• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 48件
辞書ファセット
/ 1ページ
通史編2(近世1) (上方廻米)

上方廻米 上方廻米は、貞享四年(一六八七)にすべての上方廻米を大坂着とする政策が出される以前は、敦賀,なお、同年以後も敦賀・大津への廻米は断続的に実施され、大坂廻米の補足的な役割を果たしていたという(印牧信明,「津軽藩における成立期の大坂廻米について」『交通史研究』四四)。,上方への廻米量は、寛文から天和期にかけては、年間二万五〇〇〇石程度であった。,、大坂廻米に多くが従事している。 / 上方廻米
通史編2(近世1) (西廻海運による大坂廻米)

西廻海運による大坂廻米 西廻海運が実現すると、上方廻米に利用される廻船の多くが大坂での雇船となった。,すなわち、大坂廻着の雇船は、多くが蔵元によって雇われ、廻米の販売が行われたのであった。,また上方廻米は、日常的に生じる貨幣支出の必要から、蔵米販売とは別に、廻米と金融とを結びつけることとなった,たとえば、京都の井川善五郎は、大坂廻米が行われる寛文十二年(一六七二)以前から弘前藩とのつきあいがあり,さきにみた、貞享四年(一六八七)に上方廻米量が五万石に設定されることになった背景は、藩財政が自立性を失 / 西廻海運による大坂廻米
資料編2(近世編1) (第二節 海運の発達)

海運の発達 一 海運に関する布達 二 出舟・出人、湊口、津出・入津役 (旧八木橋氏蔵) 三 廻米,の状況  (一)上方廻米  (二)江戸廻米  (三)江戸・上方廻米  (四)他国米買入 四 
通史編2(近世1) (西廻海運と領内の整備)

津軽地方における上方廻米は、文禄四年(一五九五)の組屋源四郎による、太閤蔵米(たいこうくらまい)の南部,津軽氏の上方廻米は、為信が京都・大坂・敦賀に屋敷を構えた文禄二年(一五九三)ころに開始されたと推測される,初期における津軽氏による上方廻米は、秋田氏がそうであったように、上方での生活に充てる台所米を中心とした,さて、上方への廻米は、領内での流通機構の確立と不可分にある。,また、鰺ヶ沢は、西廻海運と藩経済の結節点としての位置を得ることになり、鰺ヶ沢町人が上方廻米船の上乗人に
通史編2(近世1) (騒動の背景)

宝暦改革が失敗したあと、藩は再び家老森岡主膳、側用人大谷津七郎・山口彦兵衛らの主導のもと、上方への年貢米廻米,前年、天明二年(一七八二)は不作の年だったのに、藩は例年のとおり、領内からの米の買い上げとそれに基づく廻米,青森は廻米の積み出し拠点港として藩の流通機構の一角を担っていたため、廻米強行の危険性を真っ先に察知できる,したがって凶作の兆候が明らかになった七月になると、青森町の町人は廻米船の出航差し止めと廻米の町中への払
通史編2(近世1) (幕末期の藩財政)

米方の支出のうち、家中への知行切米・扶持の合計は五万三〇三四石(歩引渡をしている)、江戸廻米は五万石、,大坂廻米は一万石で、文化期よりさらに江戸への廻米量が増している。,は、家中や在方からの買い上げ米の復活などを中心とした赤字の縮小計画を立てたが、借財が多い中で江戸への廻米
通史編2(近世1) (農政の転換)

費用などがかさみ、その出費を賄うために年貢米を江戸・上方に売却する必要があった)を対象として藩の翌年分廻米,藩の廻米(かいまい)は、「借銀―廻米―返済」という形をとっており、藩の借銀返済のために行われていた。,つまり、元禄八年の飢饉は、単に米穀の生産の不足や備蓄の不足のみから起こったのではなく、上方への廻米を余儀,前者については、右にみたような廻米制が破綻したことにあった。,元禄十年(一六九七)には、廻米が不可能となったため、借金の引き当てとすることができず、金主に対して返済
通史編2(近世1) (騒動の要求と結果)

