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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(奥州惣奉行葛西清重)
長きにわたったのは、先にも触れたように、この地が源氏ゆかりの場所であって、自らの全国制覇を、従軍した
御家人
,ついで奥州合戦に戦功のあった
御家人
らに論功行賞がなされた。,千葉常胤・畠山重忠をはじめとして、数多くの
御家人
らに東北地方の所領が充(あ)てがわれていった。,二十二日になると、頼朝は奥羽経営のために、葛西清重に対して「陸奥国
御家人
のこと」を奉行するように命じた,陸奥国
御家人
等の頼朝への申し分は、すべてこの清重を通じて奏達するように、とまで言い渡している(『吾妻鏡
通史編1(古代・中世)
(大河兼任の乱)
大河兼任の乱 このように、着々と奥州方面の戦後処理が進んでいくが、しかしなお頼朝やその
御家人
の東北支配,兼任軍の勢力は強く、男鹿で
御家人
由利維平(ゆりこれひら)や橘公業(きんなり)を破り、翌文治六年(一一九,正月八日、鎌倉では東海道大将軍に千葉介常胤、東山道大将軍に比企能員を任命し、結城朝光以下の奥州に所領をもつ
御家人
資料編1(古代・中世編)
(一 銅鐘)
また、平高直・平経広・沙弥道性は曽我氏、丹治宗員は鹿角地方(秋田県)に地頭職を持つ
御家人
の一族と推定される,また、北条氏の得宗専制が強大化し、その面からも地方の
御家人
、御内人(みうちびと)対策が必要だった時代と,鎌倉時代末期に鋳造され移入されたこの鐘は、得宗専制体制の維持や、津軽地方の
御家人
・御内人の動揺を押さえる
通史編1(古代・中世)
(嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)
「沙弥行心」に続く「丹治宗員(たじむねかず)」は、鹿角郡柴内村に地頭職を持つ
御家人
丹治党安保(あぼ)氏,安保氏もまた、曽我氏のように
御家人
でもあり御内人でもあった。 ,近年の研究では、「沙弥道暁」は、下総国の
御家人
山川氏の一族で、山川五郎光義の出家名であることが指摘されている,既述したように、津軽方面の地頭代職は、下野小山氏やそこから分かれた白河結城氏など、関東
御家人
やその有力,こうしたことを前提に考えるとき、地元の大豪族津軽安藤氏の前に名が置かれているこれら四人は、関東に本拠を置く
御家人
通史編1(古代・中世)
(北条得宗領の形成)
その契機としては建暦三年(一二一三)の和田合戦にて、義時が有力
御家人
、侍所別当和田義盛を滅ぼすという勝利
通史編1(古代・中世)
(大光寺楯の合戦)
小鹿島・秋田城に楯を築いて抵抗し、矢立峠あたりから津軽方面に侵入する動きを示したのに対し、「国中給主
御家人
通史編1(古代・中世)
(津軽平賀郡への入部)
本節二でみたように、奥州合戦ののちに、津軽に入った
御家人
宇佐美(大見)平次実政が、その拠点を津軽平賀郡,相模国足柄上郡曽我郷(荘)を本領とする
御家人
曽我氏の一族は、北条氏と被官関係を結ぶことによって初めて津軽方面
通史編1(古代・中世)
(時頼廻国伝説)
翌宝治元年(一二四七)の宝治合戦にて時頼が有力
御家人
三浦泰村を滅ぼしたことは、北条氏の所領を飛躍的に増大
通史編1(古代・中世)
(津軽惣地頭宇佐美実政)
宇佐美氏は、伊豆国田方(たがた)郡宇佐見を苗字の地とする
御家人
である。
通史編1(古代・中世)
(奥羽地方の地頭制)
畠山・北条・三浦・千葉・小山・大江・足利・中条といった、もっぱら関東に本拠を置き、将軍に近侍する有力
御家人
通史編1(古代・中世)
(奥州惣奉行制の確立)
これを受けて、青森県の地にも次第に鎌倉
御家人
が入部することとなり、その支配が展開することとなるのである
通史編1(古代・中世)
(津軽安藤氏)
北条得宗領の最重要拠点の一つであった津軽地方の地頭代官は、これまで見てきたような有力
御家人
の一族と目される
通史編2(近世1)
(津軽信英による後見政治と法令の整備)
諸士法度は一万石以下の旗本・
御家人
を対象に基本法として発布されたものである。
通史編1(古代・中世)
(奥州合戦の勃発)
したがって泰衡は、累代の
御家人
の遺跡(ゆいせき)を受け継ぐものなり。
通史編1(古代・中世)
(湊安藤氏の誕生)
また、湊安藤氏は将軍直属の
御家人
の「京都御扶持衆」に位置づけられ、「屋形」号を許されて、守護大名並みの
通史編1(古代・中世)
(泰衡の死)
をかくまったのは父秀衡であり、自分は頼朝の命を奉じて義経を誅したのであるから、勲功者であって、帰降した上は
御家人
通史編3(近世2)
(信寿・信著・信寧時代)
などさまざまな技芸に関心を持ち、剣術は小野派一刀流の免許皆伝を受け、馬術は有馬一学から伝授され、柔術は
御家人
通史編1(古代・中世)
(四 執権時頼の東国廻国をめぐって)
とすれば、秘すべき時頼以来の「微行」のことが、「大事」なる二文字をもって、今この平政連という一
御家人
の,
御家人
の口を通して「政術を興行せらるべき事」の一環として、この「大事」=「微行」が開陳されたことの意味,施銭檀那の「見阿弥陀仏」に続く「沙弥道暁」とは、下総国の
御家人
山川氏の一族で、山川五郎光義の出家名である,「丹治宗員」は、
御家人
丹治党の安倍行員の近親の者である。
通史編1(古代・中世)
(三 北奥宗教界の中世的転回)
したがって、時頼の治世のころには幕府と東国地域は
御家人
を媒体に、密接不離に結び合っていたことが改めて確認
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