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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (第五十九銀行と黒石銀行・弘前銀行の合併)

於て承認決議ありたる時を以て効力を生するものとす 第十一条 合併に関する一切の手続は甲乙両者の取締役に,一任し、尚、此契約書に規定を欠くか又は法律上支障を生したる事項は、甲乙両者の取締役間に於て協定すへきものとす,六〇〇〇株の大株主となり、合併時黒石銀行の取締役で、第五十九銀行の株主としては微々たる存在であった鳴海文四郎,が三〇四五株(第四位)、同じく取締役の宇野清左衛門が一三五〇株(第一八位)と大株主の一員となったことで,役員には第五十九銀行の株主を兼ねる者が多く、つながりが深かった。 / 第五十九銀行と黒石銀行・弘前銀行の合併
通史編5(近・現代2) (青森銀行の誕生)

発足した青森銀行の役員は、取締役九名、監査役三名であり、その氏名は次のとおりである。,取締役頭取 佐々木嘉太郎(前第五十九銀行頭取) 専務取締役 林崎浩太郎(前日本銀行本店証券課長),常務取締役 久保喜一郎(前日本銀行本店営業局地方課主事) 総務取締役 高谷英城(前津軽銀行頭取),取締役   苫米地義三(前八戸銀行頭取・板柳銀行相談役) 同     渡辺佐助(前青森銀行頭取・第五十九銀行取締役,安田才助(前第五十九銀行監査役・板柳銀行取締役) 監査役   藤林源右衛門(前青森銀行取締役) 同 / 青森銀行の誕生
通史編2(近世1) (町役)

町役 城下に屋敷を持つ町人には、地子銀(じしぎん)・出人足(だしにんそく)(人足役)・時鐘撞茂合(ときかねつきもやい,このうち、屋敷地に賦課された地子銀と出人足は、町役の基幹をなすものであり、弘前城下の場合、それらが交互,その後、元禄十四年(一七〇一)に地子銀納へ変わり、さらに正徳三年(一七一三)一月には再び人足役に転換した,人足役を地子銀納にしたことにより、地子銀で町人足を雇用し、それを小遣と称し、約一〇〇人を常抱えとして百人小遣,町扶持人は人足役ではなく、地子銀を上納することが定められたが、御用屋敷は人夫役を免除された(「国日記」 / 町役
通史編5(近・現代2) (弘前銀行の解散)

弘前銀行の解散 弘前銀行は三週間の休業後、昭和六年(一九三一)十二月十五日に再開業したものの、本格的,昭和七年になると大蔵省の斡旋を受け入れ、経営陣の刷新を図るが、昭和八年に元重役による背任横領疑惑が出てくると,結局、この事件は容疑をかけられた元重役が同行の信用を守るために粉飾決算を行ったという商法違反として結審,に見切りをつけ、第五十九銀行に同行の整理を内命していた。,第五十九銀行による整理は昭和十一年から始まり、弘前銀行は昭和十三年九月十三日に営業満了を迎えると営業継続 / 弘前銀行の解散
通史編5(近・現代2) (みちのく銀行の誕生)

みちのく銀行の誕生 昭和五十一年(一九七六)一月十日、青和銀行と弘前相互銀行は合併の基本覚書を結んだ,昭和五十一年)十月一日 合併比率・・一対一 商号  ・・合併期日に商号を変更する 本店  ・・青森市 役員,  ・・新銀行の役員は合併期日現在の双方役員で構成するが、定数は取締役青和銀行九人、弘前相互銀行十三人,、監査役は青和銀行二人、弘前相互銀行三人。,ただし、頭取は唐牛敏世、副頭取は大坂嘉市、その他の役員人事は双方協議して決定する。 / みちのく銀行の誕生
通史編5(近・現代2) (弘前銀行と第五十九銀行の休業)

