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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(幕府・朝廷の攻防)
津軽弘前藩に対しては、十一日に京都において留守居役が呼び出され、朝廷から上京を促す達書(『
弘前藩記事
』,伏見付近において戦争が起こったということなので、兵を引き連れ早々に出府するようにというものであった(『
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(松前方面の攻防と青森)
、松前藩家老より弘前藩家老宛てに、相次ぐ敗戦の状況を説明した十一月三日付の援兵催促状が届けられた(『
弘前藩記事
,また、同日に起こった事件についても急ぎ書き送られたのである(『
弘前藩記事
』一)。,さらに、八日には熊本藩へもこの事件を報じる書状を作成し、援兵協力を求めた(『
弘前藩記事
』一)。 ,おううかんさつしふじかわのと)の兵で行うこととなり、弘前藩兵はその任を免除されることが通達された(『
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(捕虜となった庶民)
捕虜となった庶民 「
弘前藩記事
」(弘図八)は主に慶応三年(一八六七)から明治四年(一八七一)の出来事,処分も解除され、十月二十三日にようやく弘前に帰り着き、すぐに藩に顛末(てんまつ)を届け出たのである(「
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(宮古湾海戦)
この時、陸奥湾周辺へ詰めていた官軍諸藩の兵力は次のように把握されている(『
弘前藩記事
』二)。 ,終了したが、旧幕府軍の死傷者はおよそ五〇人、政府軍の死傷者はおよそ三〇人という大きな戦いとなった(『
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(清水谷公考の退去)
青森から浪岡への転陣には、旧幕府軍の蝦夷地侵攻を許した責任をとっての謹慎の意味があった(『
弘前藩記事
』
通史編3(近世2)
(盛岡藩の参戦)
襲来を知り、荷揚場(現秋田県北秋田郡二ツ井(ふたつい)町)より引き返して戦闘に参加したのであった(『
弘前藩記事
,したことについて弘前藩へ征討を命じられるとともに、醍醐忠敬を弘前へ転陣させることが発表されたというのである(『
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(東北戊辰戦争の終結)
そして、十月十七日、奥羽平定と解兵帰国が通知された(『
弘前藩記事
』一)。
資料編3(近世編2)
(【解説】)
本章をみると、政治・軍事関係史料の多くを「大日本維新史料稿本」と、弘前市立図書館所蔵八木橋文庫「
弘前藩記事
,次に後者の「
弘前藩記事
」であるが、これは弘前藩の用人職にあった楠美荘司(しょうじ)(太素)と息子の晩翠,され、明治元年・二年の「藩庁日記」は作成されておらず、そのため戊辰戦争の経過を考察しようとすれば、「
弘前藩記事
,「
弘前藩記事
」は筆者がすでに翻刻し、刊本として世に出している(坂本壽夫編『
弘前藩記事
』全五冊、北方新社刊
通史編3(近世2)
(各藩使者の来弘)
明治元年一月二十四日、弘前藩では藩主諭告を出し、旧幕府側からの出兵催促についての対応・方針を藩士たちに示した(『
弘前藩記事
,図46.
弘前藩記事
の藩主諭告 目録を見る 精細画像で見る 津軽弘前藩が武備充実と藩論統制に努
通史編3(近世2)
(政争の激化と第三次改革)
の租税取り立てが不条理であること、および藩知事承昭を廃立する動きが首脳部にあること、等々であった(『
弘前藩記事
,「
弘前藩記事
」明治3年6月18日条(弘図八)より作成。
通史編3(近世2)
(藩治職制への対応)
藩治職制の指令そのものは元年中に藩に伝達されたが(『
弘前藩記事
』明治元年十二月二十四日条)、それへの対応
通史編3(近世2)
(農兵の動員実態と要求)
の調べによると、実際に彼らが配置された場所は深浦に六一人、木造に六七人であった(「官藩出張調・中」『
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(白石同盟の動き)
秋田藩重役との会見を申し込み、閏四月八日に、同藩家老岡本又太郎、用人金大之進、根岸靱負と会談した(『
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(討庄応援部隊の解兵)
したうえで、解兵処置は嘆願書提出のための一時的行動であるとして、諸士一同の精勤を求めたのであった(『
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(民衆の動揺)
だいえんじ)(現最勝院)五重塔の番僧から久渡寺(くどじ)方面の山陰に火の手がみえるとの報知があった(『
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(庄内征討応援命令)
その質問状の内容と回答は次のとおりである(『
弘前藩記事
』一)。
通史編3(近世2)
(白石会議)
閏四月七日付の杉山八兵衛が国元へ宛てた書状に、この間の事情が説明されている(『
弘前藩記事
』一)。
通史編3(近世2)
(弘前藩の出兵)
封鎖するなどの行動で受けた官軍方からの疑惑の念を払拭すべく、鎮撫総督府から征庄出兵命令を受けると(『
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(弘前藩の対応)
つまり、基本姿勢は二十四日と同様であったのである(『
弘前藩記事
』一)。
通史編3(近世2)
(答礼使の出発)
同日に「言うまでもなく『皇国』のためになるよう尽力したい」と、具体的な行動内容を避けた返答をした(『
弘前藩記事
資料編3(近世編2)
(-例言-)
また、同館所蔵史料のうち「津軽徧覧日記」・「
弘前藩記事
」は八木橋文庫本を、「御用格」は津軽家文書を、「
通史編3(近世2)
(実施までの規則改訂)
彼らに渡った米は一〇俵から五俵、金一〇両から三両程度に過ぎず(『
弘前藩記事
』明治四年八月十二日条)、すぐに
通史編3(近世2)
(庄内征討命令をめぐって)
つまり、秋田藩がとうとう庄内藩へ向けて軍事行動を起こす決定をしたのであった(『
弘前藩記事
』一)。
通史編3(近世2)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
1977年 中央公論社刊 45 山上笙介『ふるさとのあゆみ 弘前Ⅰ』18頁 1980年 津軽書房刊 46
弘前藩記事
,青森銀行記念館蔵 70 個人蔵 71 同上 72 同上 73 百五拾俵水帳 弘前市立図書館蔵津軽家文書 74
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(町方の軍事負担)
出張宿代として領内から金一万両が徴収されたが、この時も銀一五一貫二九九匁が弘前に割り当てられ(前掲「
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(野辺地戦争の動機)
の降伏を受け、九月二十一日には、秋田藩へ総督府との調停を申し込むなど、降伏へ向け準備を進めていた(『
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(醍醐忠敬の弘前転陣)
弘前藩と盛岡藩はここで敵対関係となったことが明確になり、「次は戦場で相まみえよう」ということになった(『
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(藩論の紛糾)
様相に危機感を抱いた藩では、五月二十一日、徳川家名の存続と諸道官軍の撤退命令が出されたという情報(『
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(藩から県へ)
このため斗南藩は弘前藩に農具購入資金の救助を訴え、弘前藩は一〇〇〇両を拠出している(『
弘前藩記事
』明治四年二月二十九日条
通史編3(近世2)
(戦場に駆り出された民衆)
67 藤田乕之助 28歳 御小姓組 100石 箱館矢不来 永世20俵 家督は息子助之進へ 注) 「
弘前藩記事
通史編3(近世2)
(松前徳広の領内落去)
なお、この時の死者は二〇八人という記録がある(『
弘前藩記事
』二)。
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