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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (御用金の賦課)

御用金の賦課 このころから国元の商人たちからの御用金も恒常化してくる。,さらに寛延二年(一七四九)の飢饉の後には、弘前・両浜・在方の一〇五人に御用金合計八三二〇両と米三〇〇〇,このように江戸・大坂の借財の増加に対応する時期に、国元からも御用金・御用米の徴収がみられた。  ,御用金の賦課は宝暦の改革の後も続いた。,さらに天明の飢饉では少しでも余力のある町人・豪農に御用金の上納が命じられた。 / 御用金の賦課
通史編3(近世2) (町役負担と御用金)

町役負担と御用金 それでは、城下の町方そのものが持つ経済力はどうだったのであろうか。,のぶひさ)は、富山藩主前田利興(としおき)とともに幕府から江戸芝増上寺の方丈造営を命じられ、国元に普請御用金,この時、城下の町方への御用金割当は一三〇〇両であった(同前安永四年六月十七日条)。,このように幕府から津軽弘前藩に普請役が賦課されると、御用金や冥加金が城下の町方や領内の商人に強制的に割 / 町役負担と御用金
通史編2(近世1) (上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向)

その一つの典型が藩から賦課された御用金(ごようきん)である。,御用金とは、藩が財政の不足を補うために、富裕な町人・農民から強制的に借用したものである。,享保十三年(一七二八)、飯詰村の三右衛門は、自らに課せられた御用金五〇両のうち、三〇両は藩への返済金を,返済分を上納金に充てるということは、この御用金が実質的に在郷の有力な人々から藩が召し上げるという側面を,逆の見方をすれば、藩がこれだけ領内の富裕層に御用金を賦課するのは、彼らがそれに対応できる財力と資産を有
通史編2(近世1) (天保四年における藩の対応)

藩は領内の分限者(ぶげんしゃ)五〇人に御用金の調達を命じ、これを資金に上方から三万一八五一俵を買い付けた,なお買越米の購入に要した費用は一万五〇〇〇両に及び、もっぱら豪農・豪商層の御用金で賄われた。,藩の姿勢は在方の窮状は察しつつも、可能な限り取り立てようとする意向であり、領内各組ごとに御用金の割り付,この御用金は一部の豪農のみならず、本百姓(ほんびゃくしょう)層にまで広くわたっている。,また、藩士の面扶持の手当である「菜銭(さいせん)」も豪商農の御用金によって賄われた。
通史編2(近世1) (飢饉への対応)

購入代金は在方・町方の御用金によって賄われた。,十一月十六日に藩は弘前御用達商人や在方の有力者六四人を評定所に呼び、御用金一万二〇〇〇両の調達を命じ、
通史編2(近世1) (消極的な藩の救済策)

買〆米(かいしめまい)」と呼ばれる領内各地の豪農・豪商層が持っている余剰米の買い付けや、相変わらずの御用金
通史編2(近世1) (天明六年以降の飢饉)

生育が遅く、夏には害虫が大量に発生して、平年の三分の一の凶作だったが、藩は同年の巡見使のため、村々に御用金
通史編2(近世1) (大庄屋制の成立)

さて、町・在の「重立之者」、すなわち領内の富裕層を藩政に取り込む施策は、すでにみてきたような、御用金の
通史編2(近世1) (町方支配)

御定書』四六)は、   ①伝馬人足のこと ②町中諸公事訴訟のこと   ③他国からの旅行者のこと ④御用金賦課
通史編3(近世2) (諸家業と職人)

鏡磨・鍋鋳懸・薬鑵直 8 𨫤張 3 葛籠細工 2 籠組 2 金具師 8 内 御用金具師
通史編2(近世1) (公家との関係)

、財政難の津軽家のために大坂の銀主に仲介の労をとるなどの動きも示しているし、明和四年(一七六七)には御用金
通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

さらに、町方支配・流通機構についても、前年の御用金賦課で青森の町人の中に退転する者が出ていること、過重
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

検地の実施中、越後と弘前の間には飛脚がたびたび往来し、また越後へ御用金も送られた(「国日記」天和二年六月十五
資料編3(近世編2) (【解説】)

藩財政の一層の窮乏への対応は、備荒貯蓄・倹約の励行・知行借り上げ・面扶持の実施、富裕層への御用金の賦課
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