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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(弘前城の史跡指定)
弘前城
の史跡指定 弘前市の観光の目玉が
弘前城
と周辺一帯にあることは論をまたない。,
弘前城
のある弘前公園一帯、長勝寺はじめ禅林三十三ヶ寺一帯、最勝院と鏡ヶ池一帯の三地区に対し、市当局は昭和二十七年,けれども
弘前城
の石垣をはじめ、長年の風雨に傷みも出始めている諸物件の修理には莫大な費用がかかる。 /
弘前城
の史跡指定
資料編1(考古編)
(10.弘前城内遺跡)
10.
弘前城
内遺跡 (遺跡番号 02074)(図25) (1)所在地 弘前市大字下白銀町1番地,占める台地(西は岩木川・南は寺沢川・東は土淵川等によって画された)の北端部は、慶長15年(1610)
弘前城
,図25
弘前城
内公園緑地課前遺跡出土遺物(縄文晩期) ※参考文献 弘前市教育委員会『史跡
弘前城
跡,はす池発掘調査報告書』弘前市 1982年3月 福田友之「
弘前城
本丸跡発見の石器時代遺物について」(北奥古代文化 / 10.
弘前城
内遺跡
通史編5(近・現代2)
(弘前城内の植物園造営)
弘前城
内の植物園造営 敗戦で第八師団が解散させられるまで、
弘前城
三の丸一帯は兵器廠だった。,
弘前城
は軍都弘前の軍事施設から、学都弘前にふさわしい施設に生まれ変わったわけである(資料近・現代2No /
弘前城
内の植物園造営
資料編3(近世編2)
(1 弘前城の歴史)
1
弘前城
の歴史 津軽為信が、その居城を大浦城から堀越城へ移したのが文禄二年(一五九三)であった。,ここでは、
弘前城
の本丸居館について知りうる資料として、五枚の絵図を写真とともに掲げ、各々解説を付した。 / 1
弘前城
の歴史
通史編3(近世2)
(付図『弘前城下御町絵図』(弘前市立博物館蔵))
付図『
弘前城
下御町絵図』(弘前市立博物館蔵) [付図]
弘前城
下絵図に、
弘前城
を象徴的に描いたものは / 付図『
弘前城
下御町絵図』(弘前市立博物館蔵)
通史編2(近世1)
(土着策と弘前城下)
土着策と
弘前城
下 藩士土着策は農村部への藩士在宅であり、家臣団の城下集住という大原則を否定するものである,また、寛政四年(一七九二)、
弘前城
下および九浦へ人返し令が出され(資料近世2No.六六)、一定の商家戸数以外,これまで述べてきたように、藩士土着策が蝦夷地出兵を背景として打ち出された政策とすれば、蝦夷地出兵は
弘前城
下 / 土着策と
弘前城
下
通史編3(近世2)
(高岡霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入)
高岡霊社の宝蔵・
弘前城
の金蔵へ侵入 真言宗久渡寺(くどじ)(現市内坂元)の役人の今庄太郎は、安政三年,現中津軽郡岩木町百沢、明治初年に高照神社と改称)の御宝蔵の錠前を破って侵入し、太刀・小刀などを盗み、同十一日には
弘前城
,庄太郎は、信政を埋葬し祭神とする神社の宝蔵と、藩政の中枢であり藩主の住まいでもある
弘前城
中の金蔵へ、盗 / 高岡霊社の宝蔵・
弘前城
の金蔵へ侵入
通史編5(近・現代2)
(菊ともみじまつり)
有形文化財の代表格が国の史跡となった
弘前城
跡であるならば、無形文化財のそれは祭りであった。,青森県でも
弘前城
