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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (弘前藩の出兵)

弘前藩の出兵 さて、秋田に続きようやく藩論を勤皇に統一した弘前藩も、藩境を封鎖するなどの行動で受けた,官軍方からの疑惑の念を払拭すべく、鎮撫総督府から征庄出兵命令を受けると(『弘前藩記事』一)、討庄応援兵,このように、弘前藩から派兵が続々と行われていった。  ,なお、奥羽鎮撫総督府は、出兵命令に加え、弘前藩領内に入り込んだ仙台兵の討ち取りを厳命し、弘前藩の態度について,銃撃戦の末、秋田・弘前藩兵は接近戦を試みたのである。 / 弘前藩の出兵
通史編2(近世1) (弘前藩の副藩主)

弘前藩の副藩主 明暦二年(一六五六)、津軽弘前藩主四代信政の襲封(しゅうほう)に伴い、その後見役として,発足した黒石津軽家は、本家名代(ほんけみょうだい)という機能を有したことにより、弘前藩「副藩主(ふくはんしゅ,名代を命じられた直接的理由は、弘前藩主が病気等の理由で身動きのとれない時に依頼するのであり、黒石藩成立後,、天保四年(一八三三)十月の名代を除いて、すべて弘前藩主が江戸在府中に名代を勤めており、黒石藩主は在国,ただし、安政二年の例のように、弘前藩主名代としての第一優先順位は津軽本家の世子(せいし)であり、それが / 弘前藩の副藩主
通史編2(近世1) (三 弘前藩庁日記)

三 弘前藩庁日記 寛文元年(一六六一)から慶応四年(=明治元年〈一八六八〉)に至る、約二〇〇年間の津軽弘前藩政,その意味では第二次的史料の性質を持つが、津軽弘前藩政史研究のきわめて貴重な基本史料で、弘前市立図書館に / 三 弘前藩庁日記
通史編3(近世2) (旧弘前藩の債務処理)

旧弘前藩の債務処理 さて、以上は藩札発行だけにかかわる債務問題であったが、弘前藩が廃藩までに抱え込んでいた,では、弘前藩の債務額はどれほどだったのであろうか。,弘前藩の歳入は文久三年(一八六三)から慶応二年(一八六六)までの年平均で金四四万九六九二両と永一貫一一九文,であり(松尾正人「東北における維新変革の一形態~弘前藩の藩政改革」『地方史研究』一三三 一九七五年)、,表19.弘前藩債務一覧(明治4年7月当時) No. / 旧弘前藩の債務処理
通史編3(近世2) (維新期の弘前藩)

維新期の弘前藩 慶応三年(一八六七)十二月九日の小御所会議(こごしょかいぎ)で決められた徳川氏の辞官,近世から近代への転換点にさしかかったとき、津軽弘前藩は藩体制の存続を第一に考え、時局を乗り切ろうとした / 維新期の弘前藩
通史編3(近世2) (弘前藩の対応)

弘前藩の対応 このように、両極に立った戦争説明と出兵命令が幕府・朝廷の双方から出されたが、そのために,つまり、基本姿勢は二十四日と同様であったのである(『弘前藩記事』一)。   / 弘前藩の対応
通史編3(近世2) (弘前藩津軽家所蔵の美術工芸品)

弘前藩津軽家所蔵の美術工芸品 弘前藩津軽家が所蔵した美術工芸品については比較的記録が残っていて、その,天保十三年(一八四二)完成の「津軽家所蔵書画文房什物目録(以下「什物目録」と略称)」(三二八件)は、どちらも弘前藩,については必ずしもすべてが判明していないが、個別の作例で重要な記録のひとつは、御擬作(みあてがい)として弘前藩,MOA美術館蔵)については、前者同様、明治になって弘前に運ばれ修理を受けたらしいことしか知られず、「弘前藩庁日記 / 弘前藩津軽家所蔵の美術工芸品
通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

(一)東北諸藩と弘前藩 新政府は二月九日、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を東征総督に、,弘前藩は、あくまでも戦争の回避と藩体制の保全を第一としながらも、東北諸藩のこの動きには逆らうことができなかった,その間、弘前藩が、戊辰戦争の勃発から奥羽列藩同盟結成に至る過程の中で、仙台藩や秋田藩などの周囲の動向にどのように / (一)東北諸藩と弘前藩
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

