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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画)

弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画 平成九年(一九九七)の調査終了時点で、市内八四ヵ寺に八三〇件二〇〇〇点余 / 弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画
通史編5(近・現代2) (戦後美術界の復興)

この日展で活躍したのが、彫刻家三国慶一・古川武治(こがわたけじ)(大正七-平成一六 一九一八-二〇〇四,三国慶一は、小学校高等科のころに彫刻家早坂寿雲(はやさかじゅうん)(本名・前田鉄之助 明治五-昭和四 ,入選し、以後、新文展、日展と続く一辿の官展、及び財団となった日展でも審査員や評議員、参与を務め、日本彫刻界,写真279 三国慶一『清泉』  同じく彫刻家の古川武治は、三国慶一に師事し新文展に初入選、日展では,県展の発足・運営に深くかかわった彫刻家画家に齋藤賢佶(さいとうけんきち)(有馬賢吉)(明治三五-平成四
通史編5(近・現代2) (昭和の美術団体)

昭和五十四年には、齋藤賢佶を中心にして彫刻グループ「塊友社」が改組復活され、第七回展から名称を「青森県彫刻会,」と改めて、弘前市と青森市と交互に彫刻展を開催して今日に至っている。
通史編1(自然・原始) (大平山元遺跡)

大平山元Ⅰ遺跡は彫刻器・削器・石鏃などのほか、長者久保遺跡と同様な局部磨製石斧に加えて無文(むもん)土器,大平山元(1)遺跡から出土した彫刻器・削器・石鏃  なおこの遺跡の特色は、局部磨製石斧と無文土器
資料編3(近世編2) (●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢)

外部を全面丹塗とし、内部は弁柄塗であるが、彫刻や蟇股には美しい極彩色がみられる。  ,いたるところに龍や松の彫刻を彫り、漆を塗り、金箔を押し、極彩色の文様を描いており、現在では「華御堂」と,柱や梁や桁のほかに、壁や扉などを黒漆塗りとし、随所に金箔を押し、多用されている彫刻には極彩色を施し、金鍍金,岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書』より転載) (五)奥門--重要文化財  一間一戸の向唐門の形式で、本殿と同様に彫刻,柱などの軸部は黒漆塗りとし、木鼻や虹梁の袖切などの部分には朱漆を用い、蟇股や欄間の彫刻には極彩色が施されており
通史編3(近世2) (三不動)

こがけ)(国上寺)・中野(中野神社)・長谷沢(ながいさわ)(長谷沢神社)の不動尊は、一本の材木から三体を彫刻
通史編1(自然・原始) (長者久保遺跡)

出土した石器は石槍・彫刻器・打製石斧など約五〇点であるが、なかでも刃の部分を研磨して製作された局部磨製石斧
通史編1(自然・原始) (弥生文化の内容)

しかし、垂柳遺跡において柄杓(ひしゃく)の柄にクマの頭部を彫刻したもの、火鑽具(ひきりぐ)・木鍬(きぐわ,)などの木製品が出土し(8)、とくにクマの頭部彫刻を有する柄杓は金属器(鉄器)なしでは製作し得ない品物,(9)(八幡崎は木製碗・是川中居は箆(へら)状ならびに赤漆塗太刀形木製品)などのように、細部にわたる彫刻
資料編3(近世編2) (●橋雲寺 愛宕堂 岩木町大字植田字山下)

向拝の虹梁や象鼻や手挟などの彫刻も優れたもので、津軽地方の近世三間堂として貴重な遺構である。
資料編3(近世編2) (●東照宮 本殿 笹森町--重要文化財)

他藩の東照宮に比して素木造の簡素なものであるが、細部の彫刻をはじめ、主体部の構造形式にいたるまで桃山時代
通史編5(近・現代2) (文展と帝展)

こんじゅんぞう)(明治二六-昭和一九 一八九三-一九四四)が入選したのを皮切りに、大正三年の第八回文展に彫刻,蔦谷龍岬、大正五年に三国花影(慶一)(明治三二-昭和五五 一八九九-一九八〇)というように弘前出身の彫刻家
通史編5(近・現代2) (美術団体の躍進)

らが、弘前を主とした美術展の機会を広げるのが目的で「国土社」を結成し、弘前市公会堂で第一回国土社洋画彫刻公募展覧会,新文展には、彫刻家の三国慶一が連続して出品している。  
資料編3(近世編2) (●弘前八幡宮 八幡町一丁目)

身舎は素木造であるが、向拝の組物部分には極彩色がみられ、蟇股や扉などの彫刻には桃山時代の作風が残されている
資料編3(近世編2) (●誓願寺 山門 新町--重要文化財)

