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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)
年月日 差出 宛所 種別 事由 石高合計 内分 記載 872 寛文4年(1664)4月5日
徳川家
綱,津軽信寧 朱印状 継目 安堵 46,000石 あり 884 天明8年(1788)3月5日
徳川家
斉,津軽信明 朱印状 継目 安堵 46,000石 あり 886 天保10年(1839)3月5日
徳川家
慶,津軽信順 判物 継目 安堵 100,000石 あり 888 安政2年(1855)3月5日
徳川家
定,津軽順承 判物 継目 安堵 10万石 あり 890 安政7年(1860)3月5日
徳川家
定 津軽承昭
資料編2(近世編1)
([口絵])
天正十九年ヵ十月晦日 豊臣秀吉朱印状 津軽右京亮宛 (本文史料四一号) 年未詳十月二十八日
徳川家
康御内書,年未詳九月十五日 津軽為信夫人仙桃院消息 (本文史料四六二号) 年不詳6月26日
徳川家
康書状,(本文史料716号) 寛文四年四月五日
徳川家
綱朱印状(右) 領知目録(下) 津軽越中守宛,(本文史料八七二・八七三号) 天保十年三月五日
徳川家
慶判物 弘前侍従宛(左)
通史編3(近世2)
(東照宮)
東照宮 東照宮は、信枚の正室満天姫が
徳川家
康の養女であったことから、寛永元年(一六二四)、天守閣の近
通史編3(近世2)
(旧幕府軍の軌跡)
図66.復元された開陽丸 旧幕府軍の目指すところは、旧幕臣の蝦夷地開拓、つまり、蝦夷地の
徳川家
,蝦夷地開拓と奥羽列藩同盟への援助、この二つを目的として脱走したことが、勝海舟を通じて政府に提出した「
徳川家
臣大挙告文
通史編3(近世2)
(近世漆工芸の発展)
近世漆工芸の発展 慶長八年(一六〇三)、
徳川家
康は江戸に幕府を開き、幕藩体制をつくり上げた。
通史編2(近世1)
(一 青森開港と初期海運)
近世初期の段階では、敦賀の廻船商人で
徳川家
康との関係が深かった田中清六(せいろく)正長らが新たに日本海海運
通史編2(近世1)
(殖産政策の前提)
てんなのち)」の年貢増徴策や、元禄期の勘定奉行荻原重秀(おぎわらしげひで)による貨幣改鋳策、次の将軍
徳川家
宣
通史編2(近世1)
(津軽家の自己認識確立への試み)
天和三年(一六八三)十一月二十五日、幕府は諸大名に対して、三河以来の
徳川家
のことを記した書籍や家々の記録,幕府の命に対し、津軽弘前藩は、藩主信政名で貞享元年二月七日、津軽家には先祖が
徳川家
から発給された文書がまったく,「貞享書上」は、
徳川家
の発給文書が対象となるという通達であったが、家によっては、織田信長・豊臣秀吉などから
通史編2(近世1)
(江戸時代初期の大名課役)
信枚は十一月二十五日大坂住吉に到着して
徳川家
康に拝謁したが、その場で江戸勤番を命じられ、実際の戦闘に参加,将軍の上洛や、
徳川家
康を祀る日光東照宮に将軍が赴いて拝礼する日光社参は、江戸時代初頭からたびたび実施され,「津軽徧覧日記」には、慶安元年(一六四八)に津軽家が幕府普請方役人の問い合わせに対し、
徳川家
康の時代から,当時の将軍
徳川家
光の時代まで、普請役や在番などの役を命じられたことがないと回答したと記されている(資料近世
通史編2(近世1)
(三 鷹献上と鷹保護)
徳川家
康の家臣松平家忠はその日記に、「関白さま御鷹すきにならせられ候て、此方より御たかまいり候」(「家忠日記
通史編2(近世1)
(越後加増説)
津軽家文書の中に、正徳元年(一七一一)に五代藩主信寿(のぶひさ)が幕府に提出したと思われる文書の写である「
徳川家
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
秀吉は、「奥州奥郡(おうしゅうおくぐん)」の仕置のため、
徳川家
康・豊臣秀次(ひでつぐ)・上杉景勝(うえすぎかげかつ,天正十九年正月には豊臣政権の仕置軍は品川・小田原まで兵を進め、また
徳川家
康などは奥州への出陣のため下野国,)に宛てた四月十四日の書状によれば、「津軽・仙北口よりハ北国」の大名衆が兵を進め、葛西・大崎方面には
徳川家
康,常陸太田城主佐竹義宣(さたけよしのぶ)と宇都宮国綱(くにつな)が三番、越後の上杉景勝が四番、江戸大納言
徳川家
康
通史編3(近世2)
(江戸時代前期の建築)
明鏡台に
徳川家
の家紋が描かれているのは、満天姫が
徳川家
から輿(こし)入れした人物だったからである。
通史編2(近世1)
(俸禄の支給方法)
安永九年の借り上げは藩主自らが一〇〇石以下の下級の者にも書き付けを出し、
徳川家
康が、三河時代に家臣自らが
通史編2(近世1)
(秀吉の東国への停戦令)
その内容は、①下野佐野(さの)氏の家督を北条氏忠(うじただ)が継承することの承認、②
徳川家
康の赦免(当初
通史編2(近世1)
(伏見指月城の普請)
秀次が石田三成らから謀反の嫌疑をかけられたのは、豊臣政権内の分権派である
徳川家
康・前田利家をはじめ東国
通史編2(近世1)
(奥羽大名の名護屋参陣)
肥前名護屋城跡全景 図14.肥前名護屋城復元模型 この朝鮮出兵に際し伊達政宗・上杉景勝・
徳川家
康,天正二十年二月二十五日条)、三月十七日には、伊達政宗・南部信直・上杉景勝・佐竹義宣らの東国の大名らは、
徳川家
康,遊撃将軍沈惟敬(チェンウェイチン)と偽使節の謝用梓(シェソンズイ)・徐一貫(シュイグアン)らであって、秀吉は、
徳川家
康
通史編3(近世2)
((二)食事)
諸藩においても大名の食膳は
徳川家
に倣っている(渡辺実『日本食生活史』一九六四年 吉川弘文館刊)。
通史編2(近世1)
(津軽信英による後見政治と法令の整備)
さらに幕府は、家康の養女の子息であり、
徳川家
の直臣である信英を通じてある程度藩政を指導しようとしたとも
通史編2(近世1)
(鷹献上システムの成立)
これは徳川政権にあっても引き継がれ、慶長九年(一六〇四)八月、
徳川家
康は松前から京都に至る鷹献上に、沿道
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
当時の政権内では、前田利家・
徳川家
康・伊達政宗・浅野長吉らの分権派と、政権の強化を図る集権派に分裂し激,図38.