のさくらは全国的に有名であり、秋の紅葉としては八甲田山麓のそれが有名である。,
弘前城
はあまりにも桜だけが有名になったが、松の古木・巨木が多いことでも注目されている。,
弘前城
内の青森県護国神社前広場で会場開きが行われた。,弘前公園内の紅葉は、春夏とは違った
弘前城
を見せてくれる。
資料編3(近世編2)
(3 現存する天守・城門等の考察)
図6
弘前城
跡 文化財配置図 ○天守--重要文化財 天守は、津軽二代信枚が当初に築城したときは,図7
弘前城
天主 立面図・平面図 (『重要文化財
弘前城
修理工事報告書』より転載) ○隅櫓,図8 二の丸辰巳櫓 立面図・平面図 (『國寳
弘前城
二ノ丸辰巳櫓、同丑寅櫓及三ノ丸追手門維持修理報告書,』より転載) 図9 二の丸未申櫓 立面図・平面図 (『重要文化財
弘前城
修理工事報告書』より,図11 二の丸南門 立面図・平面図 (『重要文化財
弘前城
修理工事報告書』より転載) 図12
通史編3(近世2)
(戸口と住民構成)
戸口と住民構成 江戸時代前期における
弘前城
下の人口や住民構成は、武家人口についての記録がなくはっきりしたことはわからない,正保城絵図の下図と思われる寛永末年の「津軽
弘前城
之絵図」(弘前市立博物館蔵)によれば、城下の武家屋敷(,江戸時代後期における
弘前城
下の人口と住民構成は、明和年間(一七六四~一七七一)ころに作成されたと思われる,この時期、
弘前城
下には三万人以上の人々が住んでいたことは間違いない。,一九六)では、町方の人数は一万五五六三人となっており、武家人口は不明であるが、天保期から幕末期にかけての
弘前城
下
資料編3(近世編2)
(2 本丸御殿の考察)
図1 弘前御城御指図(弘図津・M63) ○「
弘前城
本丸御殿絵図(一)」(TK五二六-一),図2
弘前城
本丸御殿絵図(弘図津・TK526-1) ○「
弘前城
本丸御殿絵図(二)」(TK五二六,図3
弘前城
本丸御殿絵図(弘図津・TK526-2) ○「
弘前城
本丸殿中之図」(丙一七-一一九五,図4
弘前城
本丸殿中之図(弘図古・丙17-1195) ○「御本丸建物之図」(TK五二六-三,奥の部分は、先の「
弘前城
本丸殿中之図」で計画されていた増築が完工した様子が示されている。
通史編3(近世2)
([口絵])
[口絵] 口絵1
弘前城
本丸御殿絵図 寛文13年 口絵2 旧
弘前城
杉戸唐子図 口絵
通史編2(近世1)
(災害の続発とその影響)
八月に入ると逃散する百姓・町人が相次ぎ、乞食となって領内をさまよい、青森近辺や
弘前城
下にも姿をみせた。,#160;4月 3日 風害 西海岸 破船・難船多数 7月 8日 水害
弘前城
下,
弘前城
の屋根が吹き飛ばされる 6月18日 火災 碇ヶ関 43軒焼失 12月30日 水害,
弘前城
下など 岩木川の高水,橋の流失 正徳4(1714) 4月13日 火災 深浦 165軒焼失, 7月12日 水害
弘前城
下 岩木川・土淵川高水,浸水,橋の流失 享保元(1716)
通史編3(近世2)
((三)住居)
(三)住居 藩主の住居は在国の際は
弘前城
本丸御殿(藩庁および生活の場)であり、参勤交代により在府の場合,
弘前城
本丸御殿の間取りなど居館の形式は、寛文~貞享期(一六六一~八八)の改造や拡張によって確立し固定したとみられる,ここでは「
弘前城
本丸殿中図」(弘図古)によって、
弘前城
本丸御殿をみることにしたい(図87参照)。,図87.
