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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (弘前市立弘前幼稚園)

弘前市立弘前幼稚園 明治三十五年(一九〇二)七月一日、弘前市立弘前幼稚園が、土手町の第一大成尋常小学校敷地内,弘前幼稚園設置の経過を同幼稚園沿革は「弘前第二学区の区会議員大高歳行、今村嘉三郎、花田直太郎、野村忠兵衛,弘前幼稚園は学区民の有志の手で設置され、それを弘前市に寄附したものである。  ,当時弘前市内小学校の授業料は金六銭、それと比較すれば保育料は高額というべきであろう。,開園一年目の弘前幼稚園のことを『青森県学事第三十一年報』(明治三十五年度)は「園長ハ尋常小学校長之ヲ兼務 / 弘前市立弘前幼稚園
資料編1(古代・中世編) (弘前1~133)

弘前1~133 弘前1 弘前市乳井字古堂-古堂跡- 弘前2 弘前市乳井字古堂-古堂跡- 弘前3 ,弘前市乳井字古堂-古堂跡- 弘前4 弘前市乳井字古堂-古堂跡- 弘前5 弘前市乳井字古堂-古堂跡-,弘前6 弘前市乳井字古堂-古堂跡- 弘前7 弘前市乳井字古堂-古堂跡- 弘前8 弘前市乳井字古堂,弘前13 弘前市乳井字外ノ沢-乳井神社境内- 弘前14 弘前市乳井字外ノ沢-乳井神社境内- 弘前15, 弘前市乳井字外ノ沢-乳井神社墓地- 弘前16 弘前市乳井字外ノ沢-乳井神社墓地- 弘前17 弘前市乳井字外 / 弘前1~133
通史編5(近・現代2) (弘前手織)

弘前手織 津軽塗に劣らず数百年の歴史を有する弘前手織は、元禄七年(一六九四)、津軽塗と同様に四代藩主信政,が現在の弘前市紺屋町に製糸場および織座をつくり、京都から職人を招いて絹布を織らせたことが起源とされる。,弘前手織が商品として一般に販売されたのは幕末の頃からで、金木屋武田甚左衛門が桐生から織布職人を招いて製糸場,次第に弘前手織は丈夫であるとの名声が高まり、ネルにしても「テオリネル」と称して販売した。,における商工業の現状と将来』弘前市、一九五九年)。 / 弘前手織
通史編4(近・現代1) (弘前女学校)

弘前女学校 私立弘前女学校は、大正四年(一九一五)九月、設立者兼校長であったミス・アレキサンダーに代,この年十月には、弘前で陸軍特別大演習が行われ、弘前女学校の生徒も天皇以下関係者の歓送迎に毎日忙しい日を,これは、県立弘前高女が大正四年になってようやく英語を必修として一週に一〇時間を配したのに対し、すでに一六時間,ラッセルが着任したころの弘前女学校は、生徒数わずかに六三人にすぎなかったが、十五年にはついに二〇〇人を,なお、大正八年七月には、学校の名称から「私立」を除いて「弘前女学校」と呼ぶことに改められている。   / 弘前女学校
通史編3(近世2) (弘前藩の出兵)

弘前藩の出兵 さて、秋田に続きようやく藩論を勤皇に統一した弘前藩も、藩境を封鎖するなどの行動で受けた,官軍方からの疑惑の念を払拭すべく、鎮撫総督府から征庄出兵命令を受けると(『弘前藩記事』一)、討庄応援兵,このように、弘前藩から派兵が続々と行われていった。  ,なお、奥羽鎮撫総督府は、出兵命令に加え、弘前藩領内に入り込んだ仙台兵の討ち取りを厳命し、弘前藩の態度について,銃撃戦の末、秋田・弘前藩兵は接近戦を試みたのである。 / 弘前藩の出兵
通史編4(近・現代1) (弘前の小学校)

弘前の小学校 弘前で最初に開設された近代的小学校は、明治六年二月開校の私立東奥義塾小学科である。,当時、弘前は県内最大の都市で、人口三万三八八四人(明治四年調査)と最も多く、士族や商人が居住して、文化的,それを裏書きするように、県内でも弘前だけが同一地区に二校の開設をみたのである。,それが六年十月一日創立の一番小学(現弘前市立朝陽小学校)と六年十二月一日創立の二番小学(現弘前市立和徳小学校,しかし、学制第六章には「人口約六百人ヲ以テ一小学区トナス」とあるから、弘前はなお多数の小学を必要としたが / 弘前の小学校
通史編3(近世2) (弘前の民衆)

