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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(行在所の奉迎ぶり)
工藤他山、その他地元の画家や文人はそれぞれ絵画や著書などを献上して旅情を慰め、また、中津軽郡長笹森儀助と
弘前町
民総代,
弘前町
民有志による丹精込めた大きな扇ねぷたとねぷたばやしであった。
通史編4(近・現代1)
(弘前市経済改善への提言)
姑息ニテ、未タ開明ノ域ニ進ムモノ鮮(すく)ナク、啻(ただ)ニ旧慣ヲ慕ヒ、実ニ頑固云フヘキナシ、然ルニ当
弘前町
,ノ義ハ、二百六十余年間ノ旧城下ニテ、津軽五郡ノ亀鑑ニナルヘキ土地ニシテ、従来在浦々ニ於テハ、善悪共ニ
弘前町
,ノ風儀ヲ模範トスルハ論ヲ竢(ま)タス、然ニ其亀鑑トナルヘキ
弘前町
不開化ニテハ、何レノ時カ郡中一般開明ニ,赴クコトヲ得ンヤ、依テ
弘前町
ヲ第一ニ開明可致方法ヲ設ル時ハ、漸次進歩ニ随ヒ、五郡中ヘ波及シ、知ラス識ラス,当
弘前町
追々衰微ニ赴キ、目今ニ至、米価及諸物価沸騰ニテ、市街人民ニ於テ必至困却セリ、然リト雖トモ物価ニ
通史編3(近世2)
(日雇と松前稼ぎ)
日雇と松前稼ぎ 寛政八年(一七九六)の「
弘前町
中諸職・諸家業軒数調牒」(同前No.一九五)や幕末期の,元治元年(一八六四)八月の「
弘前町
中人別戸数諸工諸家業総括牒」(同前No.一九六)には、無役家業の中に,なお、元治元年(一八六四)八月の「
弘前町
中人別戸数諸工諸家業総括牒」(同前No.一九六)によれば、弘前城下,ちなみに、延宝六年(一六七八)の「
弘前町
方屋敷割」(旧八木橋文庫蔵)では、「ヲケヤ町」には桶屋が二四軒
通史編3(近世2)
(質屋の利用)
「文化二年八月改
弘前町
中人別戸数諸工諸家業総括 全」によれば、城下全体で一七軒知られ(前掲『弘前城下史料
通史編3(近世2)
(養老礼)
弘前町
奉行の調べで、九十歳以上はなく、八十歳以上が八人該当者として挙げられている。
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
写真5 第三大区初代区長 大道寺繁禎 津軽郡第三大区 一小区
弘前町
(八九ヵ町) 本町 上白銀丁,石川村 小金崎村 鯖石村 八幡舘村 乳井村 薬師堂村 吹上村 高畑村 森山村 三ッ目内村 居土村
弘前町
通史編3(近世2)
(祈祷の地としての南溜池)
また「国日記」同年六月十七日条によれば、このたびの雨乞いは、領内の田畑のみならず、「
弘前町
中」の井戸が
通史編3(近世2)
(諸家業と職人)
この後の成果である寛政八年(一七九六)の「
弘前町
中諸職・諸家業軒数調牒」(資料近世2No.一九五)によれば,図1.さまざまな家業 表1.