全体に彩色がなされ、十二支の絵も描かれ、懸魚に鶴や亀の彫刻が用いられている珍しい構造で「鶴亀門」とも通称
通史編1(自然・原始) (大森勝山遺跡)

石器は珪質頁岩(けいしつけつがん)を原材としており、ナイフ・彫刻刀・削器・スクレパー(掻器(そうき))
通史編5(近・現代2) (忠霊塔の建設)

これによると、忠霊塔の「本尊」は、大鰐町の伝説的な名木「萩桂」を体材として、弘前出身の彫刻家三国慶一が,しかし、忠霊塔は、建設費の募金も不足で彫刻の費用は全くなかった。
通史編3(近世2) (稽古館の文化事業)

翻刻は稽古館内に「彫刻方」があって版下を刻んだ。教科書としては以下のものが翻刻された。
通史編5(近・現代2) (幼稚園の廃園)

閉園を記念して弘前市教育委員会は、元気に遊ぶ園児二人をかたどった弘前出身の彫刻家梅原正夫の「なかよし、
通史編4(近・現代1) (藩祖の銅像)

写真121 本丸の為信公銅像 (明治42年建設当時)  銅像は外崎覚の考証に基づき、彫刻家山崎朝雲
通史編5(近・現代2) (朝陽小学校の移転と新築)

三日間、落成記念展覧会を開催、児童作品(他県、本県、本市、本校)階下一八室、郷土懐古品(書画、古文書、彫刻
通史編3(近世2) (観音信仰)

(にゅうない)(現青森市入内 小金山(こがねやま)神社、第二十四番札所)の観音は一本の材木より三体を彫刻
資料編3(近世編2) (●革秀寺 藤代一丁目)

彫刻や天井絵などの漆塗り、極彩色の華麗な塗装の多くが、文化年間(一八〇四~一八)の大修理によるものであることも
通史編5(近・現代2) (美術団体の発足と展開)

上京し、高村光雲(たかむらこううん)(嘉永五-昭和九 一八五二-一九三四 東京都)に師事した後、馬の彫刻,青森県の美術界の活性化及び後進の育成を強く望んでいた照雲は、大正五年(一九一六)には在京していた若手彫刻家
通史編3(近世2) (概観)

さらに第三の寺社の彫刻絵画については、明治二十九年(一八九六)に市役所が行った「社寺寶物調」以外にほとんど
通史編4(近・現代1) (行在所金木屋)

なども皆白張り、引き手は金の金具に朱総(ぶさ)をつけ、玉座の廻廊や欄干の金具は全部四分一(しぶいち)の彫刻付
通史編3(近世2) (江戸時代後期の建築)

扉や彫刻や天井絵などの漆塗り、極彩色の華麗な塗装の大部分が、文化年間(一八〇四~一八)の大修理によるものであることも
通史編3(近世2) (江戸時代中期の建築)

本殿は、軸部の全面を黒漆塗りとしており、各所に金箔押しをし、彫刻類はすべて極彩色を用いたほか、飾り金具,これも同様に黒漆塗りを基調としており、彫刻にはすべて極彩色を用い、本殿や奧門とともに豪華絢爛たる意匠を
資料編1(考古編) (5.大森勝山遺跡)

石器はナイフ形石器(1~5)・彫刻刀(6~8)・ポイント状スクレパー(9)・削器(10)などである。
通史編1(古代・中世) (奥大道と文物の流通)

日本最北端の丈六仏である大日如来像(実は阿彌陀如来像)があるが、鎌倉前期のものとはいえ、平泉様式をよく残す彫刻
資料編1(考古編) (1.旧石器時代の概観)

前期旧石器時代 後期旧石器時代 中石器時代 礫器→スクレパー →ナイフ形石器→彫刻刀形石器→(石刃技法
通史編3(近世2) (江戸時代初期の建築)

一間(一・八二メートル)幅の広縁を取り、その扉や欄間(らんま)や指物(さしもの)の木鼻(きばな)などの彫刻
資料編1(考古編) ((3)石製品)

円筒上層e式や最花・中の平Ⅲ式土器期には太く短い形状のものが作られ、晩期に入ると、細く長い形態で先端に彫刻
通史編3(近世2) (諸家業と職人)

切付師 2 但,御用 矢師 3 但,御用 御用蝋燭懸 1 御用蝋絞 1 御国産鉄取扱 1 彫刻師
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

長勝寺霊屋の彫刻は葵の紋とする。
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