弘前の民衆 さて、青森県の県政が本格的に出発する中で、弘前市域の民衆は具体的にどのような生活を送っていたのだろうか,まず、政治の中心であった弘前城は廃藩によってひどく荒廃した。,が少なかったためその多くはすぐに耕地を転売して、前述のように弘前に帰った。,「士族在籍引越之際地図並官社商現図」(弘前市立博物館蔵)は、廃藩から明治十四年ころまでの弘前市街の各戸,政治経済的にも弘前は新たな時代を迎えていったのである。 / 弘前の民衆
通史編5(近・現代2) (弘前文化センター(弘前文化会館))

弘前文化センター(弘前文化会館) 昭和五十六年(一九八一)九月、弘前市下白銀町一九番地四に弘前文化センター,この施設は、弘前市制九十周年記念事業として、旧時敏小学校跡地に建てられ、文化会館と中央公民館の二つの機能,弘前文化センターは、地域住民が身近に音楽・演劇・舞踊などの舞台芸術を鑑賞したり、自ら制作・発表活動を行,写真215 弘前文化センター / 弘前文化センター(弘前文化会館)
通史編5(近・現代2) (弘前との因縁)

弘前との因縁 弘前市において前川が二番目に手がけたのは、県立弘前中央高校講堂であった。,前川の母・菊枝は、旧弘前藩士田中坤六の娘であるが、その兄であり、参議院議長、国連大使、東京青森県人会会長,かることになり、また、前川の滞仏中、駐仏武官としてパリに来ていた前出の木村隆三とも親交が結ばれ、これが後年弘前,前記二件の設計をしたことで、前川は建築の面でも弘前とのつながりを持つことになった。,写真301 弘前市役所 / 弘前との因縁
通史編5(近・現代2) (「弘前電波」から弘前東工業高校へ)

「弘前電波」から弘前東工業高校へ 昭和五十五年、弘前電波高校は電子科の定員を減じて自動車科を新設した,六十年には情報科設置が認可になった・電子科一科からスタートした「弘前電波」は、ここに至り三科を擁するまでに,拡充され、六十一年四月、学校の実際に合わせて弘前東工業高校に校名を変更した。,弘前東工業高校には、普通校舎のほか、産業教育実習棟が複数あり、新しい技術の進歩に対応した若いエンジニア,弘前東工業高校の教育方針には「人間尊重の精神に徹し、教師と生徒は啐啄(そったく)同時、ともに豊かな人間性 / 「弘前電波」から弘前東工業高校へ
通史編2(近世1) (三 弘前藩庁日記)

三 弘前藩庁日記 寛文元年(一六六一)から慶応四年(=明治元年〈一八六八〉)に至る、約二〇〇年間の津軽弘前藩政,弘前城中で記録されたものを「御国(おくに)日記」といい、江戸の上屋敷(かみやしき)で記録されたものを「,その意味では第二次的史料の性質を持つが、津軽弘前藩政史研究のきわめて貴重な基本史料で、弘前市立図書館に / 三 弘前藩庁日記
通史編2(近世1) (弘前藩の副藩主)

弘前藩の副藩主 明暦二年(一六五六)、津軽弘前藩主四代信政の襲封(しゅうほう)に伴い、その後見役として,発足した黒石津軽家は、本家名代(ほんけみょうだい)という機能を有したことにより、弘前藩「副藩主(ふくはんしゅ,名代を命じられた直接的理由は、弘前藩主が病気等の理由で身動きのとれない時に依頼するのであり、黒石藩成立後,弘前津軽・黒石津軽両家の藩主系図をみて明らかなように、弘前津軽家から黒石津軽家へは、信政の五男が黒石四代寿世,ここに、弘前・黒石両藩の一体化が促進されたといえよう。   / 弘前藩の副藩主
通史編4(近・現代1) (弘前電灯会社)

弘前電灯会社 大正十四年時点での弘前電灯会社の資本金は三〇〇万円で、払込資本金は二五〇万円である。,同社は、弘前市をはじめ、中津軽、南津軽、北津軽、西津軽の諸郡に電力を供給していた。 / 弘前電灯会社
通史編5(近・現代2) (弘前へ帰る)