弘前銀行と第五十九銀行の休業 昭和六年(一九三一)十月中旬、第五十九銀行で大蔵省の銀行検査が行われた,損失は重役らの私財提供によって補填することにしたが、そのほとんどは不動産によってなされたため、支払準備金,弘前銀行の休業は、遂に県下の親銀行たる第五十九銀行に影響を及ぼし、二十四日、行員の帰宅後徹宵重役会を開,                      取締役頭取 宇野勇作 大蔵大臣 井上準之助 殿 (,第五十九銀行の休業に引きずられ、その子銀行たる三戸銀行、尾上銀行などが休業すると県内各行は次々と休業に / 弘前銀行と第五十九銀行の休業
通史編4(近・現代1) (第五十九国立銀行の普通銀行への転換)

第五十九国立銀行の普通銀行への転換 明治十六年(一八八三)、国立銀行条例の改正により、営業年限が満期,の二〇年を超えた国立銀行は営業を継続する場合、普通銀行に転換することとなり、また、これまで発行していた,次の史料は、第五十九銀行が明治末に作成した『当銀行誌材料書類』に記録されている、普通銀行転換に際して明治三十年五月二日,と致したしと動議を起し、同意あるを以て之を起立に問ひしに、小数故に消滅に帰したり 又三浦深造は取締役五名,また、取締役の人数は原案五名に対し、三名の修正意見が出され、多数決で三名と決まった。   / 第五十九国立銀行の普通銀行への転換
通史編2(近世1) (諸役と運上)

そして、屋敷持には町役が、町方の商工を営む者には定められた役銀が賦課された(以下は、長谷川前掲「弘前城下,寛文四年(一六六四)十一月六日、領内一円の酒造と麹造(こうじづくり)に関する役銀・役米徴収についての規定,役銀はその種類が次銀(領内貨幣でも品位の劣るもの)と指定され(同前第一条)、七月と十二月との二回に分けて,正徳期の場合、町中の酒屋が一一〇軒で役銀は一軒につき三両三〇匁、質屋は二二軒で役銀は一軒につき八六匁、,幕末になると、役銀の徴収はさらに細分化され、造酒業の場合、造酒高によって、一〇〇石の高では役銀一貫五〇〇 / 諸役と運上
通史編5(近・現代2) (第五十九銀行の復活)

第五十九銀行の復活 三週間の休業を発表したのち、第五十九銀行の復活へ向けた経営努力が開始される。,そのうち半額は重役の私財でもって弁済し、あとの半額は損金扱いで処理することにした。,それと同時に、西田の後援者である前朝鮮銀行総裁美濃部俊吉が相談役となり、中央における第五十九銀行の顔役,これまでの経営者は大地主や事業家がほとんどで、銀行経営の専門家といえず、また、常時銀行業務に就いているわけでもなかった,なお、金融危機が勃発した昭和五~六年における県下休業銀行、開店休業銀行の概況は表9のとおりである。 / 第五十九銀行の復活
通史編3(近世2) (諸役と仲間)

領内の居鯖への役銀の規定であり、一人につき本役は次銀一枚、半分を負担する半役は二三匁と定められていた。,、城下の酒屋は一一〇軒あり、役銀は一軒につき三両三〇匁、質座は二二軒で役銀は八六匁、室屋は三一軒で役銀,弘前城下以外に、両浜の青森・鰺ヶ沢の役銀や在浦(両浜以外の九浦)の役銀についても記載があり、貴重な情報,それによれば、青森・鰺ヶ沢の役銀は弘前城下の半分が原則であったようで、豆腐・質座・蕎麦切・魚売の役銀がそのようになっている,表3.役銀一覧(宝暦年中よりの「家業役銀帳」による) 家 業 役   銀 備   考 造酒御役 7両2 / 諸役と仲間
通史編4(近・現代1) (県下銀行の発展と金融都市弘前)