「分領」と津軽弘前藩 安政六年九月二十七日、津軽弘前藩主津軽承烈(つぐてる)(後の承昭(つぐあきら),津軽弘前藩と盛岡藩に対しては、警衛の持ち場は従来どおりとし、さらに陣屋のある場所において、それ相応の「,分領体制によって、各藩に対して与えられることになった漁場の運上金および別段上納金の見込額をみると、津軽弘前藩,これまで「北狄の押(ほくてきのおさ)へ」を自認し、蝦夷地警衛に主として当たってきた津軽弘前藩の立場は、 / 「分領」と津軽弘前藩
通史編2(近世1) (弘前藩庁日記の開始)

弘前藩庁日記の開始 寛文元年(一六六一)六月三日、津軽信政の弘前初入部の記事をもって「弘前藩庁日記」,「弘前藩庁日記」には、弘前城中の記録である「国日記」と江戸屋敷の記録である「江戸日記」とがある。 / 弘前藩庁日記の開始
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩 寛文蝦夷蜂起に際して、奥羽諸藩は、幕府から軍役発動を命じられたり、兵糧・武器,その中でも津軽弘前藩の役割は、軍役の遂行と、蝦夷地の動向を調査し幕府にその情報を提供することであった(,松前藩と海を隔てて隣国である津軽弘前藩や盛岡藩にとっては、蜂起の報がもたらされた段階で、今後の派兵が想定,寛文九年七月八日、津軽弘前藩に松前藩から蝦夷蜂起の第一報が届いた。,ところが、幕府が津軽弘前藩に出動を命じた人数は侍と足軽四、五〇〇人であり(資料近世1No.八二一)、藩 / 寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩
通史編3(近世2) (弘前藩の画事と絵師)

弘前藩の画事と絵師 江戸時代に絵画は政治体制と密着して展開した。,津軽弘前藩は、狩野派のうち木挽町(こびきちょう)狩野家の狩野養朴常信に三〇人扶持を与え、その一門から今村朴元常慶,しかし、弘前藩自体は早くから江戸において狩野探幽をはじめ狩野派の絵師たちに頻繁に制作を依頼するなど、画員 / 弘前藩の画事と絵師
通史編2(近世1) (異国船打払令の発令と津軽弘前藩)

異国船打払令の発令と津軽弘前藩 水野忠成を中心とする文政期の幕閣は、海防をゆるめ、その任に当たっていた,この異国船打払令に津軽弘前藩がどのように対応したのかをみてみよう。,以上みてきたように、津軽弘前藩は異国船の打ち払いについては、従来の沿岸防備の軍事力で対応できるという認識 / 異国船打払令の発令と津軽弘前藩
通史編2(近世1) (宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)

宝暦~天明期の弘前藩の財政状況 この時期の津軽弘前藩の財政状況であるが、たとえば安永六年(一七七七) / 宝暦~天明期の弘前藩の財政状況
通史編2(近世1) (黒石藩の位置)

本藩の津軽弘前藩への従属は変わらず、幕府への報告は、本藩を経由して届けられ、逆に幕府からの通達は、これも,幕府も、弘前藩の黒石藩に対する軍事指揮権等の優位性、絶対性をおおむね認める立場をとった。  ,黒石藩の廻米は届出制ながらも、ほぼ完全に弘前藩の管理下にあった。,それはとりもなおさず、黒石藩の生産状況が逐一弘前藩によって掌握されていたことを示す。,弘前藩の財政再生産の一部として、黒石藩は位置づけられ、強い従属性を持っていたといえよう。
通史編3(近世2) (野辺地戦争の動機)

野辺地戦争の動機 盛岡藩攻撃を命じられてから、弘前藩は佐賀藩出身の総督府参謀前山精一郎らと軍議を重ねていた,詰まるところ、弘前藩としては、兵力を分散して戦うことに難色を示したのであった。,事件であったことは、大いに弘前藩を慌てさせた。,そのうえ、今回は弘前藩自体の敗戦ではなく、総督府中牟田の失敗であり、弘前藩は、今回の作戦に関して官軍に,今度は、弘前藩兵が九月二十二日、野辺地馬門口へと攻め入ったのであった。
通史編3(近世2) (野辺地戦争の開始)

