義塾 / 洋風建築と蔵造り
通史編5(近・現代2) (弘前初の洋風建築)

弘前初の洋風建築 弘前で初めて、また、県内でも最古といえる洋風建築に取り組んだのは今常吉(こんつねきち,常吉は和徳の士族の出であるが、廃藩後いち早く文明開化の機運を察し、新しい洋風建築技術を身につけようと仙台,三年後に帰弘した常吉の力量を見込んで、最初の洋風建築を建設するチャンスを与えたのが、本県西洋医学の先駆者佐々木元俊 / 弘前初の洋風建築
通史編3(近世2) (江戸時代末期の建築)

江戸時代末期の建築 蘭庭院(らんていいん)の栄螺堂(さざえどう)は、天保十年(一八三九)に、東長町の,京都府)や出羽(山形・秋田県)に至る各地から、多くの技術者を招聘(しょうへい)して、藩に必要な多数の寺社建築,そこでは建造物の種類による建築形式の取り方や、木割(きわり)の基本や釘・鎹(かすがい)といった金物の作,その後、袋宮寺の本堂や久祥院殿の位牌堂の建立の際にもその技法は使われ、高照神社の各建築へと伝えられていった / 江戸時代末期の建築
通史編5(近・現代2) (建築近代化への立ち後れ)

建築近代化への立ち後れ 佐々木邸の例は、この当時にあっては特別なもののようで、一般に津軽地方への洋風建築,、あるいは洋風を形だけ模した擬洋風建築の普及は、記録を見る限り東北の他地方と比べて後れていた。  ,また、商店建築においても、明治十二年(一八七九)に創立された国立第五十九銀行、二十年代(一八八七~九六,これにより、後れていた弘前地方の洋風建築は、明治二十年代には東奥義塾や弘前市役所などの建築でようやく先進各地 / 建築近代化への立ち後れ
通史編5(近・現代2) (前川設計建築群)

前川設計建築群 藤森市長は、すでに木村産業研究所や弘前中央高校講堂が前川の手になることを知っていた。,その後、弘前市の主要な公共施設の建築は、ほとんどが前川の手に委ねられ、市民会館(昭和三十七年〔一九六三 / 前川設計建築群
通史編3(近世2) (江戸時代初期の建築)

江戸時代初期の建築 慶長八年(一六〇二)の棟札(むなふだ)(長勝寺蔵)をもつ岩木山神社拝殿(はいでん,)が、弘前圏内では最古の寺社建築であろう。,慶長期の寺院建築として、革秀寺(かくしゅうじ)の本堂、長勝寺の本堂・庫裏(くり)が挙げられる。,の度合い、痕跡の調査などからすると、古い柱材や梁材(はりざい)などを使用しながらこの場所で新たに別の建築物,として建築されたものとみることができそうである。 / 江戸時代初期の建築
通史編3(近世2) (江戸時代中期の建築)

江戸時代中期の建築 最勝院(さいしょういん)の五重塔は、平成三年の台風によって甚大な被害を受けて、解体修理,一六八六)から元禄七年(一六九四)までの九年間の歳月をかけており、現状の構造手法からも、装飾類を重視した建築,であることや、津軽に散在する建築と比較しても異種のものであることなどから、日光東照宮を範として建造されたものとみられる,)と千鳥破風(ちどりはふ)とを構えており、向拝柱には龍を取り付けているなど、きわめて正面性を重視した建築,久祥院殿(きゅうしょういんでん)の位牌堂(いはいどう)(隣松寺(りんしょうじ))は、建築ではないが、建築型 / 江戸時代中期の建築
通史編3(近世2) (江戸時代前期の建築)

江戸時代前期の建築 寛永期になると、東照宮の本殿が寛永五年(一六二八)に建立されている。,岩木山神社の楼門は、もともと百沢寺の山門として建てられたものであり、五間三戸の大規模な建築であり、量感豊,五棟並ぶ中でこの二棟がその姿も美しく細部の化粧もゆきとどいた抜群の建築であって、その細部においても優れた,建築型の一間厨子、入母屋造の木瓦(こがわら)葺である。 / 江戸時代前期の建築
通史編3(近世2) (江戸時代後期の建築)

江戸時代後期の建築 津軽家霊屋のうち、最後は六代信著(のぶあき)を祀る凌雲台(りょううんだい)で、その / 江戸時代後期の建築
通史編5(近・現代2) (木村産業研究所)

木村産業研究所 日本の近代建築史において、最も重要な一人に数えられる建築家に前川國男(まえかわくにお,前川は、このころに、二年間師事したフランスの建築家ル・コルビュジエのもとから帰国して、東京レイモント建築事務所,一九三〇年代前半に、装飾のないすっきりした白いモダニズムの建築は世界的にも珍しく、日本においては皆無に,ドイツ人建築家であり、桂離宮などの日本の美を世界に紹介したブルーノ・タウト(一八八〇-一九三八)は、この,建物を訪ねた折に、その印象を「ル・コルビュジエ風の白亜の建築」と日記に書きとどめている。
通史編5(近・現代2) (棟梁・堀江佐吉)

