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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(考古編) (第3節 弥生時代)

第3節 弥生時代 縄文時代に続く弥生時代は、稲作農耕を主体とした土地を基盤とする経済社会であり、したがってこの,弥生時代は、一般的な理解として、前述の稲作農耕のほかに鉄器や青銅器など金属器使用の開始、織物の出現、ガラス / 第3節 弥生時代
資料編1(考古編) (4.弥生時代の住居跡)

4.弥生時代の住居跡 青森県における弥生時代の住居跡は、現在のところ当該時代の前期(Ⅰ期)と後期(Ⅳ,表14 青森県における弥生時代の住居跡 遺跡名 土器形式名 住居跡番号 平面形 大きさ m 面積,不明 調査区外に大半は延び,他の住居跡と切り合っている なし 4 なし  表からも分かるように、弥生時代,弥生時代の住居跡は、縄文時代の住居跡に比べて発見数が少ないため、当該時代の住居についての論述は、今後の / 4.弥生時代の住居跡
資料編1(考古編) ((2)弥生時代の甕棺墓)

(2)弥生時代の甕棺墓 弥生時代になると、九州などの西日本では埋葬用の大型合口甕棺が作り出されており,剣・鉾・鏡や玉類などの副葬品が発見される例も多いが、本州最北の本県では、同様な遺物は出土しておらず、弥生時代,器形と施文文様の特徴から遠賀川系土器に含まれるものであり、共伴した土器には砂沢式土器が多く、当地方の弥生時代初期,の最大膨張部に点列を配し、それを沈線で画しており、胴部の張り方から見ると先述の遠賀川系の色彩が強く、弥生時代前期 / (2)弥生時代の甕棺墓
資料編1(考古編) ((3)弥生時代の土壙墓)

(3)弥生時代の土壙墓 弥生時代に入っても、死者に対する葬法は土葬が主体的であり、それに関する遺構としては,第1次から第3次にかけての調査で544m2が発掘され、弥生時代中期前半または弥生3期の宇鉄Ⅱ式土器期の,板子塚遺跡の場合は、土壙墓と認められる遺構が10基発見され、それらの中から土器(弥生時代後期=4b期) / (3)弥生時代の土壙墓
資料編1(考古編) (2.弥生時代の初期稲作について)

2.弥生時代の初期稲作について 弥生時代を代表する生業は稲作である。,このため稲作の開始期は、従来の弥生時代初期という概念を大きく変えなければならない状況となった*152。,に北九州で開始された稲作農耕は、その後しだいに本州にも広まり、やがて東北地方北部にも、西日本における弥生時代前期 / 2.弥生時代の初期稲作について
資料編1(考古編) (5.青森県における弥生時代の終局)

5.青森県における弥生時代の終局 東北地方北部の弥生文化も、中期後半の田舎館式期を境にして衰退したのであろうか,このような弥生時代後期の遺跡減少は、いわば人口減少の結果であり、東北地方北部には一種の過疎化現象が起こったのであろう,)人口激減化の現象が東北北部の弥生末期~古墳時代前半期にあったのではないかとも考えられる」*160と弥生時代後期,恐らく彼らが稲作農耕を営むのは技術的に無理であり、かつての弥生時代前・中期に行われていた稲作は、後の平安時代 / 5.青森県における弥生時代の終局
資料編1(考古編) (1.時代区分と弥生土器の編年)

期分類(前期以前に早期を加える考え方もある)のほか、土器についてはⅠ期~Ⅴ期に至る分類、畿内については弥生時代前期,(弥生中期)五所式→二枚橋式→宇鉄式→田舎館式→(+)→(弥生時代後期)念仏間(ねんぶつま)式→鳥海山式,→烏間(からすま)式*149、近年は、(弥生時代前期)砂沢式→五所式・二枚橋式→(弥生時代中期)宇鉄Ⅱ,式・井沢式→田舎館式→(弥生時代後期)念仏間式→天王山式(鳥海山式)のほか、(1期)砂沢式→(2期)五所式,図21 弥生時代の遺跡・遺物 完掘りした2号水田跡…弘前市・砂沢遺跡 遠賀川系壺形土器…
通史編1(自然・原始) (一 北方に広がる円筒土器文化)

一 北方に広がる円筒土器文化 縄文時代は今を去る一万二〇〇〇年前に始まり、二三〇〇年前に次の弥生時代,そのため一万年を超えるほど古い最初の段階と、弥生時代へと引き継ぐ段階とでは文化の内容に差がみられ、考古学
資料編1(考古編) (1.古墳時代の概観)