史料によってやや異同はみられるものの、(一)来年三月まで公定価格での米の販売、(二)廻米の停止と来秋までの,藩の領内米穀流通統制および廻米強化策の廃止、飯米確保、町方の出費の軽減、町年寄・名主会所を巡る町制改革,図128.騒動の様子を伝える津軽徧覧日記の記事  しかしながら、藩は再騒動を恐れて一時的に廻米船,騒動にかかわらず、廻米は藩の基本政策として堅持されたのである。
通史編2(近世1) (飢饉に至るまでの経緯)

るまでの経緯 宝暦の飢饉でみたとおり、近世の飢饉は単なる自然災害ではなく、凶作下でも江戸や上方への廻米,これは、江戸や上方廻米が確立してから初めて起こった大規模な飢饉―元禄飢饉からみられる構図であり、宝暦・,加賀へ三万俵余、これに小納戸米(こなんどまい)(藩主の私的会計に含まれる米)を加えて都合五〇万俵余が廻米,には藩士に支給する米や農民に小売りする米までを買い上げたうえで、同二年と同様江戸・大坂へ各二〇万俵を廻米,しかし藩は有効な対策を打てず、廻米もすぐに停止できないまま、大飢饉への道を歩んでいったのである。  
通史編2(近世1) (騒動のその後)

騒動のその後 藩の廻米強化策にかかわった御用商人山本四郎兵衛は、米穀払底(ふってい)の張本人として領民,藩の買米制や上方への廻米も、このような段階では中止せざるをえなくなった。  ,皮肉なことに天明三年の飢饉で懲りた奥羽諸藩が一斉に廻米を減少させた結果であった。
資料編3(近世編2) (第一節 後期藩政の展開と社会状況)

)農村の掌握  (六)諸色高値  (七)松前稼ぎ   二 藩財政の窮乏と商品流通  (一)廻米
通史編2(近世1) (江戸市場への傾斜)

この転換の要因は寛政改革による幕府の江戸への米穀流入政策と、文化初年以降、とりわけ大坂における廻米量を,これを裏付けるように、藩は、文化二年(一八〇五)に大坂廻米三万五五五石余を江戸廻しにして、計六万九九一八石
通史編2(近世1) (御用金の賦課)

また廻米の不足分は国元に転嫁されることもあった。,しかし、支払うと江戸・大坂の廻米が滞る危険性があり、そうなると信用問題になり、今後の融資にも影響するとして,目録を見る 精細画像で見る  天明の飢饉後のことであるが、天明六年(一七八六)には、藩からの廻米
通史編2(近世1) (江戸での借財の増加)

寛政十年から文化二年までは菊屋、文化十三年以降は松本平八郎ほか)、津軽屋だけは一貫して蔵元として江戸廻米,またゴローニン事件の起こる文化八年(一八一一)には、藩庁の要請を受けて翌年の廻米売り立て代金のうちから,津軽屋以外の蔵元に任命された菊屋は、文化元年(一八〇四)ころには早くも経営が行き詰まり、自己の借財の返済に廻米売立代金,しかし、経営はまったく破綻し、年末に至って翌年の廻米売立代金残金四六五〇両の上納不能を藩庁に申し立てたことから
通史編2(近世1) (青森以外の町の騒動)

青森と並ぶ津軽領の主要港である鰺ヶ沢でも、七月二十二日に廻米の停止、米留番所の廃止、小売り米の値下げ(,この騒動は廻米の一時停止などの処置が講じられたため、打ちこわしまでには至らなかった。
通史編2(近世1) (幕末期の蝦夷地交易)

から送ったのでは輸送費がかさみ、海難の心配もあるので、青森から津軽米を仕入れ、代米は江戸に輸送される廻米,この計画自体は津軽弘前藩側が米の安定供給に自信を持てなかったため実現しなかったが、江戸・大坂廻米を最優先
通史編2(近世1) (天明三年に頻発した騒動)

その性格は、三都依存体制のもと廻米強化を余儀なくされた津軽弘前藩に対し、最低限の食糧の確保すらできない
通史編2(近世1) (宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)