弘前城
本丸御殿平面図 ①玄関および御用所 ②公式の儀式などに用いられる表座敷 ③藩主
通史編3(近世2)
((三)住居)
弘前城
下に配置された武家町は、寛永(一六二四~四四)末年ころの「津軽
弘前城
之絵図」(弘前市立博物館蔵),と、慶安二年(一六四九)ころの「弘前古御絵図」(弘図津)によれば、
弘前城
を中心として、 城西――本百石町
通史編1(古代・中世)
(城館調査の今後)
その後、
弘前城
跡などと一連の歴史遺産であるとの理解から、昭和六十年(一九八五)には「津軽氏城跡」として,その調査結果によると、
弘前城
移封までの津軽氏本拠として、数時期にわたる城郭の改修、総構(そうがまえ)的,写真182 福村城跡発見の橋梁 現在は、弘前市域に限定しても、国史跡となっている
弘前城
、長勝寺構
資料編1(考古編)
(4.発掘調査以外の遺跡)
カラー図23
弘前城
跡出土陶磁器(1)(表裏) 1~8肥前 カラー図24
弘前城
跡出土陶磁器
通史編3(近世2)
(六 南溜池の四季)
六 南溜池の四季 南溜池(みなみためいけ)(現市内南塘(なんとう)町)は、
弘前城
下の南、相良(さがら,)町と新寺(しんてら)町との間に位置した溜池で、池の名前は
弘前城
の南に位置することによる。
通史編3(近世2)
(質屋の利用)
質屋の利用 江戸時代を通じて
弘前城
下の質屋の数が、どれくらいあってどのような変遷があったのかはまったく,「文化二年八月改弘前町中人別戸数諸工諸家業総括 全」によれば、城下全体で一七軒知られ(前掲『
弘前城
下史料
通史編5(近・現代2)
(観光客受入態勢の必要性)
弘前市が観光地として名を高めるようになったのは、
弘前城
をはじめとする文化財のおかげである。,同じことが
弘前城
の桜にもいえた。桜は明治末期に先覚者の主唱によって植えられたものである。,新たに桜を植樹して数を増やし、桜としての公園を造成していかなければ、いつかは桜は枯渇し、桜の
弘前城
のイメージ,現在に至るまでの弘前市の観光政策が、
弘前城
と桜に極度に依存してきたことは事実であろう。,しかし、
弘前城
と桜がもつイメージが大きすぎるためか、観光関係当局も市民も、先人の築き上げた観桜会イベント
資料編3(近世編2)
([付図])
[付図]
弘前城
本丸御殿絵図(寛文十三年) 津軽和徳町周辺絵図(文政十三年) 本所御上屋敷惣御絵図
通史編3(近世2)
(幕末期の市域)
これに先立つ文化期では、同四年(一八〇七)に城下の町々を一丁目・二丁目に分けることが行われた(前掲『
弘前城
下史料,一方、文久二年の「御城下市中大略」によると、幕末の
弘前城
下は次のとおりであった。,常盤坂の千本杉と石森の間、矢場は南溜池沿い新寺町の白狐寺のわき、刑場は富田町の町端取上領にあった(前掲『
弘前城
下史料
通史編3(近世2)
((四)瓦)
(四)瓦 「国日記」によると、
弘前城
内並びに一部城外建造物に使用された屋根瓦は、国元で焼成された国瓦,なお、昭和五十四年(一九七九)度から同五十八年度にかけて
弘前城
跡三の丸庭園の発掘調査が行われたが、同報告書
通史編3(近世2)
((二)犯罪と刑罰)
(二)犯罪と刑罰 江戸時代の
弘前城
下では、どのような犯罪が起き、それに対していかなる刑罰が科せられていたのか
通史編3(近世2)
(諸役と仲間)
諸役と仲間 慶安二年(一六四九)の「弘前古御絵図」(弘図津)によれば、
弘前城
下の町方には多くの家業があったことが,・居鯖五一・大工三九・鷹師二九・煙草作り二三・銅屋二一・馬屋と博労一八・鞘師一一である(長谷川成一「
弘前城
下,について」同編『
弘前城
下史料』上 一九八六年 北方新社刊 以下、執筆にあたり多くを同書によった)。,
弘前城