野辺地戦争の開始 弘前藩庁より家臣一統へ盛岡藩征討の布告がされたのは、八月二十九日のことであった(資料近世,ここで「国家安危之決今日ニ相迫リ候」というように、弘前藩では、藩の存続をかけてこの戦争に臨まねばならなかった,盛岡藩の征討命令を受けた弘前藩から、九月四日、二通の書翰が発信された。,弘前藩からの砲撃で、戦闘は始まった。,大勢が決していた時になぜ弘前藩はこのような行動を押し進めたのであろうか。
通史編3(近世2) (討庄応援部隊の解兵)

しかし、同月のうちに、弘前藩においても奥羽諸藩と情報の交換を繰り返し、奥羽列藩同盟の動きに合わせて、弘前藩,弘前藩が白石同盟の成立を知ったのは、五月一日のことであった。,桜庭富蔵は、佐藤の指示を弘前藩の総大将山崎所左衛門や本荘在陣の松野栄蔵に連絡するなど、早速解兵手続きを,そして、これ以降、弘前藩兵は続々と秋田領から撤退して、秋田藩との藩境に駐屯することになった。  ,弘前藩兵は残らず帰藩し、藩内の関所や海岸の警備を仰せ付けられており、藩内が殊の外騒々しくなっている」と
通史編3(近世2) (答礼使の出発)

答礼使の出発 三月二十日になって、弘前藩は、秋田・仙台両藩へ家老西館宇膳(にしだてうぜん)・副使用人楠美荘司,各使節の来弘を受けた弘前藩にとって、少しでも多くの情報を得るべく、両藩と同様に諸藩の藩情についての打診,同日に「言うまでもなく『皇国』のためになるよう尽力したい」と、具体的な行動内容を避けた返答をした(『弘前藩記事,しかし、全体としては、弘前藩の感じていた危惧のほうが現実的になりつつあった。,弘前藩は、早速、この応対の模様を仙台滞在中の同藩使者一行へ報じている。
通史編3(近世2) (醍醐忠敬の弘前転陣)

そこで、弘前藩は、この時期新たな兵員編成を進めた。,その盛岡藩から八月八日、弘前藩へ使者がやってきて秋田藩攻撃のための領内通行を求めてきた。,(『弘前藩記事』一)。,さらに、盛岡藩征討のために醍醐忠敬参謀が弘前藩へ転陣する旨が伝えられた(同前)。,これによって、再び弘前藩へ菊花章旗がもたらされることになった。
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

戦局の推移と戦費負担の増加 明治元年(一八六八)の春以来、弘前藩兵は領内外にわたって広範な出兵を余儀,動員計画がなされ、七月に藩論が勤皇に統一されてからは、挙藩体制での鶴岡藩討伐が行われ、同藩はもとより、弘前藩,しかし、戦闘はすぐに停止したわけではなく、南部領毛馬内(けまない)方面では弘前藩の侵攻が続いた。,奥羽鎮撫総督府は東北戦争の終結を宣言し、数度にわたって弘前藩に対して軍事行動の停止を命令したが、それに,表18.戊辰戦争に関わる弘前藩の軍費負担額 No.
資料編3(近世編2) (【解説】)

【解説】 本章は弘前藩最後の藩主十二代津軽承昭(つぐあきら)が嗣子に決定する安政年間から明治四年(一八七一,次に後者の「弘前藩記事」であるが、これは弘前藩の用人職にあった楠美荘司(しょうじ)(太素)と息子の晩翠,「弘前藩記事」は筆者がすでに翻刻し、刊本として世に出している(坂本壽夫編『弘前藩記事』全五冊、北方新社刊,第一は東北戊辰戦争に関する弘前藩の対応である。,秋田藩は盛岡藩によって大館を陥落され、その落人が大挙弘前藩に逃げてきた。
通史編3(近世2) (野辺地戦争の経過)