弘前進新銀行に改組した当時の頭取は武田甚左衛門、取締役は村林嘉左衛門・宮本甚兵衛、同兼支配人には武田荘七,初代頭取は中津軽郡千年村の地主で、酒造業も営む松木彦右衛門、取締役は西津軽郡木造村の地主である市田利平,初代頭取は南津軽郡蔵館村の地主である水木惣左衛門、取締役は弘前市大字土手町で洋品店を営む野崎惣助、支配人,初代専務取締役(頭取と同じ)は弘前市大字東長町で酒造業を営む菊池定次郎、取締役は弘前市大字松森町で呉服商,初代頭取は今泉文蔵、取締役は武田荘七・武田彦七が就任した。 / 県下銀行の発展と金融都市弘前
通史編5(近・現代2) (県内銀行合併の推進)

県内銀行合併の推進 昭和七年(一九三二)末における県下の本店銀行は、表12のとおり、普通銀行一四行、,表12 県内本店銀行数の推移 (昭和7年末~20年末) 年末 普銀 貯銀 合計 摘要 昭和7年 14,十三年、第五十九銀行は三戸銀行を買収合併。,その際、第五十九銀行が救済したが、その後、同行は役員や支配人を送るとともに、株式の大半を所有し、三戸銀行,尾上銀行は明治三十三年に設立された銀行だが、昭和十三年にはすでに大蔵省から第五十九銀行に対して尾上銀行 / 県内銀行合併の推進
通史編5(近・現代2) (弘前無尽会社の相互銀行への転換)

弘前相互銀行発足時の役員は次のとおりである。   ,取締役社長 唐牛敏世   専務取締役 葛西弥六   常務取締役 斎藤友七   取締役   伊藤金蔵,(一)営業所の応急支払 (二)有価証券(日銀担保適格)の購入 (三)取締役会に於て特に必要と認めた,第十条(本部預ヶ金の運用) 本部預ヶ金は、日本銀行預ヶ金若しくは重役会の決議により、日銀見返となるべき,本規定は昭和二十七年三月二十六日、取締役会に於て定め、即日之を実施する。 / 弘前無尽会社の相互銀行への転換
通史編5(近・現代2) (相互銀行制度の創設)

その中で、中小企業に対する専門の金融機関として重要な役割を果たしてきた無尽会社と信用組合は切り離して立法,され、相互銀行と信用金庫となった。,二十六年六月の相互銀行法の制定に伴い、無尽会社の多くは相互銀行へ転換していくことになった。  ,大蔵大臣がその会社が相互銀行を営業するのに適当であると認めた場合に免許が受けられた。,』弘前相互銀行、一九七四年)。 / 相互銀行制度の創設
通史編2(近世1) (銀遣いへの変更と商人の活用)

乳井貢ら御調方役所の認識にあったのは、江戸入用金が上方からの送金によって賄われていたことであった。,つまり、江戸への送金も領内の銭遣いも上方銀主を通して行われており、上方銀主に支払う手数料・両替料の出費,「古来」津軽領では銀遣いであったが、先述のように上方廻米の開始によって上方銀主とのかかわりが深くなり、,既に、宝暦三年八月の御調方役所の設置に伴って、藩内の有力商人である足羽(あすわ)次郎三郎と竹内半左衛門,を調方御用取扱に任命し、従来の御用達町人をも調方役所の管轄下に置いている。 / 銀遣いへの変更と商人の活用
通史編3(近世2) (町役負担と御用金)

表6.弘前城下の地子銀(1軒あたり) 上 役 52文目8分 中之上役 40文目  4厘 中 ,町役の地子銀納は正徳三年(一七一三)正月に、元の人足役の徴収に戻ることになる。,また、藩から扶持米などを支給されている町扶持人も、人足役ではなく、地子銀を上納することに定められた(「,このため、人足役負担の合計は五万九〇七二人余、町扶持人の地子銀の合計は五貫六六一匁余、五匁・七匁・一〇,以降、弘前城下の町人は居住地によって人足役か地子銀のどちらかを負担していったのであろう。   / 町役負担と御用金
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