古墳文化は、西日本を中心として発展した文化で、弥生時代後期ころに米を主体とする農業生産物の蓄積を背景として,当初は、弥生時代に東北地方北部地域を含めた広域に展開する文化と見られたが、今日では、砂沢遺跡や垂柳遺跡,この続縄文文化は、稲作農耕を主とする弥生文化と対峙(たいじ)する文化として弥生時代、北海道においてその,北海道での名称は恵山式(弥生時代中・後期)・後北式(弥生時代後期~古墳時代前期)・北大式(古墳時代中期,青森県では、弥生時代後期ころに始まった気候寒冷化に伴い、稲作農耕の衰退とともに、この北海道続縄文文化の
資料編1(考古編) (8.砂沢遺跡)

(3)調査の経緯  当遺跡は、縄文時代終末から弥生時代初頭にかけての主要遺跡であり、弥生時代前期の砂沢式土器,3次から順次低地帯へ移り、前述と同期の竪穴住居跡(2・3号住居跡)・水路状溝跡等を検出し、第4次では弥生時代前期,石製品(凹石・石皿)及び土製品(土偶破片)等であり、高台地区から低地帯の水田跡に至る緩傾斜面では当地方の弥生時代前期,に当たる変形工字文を持つ砂沢式土器(図18-1~16:図19・20)とともに、西日本の弥生時代前期に属,土偶破片 土偶各種 鑿状石器  砂沢遺跡は、上記の水田跡を中心とする弥生時代
資料編1(考古編) ((1)7・8世紀)

この理由については、弥生時代後期に始まった気候寒冷化により衰退した農耕が、この時期の気候温暖化によって,この時期の竪穴住居の構造は、弥生時代とは二つの点で大きく変化した形が現れるが、その一つは平面形態である,縄文時代晩期から弥生時代を通じて円形であったのが、この時期には方形に変化している。  ,もう一つは、弥生時代までは竪穴中央部付近に炉を持っていたのが、この時期には炉に代わって、壁際に煙道を持
資料編1(考古編) ((2)石器)

これらの石鏃3形態は、弥生時代に入っても存続するが、無茎は前半に、有茎は後半、柳葉形は初期と中葉に見られる,使用した石鏃の形態に類似するため命名されたアメリカ型石鏃は*70、晩期初頭の大洞B式土器期に出現し、弥生時代,石匙という石器の出現は、早期中葉の物見台・千歳式土器期ころに現れ、弥生時代に入って数は減少するが、縄文時代全体,早期の初頭ころから出現し、弥生時代へかけて製作使用された。,乳棒(にゅうぼう)状石斧と、原石を扁平な磨石(砥石)で擦って作り上げた擦切(すりきり)石斧などがあり、弥生時代
通史編1(自然・原始) (弥生文化の内容)

島根県斐川町・荒神谷遺跡から発見された多量の弥生時代の銅剣 (島根県埋蔵文化財調査センター提供),まして約二〇〇〇年をさかのぼる弥生時代に、この寒冷な地で稲作農耕に挑戦した先人の労苦はいかばかりであったろう,縄文時代の遺跡に比して弥生時代の遺跡は極端に少なく、しかも遺跡の分布は水田耕作の可能な位置に立地するものよりも
資料編1(考古編) (4.垂柳遺跡)

この両者の相違は、前述のように造成地の地形的要因もあろうし、弥生時代前期(砂沢遺跡)と中期後半(垂柳遺跡,表12 垂柳遺跡発見 弥生時代水田跡一覧表 調査区 検出枚数 検出面積 m2 最大面積 m2 最小面積,表13 砂沢遺跡発見 弥生時代水田跡一覧表 水田跡 大きさ m 面積m2 (復元面積) 長軸方向 傾斜方向,図23 弥生時代の遺跡・遺物(田舎館村・垂柳遺跡) 垂柳遺跡の航空写真 垂柳遺跡発見の水田跡
通史編1(古代・中世) (古墳文化及ばぬ北の世界)

たとえば続縄文土器と総称されている、本州に稲作文化が普及し弥生時代に移行したのちもなお、縄文時代同様、,とくに後北C1~C2式と呼ばれる北海道の続縄文土器と同じものが、弥生時代の青森県下全域から出土しており,広がっており、また縄文時代以来の伝統的生活を守り、稲作を好まない人々の住む地帯もあったであろうから、弥生時代
資料編1(考古編) ((2)鉄生産と鉄製品)

それ以前の弥生時代においては、朝鮮半島からの製品輸入に依存しているが、この時期の本県での出土例はない。
通史編1(自然・原始) ([口絵])