下には居鯖横目(魚屋の商売を監視する役)が四人、両浜(青森と鰺ヶ沢)に四人、十三(現北津軽郡市浦村,
弘前城
下以外に、両浜の青森・鰺ヶ沢の役銀や在浦(両浜以外の九浦)の役銀についても記載があり、貴重な情報
通史編3(近世2)
(金木屋日記にみえる衣服)
金木屋日記にみえる衣服 この日記の筆録者、武田又三郎敬之(たけだまたさぶろうたかゆき)は、
弘前城
下の,日記を記録し始めたのは、家業の不振から
弘前城
下の西方賀田(よした)村(現中津軽郡岩木町)へ転居した後のようである,それより以前六月七日には、
弘前城
下の他家を訪問した際に、絹羽織を着ており、金木屋は家老大道寺や藩の重臣
通史編3(近世2)
(時期・日数・通路)
時期・日数・通路 津軽弘前藩の参勤交代の時期は
弘前城
を出発するのが三月に多く、文化四年(一八〇七)以降,江戸から
弘前城
へ到着するのは五月と六月が多く、文化三年以後は四月が比較的多いが、三・五・七・八・九・十月
通史編2(近世1)
(二三 松井四郎兵衛留書)
二三 松井四郎兵衛留書
弘前城
下の町年寄松井四郎兵衛が、自らの職務遂行上必要なことを私的に書き留めたもの
通史編3(近世2)
(西光寺)
弘前城
下の形成に伴い、元寺町へ移った跡の草庵は、のちに西光院となる。
通史編3(近世2)
((二)神職組織)
二代藩主信枚は
弘前城
の築城に当たって城下の縄張りを行わせ、城の鬼門に当たる北東の熊野宮(現熊野奥照神社
通史編2(近世1)
(家中屋敷の郭外移転)
家中屋敷の郭外移転
弘前城
内には当初家中(藩士)の屋敷が存在した。,そのころの様子は、元禄時代以前の
弘前城
や城下を描いた絵図によって、ほぼ知ることができる(ここで言及する,寛永末年ころ作成されたとみられる「津軽
弘前城
之絵図」によれば、城内は本丸・内北の郭・西の郭を除いては「,また、幕府が諸大名に作成・提出を命じた、いわゆる「正保城絵図」のうち、津軽家が差し出した「津軽
弘前城
之絵図,など、三の郭には御館・評定所・山方払方・籾蔵・板蔵・紙蔵・与力番所、四の郭には作事方・鷹部屋が置かれ、
弘前城
通史編2(近世1)
(二度の高直り)
さらに、
弘前城
内外の補強、海岸での台場(だいば)の建設、武器の製造、軍事調練などにも、大金が必要であった,藩主寧親は、一〇万石への高直りを機会に、
弘前城
天守の再興を企図した。,図161.明治期の
弘前城
天守
通史編3(近世2)
(西福寺)
「浄土宗諸寺院縁起」は、堀越城下に創建し、慶長年間(一五九六~一六一四)に
弘前城
下元寺町の貞昌寺門内に
通史編3(近世2)
(武士に不相応な行為と食料奪取)
御留守居組(おるすいぐみ)の三橋牛之介は「其方儀、平生不覚悟、侍の仕方これ無きにつき」ということで、
弘前城
内三,おおめつけ)の神源太夫から阿房払(あほうばらい)を申し渡され、ざんばら髪にして刀を取り上げられ、裸足のまま
弘前城
下
通史編3(近世2)
(博奕の判決例)
前科一犯の和徳町(わとくまち)の与八(町人と思われるが職業は不明)は、博奕仲間の一人であり、鞭刑三鞭・
弘前城
下,三里四方追放、鍛冶町(かじまち)の長右衛門(町人と思われるが職業不明)も与八と同じ仲間で、鞭刑三鞭・
弘前城
下
通史編1(古代・中世)
(大浦氏の城下町建設の流れ)
そしてここは近世の
弘前城
と
弘前城
下町が建設されていく慶長十六年(一六一一)まで使われていた。
通史編2(近世1)
(僧侶・神官対象の司法制度)
揚屋入りではなく、寺社奉行の管轄下で行われ、末寺の起した事件は僧録所(そうろくじょ)(例―浄土真宗では
弘前城
下,の真教寺(しんきょうじ))・修験司頭(しゅげんしとう)(例―
弘前城
下の大行院(だいぎょういん))が直接
通史編2(近世1)
(天保期の人返し)
天明の飢饉の際には天明五年(一七八五)の四月に