江戸時代初期の大名課役 江戸時代初期における大名に対する軍役動員の事例として、大坂の陣・島原の乱が挙,この上洛の折、津軽家は近江国大津町年寄矢島藤五郎から銀子五〇貫を借用している。,普請役は、城郭普請がその典型であるように、本来戦陣における課役で軍役の一変型とされる。,当時の将軍徳川家光の時代まで、普請役や在番などの役を命じられたことがないと回答したと記されている(資料近世,と鞍のみを供出する「鞍皆具役」などの役が、各大名に課された。 / 江戸時代初期の大名課役
通史編4(近・現代1) (開業時の状況)

明治十二年(一八七九)二月二十八日、大道寺頭取と松野取締役は渋沢栄一宛に業務不振の悩みを書き送っている,営業不振の原因は、新銀行制度に対する知識がいまだ庶民へ普及していないため銀行利用者が少ないこと。,三井組の三井銀行が青森県に進出して官金取扱業務を掌握し、後発である第五十九国立銀行の取引範囲がきわめて,また、銀行紙幣の交付については第一国立銀行が大蔵省に懇請しているという内容であった。  ,開業前から県下各大区長へ依頼していたため、十一年十二月には中津軽郡役所、翌十二年六月には東津軽郡・西津軽郡役所
通史編2(近世1) (宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)

そのうち年貢・諸役米が七割を占めるが、家中の知行米の買い入れも二割半になる。,一方、人件費といえる藩士への蔵米渡・役知・切米・扶持米等は六万一〇一石(二八・五九パーセント)である。,表34 安永6年収入の部(米方) 費  目 米高 (石) 比率 (%) 収納並小役米 110,816,においても、湊役・酒造役などの商業資本に立脚した税収よりは、基本的に米穀に立脚した収入に基盤を置いていた,200,000 200,000 10.12 酒造役 183,900 183,900 9.31 諸家業役
通史編4(近・現代1) (会社企業の増加)

大正十四年版『弘前市商工案内』によれば、銀行を除いた会社数は三八社である。,銀行を含め、会社の経営者には同一人物が重複して関与する事例が多い。,宮川久一郎は弘前商業銀行、宮川銀行の頭取を務め、宮川呉服店、弘前無尽株式会社、大黒倉庫株式会社の社長を,兼務するほか、第五十九銀行、角弘銅鉄店、桝五関商店の取締役となっている。,関利三郎や宮川忠助も複数の会社の社長や役員になっている。
通史編2(近世1) (鉱山の開発)

存在は、元禄時代には全国的にみて有名なものであり、元禄十六年(一七〇三)、銅を扱う商人から幕府の銅座役所,翌年五月には銀の鉱脈が発見されて、従来の二倍に及ぶ産銀が見込まれることになり、藩では銀の精錬量を増加させる,当時の年間産銀量は約六〇〇~七〇〇貫と推定されている。,しかし貞享年間に入ると、銀の生産量は減少傾向に転じていった。,銅・鉛の積み出しには湊役銭・津出役は無役とされ、便宜が図られていた(資料近世1No.一〇七八・一〇七九
通史編5(近・現代2) (県債五〇〇万円の成立)

を始め、有力なる三、四の銀行は已に閉店し、其の他の銀行と雖も資金枯渇し、為に県内外に於ける各種の取引関係,さる 生命保険協会から借り受くべく安田主事交渉中 〃 3.20 県債五百万円最後の決定を見る 二十一日銀行重役,前者は銀行が所持している不動産抵当債権を県が肩代わりするものであり、後者は銀行が地主に対して設定していた,の県債はすべて現金で銀行に入るようになっており、銀行の支払い準備金を潤し、銀行救済に役立った。,それは、県下における金融界の安定には、県下の親銀行たる第五十九銀行の復活がなければありえなかったという
通史編2(近世1) (「標符(通帳)」発行の前提と経過)