目内) 砂沢遺跡から検出された最北の水田跡 台付浅鉢形土器(重要文化財,砂沢遺跡,弥生時代前期,背面 土偶(下半身を欠く,現存部 高13.5cm 幅18.6cm) (個人蔵,砂沢遺跡,弥生時代前期
資料編1(考古編) (7.小友遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  調査の結果、縄文時代・弥生時代・平安時代後期の遺構・遺物が発見されている。,なお、縄文時代及び弥生時代のものはわずかにすぎず、主体は平安時代の遺構・遺物である。,〔弥生時代〕 続縄文式土器の後北C2・D式土器が2点出土したにとどまる。
通史編1(古代・中世) (古墳文化と続縄文文化の交流)

古墳文化と続縄文文化の交流 石狩低地帯での東北地方弥生時代最終末の天王山系土器と江別C2・D式土器の,~古墳時代前期の塩釜式土器と、さらに北大Ⅰ式は古墳時代中期土器と同時代のものと考えられ、青森県内でも弥生時代
通史編1(古代・中世) (北東アジア人の渡来)

北東アジア人の渡来 ところが稲作農耕が日本列島に持ち込まれた弥生時代になって、人口が急増する。
資料編1(考古編) (13.神原遺跡)

土器は甕形・台付浅鉢形・壺形などの破片であり、土器編年上は当地方の弥生時代前期後半に位置づけられる五所式土器
資料編1(考古編) ((1)石器と石製品の種類)

’ ○ ○           ○       ○         ○               弥生時代,’ ○                       ○                       弥生時代
資料編1(考古編) ((1)3世紀末~4世紀前半代)

一つは、砂沢式→二枚橋式→宇鉄Ⅱ式→田舎館式→念仏間式→鳥海山式→九艘泊式と連続する、弥生時代の在地系土器文化,もう一つは、北海道弥生時代併行期の続縄文式土器文化を母体として発生した後北式土器文化である。
通史編1(自然・原始) (砂沢遺跡)

表22 砂沢遺跡発見 弥生時代水田跡一覧表 水田跡 大きさ(m) 面積 (m2) 長軸 方向 傾斜,であることを確かめ、さらに稲のプラント・オパール検出など、一連の調査を通して、当該水田跡は津軽地方における弥生時代前期
通史編1(自然・原始) (弥生文化の伝来と稲作農耕の開始)

わが国の歴史は、縄文時代の後に弥生時代を設定している。
資料編1(考古編) (-農具-)

しかし、東北地方においても既に弥生時代の遺跡から、木製の三本鍬・イブリなどの様々な農具が出土していることから
資料編1(考古編) ((7)機織り)

(7)機織り 機織りの技術は、縄文時代晩期の終りころに大陸から伝わったと考えられており、弥生時代には
資料編1(考古編) (12.牧野Ⅱ遺跡)

採集遺物は、縄文時代晩期終末の大洞A・A’式と、当地方の弥生時代前期に当たる砂沢式土器であり、中でも大洞
通史編1(自然・原始) (第四節 注および引用・参考文献)

受容」『考古学雑誌』七三-一 一九八七年  B 市川金丸・木村鉄次郎 「青森県松石橋遺跡から出土した弥生時代前期
通史編1(自然・原始) (津軽への稲作の伝来)

弥生時代の始まりが西日本において今から約二四〇〇年前、東北北部などで約二三〇〇年前とすると、津軽地方へ
通史編1(古代・中世) (弥生文化と続縄文文化)

時期的にも弥生時代から古墳時代後期まで併行することが明らかになってきた。  ,東北地方北部における弥生時代後期以降の遺跡数減少は、気候寒冷化によって稲作農耕が後退し、人口が減少したことを
資料編1(考古編) ((3)石製品)

この両遺物は後期に出現し、晩期並びに一部は弥生時代にかけて作られたものらしい。,は、臼玉・管玉・丸玉・有孔石製品などがあり、これらは後期の十腰内Ⅰ群(式)土器期に出現し、晩期を経て弥生時代
資料編1(考古編) ((4)土製品)

弥生時代では、前期の砂沢式土器期に多く、中期後半の田舎館式土器期を最後に製作は停止したらしい。  ,楕円または長楕円形で、晩期終末に近い大洞A式のころから弥生時代前期の砂沢式土器期にかけては、糸巻形のものが,三戸郡五戸町古街道長根遺跡=後期:十腰内Ⅰ群(式)土器期)等があり、ほかになお猿並びにイノシシなどもあり、弥生時代前期
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳時代)

 古墳を指標として概観した東北地方のこの時代のなかで、東北地方北部では三世紀末から四世紀前半代には、弥生時代
資料編1(考古編) (資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)

) 図18 縄文時代の土偶(2) 図19 縄文時代の骨角器 図20 縄文時代の編物 図21 弥生時代,の遺跡・遺物 図22 稲作伝播のルート 図23 弥生時代の遺跡・遺物(垂柳遺跡) 図24 縄文時代,表10 ミズナラ類の加工工程 表11 押出遺跡出土クッキー状炭化物分析結果 表12 垂柳遺跡発見弥生時代水田跡一覧,表13 砂沢遺跡発見弥生時代水田跡一覧 表14 青森県における弥生時代の住居跡 表15 石棺墓
資料編1(考古編) (新編 弘前市史 資料編1-1 考古編 目次)