弘前へ帰る 昭和十九年三月帰郷、五月東亜連盟青森支部の事務長となり、在職中の国策会社東亜通商を辞職、,六月二十六日から県立弘前中学校に週三日出勤することとなった。,写真85 中国山西の前線での東奥日報社従軍記者:山崎元衛  大陸班は、弘前中学校が戦時体制の国策,昭和十九年、東亜連盟同志会の鳴海理三郎、小田桐孫一、佐藤正三らはいずれも弘前中学校の教師となったが、やがて / 弘前へ帰る
通史編4(近・現代1) (軍都以前の弘前市)

軍都以前の弘前市 今日、弘前市といえば弘前城や桜など、文化・芸術・観光面で注目されることが多い。,もちろん藩政がしかれていた時代に、弘前は弘前藩の城下町として栄え、多くの武士が存在していた。,それでも文化都市と呼ばれることが多い弘前市を、軍都弘前と呼ぶのには抵抗を感じるかもしれない。,だが北東北一帯を管轄する大師団の司令部が弘前市内に設置され、弘前市民は軍隊とともに敗戦まで生活し、軍隊,兵員は旧弘前藩士から募集し、弘前城の本丸が分営とされた。 / 軍都以前の弘前市
通史編5(近・現代2) (工業都市弘前)

工業都市弘前 昭和になり、我が国の経済不況が深刻化してくると産業の不振を打開するため、県を挙げての産業振興,一九二八)、本県の産業振興に関する各業種の事項を調査研究するために青森県産業振興会が結成され、その後、弘前,においても弘前産業振興会が結成された。,昭和六年七月一日、弘前市役所において総会が開かれ、商業、工業、農業の各部門における理事や委員が選定されるとともに,、水産業が八〇円と、工業が全体の九八・二%を占めており、当時の弘前市はまさしく工業都市であった。 / 工業都市弘前
通史編5(近・現代2) (弘前大学の拡充)

弘前大学の拡充 農林県であり、また、りんごの特産で知られる園芸県でもある青森県において、農学部の設置,その後も県および大学が協力して農学部設置運動が進められ、昭和三十年(一九五五)一月、弘前大学長から文部大臣,その後も農学部拡充整備のための活動がみられ、昭和三十二年八月には財団法人弘前大学後援会が募金活動に乗り,国立大学の法人化に伴い、平成十六年四月からは「国立大学法人弘前大学」によって設置された弘前大学として新,弘前大学のモットーである「世界に発信し、地域と共に創造する弘前大学」を継承し、その実現に向けて、教育、 / 弘前大学の拡充
通史編5(近・現代2) (弘前市商業の特徴)

弘前市商業の特徴 昭和四十三年(一九六八)の弘前市委託による調査報告は、弘前市の商業を三点にわたって,1、弘前市は消費都市として発展してきた都市であり、商業を抜きにしては市の発展はありえない。  ,2、弘前市の商業は周辺諸地域及び観光客の消費購買力に依存している。,3、弘前市の商業規模はきわめて零細である。,であった(前掲『弘前市における商工業の現状と将来』)。 / 弘前市商業の特徴
通史編4(近・現代1) (弘前物産陳列館)

弘前物産陳列館 弘前物産陳列館は、弘前商業会議所が多年にわたり設立を計画してきたが、県の補助金が交付,同館は、弘前商業会議所の経営になり、産業の改良発達を目的とし、次の事項を行った。,弘前市長らの建議書は、物産陳列の充実を求めていたのである。 / 弘前物産陳列館
通史編4(近・現代1) (弘前総町聯合会)

弘前総町聯合会 明治二十年度弘前総町聯合会は、一月二十一日から二月三日にかけて弘前高等小学校で開かれ,、明治十八年度弘前総町費決算と二十年度予算案審議が行われた。,報告説明に、営業税の収入が予算一九三円九五銭に対し、五〇円三五銭四厘とあり、松方デフレ政策で不況に沈んだ弘前,なお、この時の弘前総町聯合会の議員は左のとおりである。議員席次による。 / 弘前総町聯合会
通史編4(近・現代1) (弘前士族の反発)