弘前藩側は、盛岡藩兵が退きはじめるとさらに追撃したが、野辺地を目前にしたところで、盛岡藩兵の待ち伏せを,盛岡藩陣営は、小高い場所に砲台を設置し、家屋や木々に身を隠し、弘前藩兵を攻撃した。,弘前藩兵は身を隠すところもなく砲撃され、負傷者が続出した。,図64.明治元年9月23日の野辺地戦闘図  この戦いでの弘前藩側の死傷者は一八〇人中実に四九人に,図65.野辺地戦争戦死者の墓  敗戦の原因は、弘前藩の統率性の欠如、認識の甘さに集約されるであろう
通史編3(近世2) (東北戊辰戦争の終結)

東北戊辰戦争の終結 前述のように、野辺地戦争は、弘前藩の惨敗であった。,しかし、この野辺地戦争は、弘前藩にとって、必要不可欠の戦いだったといえるのである。,藩論を決定するに至るまでも、弘前藩は決して戦いを望んでいたわけではなかった。,城の受け取りには、秋田藩と弘前藩が赴いている。,そして、十月十七日、奥羽平定と解兵帰国が通知された(『弘前藩記事』一)。  
通史編3(近世2) (箱館戦争の開始)

箱館戦争の開始 このとき、上陸を知った箱館府では、派遣されていた福山・大野藩兵と、松前・弘前藩兵、そして,戦いの口火を切ったのは、弘前藩兵だった。木村隊はこの日、箱館府より七重村への出張を命じられた。,また、弘前藩の二小隊と松前藩兵が大野村へ到着していた。,二十二日夜、旧幕府軍の使者の軍が峠下村に宿営したのをみて、同夜半に弘前藩兵らが夜襲をかけたのである。,二十四日、本道を箱館府の大野藩兵が、中道を箱館府の福山藩兵が、そして山道を弘前藩兵が進発し、七重村で銃撃戦
通史編3(近世2) (木古内口の攻防)

木古内口戦力として五勝手(ごかって)村(現北海道檜山郡江差町)に駐留していた連隊には、弘前藩兵も含まれている,四月十日、この時、待機を命じられていた弘前藩兵は諸藩の進発を見送りながらもそのときを待ちかねていた。,これに対して弘前藩側は、ことの顛末の報告と、三人の敵兵を拿捕(だほ)したことを申し述べた。,なお、弘前藩は十三日の木古内口における戦いで一中隊が先鋒を命じられたが、結局勝敗は決まらず、負傷者を出,したことが弘前藩惣隊長杉山上総より報告されている。
資料編3(近世編2) (第一節 幕末の政局と民衆)

第一節 幕末の政局と民衆 一 幕末の政局と弘前藩 二 大政奉還と弘前藩 三 都市民衆の動向 四
通史編3(近世2) (松前方面の攻防と青森)

その間、松前からは援軍の要請が弘前藩へ届いていた。,が届けられた(『弘前藩記事』一)。  ,また、同日に起こった事件についても急ぎ書き送られたのである(『弘前藩記事』一)。,弘前藩は、「弘前ヲ空ニシテモ兵隊差出」という決意を表明したのである(同前)。,はその任を免除されることが通達された(『弘前藩記事』一)。
通史編3(近世2) (盛岡藩の参戦)

八月十日、総督府は盛岡藩征討を表明し、同時に弘前藩に総督府参謀醍醐忠敬の弘前転陣を伝えた。,ツ井(ふたつい)町)より引き返して戦闘に参加したのであった(『弘前藩記事』一)。,、醍醐忠敬を弘前へ転陣させることが発表されたというのである(『弘前藩記事』一)。,これにより、弘前藩では全藩を挙げたより一層の覚悟が求められるのである。,また、箱館へ詰めていた弘前藩兵も引き揚げさせて、領内警備を強化した。  
通史編3(近世2) (各藩使者の来弘)

