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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (弘前女学校)

弘前女学校 私立弘前女学校は、大正四年(一九一五)九月、設立者兼校長であったミス・アレキサンダーに代,この年十月には、弘前で陸軍特別大演習が行われ、弘前女学校の生徒も天皇以下関係者の歓送迎に毎日忙しい日を,ラッセルが着任したころの弘前女学校は、生徒数わずかに六三人にすぎなかったが、十五年にはついに二〇〇人を,なお、大正八年七月には、学校の名称から「私立」を除いて「弘前女学校」と呼ぶことに改められている。  ,夫人であり、弘前教会の婦人部長であった高谷とく子が遺産の中から一万円を贈ったものを基に、躍進めざましい弘前女学校 / 弘前女学校
通史編4(近・現代1) (弘前女学校の創設)

弘前女学校の創設 メソジスト派(イギリスで興ったキリスト教プロテスタント諸派の一つ)の外国伝道協会は,山鹿元次郎が初代校務担当者であったが、創設のころの様子を書いた『弘前女学校歴史』によれば、女学校と称しているものの,明治二十二年(一八八九)五月、弘前女学校が弘前市元大工町一番地に開校した。,開学式の様子を『東奥日報』は「予(かね)て本社日報にて広告せし如く、弘前女学校の開校は去る廿五日を以てしたり / 弘前女学校の創設
通史編5(近・現代2) (戦争と弘前女学校)

戦争と弘前女学校 昭和十二年に入ると、時局はますます風雲急を告げ、非常時色が濃くなった。,この年、弘前女学校は創立五十周年を迎え、十二月二十四日から四日間、盛大な式典や行事を行った。,写真68 弘前女学校校舎(昭和4年落成)  二十年に入ると授業は全く休止状態になった。 / 戦争と弘前女学校
通史編5(近・現代2) (昭和初期の弘前女学校)

昭和初期の弘前女学校 昭和三年十二月、校長ミス・ラッセルは日本における伝道と教育の任務を終え、母国アメリカ,弘前女学校のその後の発展は、このラッセル校長時代に負うところが大きい。 / 昭和初期の弘前女学校
通史編5(近・現代2) (弘前女学校のキリスト教)

弘前女学校のキリスト教 弘前女学校は昭和二十年八月十五日を劇的に迎えた。,弘前女学校では、翌二十一年春、新学期早々に一つの事件が起こった。成田校長夫妻の排斥運動である。,弘前女学校の生徒は県内でいちばん早くスカートにセーラー服になって憧憬と羨望の目で見られたが、これは生徒自治会 / 弘前女学校のキリスト教
通史編4(近・現代1) (弘前女学校と付属幼稚園)

弘前女学校と付属幼稚園 明治三十年、私立弘前女学校(現弘前学院聖愛高校)校長M・E・ウィルソンは、弘前 / 弘前女学校と付属幼稚園
通史編4(近・現代1) (教育とキリスト教の問題)

教育とキリスト教の問題 明治二十六年(一八九三)、弘前女学校は学校の充実を図るため規則を改正して認可,キリスト教について教えるのは、弘前女学校にとっては重要なことであり撤回できないと再三申し入れたが、許可,しかし、弘前女学校では、実質的には聖書の講義や礼拝が行われているところをみると、かなり積極的に宗教教育,弘前女学校は、キリスト教主義を学校教育の方針としたが、そのため政府文部省の教育宗教分離の方針とに軋轢(,反感を抱く者の妨害となって、学校の経営を困難にさせた原因ともなったが、同時にその宗教が背景となって、弘前女学校
通史編4(近・現代1) (女学生の岩木山登山)

