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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (学風の変化)

学風の変化 当藩では朱子学よりも徂徠学に共鳴し、経世済民(けいせいさいみん)的発想の強い徂徠の思想を,知的状況に加えて、総司津軽永孚が荻生徂徠やその高弟太宰春台の学説を信奉していたことが、稽古館の学風に徂徠学的特色,しかし稽古館では徂徠学一色だったというわけではなく、小司の竹内衛士が永孚に対して忌憚(きたん)なく反対,中心的役割を果たしていた津軽永孚が、寛政十一年(一七九九)六月に失脚すると、彼の影響力は薄れ、間もなく徂徠学
通史編3(近世2) (教科目)

というのも、それは、朱子学が尊重するそれらの経典の価値を認めない、徂徠学の教育方針が貫かれていることを,創設当初の稽古館におけるこうした徂徠学的痕跡は、徂徠学を信奉した津軽永孚の意向が反映されたことによる。
通史編3(近世2) (学校造営)

これらの教室に付けられた名称をみて気づくことは、徂徠学的な発想に基づく人材教育を多分に意識した構成になっているということである,これは「礼楽(れいがく)」の実践を重視した徂徠学の教育理念を生かそうとしたことと深くかかわっていよう。,事実、学校創設の総責任者であった津軽永孚は徂徠学に傾倒していたし、藩では釈奠・養老の礼が藩主の臨席のもと
通史編3(近世2) (山崎蘭洲)

「二道」となってしまった当世の学問世界の状況を憂えている一文(巻五「復松田正公卿」)があるが、これは徂徠学流行,蘭洲は、「修辞」のみに拘泥し、「道」を「修める」ことを怠ったものとして徂徠学を批判した、篤実な朱子学者
資料編3(近世編2) (二 思想)

しかもその制度とは、徂徠学でいうところの「礼楽」制度を意味し、徂徠学の影響が色濃く反映されている。,先王の道」の大体が「礼楽」によって構成されていること、そして「礼」と「楽」との関係についての考え方も徂徠学,本書を通読すると、彼が徂徠学における「天」と「聖人」と「道」との微妙な関係を正しく理解していたことが分,徂徠学はそういった彼等の変革に対するもくろみの理論的拠りどころとなっていたのである。
通史編3(近世2) (森内繁富)

森内が「古にしたがふ」というとき、彼の念頭にあったのは徂徠学の「先王(せんのう)の道」である。,さらにいえば、彼は徂徠学における「天」と「聖人」と「道」との微妙な関係、すなわち、「聖人」によって開示
通史編3(近世2) (毛内宜応)

しかもその制度とは徂徠学でいうところの「礼楽」制度を意味し、その言い回しも徂徠学に特有のそれであり、徂徠学的発想
通史編2(近世1) (朱子学批判)

以上のような乳井の考え方に徂徠学からの影響をみて取ることができる。
通史編2(近世1) ((二)藩士土着政策の展開)

八代藩主信明(のぶはる)が徂徠の門人に講義を受けていたことや、改革意見書を提出した毛内宜応が徂徠学に傾倒
通史編3(近世2) (信明の学校構想)

このような関係からして、信明の学校構想の思想的背景として、先の灊水の教えや、重賢・定信を通して学んだ徂徠学的,以上述べてきたように、徂徠学との関係性からして、信明の学問観には実学的な志向が強い。
通史編2(近世1) (乳井の略歴)

村人たちに映った乳井の姿はまさしく、徂徠学で言うところの禽獣段階にあった人間社会に文化をもたらした、「
通史編2(近世1) (毛内宜応の「秘書 全」)

、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の『政談(せいだん)』がたびたび引用されており、宜応自身の素養としては、徂徠学
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