・方針を藩士たちに示した(『弘前藩記事』一)。,図46.弘前藩記事の藩主諭告 目録を見る 精細画像で見る  津軽弘前藩が武備充実と藩論統制に努,両藩の使節がもたらした内容は、それぞれ弘前藩に異なる方向性を提示した。  ,これに対して、弘前藩は秋田藩の提案を了承したことを返答している。  ,同時に、ここで話題となった建白書写も弘前藩へ示されている。  
通史編2(近世1) (一九 津軽藩官制・職制・禄制・租税制)

一九 津軽藩官制・職制・禄制・租税制 官制・職制は明治期に旧弘前藩士工藤主善が、官職によって津軽弘前藩
通史編3(近世2) (鎮撫総督軍の領内通行問題)

秋田藩と弘前藩の藩境は目前である。  ,この条を受けて、弘前藩では、五月四日の藩主諭告で討庄応援兵の解兵を布告した。,このために、弘前藩は佐藤英馬を秋田へ派遣して、協議の場を持たせたのであった。  ,よって、ここでは、その後の弘前藩の対応について「弘前藩誌草稿」(資料近世2No.五三〇)をもとにみていきたい,弘前藩も秋田藩同様の理解で、鎮撫総督軍に疑念を抱かせる行動はとるべきではないと決論づけた。
通史編4(近・現代1) (家禄制度改革)

家禄制度改革 明治四年(一八七一)七月に廃藩置県が行われ、旧弘前藩は弘前県となり、知藩事(藩名を付すときは,、弘前藩知事と呼んだ)の津軽承昭は免官になった。,また、旧弘前藩士に限って、家禄を見れば、表4のとおりである。,この賞典禄も上層に厚く、旧弘前藩知事津軽承昭は二五〇〇石であった。,旧弘前藩士が得た金禄公債は、第五十九国立銀行の設立資金に充てられるなど、産業の振興や旧弘前藩士の生活の
通史編3(近世2) (箱館の攻防)

弘前藩からも大砲隊司令士神豊三郎(じんとよさぶろう)隊が臼砲(きゅうほう)一門をもって福山藩の応援に加,中央から桔梗野(ききょうの)へ向かった長州・薩摩・松前・弘前藩等の諸隊は左右へ布陣し攻撃を開始したが、,この時の戦いでは弘前藩の損害は小隊司令士高杉左膳(さぜん)をはじめ討死七人、重軽傷者一一人を数えた。,さらに箱館方面へ探索の軍勢が出ると、弘前藩の旧陣屋から旧幕府軍の攻撃があり、弘前藩は長州藩の応援を得て,丁卯が七重浜沖へ向い、甲鉄・春日は輸送船箱館攻撃部隊を乗せた豊安・弁天台場(べんてんだいば)攻撃部隊(弘前藩兵
通史編3(近世2) (藩論の統一)

藩論の統一 藩境封鎖問題を落着させた弘前藩は、六月初旬の時期を一応戦争が回避されたものと判断していた,弘前藩は翌七月に至るまで肝心の藩論を決定することができず、六月十五日には、官軍の証である菊花証旗(錦の,このように、閏四月から六月にかけて、弘前藩はその時々の勢力に左右されて藩論を統一することができなかった,京都でも弘前藩が朝敵側についたとみる疑いが強く、事態を憂慮した京都留守居役の西舘平馬(にしだてへいま),それは、弘前藩に対して、遠隔の地であるから事情には疎くなるだろうがとしながら、佐幕の疑いがある旨を告げ
通史編3(近世2) (箱館戦争の終結)

青森口総督清水谷公考も箱館へ戻り、降伏した旧幕府軍のうち六一〇人は弘前藩へしばらく預けられることとなった,なお、箱館戦争後も弘前藩は、十月二十五日、箱館へ出航させるまで新撰組等の降伏人を預かっている。,図72.清水谷公考感状  弘前藩士は総督府守衛に当たった者を除き、五月二十四日から続々と帰国凱旋,しかし、戦争が終決し、あらゆる面で多大な犠牲を払った弘前藩は勤皇の名誉を受けることはできても、問題は山積,ただし、明治三年六月に新政府の強力な指導が入るまで弘前藩のそれは遅々としており、実質的な藩体制の終焉は
通史編2(近世1) ((二)蝦夷地出兵の諸段階)