女学生の岩木山登山 弘前女学校では、明治四十二年五月、宿泊を伴う最初の修学旅行を行った。,私立弘前女学校においては夏季休暇利用の修学旅行として岩木山登山を計画したるが、その目的、準備などすこぶる,記事の末尾の耶蘇とはイエス・キリストのことを指しており、ミッション系の弘前女学校をこう呼んだのである。,『弘前女学校歴史』は「八月十六日 岩木登山を試む。,生徒を引率して登山するには相当の勇気を必要としたに違いないが、キリスト教主義の弘前女学校らしい快挙というべきであろう
通史編4(近・現代1) (若葉幼稚園設立)

若葉幼稚園設立 弘前女学校内の教室で保育を続けていた同校付属幼稚園は、明治三十九年(一九〇六)、北瓦,独立園舎の設置は弘前女学校関係者の宿願でもあった。,園舎建設にはこれだけでは足りなかったが、弘前女学校ではその遺志を尊重し、夫人を記念する事業としてミッション
通史編5(近・現代2) (若葉・愛光幼稚園の合併と聖愛幼稚園)

若葉・愛光幼稚園の合併と聖愛幼稚園 北瓦ヶ町の私立若葉幼稚園は、私立弘前女学校幼稚園が独立の園舎を建築
通史編5(近・現代2) (キリスト教の復興)

東奥義塾も再びキリスト教主義の旗印を掲げ、弘前学院(昭和二十五年弘前女学校を改称)も日本の地に帰ってきた
通史編5(近・現代2) (女子高等教育機関の整備)

さらに、明治十九年六月に弘前教会内に創設された来徳(ライト)女学校を母体とする私立弘前女学校は、昭和二十一年四月
通史編4(近・現代1) (県内青年の政治的自覚)

会長は淡谷恒蔵で、堀江彦蔵や弘前女学校の小使、店員、大工などが会員で、機関誌『青年同盟』をガリ版刷りで
通史編4(近・現代1) (弘前和洋裁縫女学校)

当時弘前には、県立弘前高等女学校と私立弘前女学校の二つの女子中等教育のための施設があった。
通史編4(近・現代1) (女子教育)

本多庸一等によって弘前教会内に設置された来徳(ライト)女学校、さらにその後身の弘前遺愛女学校、そして弘前女学校
通史編5(近・現代2) (宗教団体法の成立)

弘前の宣教師たちも、教会、東奥義塾、、弘前女学校から帰国する者が目立った。
通史編5(近・現代2) (弘前聖愛高等学校の歩み)

弘前聖愛高等学校の歩み 昭和二十一年、弘前女学校を改め、校名を「弘前聖愛高等女学校」とした。
通史編4(近・現代1) (明治時代の市史編纂)

抱負を持っていたらしいが、大正三年南郡藤崎村の村長となり、その後私立弘前女学校や福島県立中学校の教員となり
通史編5(近・現代2) (家政女学校の創設)

校長の小山内もとは明治二十八年から弘前女学校や弘前高等小学校で教鞭をとっていたが、三十二年に再度上京して
通史編4(近・現代1) (生い立ち)

かつ子は弘前女学校で教え、さらに横浜の女子神学校で学び、弘前教会で働いていた。
通史編4(近・現代1) (弘前高等女学校の開校)

弘前高等女学校の開校 県内には弘前女学校があるだけで、高等女学校を設置しようという動きが生まれてきたのは
通史編4(近・現代1) ([付図])

創刊〈明治22年〉 12 弘前市制施行~初代市長・菊池九郎〈明治22年〉 13 弘前女学校創立
通史編5(近・現代2) (学校における音楽)

外人宣教師、その妻などが地域に西洋音楽を紹介していったのは、弘前女学校(現弘前学院聖愛高校)も同じであった
通史編5(近・現代2) ([口絵])

口絵23 校庭菜園で食糧増産に励む和徳国民学校児童 口絵24 軍の袴下制作に従事する弘前女学校生
通史編5(近・現代2) (音楽団休)

器楽関係では、明治三十二年(一八九九)弘前女学校の宣教師アレキサンダーの夫人が火事で焼死した際に、市内
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