ほかに江戸廻 米が二万四五〇〇石(一一・六五パーセント)、先納金を供出した加賀・上方の商人五人への廻米,というものも一万六九一一石(八・〇四パーセント)あり、廻米関係だけで一〇万六四一一石に及ぶ。,実に米方の収入の三分の二が廻米に充てられているのである。,そもそも金銀方は、収支とも国元の費目に限った数値で計上されており、膨大な廻米の売却費、江戸藩邸費・参勤交代費
通史編2(近世1) (幕末期の借財)

藩では天保十三年(一八四二)から五〇ヵ年賦で返済する計画を立て、毎年伊丹に廻米三三〇石を送付して返済に,しかし、様々な経費が重なって、約束の廻米量を確保できなくなり、嘉永五年(一八五二)に、向こう七ヵ年は一五
通史編2(近世1) (茨木屋の苦悩)

飢饉の年で、津軽から西館織部らが借金のため大坂まで出向き交渉を行い、断り切れなくなった茨木屋は凶作で廻米,宝暦七年十一月二十日条(資料近世2No.三〇)によると、宝暦五年(一七五五)の飢饉が蔵元の好意により無廻米,さらに安永九年の知行三分の一借り上げに至っては、蔵元への廻米を確保するための手段として、知行借り上げが
通史編2(近世1) (天保四年における藩の対応)

凶作の予兆が現れた七月八日には、藩はいち早く廻米を停止し津留(つどめ)の処置を講じている。,同じく青森町人の請願にもかかわらず、廻米を強行して飢饉の被害を広げた天明飢饉とは対照的な対応であった。,天明期にも、在方への貯米は命じられていたが、実際は藩の廻米や借財返済に充当されたりして、有名無実となっていた
通史編2(近世1) (青森騒動の経過)

名主会所万屋武兵衛方へおよそ七~八〇〇人が押し寄せ、来年春までの公定値段(一匁につき米一升四合)での販売、廻米,一方、湊番所では別の一隊が、「廻米を強行するなら廻船を破壊し、米俵は海に捨てる」との威嚇を行い、上方相場,の代金と引き替えに、廻米を町方に売却して欲しい旨の要求を行った。
通史編2(近世1) (黒石藩の位置)

では、天保十一年(一八四〇)一月、弘前藩から黒石藩への津出し米に関する指令にみられるように、黒石藩の廻米
通史編2(近世1) (銀遣いへの変更と商人の活用)

大坂廻米が始まって以来、蔵元(くらもと)との関係ができ、領内の金銀を上方(かみがた)に送って銭と替え、,「古来」津軽領では銀遣いであったが、先述のように上方廻米の開始によって上方銀主とのかかわりが深くなり、
通史編3(近世2) (幕末期近衛家との関係)

では天保十三年(一八四二)にこれらを取りまとめて、以後五〇ヵ年賦で返済する計画を立て、毎年代米として廻米三三,ところがこの計画もやがて遂行できなくなり、嘉永五年(一八五二)には廻米を今後七年間一五〇石に削減してほしい
通史編2(近世1) (文化~文政期の藩財政)

借金返済の繰り延べを依頼する事態となり、年限が来た同五年に家老津軽多膳(たぜん)らが大坂に赴き、年三万石の廻米確保,120,658.209 47.49  (江戸) 費  目 米 高 比率 備  考 ⑲ 江戸廻米,そのうち半分近くは、江戸廻米の三万七三六二石が占め、藩全体の支出でも一四・七パーセントに当たる高率である,この廻米は江戸で売却され、江戸藩邸の一年の常用金二万五〇〇〇両の財源となるものであった。,費目として京・大坂の常用金二一〇〇両の財源となる廻米四四二三石(買下品の代金含む)と、「京・大坂御用米
通史編2(近世1) (騒動の意義)

天明期には初めて打ちこわしの運動が全国的に展開したが、当騒動は惣町訴願と打ちこわしを中心に、廻米停止・
通史編2(近世1) (貞享検地)

つまり、全国市場である大坂との結びつきは、それまで自領内・その地域経済圏に出ていた年貢米が、大坂へ廻米,したがって、藩経済を維持するうえでより多くの年貢米を大坂へ廻米せざるをえなかったのである。
通史編2(近世1) (農村部での騒動)