(通帳)」発行の前提と経過 標符は大きくは藩札の範疇(はんちゅう)に入り、領内に流通させることで金銀銭,さらに同二十二日には運送役の任務を「米穀諸渡方」「金銀銭諸渡方」「諸色御買物代切手払」「御家中御給禄渡方,あわせて、同月、藩は領内の「金銀米銭」の実数書き上げを命じた。,そして、運送役や員数役(いんずうやく)のほかに、富裕な町人をそれらの「下加(したくわえ)」の名目で弘前並,価格や利益・相場の固定化は、金銀によらずに売買を行うための必要条件だったのである。  
通史編4(近・現代1) (金融関係法規の制定・改正)

①貯蓄銀行条例の改正 銀行類似会社や弱小銀行の中には、積立預金や据置貯金の名称で預金の吸収を図るものがあり,まず、業務分野の拡大であるが、貯蓄銀行の業務に新たに定期積金と据置貯金を加え、貯蓄銀行以外のものがこの,の権限拡大であるが、業務の種類や方法の変更および代理店の設置は大臣の認可事項とし、その他事業の停止、役員,条例改正は、貯蓄銀行に新規預金業務を認め、いかがわしい金融機関をこの条例の対象として規制し、また、貯蓄銀行,③銀行条例の改正 第一次世界大戦中の産業の発達とともに普通銀行の資金量も増大すること、また、弱小銀行の
通史編3(近世2) (神事能)

能役者は、延宝八年(一六八〇)から用人の支配下となり、諸経費は楽屋奉行・能役者双方より出されていたが、,前は側役久留瀧右衛門が太夫代わりを勤めていた。  ,が町役は免除されているが、地子銀を納めている例がみえる(同前)。  ,寛政三年(一七九一)、野添織三郎の倅蔵之助が稽古のため江戸へ向かう時、路銀・馬銀は藩より支給されたが、,能役者が神事能を奉納して五穀成就を願うことは、藩より扶持米を与えられる者の役割の一部と考えていたものとみられる
通史編5(近・現代2) (東門会の佐藤正三)

深い真理の表面的活動の一現象の役割か? なんといっても事実だ。こころから叫びたい。闘争だ。,昨日今日弘前銀行の休業にともなひ五十九(銀行)も三日目の休業に至った。,昭和七年五月十五日 叔父(第五十九銀行勤務)は日曜なのに銀行へ、叔母、母は神様へ、敏彦と僕とが留守。,警視庁、首相官邸、日本銀行、政友本部等に帝都の要所を襲撃する事件を耳にす。陸海少壮軍人の仕事。,我等の命もだんだん役立つ時が来た。みっちり勉強しやう。  九時頃桂兄宅へ行く。
通史編2(近世1) (材木移出)

津軽領からの材木積出の手続きは、藩の役人(山奉行もしくは山役人)が湊の沖口横目へ、材木の積み出しを求める,③湊からの移出材木には、買人・山師らが立ち会って木数を確認し、代銀を受け取る(第三条)。,⑤材木代銀の不正を禁止する(第七条)。 ⑥十三からの移出材木は、必ず現銀で決済する(第十条)。,さらに、寛文九年(一六六九)十二月二十二日には、蟹田と十三の材木奉行に対して、役銀を徴収して町人請負による,このようにして津軽領内から移出された材木は、上方においては、蔵米と同じように現銀化可能な有力商品であった
通史編2(近世1) (土着策施行期の廃田開発)

おおじょうやせい)の失敗から、この時期、藩による廃田開発(はいでんかいはつ)は、平沢三右衛門を廃田開発役に,くわしたねんき)(開発に伴う年貢の免除期間)といった優遇策(同前)にもかかわらず、やはり開発主体は郷役(,『平山日記』寛政五年条によれば、松前出人夫がおびただしくなることによって、百姓が直接開発のための郷役を,この結果、労働力は仮子を中心としたものとなってくると同時に、その労働価値の増大に伴い、仮子給銀は急上昇,しかしながらこの、人不足→仮子給銀の上昇→百姓潰れ→人不足という悪循環は、松前出人夫の継続と藩財政拡大
通史編2(近世1) (「標符(通帳)」通用の実態)