佐吉は常吉のもとに日参し、いろいろと洋風建築の技術を教わった。,わけても佐吉の心を騒がせたのは、外国人居留地の数々の洋風建築であった。,この後、佐吉はもう一度開拓使の建築物に触れる機会を持つ。,前年の渡道で札幌に建ち並ぶ洋風建築を研究した成果であったが、同時にこの作品により洋風建築家としての地位,双塔形式は、この建築をよりモニュメンタルなものにしようとする佐吉の意欲の現れであり、図書館建築の必然の
資料編3(近世編2) (●円明寺 本堂 新寺町--県重宝)

県内に現存する浄土真宗の本堂建築としては最古のものであり、構造形式や細部の様式、意匠にも優れたものがある,県内の近世本堂建築のなかでもとりわけ貴重な建築である。 図10 円明寺本堂平面図
資料編3(近世編2) (●報恩寺 本堂 新寺町--県重宝)

宝永元年(一七〇四)の建立であり、格式の高さとともに、古い形式が採用されており、県内における近世本堂建築,を見るときには欠くことのできない重要な建築である。
資料編3(近世編2) (●東照宮 本殿 笹森町--重要文化財)

東照宮に比して素木造の簡素なものであるが、細部の彫刻をはじめ、主体部の構造形式にいたるまで桃山時代の建築技術,が生かされており、県内の神社建築のなかでは屈指のものである。
資料編3(近世編2) (●袋宮寺 本堂 新寺町--県重宝)

新寺町--県重宝 本堂とされているが、三間四方に裳階のついた観音堂であり、境内仏堂とも呼ばれるこの種の建築,大斗実肘木という組物など、珍しい技法が示されており、各部の手法も優れたもので、時代の特徴が如実に表れている建築
資料編3(近世編2) (●猿賀神社 本殿 尾上町大字猿賀字石林--県重宝)

空間も含まれていたと考えられるが、一般的な形式である「前室付き流造」とはなっておらず、県内の近世神社建築,を考える上で、欠くことのできない建築である。
資料編3(近世編2) (●弘前八幡宮 八幡町一丁目)

二代信枚が、弘前城の鬼門を押さえるとした神社であり、青森県で最古の神社建築である。  ,本殿は四方に切目縁が廻り、三間社流造で厚板葺型銅板葺の建築であり、二手先の腰組も珍しい。
通史編5(近・現代2) (独立校舎への夢)

第二中学校では、父兄たちがいち早く期成同盟会を結成、独立校舎建築を目指して校地の選定や市理事者への陳情,候補地としたが、その後、二中、四中ともそれぞれ独立校舎を希望したこと、また、公園内は史跡の関係で学校建築,なお、時敏小学校に併置していた第一中学校は、北横町に新校舎を建築、昭和二十六年七月に移転している。
通史編5(近・現代2) (和徳地区小学校統合問題)

本市における学校統合第一号として教育行政上重要な意義があり、市教委も慎重審議の結果、昭和三十年三月統合建築予算,されていたが、用地が明誠地区に片寄りすぎているという理由から、静修、養正地区から猛反対を受け、統合校舎建築,結局、笹森教育長は多数の意見を汲んで、明誠、静修の統合校舎を予定敷地の大久保字西田に建築することとして,建築敷地に不満の静修学区民は統合反対を叫んで市内をデモ行進し、隊列を組んで市教委庁舎に押し寄せた。
通史編5(近・現代2) (地区計画)

小さな単位の地区において、それぞれの地区が持つ特性に応じた都市環境を確保し、保全するために地区施設、建築物,昭和59年5月10日 6.3ha 第一種低層住居専用地域 住宅地   弘前市告示第72号     建築物制限条例,昭和59年5月10日 4.8ha 第一種低層住居専用地域 住宅地   弘前市告示第73号     建築物制限条例,表59 地区計画の概要 地区計画区域 地区の概要 決定の概要 地区施設 建築物等に関する事項 茂森新町地区,壁面の位置、広告物、屋根・外壁の色彩 下土手町地区 歩行者空間の創出及び良好な都市環境の形成に配慮した建築等
通史編4(近・現代1) (市立図書館の設置)

市立図書館の設置 本格的な図書館の設置を望んでいた私立弘前図書館関係者が、たまたま地元の建築業者の堀江佐吉,建物の総坪数八〇坪、一階、二階とも約三〇坪、三階一八坪余、円屋根が二つある洋風建築である。
資料編1(考古編) (〈時期的な変遷〉)

同一地域内での変化は予想していたほど大きくないが、平面形や柱間寸法の取り方に地域差のあることが明らかとなり、建築技術,竪穴建物跡は、北東北から南東北、甲信越地方までの広い範囲で発見されている建物様式(鎌倉で発見される方形竪穴建築跡
通史編5(近・現代2) (見直したい弘前市の記録)