このことに農民の不満が爆発し、湊町の廻米強化に対する批判と呼応するかのように、藩の政策を鋭く批判することとなった
通史編2(近世1) (対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)

に必要な津軽米を受け取りたいという提案が仙台藩から津軽弘前藩にもたらされたり、会津藩が行っていた江戸廻米,と箱館・蝦夷地の入用廻米の廻送を停止し、会津米を新潟で売りさばいた金をもって青森で米を購入し、江戸藩邸
通史編2(近世1) (天保飢饉と一揆・騒動)

津軽領のものとしては、天保四年八月に、廻米の中止で陸揚げされた米の払い下げをめぐって、青森町民が弘前駄送
通史編2(近世1) (宝暦―天明期の借財)

蔵元とは蔵屋敷の管理に当たり、大名から廻米を中心とする「蔵物」の売却・出納をつかさどった商人のことで、
通史編2(近世1) (宝暦改革の課題)

藩は、廻米を担保として、江戸や上方の有力商人からの借財によってこれをしのいでいくことになるが、特に寛延二年
通史編2(近世1) (弘前八幡宮の祈祷)

313回) 内   容 回数 古縣不動尊出汗神楽奉納 40 藩主并津軽氏一族病気平癒祈祷 35 廻船廻米海上無難祈祷
通史編2(近世1) (預手形とは)

扶持米および領民の食料として購入せざるをえない米穀や雑穀が増え、多くの金銭が他領に流出し、江戸・大坂へ廻米
資料編2(近世編1) (はじめに)

但し、その中でも、廻米(かいまい)の展開による全国市場への参加、ついで家中払米(かちゅうはらいまい)等
通史編2(近世1) (意見書提出の奨励)

とりわけ、農政や廻米策をめぐっての家臣団内部の対立は藩の重臣同士の対立にまで発展し、藩庁内部の動揺は著
通史編2(近世1) (隠津出・抜け米の取り締まり)

特に、黒石領との境界に当たる浅瀬石(あせいし)、廻米の積み出し湊である青森へ通じる鶴ヶ坂・柳久保(奥州街道
通史編2(近世1) (飢饉への対応)

当面、藩要用の米のうちから小売米として一万五〇〇俵と大豆八〇〇俵を放出すること、江戸・上方廻米の中止、
通史編2(近世1) (飢饉への対策)

飢饉の際、藩政を主導したのは乳井貢(にゅういみつぎ)であったが、彼は前年閏五月に大坂への廻米を止め、国元
通史編2(近世1) (金木屋日記にみる対外危機)

藩では大坂方面から買越米(かいこしまい)を手配したが、年末になってもまだ廻米がなされず、このままでは商売
資料編2(近世編1) (新編 弘前市史 資料編2(近世編1) 目次)

  二 出舟・出人、湊口、津出・入津役  …………………………………………………  九九一   三 廻米,の状況  ……………………………………………………………………………  一〇〇八     (一)上方廻米,  …………………………………………………………………………  一〇〇八     (二)江戸廻米  …,………………………………………………………………………  一〇一四     (三)江戸・上方廻米  …
通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

大坂廻米 40,000. 江戸扶持米 10,000.,. 8 御普請料大坂廻米 40,000. 10月から現在まで 町米沖出の積もり  
通史編2(近世1) (穀物の流通統制)

実際、二月三日の段階で、藩は江戸に一万石、大坂に五〇〇〇石の不払いの廻米を抱えたままで、買い入れの目処
通史編2(近世1) (流民の発生と施行小屋の設置)

当時、藩主津軽信寧は江戸在府中で、家老森岡主膳・用人山田彦兵衛らが廻米の強化を中心とする財政再建策を推
資料編2(近世編1) (【解説】)

藩は、廻米を唯一の頼りに、江戸や上方の有力商人からの借財によってこれを凌いでいくことになるが、特に寛延二年
資料編3(近世編2) (【解説】)

廻米によって金銭を獲得できる領内米の払底、食料の購入による金銀の領外への流出等で領内の貨幣が著しく不足
資料編3(近世編2) (新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次)

  二 藩財政の窮乏と商品流通 ………………………………………………………………  三九    (一)廻米
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました