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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (弘前大学の拡充)

弘前大学の拡充 農林県であり、また、りんごの特産で知られる園芸県でもある青森県において、農学部の設置,その後も県および大学が協力して農学部設置運動が進められ、昭和三十年(一九五五)一月、弘前大学長から文部大臣,その後も農学部拡充整備のための活動がみられ、昭和三十二年八月には財団法人弘前大学後援会が募金活動に乗り,国立大学の法人化に伴い、平成十六年四月からは「国立大学法人弘前大学」によって設置された弘前大学として新,弘前大学のモットーである「世界に発信し、地域と共に創造する弘前大学」を継承し、その実現に向けて、教育、 / 弘前大学の拡充
通史編5(近・現代2) (弘前大学設置認可申請)

弘前大学設置認可申請 弘前医科大学を別として、青森師範学校、青森青年師範学校、官立弘前高等学校はいずれも,昭和二十三年に文部省に提出された「国立弘前大学設置認可申請書」は一四項目からなっており、目的および使命,写真142 発足当時の弘前大学医学部(在府町旧朝陽小学校)  こうして、弘前大学は昭和二十四年五月三十一日 / 弘前大学設置認可申請
通史編5(近・現代2) (弘前大学医学部との関係)

弘前大学医学部との関係 第八師団を失った弘前市は弘前大学を設立し、「学都」弘前をめざしてきた。,これ以後、市の医学界は弘前大学を中心に動くことになり、青森県の医学界をも左右することになる。  ,けれども、弘前大学の医学設備が全国の水準より下回っていたのは、残念ながら認めざるを得ない。,優れた医者をめざし、向学心あふれる医学生を弘前大学から手放さないような工夫が必要とされている。 / 弘前大学医学部との関係
通史編5(近・現代2) (弘前大学の誕生と市民の熱意)

弘前大学の誕生と市民の熱意 敗戦により軍都としての機能を喪失した弘前市は、戦後弘前大学を誘致し学都としての,発展をめざした・その意味から言えば、市にとって弘前大学は単なる学問の府以上の位置づけを有していた。,しかし弘前大学誕生までには青森市との対抗関係だけでなく、教育設備、教員人事、青森師範学校生の身分保障問題,弘前大学誕生に学都建設の構想を夢見て、表面的には沸いた弘前市だが、その構想を具体的に実現するに当たっては / 弘前大学の誕生と市民の熱意
通史編5(近・現代2) (弘前大学後援会と農学部の新設)

弘前大学後援会と農学部の新設 弘前大学を学都弘前の中心とし、市の発展の基礎とすることで市や県の幹部は,それは財団法人弘前大学後援会が、知事・市長をはじめ、県内・市内の政界・財界の幹部をメンバーに設立されたことからも,この異例の措置を見た要因には、弘前大学後援会の設置と募金収集活動が大きく関与していたのである。,弘前大学は国立大学であり、基本的な運営方針に国の意向が強く反映するのは当然である。,側面が強かったといえよう(弘前大学については、本章第五節第五項のほか、『弘前大学五十年史』弘前大学、一九九九年 / 弘前大学後援会と農学部の新設
資料編1(考古編) (「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成6年4月1日現在辞令交付分))

新宅清司  弘前市助役 ○副編纂委員長  佐藤圭一郎 弘前市教育長 ○監修者  乕尾俊哉  弘前大学名誉教授, 長谷川成一 弘前大学人文学部教授 【編集委員会】 ○監修者  乕尾俊哉  弘前大学名誉教授, 長谷川成一 弘前大学人文学部教授  齊藤利男  弘前大学教育学部助教授  黒瀧十二郎 県立弘前中央高校教諭,○執筆編集員  齊藤利男  弘前大学教育学部助教授  山口義伸  県立板柳高校教諭  小口雅史, 神田健策  弘前大学農学部教授 ○執筆協力員  中畑長四郎 弘前市文化財審議委員  斎藤三千政
資料編3(近世編2) (「新編 弘前市史」編纂事業 関係者名簿(平成十一年四月一日現在辞令交付分))

編纂委員長  福沢重夫  弘前市助役 副編纂委員長 佐藤圭一郎 弘前市教育長 監修者    乕尾俊哉  弘前大学名誉教授,  元弘前市教育委員  〃     村越潔   青森大学考古学研究所長  〃     長谷川成一 弘前大学人文学部教授,   【編集委員会】 監修者    乕尾俊哉  弘前大学名誉教授 編集委員長  森山泰太郎 , 〃     齊藤利男  弘前大学教育学部教授  〃     黒瀧十二郎 弘前学院大学非常勤講師,  〃    神田健策  弘前大学農学生命科学部教授 執筆協力員  中畑長四郎 元弘前市文化財審議委員
通史編1(自然・原始) (「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成十三年一月一日現在辞令交付分))

編纂委員長  藤田喜代一 弘前市助役 副編纂委員長 佐藤圭一郎 弘前市教育長 監修者    乕尾俊哉 弘前大学名誉教授,元弘前市教育委員   〃    村越潔 青森大学社会学部教授・考古学研究所顧問   〃    長谷川成一 弘前大学人文学部教授,    【編集委員会】 監修者    乕尾俊哉 弘前大学名誉教授 編集委員長  森山泰太郎 ,二部濱男 元青森気象台調査官   〃    佐藤仁 元浪岡町史編さん室長   〃    鎌田耕太郎 弘前大学教育学部教授,調査協力員  菊池正司 尾上町立尾上中学校教諭    Ⅱ 近世専門部会 部会長    長谷川成一 弘前大学人文学部教授
通史編5(近・現代2) (学都充実への要望)

学都充実への要望 昭和二十四年(一九四九)七月に弘前大学が開学した。,十二月十四日の市議会で「弘前大学施設充実に関する陳情について」緊急動議が提出された。,しくなく、教授の宿舎、図書や研究施設が不足する等憂慮すべき事態にあり、来県した文部省視察員が全国的に見て弘前大学,また小野議員は野辺地分校が非常に不振であるため、八戸市が教育学部の誘致を交渉しだしたことを報じ、これも弘前大学,要するに県が主体となった事業であるがゆえに、県が「弘前大学のために約束した責任を一刻も早く果」たすことを
資料編1(考古編) (12.牧野Ⅱ遺跡)

建設のため整地した際、多量の遺物が出土し、それを伝え聞いた県立弘前工業高校岡田郁雄教諭の調査を経て、弘前大学教育学部考古学研究室,縄文晩期) 土偶(縄文晩期) 動物形土製品(縄文晩期) ※参考文献 1)弘前大学教育学部考古学研究室,「牧野Ⅱ遺跡出土遺物について(1)」(弘前大学考古学研究1)1981年10月 2)岡田康博「牧野Ⅱ遺跡出土遺物,について(2)-土偶-」(弘前大学考古学研究2)1983年4月
通史編5(近・現代2) (弘前城内の植物園造営)

戦後弘前市は学都に生まれ変わり、同敷地も弘前大学教育学部が所有することになった。,弘前大学の移転に伴い、都市緑化植物園の整備を進めることになり、昭和六十三年(一九八八)五月三十一日、植物園
通史編5(近・現代2) (戦後の世相と観光政策)

戦後は第八師団に代わる弘前市の象徴と産業基盤を見出すために、弘前大学を新設し、学都弘前をめざした。,弘前大学の設立は、将来の弘前市ないし青森県を牽引する若い人材を育成するための重要な設備だった。
資料編3(近世編2) ([口絵])

年発行の宮崎札(青森銀行記念館蔵) はる詫状(本文史料232号) 永代相渡田方証文(弘前大学附属図書館蔵小山内文書,に納入された結縁交名(左)と結縁一族連名願文(下) (弘前市・最勝院蔵) 公私自分留書(弘前大学附属図書館蔵弘前八幡宮文書
通史編2(近世1) (二六 高岡霊験記(たかおかれいげんき))

写本は弘前市立図書館・弘前大学附属図書館等所蔵。
通史編2(近世1) ([奥付])

2(近世1)   平成14年6月28日発行 「新編 弘前市史」編纂委員会 乕尾俊哉(弘前大学名誉教授
通史編3(近世2) ([奥付])

3(近世2)   平成15年6月20日発行 「新編 弘前市史」編纂委員会 乕尾俊哉(弘前大学名誉教授
資料編1(考古編) ([奥付])

7年1月31日発行 ■ <編集> 「新編 弘前市史」編纂委員会 ■ <監修> 乕尾俊哉(弘前大学名誉教授
資料編1(古代・中世編) ([奥付])

7年1月31日発行 ■ <編集> 「新編 弘前市史」編纂委員会 ■ <監修> 乕尾俊哉(弘前大学名誉教授
資料編2(近世編1) ([奥付])

8年3月31日発行 ■ <編集> 「新編 弘前市史」編纂委員会 ■ <監修> 乕尾俊哉(弘前大学名誉教授
資料編1(考古編) (11.牧野Ⅰ遺跡)

竪穴住居跡の存在も想定されたため、前述の高校と弘前大学教育学部考古学研究室の合同調査として、昭和44年,縄文中期) 円筒上層b式土器 ※参考文献 福田・古市・三浦「弘前市牧野Ⅰ遺跡発掘調査報告」(弘前大学考古学研究
通史編1(自然・原始) ([奥付])

) 平成13年3月31日発行 <編集> 「新編 弘前市史」編纂委員会 <監修> 乕尾俊哉(弘前大学名誉教授
通史編4(近・現代1) ([奥付])

平成17年10月17日発行 <編集> 「新編 弘前市史」編纂委員会 <監修> 乕尾俊哉(弘前大学名誉教授
通史編1(古代・中世) ([奥付])

平成15年11月28日発行 <編集> 「新編 弘前市史」編纂委員会 <監修> 乕尾俊哉(弘前大学名誉教授
通史編5(近・現代2) ([奥付])

18日発行           「新編 弘前市史」編纂委員会           乕尾俊哉(弘前大学名誉教授
資料編3(近世編2) ([奥付])

12年3月31日発行 ■ <編集> 「新編 弘前市史」編纂委員会 ■ <監修> 乕尾俊哉(弘前大学名誉教授
通史編5(近・現代2) (掲載写真の典拠・所蔵一覧)

写真125 「りんご百年」弘前市立図書館蔵 写真127 弘前市立図書館蔵 写真141 『写真で見る弘前大学,の50年』弘前大学 1999年 写真145 『弘前幼稚園閉園記念誌』弘前市立弘前幼稚園 1998年,青森県立弘前中央高等学校 2001年 写真209 弘前福祉短期大学提供 写真210 『写真で見る弘前大学,の50年』弘前大学 1999年 写真240 『写真集 青森大空襲の記録-次代への証言 特別号』青森空襲,18号』弘前大学 1993年 写真290 『弘前市の洋風建築』弘前市教育委員会 1986年 写真291
通史編4(近・現代1) (児能花(このはな)幼稚園の設立)

児能花(このはな)幼稚園の設立 明治四十二年(一九〇九)、本町(現弘前大学医学部敷地)に児能花(このはな
通史編1(自然・原始) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

八戸市博物館 八戸市立田面木小学校 弘前市教育委員会 弘前市立図書館 弘前市立博物館 弘前大学教育学部地学研究室
通史編5(近・現代2) (弘西林道の開通)

代わって道路建設計画が戦前から持ち上がり、戦後その運動は再開し、昭和三十一年には関係市町村、営林局、弘前大学等
通史編2(近世1) (宝暦改革の課題)

のそれは一九万六三五三石余となっており、年貢収納高が頭打ちになっていた(浅倉有子「津軽藩の郷帳について」『弘前大学国史研究,維持していたことが、一層この傾向を拡大させていくのである(瀧本壽史「宝暦・天明期津軽藩農村の諸問題」『弘前大学国史研究
通史編5(近・現代2) (青森医学専門学校の弘前市移転)

写真141 弘前大学医学部付属病院(旧弘前市立病院) 昭和二十三年二月十日、弘前医科大学の設置が,弘前医科大学は本県における最初の大学として記念すべきものであったが、昭和二十四年五月の弘前大学の発足によって
通史編5(近・現代2) (弘前相互銀行と青南信用組合の合併)

三十五年九月一日、弘前市代官町に本店を新築するが、四階建ての建物は、当時の弘前では「角は」宮川デパート、弘前大学医学部附属病院
通史編5(近・現代2) (勤労奉仕の始まり)

十三年(一九三八)八月、弘前市では南塘グラウンド(現弘前大学医学部グラウンド)の西南を流れる川筋を変更
通史編5(近・現代2) (青年学校の移転と廃止)

移転と廃止 昭和二十二年三月十五口、在府町の朝陽小学校校舎は、弘前市に移転した青森医学専門学校(現弘前大学医学部
通史編3(近世2) (一代本尊)

八大菩薩を組み合わせ、自分の生まれた干支による守本尊を一代様とする(小池淳一「イチダイ様信仰の生成」『弘前大学国史研究
通史編5(近・現代2) (朝陽小学校校舎新築落成)

戦後の学都弘前建設のため、青森医学専門学校に校舎を提供、あるいは児童ぐるみ弘前大学附属小学校としての貸与
資料編1(考古編) (〈参考文献〉)

地質調査所 Ⅸ)岩井武彦(1965) 青森県津軽盆地周辺に発達する新生界の地質学的並びに古生物学的研究.弘前大学教育学部紀要
資料編1(考古編) (協力機関及び協力者一覧)

協力機関及び協力者一覧 〈順不同、敬称略〉 文化庁 東北大学文学部考古学研究室 弘前大学教育学部村越研究室
資料編1(考古編) ((5)縄文時代後期)

図9 縄文時代後期の土器(1) 十腰内第Ⅰ式土器… 弘前市・十面沢遺跡(弘前大学蔵) 十腰内第,弘前市・十面沢遺跡 (青森県立郷土館蔵) 十腰内第Ⅵ式台付鉢形土器…平賀町・石郷遺跡 (弘前大学保管
通史編4(近・現代1) (巡幸と記念碑)

青森地方裁判所弘前支部構内、弘前大学医学部附属病院構内、富田の稲荷神社前の清水(しつこ)のほとり、小栗山
通史編1(自然・原始) (現在の態勢)

そのほか、弘前大学で考古学を学んだ卒業生による『弘前大学考古学研究』(一九八一年創刊)、県内外研究者の
通史編5(近・現代2) (朝陽小学校の移転と新築)

ちなみにこの新校舎は、昭和二十二年三月十五日弘前市に移転の青森医学専門学校に譲渡、校地は現在弘前大学医学部
通史編5(近・現代2) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

             弘前市立堀越公民館 学校法人弘前東高等学校 (弘前市)          弘前大学
通史編5(近・現代2) (ことばの教室開設)

言語障害児の治療指導には当事者だけでなく、専門家の助言が必要であり、その点弘前大学教育学部、同医学部がある
通史編5(近・現代2) (東北女子大学の開学)

同年三月一日、東北女子大学初代学長に前弘前大学学長佐藤煕が就任、三月三十一日には大学新校舎が落成、五月二十日弘前市民会館
資料編1(考古編) (監修のことば-発刊に当たって-)

その為か、この市史二冊の書評を『弘前大学国史研究』35号(昭和39年6月)に書くことになりまして、弘前
通史編2(近世1) (信政の襲封と黒石分知)

諸侯・幕臣に課す役負担も、本藩が従来どおりに負担する形式をとった(浪川健治「黒石津軽領の性格と支配」『弘前大学国史研究
通史編2(近世1) (一 明暦検地の意義)

村以上あるので、すべての村の分がそろっているわけではない(七尾美彦「黒石藩明暦二年の検地帳をめぐって」『弘前大学国史研究
通史編2(近世1) (二 寛政改革の実施)

長谷川成一編『津軽藩の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊、瀧本壽史「津軽藩寛政改革意見書の分析」『弘前大学国史研究
通史編5(近・現代2) (本部封鎖事件)

弘前大学においても例外ではなく、昭和四十四年(一九六九)六月には開学以来初の学生ストライキが行われた。
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