(二)蝦夷地出兵の諸段階 これまでみてきたような幕府の蝦夷地政策の推移に伴い、津軽弘前藩の蝦夷地出兵,さて、津軽弘前藩の蝦夷地出兵は、その要因などから次の三段階に分けて考えることができる。,津軽弘前藩では一五八二人を救援隊として組織し、七〇〇余人を松前に派遣した。,シャクシャインの戦いは、結局松前藩によって制圧されたため、津軽弘前藩は松前に駐屯しただけで帰弘し、また,寛政八年以降のイギリス船来航に伴う津軽弘前藩への幕命は、翌九年九月に下っている。
通史編3(近世2) (藩治職制への対応)

藩治職制への対応 続いて弘前藩が早急に着手しなければならなかった政治課題は、新政府の指令する藩治職制,弘前藩でも大規模な軍制改革の結果、藩士総銃隊ともいえる状況を示しており、全国的にみれば諸藩の軍事力は非常,しかし、弘前藩の場合は明治二年五月まで戊辰戦争に忙殺されていたため、これに対応する余裕はまったくなく、,藩治職制の指令そのものは元年中に藩に伝達されたが(『弘前藩記事』明治元年十二月二十四日条)、それへの対応,よって、弘前藩が藩治職制の指令に応えて本格的に藩政改革を断行したのは、箱館戦争が終わった後の明治二年六月十二日
通史編3(近世2) (帰田法(きでんほう)とは)

弘前藩の帰田法とは、領内の地主・豪商の所持する田地の内、一〇町歩だけは彼らに残し、あとは強制的に藩が廉価,しかし、弘前藩の場合は田地配賦とともに従来の家禄支給も約束されており、士族・卒にとって圧倒的に有利なもので,、こうした帰農策をとった藩は弘前藩しか確認されていない。
通史編3(近世2) (藩論の紛糾)

五月十四日には、仙台から同盟に調印した山中兵部が帰藩し、より詳しい事情を得た弘前藩は、十六日、碇ヶ関(,これによって、沢副総督一行の弘前藩への入領を実際的に不可能にしたのである。  ,当然、総督軍も秋田藩も弘前藩の動向について不信の念を抱くことになる。,同盟遵守の方向で行動をとっていた藩の急激な方針転換に関する釈明は、容易には納得されなかったため、弘前藩,こうした弘前藩の釈明を沢副総督も一応聞き入れることを認めたのであったが、二十七日には沢副総督からの使者
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

領内海防と台場の構築 津軽弘前藩は、蝦夷地警衛などに当たった実績と、その影響によって、同様の境遇にあった,寛政七年(一七九五)五月九日、津軽弘前藩は、幕府に対して、異国船が領内沿岸に姿をみせた場合に、城下から,文化四年(一八〇七)のカラフト島事件・エトロフ島事件を契機に、津軽弘前藩は蝦夷地に兵を増派するとともに,このため津軽弘前藩では、秋田藩佐竹家に対して加勢を依頼した。,この状態は、津軽弘前藩が蝦夷地現地派兵を免じられる文政五年(一八二二)まで続いた。
資料編2(近世編1) (第三節 司法制度の整備)

安永律・寛政律・文化律の制定 〔凡例〕 一、安永律・寛政律・文化律の条文規定に関連する判例は、「弘前藩庁日記,二、「弘前藩庁日記」(弘前市立図書館蔵)は、江戸日記と国日記からなるが、判例については国日記から引用した
通史編3(近世2) (白石会議)

弘前藩は討庄応援に兵力を投入することで新政府の指揮に従う方向をとりつつあったのであるが、会津征討に動いたはずの,弘前藩への白石会議招請状は、仙台藩に滞在中の杉山八兵衛の許へ、翌五日に届けられた。,閏四月七日付の杉山八兵衛が国元へ宛てた書状に、この間の事情が説明されている(『弘前藩記事』一)。  ,国元への白石会議参加要請の廻状は、秋田藩には八日に届いているから、弘前藩にもそのあたりに国元へ届いているはずであり,諸藩の参加は強く求められたものではなく、弘前藩でも杉山八兵衛も帰藩したため、閏四月十一日に開催された白石会議
資料編3(近世編2) ((二)江戸における屋敷)