弘前士族の反発 明治六年春から夏にかけて弘前貫属士族の起こした給禄渡しの騒擾(そうじょう)は、青森県,このメンバーは、この後も弘前士族の中の不平分子の中核となり、明治十四年から十五年にかけての弘前紛紜(ふんうん,彼らの中で最も活発に活動したのは川越石太郎で、彼の思想は不平弘前士族の典型であり、その時代錯誤は悲劇的,明治十三年一月六日に、川越石太郎が明治天皇の弘前巡幸のための民情調査にきた元老院議員佐々木高行に提出した,しかし弘前士族は常禄に甘え、安逸に馴れ、自活の精神を失い、飢餓瀕死の域に陥った。 / 弘前士族の反発
通史編4(近・現代1) (弘前女学校の創設)

弘前女学校の創設 メソジスト派(イギリスで興ったキリスト教プロテスタント諸派の一つ)の外国伝道協会は,のキリスト教信者の子女ばかりで、第二回の入学生もまた弘前出身の者ばかりであった。,の弘前教会内に女学校を開設し、キリスト教伝道の一助にしようとした。,弘前遺愛女学校を本格的な女学校にしたいというのが、弘前教会関係者の悲願でもあった。,明治二十二年(一八八九)五月、弘前女学校が弘前市元大工町一番地に開校した。 / 弘前女学校の創設
通史編5(近・現代2) (弘前商工会の解散)

弘前商工会の解散 昭和三十五年(一九六〇)十月に弘前商工会が解散した。,同会は、明治四十五年(一九一二)に弘前商業会議所の関係団体として設立され、五三年間、継続した。,解散式は弘前商工会議所において開催された。登嶋権作会長は式辞で次のように発言した(但し、部分)。,』四五)  弘前商工会は、大正年間の一時期に、青森県商工会弘前支部になったが、大正十四年(一九二六),に弘前商工会に戻り、以後同名で継続した。 / 弘前商工会の解散
通史編5(近・現代2) (弘前銀行の解散)

弘前銀行の解散 弘前銀行は三週間の休業後、昭和六年(一九三一)十二月十五日に再開業したものの、本格的,その後、同行は事件が一段落した昭和九年になってから再建を目指すが、すでに大蔵省は昭和八年の段階で弘前銀行,第五十九銀行による整理は昭和十一年から始まり、弘前銀行は昭和十三年九月十三日に営業満了を迎えると営業継続 / 弘前銀行の解散
通史編5(近・現代2) (弘前観光協会の設立)

弘前観光協会の設立 弘前市は戦後の世相が観光に力を注いでいることにちなみ、市にも観光政策を本格的に導入,弘前市内には協会設立の趣意書にうたうだけの観光名所が多数あった。,弘前市の周辺には大鰐、蔵館、碇ヶ関の温泉もある。,の便を図るは刻下の急務」として、弘前市長岩淵勉を発起人とする弘前観光協会が設立された。  ,協会の設置目的として会則第一条には「弘前市を中心とする観光地の宣伝紹介並びに諸施設をなし弘前市及びその / 弘前観光協会の設立
通史編2(近世1) (弘前八幡宮の祈祷)

弘前八幡宮の祈祷 津軽弘前藩は、藩体制の危機を回避する願望を込めて祈祷(きとう)を寺社に命じている。,表43・44は弘前八幡宮文書(弘前大学附属図書館蔵 元禄六年~明治四十一年)にみられる祈祷内容とその回数,弘前八幡宮(弘前市八幡町一丁目)は慶長十七年(一六一二)、二代藩主信枚(のぶひら)による創建で、社領三,郡中社人(ぐんちゅうしゃにん)と諸社支配を管掌し、弘前鎮護の神社として尊崇された。,これに伴い、弘前八幡宮の祈祷内容にもこの動向が反映したのである。 / 弘前八幡宮の祈祷
通史編5(近・現代2) (弘前市農協の合併)

弘前市農協の合併 昭和三十六年(一九六一)四月、農協合併助成法が施行された。,農協合併は西日本の地域で進捗していたが、弘前市の場合、周辺自治体との合併が済んだ後であったこともあり、,東北地域では早い取り組みとなり、昭和三十六年九月、弘前市農協合併研究協議会(会長は藤森睿市長)に市内の,全農協組合長二八人が参加して発足した(『弘前市農協20年史』一九八五年)。,同三十七年十二月、「弘前市内農協(一本化)合併基本計画」が公表され、「組合員一万人のマンモス農協」構想 / 弘前市農協の合併
通史編5(近・現代2) (弘前城の史跡指定)