弘前城
下の施行小屋が解散され、収容されている飢民約三〇〇,「国日記」天保八年九月七日条(資料近世2No.一三七)によると、
弘前城
下には施行小屋が三ヵ所あり、それぞれに
通史編2(近世1)
(三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)
から、文禄三年(一五九四)に堀越(ほりこし)城へ、さらに慶長十六年(一六一一)には高岡(たかおか)城(
弘前城
資料編3(近世編2)
(●普門院 本堂 西茂森二丁目)
古くは観音寺あるいは単に観音堂などと呼ばれて茂森山にあったが、
弘前城
築城の際の茂森山削平に伴って現在地
通史編3(近世2)
(天徳寺)
「浄土宗諸寺院縁起」は、
弘前城
下形成により、大浦城下から元寺町へ移ったとする。
通史編3(近世2)
(宝泉院)
「長勝寺並寺院開山世代調」によると、初め中畑村(現市内)にあり、その後、鬼沢(おにざわ)村(同前)、
弘前城
下
通史編3(近世2)
(宝暦期の城下)
宝暦期の城下
弘前城
下に大きな変化がみられたのは、慶安二年(一六四九)に横町(現東長町)の算盤(そろばん,この政策は同十年、同十二年と続き、
弘前城
を囲む堀端の白銀町と大浦町は上級藩士の住む武家地となり、蔵主町,ここに、
弘前城
内は政務機関の所在地となり、城下は武家地と町方、寺社地に区分される典型的な城下町の景観を
通史編3(近世2)
(寛政期の城下)
なお、同五年の「御家中潰(つぶれ)町之事」(前掲『
弘前城
下史料』上)によれば、城南では在府町後通りと同新割町,結局、この政策は失敗に終わり、在宅者たちは再び
弘前城
下へ戻って来ることになった。,実際に在宅者の
弘前城
下移住が完了したのは三年後の享和元年(一八〇一)十二月のことであった。
通史編5(近・現代2)
(雪燈籠まつり)
市当局、観光協会、商工会議所は、冬のイベントとして札幌雪まつりの盛況ぶりにあやかる形で「
弘前城
雪燈籠まつり,夜には
弘前城
の天守閣と老松がライトアップされ、蓮池の周りには、ロウソクを灯した小さなかまくらが多数並べられる
通史編4(近・現代1)
(荒城の桜)
荒城の桜 藩政時代、
弘前城
内に桜の木は数少なかった。,写真195 内山覚弥 まず、明治二十八年に、公園として一般公開が始まった
弘前城
跡に日清戦勝記念
通史編2(近世1)
(信枚の築城)
信枚の築城
弘前城
築城が着手されたのは慶長十五年(一六一〇)のことで、一月に領内に人夫の割り当てを行,しかし
弘前城
で石垣が組まれたのは本丸だけであった。
通史編2(近世1)
(預け・入牢・護送)
百姓や町人(下級武士をも含む)などで容疑のはっきりしない者や軽い罪の者は、文化二年(一八〇五)十月、
弘前城
下,逆に江戸から
弘前城
下への護送日数もほぼ同じである。
通史編4(近・現代1)
(白銀小学を「朝陽」と改称)
朝陽の校名は、同校が所有する市河米庵の書『朝陽館』の扁額(旧
弘前城
能楽堂に掲げられたものを同校がもらい
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
一六四四)十二月二十五日、幕府が諸藩に国絵図と城絵図の調製を命じたことにより、幕府に提出された「津軽
弘前城
之絵図,一方、寛永末年の絵図と命名されている、同じ様式で描かれた「津軽
弘前城
之絵図」(弘前市立博物館蔵)も存在,図68.正保2年津軽
弘前城
之絵図 基本的には、両絵図は
弘前城
を中心に、城下の町割りの様子、台地,次いで、
弘前城
そのものをみると、本丸にはすでに天守閣はなく、本丸の南西隅に「天主ノ跡」という記載がみえる
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