(二)江戸における屋敷 弘前藩は、江戸に多くの屋敷を構えていた。,弘前藩の江戸屋敷の移動については、『津軽史』第四巻において、上屋敷や中屋敷について詳しく述べられている
通史編4(近・現代1) (東奥義塾開学)

その直接の前身は、旧弘前藩学校を引き継いで、明治五年五月に設立された弘前漢英学校である。,そのうち、東奥義塾の正史である『東奥義塾一覧』に結社人筆頭で名前が挙げられた兼松成言は、弘前藩において,吉川は明治四年に弘前藩で青森に英学校を開設した際に慶応義塾から招聘され、廃藩置県など激動の政治情勢の中,実質的に旧弘前藩学校を継承する存在であり、公立の教育体制がなかなか整わなかった津軽地方において、小学校教育
通史編2(近世1) (二代信枚の動向)

九月二十五日に、町奉行島田利正のあっせんにより、秋田領と津軽領との境界について、津軽弘前藩家老服部康成,十月五日には弘前藩側の高屋豊前守・寺尾権兵衛・中村内蔵丞と政景・佐藤源右衛門が境目の検分をするが、双方,弘前藩側は明神社、やたての槻、打はらい川・とはらい川の存在を挙げて、須郷(すご)の明神社の場所を境目と,この後、比内矢立の境目交渉に移り、十月十九日に弘前藩側の検使と落ち合うことになる。,なお、弘前藩が従来領地であった比内地方を秋田藩に譲り、弘前藩が代わりに青森県西海岸の深浦南方の地を得たという
通史編3(近世2) (庄内征討命令をめぐって)

庄内征討命令をめぐって 弘前藩が討庄応援の準備を始め、出兵を繰り返していた間にも、新政府軍と旧幕府軍,その中で、弘前藩から応援隊を率いて出兵していた館山善左衛門より 政府軍と庄内藩の攻防の様子について報告,図47.砲弾を受け破壊された会津若松城  討庄応援命令に従う方針を定めた弘前藩は、続々と応援兵を,つまり、秋田藩がとうとう庄内藩へ向けて軍事行動を起こす決定をしたのであった(『弘前藩記事』一)。,多くの情報が飛び交う中で、弘前藩は、閏四月五日、山中兵部らを秋田・仙台へ向けて出立させた。
通史編3(近世2) (白石同盟の動き)

秋田藩重役との会見を申し込み、閏四月八日に、同藩家老岡本又太郎、用人金大之進、根岸靱負と会談した(『弘前藩記事,庄内征討の件、②会津藩の謹慎と助命嘆願が米沢藩と仙台藩でなされている件、③仙台に山中兵部を派遣するに至った弘前藩,ただし、秋田藩でも諸藩の事情を探りながらのことでもあって、弘前藩同様、会議への出席は実現していない。,つまり、秋田藩もまた、弘前藩の山中兵部等と同様に、白石会議開催は戦争回避の有効な解決策となりうる可能性
通史編3(近世2) (藩兵の整理)

では、弘前藩の藩兵解体状況はどのようなものであったのだろうか。,弘前藩の場合、藩兵の膨張は戦時中に行われた二等(後、三等)銃隊の創設に原因があるが、彼らは熕(おおづつ,当時、兵部省から指示された兵員数は弘前藩の場合八四〇人であり(一万石につき六〇人、弘前藩の現石高は一四万石,同七月八日に軍事局の組織が定まったが、これとともに弘前藩最後の軍制改革も断行された。
通史編3(近世2) (討庄応援兵の派遣)

弘前藩としては、庄内藩の罪状に疑念を抱きながらも、命令が出された以上、速やかに対応する必要があると判断,これは弘前藩の兵員規模からみて最大級の規模であった。  ,このように、弘前藩の討庄応援兵が城下から続々と出立していくようになった。  ,四月二日、庄内征討の嚮導を出羽矢島藩に命令し、六日に秋田藩には庄内征討命令を、弘前藩にはその応援命令を,その中で、弘前藩は、政府・諸藩の動きから、何らかの意思表明をすることを強いられる時期にさしかかっていたのであった
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