弘前城の史跡指定 弘前市の観光の目玉が弘前城と周辺一帯にあることは論をまたない。,弘前城のある弘前公園一帯、長勝寺はじめ禅林三十三ヶ寺一帯、最勝院と鏡ヶ池一帯の三地区に対し、市当局は昭和二十七年,けれども弘前城の石垣をはじめ、長年の風雨に傷みも出始めている諸物件の修理には莫大な費用がかかる。,昭和三十五年九月十五日、藤森市長は市議会に弘前市文化財保護条例案を提出した。 / 弘前城の史跡指定
通史編3(近世2) (醍醐忠敬の弘前転陣)

そこで、弘前藩は、この時期新たな兵員編成を進めた。,なかなか両者の勝敗が確定しない中で、盛岡藩は弘前口より秋田領へ一挙に討ち入る作戦を立て、弘前藩に同盟側,(『弘前藩記事』一)。,彼らの弘前布陣は弘前藩とは逆に、反官軍を表明した盛岡藩との戦争を目的とするものであった。,藩論が決定した今、九条奥羽鎮撫総督の弘前転陣とその存在は、弘前城下にある人々にも少なからず影響をもたらし / 醍醐忠敬の弘前転陣
通史編5(近・現代2) (石川町、弘前へ合併)

石川町、弘前へ合併 昭和三十二年(一九五七)九月一日、弘前市と南津軽郡石川町が合併し、弘前市は人口一四万八七八八人,石川町との合併により、弘前市は小学校一校(分校一校を含む)と中学校一校が増加した。,合併に当たって、石川町教育委員会から弘前市教育委員会に「未済事件処理意見書」が提出された。,ところが、弘前・石川合併に対して、反対していた「分市大鰐町合併派」の八幡舘、森山、鯖石、小金崎の四部落民,これは、法務局弘前支局が違法として、大鰐町に勧告して収まったが、同年四月八日、分市派の乳井部落では小学生 / 石川町、弘前へ合併
通史編5(近・現代2) (敗戦直後の弘前市民)

敗戦直後の弘前市民 敗戦間際の弘前市は第二次建物疎開を計画し、八月二十七日までに完了する段階にあった,ところが弘前市では当局の督励が効きすぎて、家屋を取り壊してしまった人々もいた。,そのため配電会社弘前営業所が各戸一灯ずつ復旧工事を行うことになった。,その影響は弘前市にも現れた。,軍都弘前の残滓(ざんし)といえる現象である。   / 敗戦直後の弘前市民
通史編5(近・現代2) (弘前青年学校の発足)

弘前青年学校の発足 時局の進展に伴い、青年学校の振興は急務とされた。,その状況の中、昭和十七年(一九四二)四月一日、弘前青年学校が開校された。,公立弘前青年学校校舎は、本町一丁目の弘前国民学校(元弘前高等小学校、現弘前税務署敷地)の一棟が充てられ,、校長事務取扱いとして弘前国民学校教頭の鎌田饒が任ぜられた。,弘前青年学校開校式および十七年度入学式は四月十二日に挙行され、生徒四〇四人。 / 弘前青年学校の発足
通史編5(近・現代2) (連合軍の弘前進駐)

連合軍の弘前進駐 敗戦直後の行政当局の最大課題は何と言っても進駐軍対策だった。,進駐軍は弘前市にもやってきた。,九月二十六日、連合国軍部隊は青森駅から奥羽本線を臨時列車で弘前駅に向かい、午前十時三十五分、弘前駅に到着,した六五人を先頭に、四回にわたって約三九〇〇人の将兵が弘前市に進駐した。,写真100 弘前市への進駐 / 連合軍の弘前進駐
通史編4(近・現代1) (弘前商業会の活動)

弘前商業会の活動 市制施行後の明治二十五年(一八九二)に弘前商業会が結成された。,同会の結成時には青森、弘前間の鉄道建設が課題であり、同会の発足に当たっての「主旨」にもそのことが明記されている,即ち、第三帝国議会での鉄道敷設の議が貴族院、衆議院を通過し、青弘間鉄道の開設が実現の可能性を多くし、弘前市 / 弘前商業会の活動
通史編4(近・現代1) (弘前県から青森県へ)