「標符(通帳)」通用の実態 これまでみてきたように、藩は標符によって正金銀や米穀をはじめとする諸物資,つまり、標符の発行は、領内からの金銀・米穀・諸物資の徹底した収奪であり、収奪したそれらの配分と流通、そして,販売と購入は、領内外を問わず、藩と実務を執る運送役の商人の手に掌握され、領内は厳しい経済統制下に置かれることとなった,、必然的に領内の金銀・米穀・諸物資は領外に流れ、領内の物資不足を招いた。,通用するようになったことから、両替方での書き替えがしだいに増加し、一日に一四〇〇通を数えることもあり、役方
通史編2(近世1) (「標符(通帳)」の形態と呼称)

一枚目には運送役と員数方の印が押され、この通帳の固有番号と考えられる「数百十六番」と、同じくこの通帳によって,可能な商品との引き替え総高を示す「銀壱貫目也」の記載がある。,① 高何百石   何之誰   俵ニ〆何百俵 代銀何貫何百匁       御運送役判          ,何組何村某   代銭之書様御家中之通、表書ニ標符と有、  何組何十何番村          御運送役判,、御運送役判、御員数方判」と記載されているとしている。
通史編4(近・現代1) (戸長の配置)

                       宮崎文蔵  元大工町 森町 覚仙町 塩分町 元長町 上白銀町,                 小田桐〓  東長町 元寺町 鉄砲町 上・下鞘師町 元寺町小路 下白銀町,ノ町                          石郷岡平次郎  また、明治十四年の中津軽郡役所資料
通史編5(近・現代2) (建築近代化への立ち後れ)

また、商店建築においても、明治十二年(一八七九)に創立された国立第五十九銀行、二十年代(一八八七~九六,)に入ってからの新進銀行、弘前両益銀行など、いずれも商家風店舗で、その後も土蔵造り店舗などを利用した程度,これにより、後れていた弘前地方の洋風建築は、明治二十年代には東奥義塾や弘前市役所などの建築でようやく先進各地
通史編2(近世1) (西廻海運による大坂廻米)

とのつきあいがあり(印牧前掲論文)、延宝七年(一六七九)には、大坂廻米全量に当たる二万七〇〇〇石を井川への借銀返済,さらに、このとき、蔵米販売は、米とその代銀の脇払いを禁止して行われており、敦賀廻着のときにみられた、藩,金主の衰退の原因は、借金(銀)返済の遅滞と、彼ら自身が複数の藩と金融関係を結んでいたことにあった。,上方で金主と借金(銀)の交渉に当たったのは、藩の役人・国元町人・蔵元であった。,金主たちは、国元不作の情報を手にすることもあり、新たな借金(銀)になかなか応じず、その返済を求めた。
通史編4(近・現代1) (戸籍法と戸籍区)

戸籍編成に当たり、政府は、数ヵ町村で一区を作り、ここに戸長・副戸長という新しい役人を置き、戸籍簿の作成,の名称改定 ・役場所在地を冠称とする   22 (1889)  4 市制・町村制施行   ,津軽郡第二〇区内小一区 上銀丁 新屋敷 茂森町 宇庭光海及耕春院并元門前 長勝寺々中一円 同元門前 ,万能寺元門前 山辺稲荷并白狐寺門前 大矢場 貞昌寺元門前 在府町相良丁 本町 覚仙丁 森丁 塩分町 中白銀丁, 古学校 大工町 元長町  右取扱 副戸長 大島栄作 同小二区 下白銀丁 元寺町 一番丁 鉄炮〔
通史編2(近世1) (農村部での騒動)