見直したい弘前市の記録 みちのくの小京都と呼ばれる城下町であることから、弘前市には古い和風建築が立ち,だが思った以上に古い和風建築は多くない。,むしろ明治以降の近代洋風建築に素晴らしいものが多く、近代国家の成立期以降、弘前がモダンでハイカラだったことを,これら洋風建築物の多さは、まず第一に、弘前に入ってきたキリスト教の影響が大きかった。,弘前昇天教会、弘前学院外人宣教師館、弘前カトリック教会、日本キリスト教団弘前教会など、キリスト教に関する建築物
通史編5(近・現代2) (若草幼稚園)

同幼稚園は幼児教育に深い関心と理解を持っていた藤田良一が、地域社会のため設置したもので、自家の庭園に園舎が建築
資料編3(近世編2) (●隣松寺 久祥院殿位牌堂 西茂森二丁目--県重宝)

台座の上に置かれた建築型一間厨子の形を取っており、宝形造木瓦葺の屋根の正面に軒唐破風を付けて、屋根の頂上
資料編3(近世編2) (●橋雲寺 愛宕堂 岩木町大字植田字山下)

●橋雲寺 愛宕堂 岩木町大字植田字山下 この愛宕堂の建築年代を示す資料は無いようであるが、構造形式や
通史編1(自然・原始) (住居)

切り合う重複状態で発見される現状をとらえると、定められた区域の範囲内に住居を造営し、その区域以外には建築,一定の年数を経ると切り倒され、補植されながら管理栽培を行っていた可能性も高く、建築材として、また食料として,建築に関する技術的な面では、富山県小矢部(おやべ)市の桜町(さくらまち)遺跡において、貫穴(ぬきあな),発見された柱材の長さ・貫穴・桟穴などの彫り込まれている位置から、壁立式の高床建築が想定されている(36
通史編5(近・現代2) (富田大火と第一・第二大成小学校の焼失)

一方、第二大成小学校再建については市会で種々論議され、結局弘前最初の鉄筋コンクリート造三階建て校舎が建築,されることになったが、建築に時日を要し、落成したのは昭和五年六月二日であった。
資料編3(近世編2) (はじめに)

であるから、同じような技術を用いている建築があったり、形態的にも同じようなものがあったりで、賑やかではあるが,城郭外の寺社建築の様子を眺めても、慶長十七年(一六一二)の弘前八幡宮、慶長十八年(一六一三)の熊野奥照神社
通史編5(近・現代2) (市民体育館の設置)

建築面積三一八八・七八平方メートル、うち競技場は四六メートル×三六メートル。
資料編3(近世編2) (●熊野宮 本殿 樋の口町--県重宝)

素朴な造りながら古い形式をよく止めており、県内の神社建築を見る上で、欠かすことのできない貴重な遺構である
通史編3(近世2) (先祖供養)

図254.寺社建築の用語(1) 図255.寺社建築の用語(2)
通史編5(近・現代2) (新制中央高校の誕生)

二十五年には朝鮮戦争が勃発して、建築資材の高騰や県財政の逼迫などで、幾度か挫折の危機に見舞われたが、創立五十周年記念協賛会,当初は体育館兼用の計画であったが、講堂専用のものということで、著名な建築家前川国男の設計による東北一の
通史編5(近・現代2) (博物館の設置)

建築面積一四四〇・六六平方メートル。床面積二二七九・五八平方メートル。
通史編5(近・現代2) (狂乱物価の諸相)

一生の夢-マイホーム実現が目前と思ったのもつかの間、このままでは建築中止せざるを得ない、と泣きべそをかく
資料編3(近世編2) (●蘭庭院 栄螺堂 西茂森二丁目--市指定文化財)

当時は、このような栄螺堂は各地に建てられたようであるが、「見せ物」の要素が強く現れていて、「面白い」建築
通史編5(近・現代2) (若葉・愛光幼稚園の合併と聖愛幼稚園)

若葉・愛光幼稚園の合併と聖愛幼稚園 北瓦ヶ町の私立若葉幼稚園は、私立弘前女学校幼稚園が独立の園舎を建築
資料編1(考古編) (〈地域的な差〉)

これは北陸地方などから移動した建築技術が、地域の技術と融合した結果成立したものと考えられ、Ⅰ型-①の建物跡,以上高橋の論考をまとめると、中世の建物跡とそれによって構成されている建築物の景観がおぼろげながら見えてくる
通史編4(近・現代1) (北部無産社)

堀江は、洋風建築で名高い堀江佐吉の子だが、藤田謙一の弘前市公会堂の建築を請け負って仮借(かしゃく)ない
通史編5(近・現代2) (弘前相互銀行と青南信用組合の合併)

を新築するが、四階建ての建物は、当時の弘前では「角は」宮川デパート、弘前大学医学部附属病院に次ぐ高層建築物
通史編5(近・現代2) (東中学校の創立)

開校二年前の平成二年三月に校名や学区が決まり、校舎建築に着手する手回しのよさであった。
通史編5(近・現代2) (弘前文化センター(弘前文化会館))

建築延べ面積六八〇六・四五平方メートル。鉄筋コンクリート造一部鉄骨造、地下一階・地上三階建て。
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