弘前県から青森県へ 九月五日野田豁通(ひろみち)が弘前県大参事に任ぜられた。,写真3 野田豁道  野田は、箱館戦争の始終から弘前藩の重臣や青森・弘前の富豪らと交渉が深く、県内,移転の理由は、合県の場合、弘前の位置が偏偶にて不便、また、県庁が弘前城下だと封建の旧弊から抜け出しがたく,その意味では、明治四年九月四日、六県合県の新しい県に政府が弘前県の名を認めたのは、弘前藩が忠勤藩と見なされていたということである,しかし、弘前を県の中心に考える伏流の現れを国立大学の弘前設置にみる研究者もいるぐらい根深い。 / 弘前県から青森県へ
通史編3(近世2) (付図『弘前城下御町絵図』(弘前市立博物館蔵))

付図『弘前城下御町絵図』(弘前市立博物館蔵) [付図]  弘前城下絵図に、弘前城を象徴的に描いたものは / 付図『弘前城下御町絵図』(弘前市立博物館蔵)
資料編1(考古編) (10.弘前城内遺跡)

10.弘前城内遺跡 (遺跡番号 02074)(図25) (1)所在地 弘前市大字下白銀町1番地,(2)遺跡の立地  弘前市内の中心部を占める台地(西は岩木川・南は寺沢川・東は土淵川等によって画された,)の北端部は、慶長15年(1610)弘前城が造営され、津軽地方を支配する地点として威容を誇っていたが、,図25 弘前城内公園緑地課前遺跡出土遺物(縄文晩期) ※参考文献 弘前市教育委員会『史跡弘前城跡,はす池発掘調査報告書』弘前市 1982年3月 福田友之「弘前城本丸跡発見の石器時代遺物について」(北奥古代文化 / 10.弘前城内遺跡
通史編4(近・現代1) (弘前和洋裁縫女学校)

弘前和洋裁縫女学校 弘前市鍛冶町に「造花袋物裁縫教授」の看板を掲げ、裁縫塾が開かれた。,柴田やすが弘前で私塾を開いたのは、大正三年(一九一四)のことである。,当時弘前には、県立弘前高等女学校と私立弘前女学校の二つの女子中等教育のための施設があった。,塾から弘前和洋裁縫女学校に変身し、四月八日入学式、六月には正式に開校式を挙行した。,また、弘前市民に親しまれた和洋バザーは恒例の行事であった。 / 弘前和洋裁縫女学校
通史編5(近・現代2) (弘前無尽会社の発展)

弘前無尽会社の発展 弘前無尽株式会社は、実質的経営者である専務の唐牛敏世の指導力により発展していった,昭和十三年(一九三八)七月の『青森県評論』に「旭日昇天の弘前無尽」と題し、弘前無尽が躍進し続ける理由が,、「弘前無尽が今日の隆昌を招来した所以のものは、一つに其経営に当る重役に其人を得た結果であつて、就中社,以上、同氏の挨拶によつて弘前無尽の経営方針の全面を簡単、かつ明瞭に察知し得るであらう。」,そして、昭和十七年、戦時下金融統制の下で、弘前無尽は津軽無尽を合併し、県内唯一の無尽会社となった。 / 弘前無尽会社の発展
通史編5(近・現代2) (弘前明の星幼稚園)

弘前明の星幼稚園 三十一年(一九五六)十月四日、紺屋町一二七番地に私立弘前明の星幼稚園が設置された。,同幼稚園の設立によって、弘前におけるカトリック主義幼稚園は三園となった。 / 弘前明の星幼稚園
通史編4(近・現代1) (巡幸の日誌と弘前)

巡幸の日誌と弘前 天皇の巡幸の際には、文章をもって仕える係官が随行し、巡幸が終わってまもなく巡幸日誌,それが二つないし三つ残っており、そのなかに当時の弘前の事情を伝えているものがある。  ,九日晴……四時弘前町ニ抵(イタ)ル。武田清七ガ家ヲ行在トス。,弘前駅東西一里十町、南北二十三町、戸七千、口三万二千、冨戸亦多シ。,しかし、弘前そのものについては、ほとんど記述を省略し、一行が弘前を出発した十日の条(くだり)において次 / 巡幸の日誌と弘前
通史編5(近・現代2) (弘前市の保健対策)

弘前市の保健対策 市町村合併前後から住民の保健衛生に対する要望や苦情が数多く寄せられるようになった。,合併前後から弘前市の保健衛生対策は本格始動している。,市町村合併後の弘前市当局が策定した五ヵ年計画でも、厚生施設の整備を掲げ、保健衛生施設の充実をうたっている,これにより同津軽病院は、弘前市国民健康保険直営の津軽病院として発足することになった。,次に弘前市の水道問題について言及しておきたい。 / 弘前市の保健対策
通史編5(近・現代2) (弘前市の合併と農業)