では七月二十七日に木造新田など二八ヵ村の者が徒党を組み、貯米の返却と年貢強化策として制度化された「芦萱銀」,せっかくの飢饉対策の貯米が実際には年貢同様の扱いになり、本来の役割を果たさなかったのである。,首謀者五人が捕らえられたが、九月二十九日に至り、藩は貯米の上納の廃止、貯米の分割返却、翌年までの芦萱銀(
通史編2(近世1) (本百姓)

本百姓 前期の農政における本百姓は、「抱地(かかえち)」と呼ばれる土地保有と、夫役(ぶやく)(人身的労役,この、蔵入地(藩の直轄地)の百姓である御蔵百姓の年貢以外の夫役・諸役は、寛文五年(一六六五)十一月十一日,歩米・筵役がある。,収取形態は、現物納を原則としているが、夫役・小物成は代銀納制を併用していた。,諸役収取の実態は、油役・麻役は畑年貢に加えて荏胡麻(えごま)・苧麻(ちょま)を上納するもので、また、真綿役
通史編5(近・現代2) (弘前文化センター(弘前文化会館))

弘前文化センター(弘前文化会館) 昭和五十六年(一九八一)九月、弘前市下白銀町一九番地四に弘前文化センター,地域住民が身近に音楽・演劇・舞踊などの舞台芸術を鑑賞したり、自ら制作・発表活動を行う拠点として重要な役割
通史編2(近世1) (地方支配機構の確立)

代官の任期は長く、固定的な役職であったと思われる。,新田開発では、小知行は三〇から一〇〇石以下の知行高であるにもかかわらず、普請にかかる労働力を自らの出銀(,日傭銀)で賄っていた。,前期の代官が、その任期が長く固定的な役職であったのは、このようなことによって裏打ちされていたのであった,蔵米制下の代官は、代官支配地を替えられることによって在地性を失い、地方役人としての性格が強くなった。
通史編5(近・現代2) (弘前との因縁)

そして、このつながりをいっそう深いものとしたのは、昭和三十一年(一九五六)、当時の藤森市長が上白銀町の,現在地へ市役所新庁舎を建設することとした際、その設計を前川に依頼したことにある。,写真301 弘前市役所
通史編2(近世1) (領内アイヌ支配の変化)

寛文五年(一六六五)十一月十一日の「御蔵百姓諸役之定」によれば、蔵入地の百姓に対して諸役の一つとして一斗一升,(代銀二匁六分)の犾米(蔵からアイヌに売却される米)納入が定められていたが、寛文末ごろになると史料からその,5年)10月8日 松ヶ崎狄 左平次 鷂    1      10月28日 今別狄 鷹 銀     , 1 わかめ      9月24日 今別  かのたいぬ 黄鷹   1 往還の路銀,宝暦六年(一七五六)、折から外浜を巡視していた、「宝暦改革」の立役者乳井貢(にゅういみつぎ)によって、
通史編3(近世2) (博奕の判決例)

中心人物は明らかではないが、棟方善八は博奕をやってはいないが場所を提供した罪を問われ、俸禄を半減され、役職,は御目見(おめみえ)以下の御留守居支配(おるすいしはい)へ「役下げ」を申し渡された。,この二人に対しては、「寛政律」の項目「博奕」の第一四七条「一、博奕致候者鞭三其時之金銀ハ没収可レ致事、
通史編5(近・現代2) (市制施行百周年)

追手門広場は弘前市観光の拠点として、弘前城と市役所に近接する形で位置づけられている。,戦後はみちのく銀行頭取の唐牛敏世が所有していたが、昭和六十二年(一九八七)に市制百周年記念事業として市,昭和三十四年に新築された市役所の庁舎をはさむようにして追手門広場と藤田記念庭園は建っている。,市役所の前面には弘前公園が広がっている。,編入された町村役場のなかには、すでに行政文書が存在していないところもある。
通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