 137          (3)多様な技法 …………………………………  138     第3節 弥生時代,140         1.時代区分と弥生土器の編年 ……………………  140         2.弥生時代,150         3.縄文時代の集落 …………………………………  155         4.弥生時代,         (2)人骨の出土した土壙墓 ……………………  162          (3)弥生時代,         (1)縄文時代の甕棺墓 …………………………  170          (2)弥生時代
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

⑤本県における弥生時代の土器編年確立と同時代の水田跡発見…この時代の土器編年については、橘善光が精力的,弥生時代の水田跡は、その後の昭和六十二年(一九八七)に弘前市三和(みわ)にある砂沢遺跡で、当初二枚、その,なお、縄文に続いて弥生時代にも甕棺墓の存在があり、西津軽郡深浦町広戸の吾妻野Ⅱ遺跡出土合口甕棺(前期砂沢式期,このほか、平成四年(一九九二)に調査された下北郡川内町の板子塚遺跡では、弥生時代の土壙墓一〇基の中で、,第八号土壙墓から石鏃一三〇個・勾玉(まがたま)一個が出土しており(173)、さきの合口甕棺と並んで本県の弥生時代
通史編1(古代・中世) (原エミシ文化の形成)

原エミシ文化の形成 弥生時代から奈良時代に至るまで、青森県内には西日本から受容された文化の影響によって
資料編1(考古編) (15.尾上山(3)遺跡)

・同c式・同d1式・同d2式)・第Ⅲ群中期(円筒上層e式・最花式)・第Ⅳ群後期(十腰内Ⅰ群)・第Ⅴ群弥生時代前期
資料編1(考古編) (4.中崎館遺跡)

(4)遺構・遺物の概要  調査の結果、縄文時代後期・晩期・弥生時代前期・平安時代後期・平安時代末期の,〔弥生時代〕 弥生時代前期の二枚橋式・五所式期の土器のほか、竪穴遺構1基が検出された。
通史編1(自然・原始) (高杉面)

なお、砂沢溜池内の砂沢遺跡(一六~一八メートル)で検出された弥生時代の水田跡は舌状に張り出した中位段丘
通史編1(自然・原始) (平野南縁の地形区分)

なお、田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡から検出された弥生時代の水田跡は扇状地性低地に立地している。
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳文化)

東北地方の古墳文化 中央政府を基準とした日本史の時代区分では、弥生時代に続いて、三世紀末ころから古墳時代
資料編1(考古編) ((2)縄文時代早期)

Ⅳ 十腰内Ⅴ 十腰内Ⅵ 晩期 大洞B 大洞BC 大洞C1 大洞C2 大洞A 大洞A’ 弥生時代
資料編1(考古編) ((5)塩業)

では縄文時代後期(八戸市風張(1)遺跡)にさかのぼり、同晩期には陸奥湾沿岸に広く展開するようになるが、弥生時代
資料編1(考古編) (-農業生産物-)

また、弥生時代中期の垂柳遺跡出土米と比較すると、垂柳出土米に見られなかった中粒が10%含まれることや、
資料編1(考古編) ((2)太平洋戦争後から現代まで)

また、環濠については、内部の竪穴群と同時期のもので、西日本の弥生時代の環濠集落のように「外敵に対する備,弥生時代の本県の稲作の痕跡や、古墳文化特有の祭祀遺物である石製模造品の分布などから、東北北部も古墳文化
資料編1(考古編) (〈注一覧…第2章〉)

*144 斎藤忠 『日本の発掘』(東大新書45) 1963年3月 *145 甲元真之・山崎純男 『弥生時代,の知識』(東京美術考古学シリーズ5) 1984年3月 *146A 八幡一郎 『弥生式土器・弥生時代・,年3月 *148 伊藤玄三 『東北』(新版考古学講座4) 1969年10月 *149 橘善光 『弥生時代,奈良県田原本町教育委員会が発表した唐古・鍵遺跡出土の楼閣(重層建築)を表す絵画をもった土器の発見は、弥生時代中期
資料編1(考古編) (3.石川長者森遺跡)

(4)遺跡の概要  遺跡は、弥生時代末期(3世紀末~4世紀前半)の遺物散布地、奈良時代末~平安時代(
資料編1(考古編) ((4)漆器・木器生産)

しかし、この漆器技術も弥生時代には日本からほとんど消滅し、再び本格的に登場するのは、律令制度導入後とされ
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