弘前市の合併と農業 昭和二十六年度(一九五一)の「弘前市農業要覧」から農地改革直後、および昭和三十年,(一九五五)の市町村合併前の弘前市農業の様子がわかる(資料近・現代2No.四二〇)。,総人口に占める農家人口の割合は七%、総世帯に占める農家世帯は五%であり、弘前市の旧市地域だけを見ると農業,しかし、昭和三十年三月、弘前市と中津軽郡一一ヵ村の合併を契機として、同三十一年九月、中津軽郡岩木村駒越,の一部編入、同三十二年九月、南津軽郡石川町の合併により、新弘前市の農家戸数、農家人口、経営耕地面積は、 / 弘前市の合併と農業
通史編5(近・現代2) (弘前電波高校の開校)

弘前電波高校の開校 昭和三十二年(一九五七)、弘南電鉄南弘前駅の近くに、弘前電波高校の前身たる弘前高等電波学校,四十三年、弘前高校を退職したばかりの庄司初郎を校長に迎えた。,高等学校昇格のための布石となって、翌年には高校設置の基準に達したと認められ、電子科四クラスの学校法人弘前電波高等学校 / 弘前電波高校の開校
通史編5(近・現代2) (弘前城内の植物園造営)

弘前城内の植物園造営 敗戦で第八師団が解散させられるまで、弘前城三の丸一帯は兵器廠だった。,戦後弘前市は学都に生まれ変わり、同敷地も弘前大学教育学部が所有することになった。,弘前大学の移転に伴い、都市緑化植物園の整備を進めることになり、昭和六十三年(一九八八)五月三十一日、植物園,弘前城は軍都弘前の軍事施設から、学都弘前にふさわしい施設に生まれ変わったわけである(資料近・現代2No / 弘前城内の植物園造営
通史編5(近・現代2) (弘前幼稚園類焼)

弘前幼稚園類焼 昭和三年(一九二八)四月十八日、弘前幼稚園はいわゆる「富田の大火」で第一大成小学校とともに,この年の卒園者で弘前幼稚園卒園者は一〇二八人となって、一千人の大台を超えた。 / 弘前幼稚園類焼
通史編4(近・現代1) (弘前高等学校の開校)

弘前高等学校の開校 大正九年(一九二〇)十一月二十六日勅令第五五一号により、鳥取高等農業学校・名古屋高等商業学校,・松江高等学校・富山薬学専門学校・金沢高等工業学校とともに全国で第一六番目の高等学校として弘前高等学校,写真191 初代弘前高等学校校長秋田実  志願者は文科甲類三四五人、文科乙類六八人、理科甲類一一五人,開校式は大正十年四月十六日に仮校舎である弘前市公会堂で行われた。,写真190 大正10年8月校舎落成当時の弘前高等学校 / 弘前高等学校の開校
通史編5(近・現代2) (弘前大谷幼稚園)

弘前大谷幼稚園 四十二年(一九六七)三月十八日、新寺町一五六番地二に弘前大谷幼稚園が設立認可された。 / 弘前大谷幼稚園
通史編5(近・現代2) (弘前駅前地区整備事業)

弘前駅前地区整備事業 土地区画整理事業の代表例として弘前駅前地区を見れば、その目的は、駅前広場と駅前通,りがわずかに整備されているだけで、無秩序に発展した市街地なので、弘前市の表玄関として、また土手町に連なる,第二の都心部としてふさわしい街づくりが必要であるというものである(弘前市『弘前駅前地区土地区画整理事業事業計画書,弘前駅前地区の整備計画は、昭和四十三年(一九六八)に駅前南地区の土地区画整理事業として開始され、当初の,この計画は昭和五十四年開始の弘前駅前地区土地区画整理事業に引き継がれた。   / 弘前駅前地区整備事業
通史編4(近・現代1) (商業弘前倶楽部の活動)

商業弘前倶楽部の活動 弘前市における商工業者団体の活動は、明治十七年(一八八四)の商業弘前倶楽部の活動,同倶楽部は一〇七人の会員により発足し、弘前の有力財界人や政治家の大道寺繁禎、菊池九郎ら二一人を名誉会員,設立規則書には、早く農工商業の道を開き、財産を増殖して商業の境を広め、貨物融通の便利を進め、弘前の隆盛 / 商業弘前倶楽部の活動
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