弘前町
中の諸職・家業軒数調べ 種別 職 種 軒数 備 考 御 役,幕末期の元治元年(一八六四)八月の「
弘前町
中人別戸数諸工諸家業総括牒」(資料近世2No.一九六)では、,職 工 ・ 諸 家 業 御役職工 73 御役家業 10 無役家業 10 注) 「
弘前町
中人別戸数諸工諸家業総括牒
通史編4(近・現代1)
(市制の施行)
市制の施行 明治二十二年(一八八九)四月一日、県令第一五号によって中津軽郡
弘前町
は市制施行となった。,にかぶせる地名だったが、明治二十二年二月二十日の町村分合改称のときに、五つの役場地域は合併して中津軽郡
弘前町
,関係上弘前から割いて中津軽郡清水村に編入し、また、中津軽郡和徳村飛地字野田及び山王、同郡堅田村飛地字宮川を
弘前町
通史編3(近世2)
(神職の扱い)
凶作で救米が認められなかった時は、
弘前町
内へ獅子舞を出し、火難消除、諸病追放の祈祷札を配布した。
通史編5(近・現代2)
((一)私小説の神様・葛西善蔵)
明治二十年一月(一八八七)十六日、中津軽郡
弘前町
松森町一四一番地に長男として生まれている。
通史編2(近世1)
(改革の終焉と成果)
弘前城下における町屋敷調査の結果は「宝暦六年
弘前町
惣屋鋪改大帳」に、武家屋敷は「宝暦五年御家中屋鋪改大帳,図147.宝暦6年
弘前町
惣屋鋪改大帳 目録を見る 精細画像で見る 図148.宝暦5年御家中屋鋪改大帳
通史編2(近世1)
(町年寄の由緒)
松山氏は町支配頭に任命され、一方、松井氏は堀越城下支配頭に任命され、その後、
弘前町
方取扱となり、町方支配
通史編3(近世2)
(戸口と住民構成)
幕末期の元治元年(一八六四)八月の「
弘前町
中人別戸数諸工諸家業総括牒(ちょう)」(資料近世2No.一九六
通史編4(近・現代1)
(明治十四年の巡幸)
弘前町
に入った一行は、和徳町、東長町、元寺町を町民垣をなして奉迎するなかを午後四時、弘前本町の行在所に
通史編3(近世2)
(宝暦期の城下)
翌六年の「
弘前町
惣屋敷改大帳目録」(資料近世1No.一一五四)には、本町支配・親方町支配・鍛冶町支配・
通史編4(近・現代1)
(町村合併と弘前市制施行)
内務大臣松方正義が市制施行地に指定し、青森県知事鍋島幹は県令第一五五号をもって「明治二十二年四月一日ヨリ中津軽郡
弘前町
通史編4(近・現代1)
(地租改正の経過)
地価調査に用いる穀価は、津軽郡については米価と大豆価を用い、青森町、黒石町、
弘前町
、鰺ヶ沢町、五所川原村
通史編4(近・現代1)
(新聞の発行)
普及がどの程度のものだったのかというと、明治十二年、青森新聞社の弘前支局に勤めた山鹿元次郎が、当時の
弘前町
通史編2(近世1)
(町役)
また、同年六月一日付で、
弘前町
中の伝馬・人足をやめ、町屋敷に居住する者は御用屋敷(役者屋敷・鍛冶などの
通史編3(近世2)
(生活の困窮)
「文化二年八月改
弘前町
中人別戸数諸工諸家業総括 全」(弘図岩)によれば、城下全体で一七軒知られる程度
資料編2(近世編1)
(【解説】)
次いで、
弘前町
年寄の松井四郎兵衛の留書の中から、主に城下住民の編成の仕方や生活規制、あるいは町方の構成
通史編4(近・現代1)
(巡幸の日誌と弘前)
九日晴……四時
弘前町
ニ抵(イタ)ル。武田清七ガ家ヲ行在トス。
通史編2(近世1)
(元禄の大飢饉と家臣召し放ち)
るよう命じたり(「国日記」元禄九年正月二十一日条)、「町廻常番役」(「盗賊改役」)を設け、同様に郭外・
弘前町
中
通史編4(近・現代1)
(断髪)
『広船日記』に、「明治六年四月頃、
弘前町
々の店、手代の子供年令二十才以下不残断髪いたし候。
通史編2(近世1)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
144 撮影 145 京都市 陽明文庫蔵 146 弘前市立図書館蔵八木橋文庫 147 (宝暦六年)
弘前町
惣屋鋪改大帳
資料編3(近世編2)
(【解説】)
、町方を構成する様々な職人や家業の全体像を把握するため、寛政八年(一七九六)と元治元年(一八六四)の
弘前町
中
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