桜庭は、まず家中の窮乏を指摘し、下級武士の貧困、役料が上納され小身の者の役儀に差し障りが出てしまうことなどを,さらに、町方支配・流通機構についても、前年の御用金賦課で青森の町人の中に退転する者が出ていること、過重な役銀,さらに取り立てたもののうち、「御普請料米」の一部が大坂の蔵元への借銀返済に流用されるなど、出頭人グループ,表20 宝永7年津出予定石表 払い項目 石・斗・升 金銀切米代  1,530.,材木入付銀代米  4,857. 8. 7 浜下米駄賃・運賃金代米  
通史編5(近・現代2) (りんご振興策)

役員には、社長が代議士の苫米地義三、副社長は業者と生産者の清藤唯七・相馬友彦、専務取締役は前商工課長の,田中健吉、常務取締役は初代りんご課長の岡本重規が就任し、多彩であった。,そして、二十九年にはとうとう銀行管理となり、青森市から弘前市に会社を移転して再建を図るが、三十二年に資金調達不能
通史編2(近世1) (野本道玄の招聘)

これらの人材が、領内の農業・林業・工業・鉱業の発展、儒学・兵学などの学問導入に果たした役割は大きい(表,1694 元禄7 40 6月6日,鶯の間において御茶道役の儀誓詞。,そのときから,清如堂においてしばしば茶の湯が催され,道玄茶道役を勤める。,1695 元禄8 41 銀20枚5人扶持(11月21日改,弘前御家中分限帳の覚)。,1697 元禄10 43 銀20枚5人扶持(分限帳御日記方)。
通史編5(近・現代2) (棟梁・堀江佐吉)

このことが、翌年(一八七五)青森における歩兵第四連隊兵営工事の際大いに役立ったのである。  ,写真293 東奥義塾校舎(明治23年)  この後、旧弘前市役所〔明治二十五年〔一八九二〕)、第八師団司令部,また、明治三十五年(一九〇二)から三年をかけて第五十九銀行(現青森銀行記念館)を建築し、その意匠及び構造,当初は、木造二階建て、建坪二〇坪程度の予定で図面も引かれていたが、設計施工を任された佐吉は、第五十九銀行本店竣工直後
通史編5(近・現代2) (幹線道路建設)

県道弘前環状線は昭和五十五年度の城北大橋の開通により市北部の交通緩和に役立ち、続いて拡幅改良と変則五差路,として供用開始になった県道岩崎西目屋弘前線(旧弘西林道及び旧県道尾太弘前線)は県土横断道路の一部としての役割,七号弘前・黒石線が松森町までの完成をみ、また、昭和四十九年度から市営で続けてきた三・三・四号弘前駅・下白銀町線,弘前南部地区広域営農団地農道(アップルロード)が、昭和五十四年度に完成をみ、弘前市南部地区の環状路線としての役割,⑦三・三・四号弘前駅・下白銀町線の事業促進を図る。
通史編4(近・現代1) (ランプと写真)

ランプは幕末の開港とともに外国から輸入されていたが、この地方では明治三年八月に青森に設けられた、後の三井銀行支店,かくして明治三十年代のランプの全盛時代を迎えるようになるのであるが、どこの家でもランプのホヤ磨きは子供の役目,田井隼人の子晨善(あきよし)はまもなく横浜で写真術を修得して帰り、十一年ごろに下白銀町に開業した。,また、十四、五年ごろには矢川璉が下白銀町に開業した。
通史編2(近世1) (改革意見書の基調)

再編と、人口激減・廃田増大を背景とする耕作力の増大化も目指され、特に寛政以降は、農村の復興に伴う年貢諸役の,(5)藩財政の最大の桎梏(しっこく)として両都銀主への依存があるが、生産力の拡大以外これをしのぐ方法がないこと
通史編4(近・現代1) (洋服)

洋服 洋服といえば、軍人、役人、教員、学生などの専有物であったが、活動的であり、しかもハイカラな点から,明治三十九年には弘前銀行で行員の服装を洋服にしたほどであった。
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