徳川家
康画像 すでに名護屋在陣において、南部信直は天正十五年以来一貫して取次として接点,前田利家に「日本之つき合」のため、あるいは「上衆」に「なふり心」にされないためにすがり、一方津軽為信は
徳川家
康
通史編3(近世2)
(薬王院)
慶長十六年(一六一一)、
徳川家
康の養女満天姫が信枚のもとに嫁したことから、寛永元年(一六二四)、信枚の
通史編2(近世1)
(浅利頼平の怪死)
頼平の死であり、実季は頼平の怪死に伴って、自己の身に降りかかる危機を回避するため、阿部伊予守を介して
徳川家
康
通史編2(近世1)
(信寿の高増運動)
この時の願い出に当たり津軽家が強力な後ろ盾としたのが、「一位様」こと、六代将軍
徳川家
宣(とくがわいえのぶ
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
そして、五大老・五奉行間の政権の主導権をめぐる権力闘争、その問題とかかわってくる豊臣家と
徳川家
の間の覇権抗争,佐竹・上杉両氏を代弁する立場にあったのが、石田三成・増田長盛であり、伊達・最上両氏は浅野長吉・
徳川家
康
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●慶長五年(一六〇〇)七月七日、
徳川家
康、北奥羽の各大名に上杉景勝包囲の指令を出す。,●慶長六年(一六〇一)九月二十二日、これより先、津軽信建、伏見にて
徳川家
康へ拝謁する。,信建、伏見にて
徳川家
康へ拝謁するという。,●慶長十六年(一六一一)六月二十五日、
徳川家
康の養女満天姫、津軽信枚へ入輿。,●元和九年(一六二三)年七月、津軽信枚、
徳川家
光の上洛に供奉する。
通史編2(近世1)
(名護屋における「日本之つき合」)
これに乗じて津軽氏も彼らと「入魂」になりたいと思い、
徳川家
康に取次を依頼したが、家康がその斡旋(あっせん,感じるほど利家とは良好な関係を形成していたが(「利家夜話」『改定史籍集覧』)、その利家や長吉、そして
徳川家
康,に南部信直の陣屋、同じく南東へ約八〇〇メートル下った所に前田利家、直線で北東へ約一キロメートルの所に
徳川家
康
通史編3(近世2)
(二代信枚)
図190.求聞寺 天海僧正は、天台宗の僧で
徳川家
康の帰依を受け、上野の寛永寺(かんえいじ)を創立
通史編2(近世1)
(大名の改易と幕領検地)
とくがわつなよし)の大名に対する立場は、将軍の権威とその厳しさを大名に対して示そうとしたものであり、大名たちを
徳川家
通史編2(近世1)
(浅利騒動の停戦命令)
長束正家は石田三成とともに集権派の中心人物であり、分権派の前田利家や
徳川家
康らと激しく権力抗争を重ねていた
通史編2(近世1)
(野本道玄の招聘)
彼の茶道の流派については津軽家の御家流とするかどうかを問わず伝授し、津軽家への仕官が決まれば水戸
徳川家
通史編2(近世1)
(公家との関係)
それを見誤らずに正確な情報を津軽家に与え、朝廷・公家、そして当時「公儀」としての地位を固めつつあった
徳川家
康,十三日、辛巳、 陰、時々細雨、伏見へ越、内府(
徳川家
康)ニ見参、大蔵道知死去云々、八十六歳云々、
通史編3(近世2)
((二)年中行事と生活)
徳川家
は正月二十日を例としたが、三代将軍家光の忌日が二十日のため、承応元年(一六五二)正月からは十一日
通史編2(近世1)
(浅利頼平の比内帰還)
この間の状況を実季は、
徳川家
康重臣阿部伊予守正勝に宛てた慶長四年(一五九九)の申状で以下のように報告している
通史編2(近世1)
(下級藩士への開発奨励(I期))
命じられた時に(資料近世2No.四二)、特に「小身之者へ」として出された「御自筆」によれば、東照宮(
徳川家
康
通史編3(近世2)
(能楽)
慶長八年(一六〇三)、
徳川家
康へ将軍宣下があり、祝賀の能を観世座が筆頭になって四座で勤めた。
通史編3(近世2)
(藩論の紛糾)
やがて、藩内の対立が激化する様相に危機感を抱いた藩では、五月二十一日、
徳川家
名の存続と諸道官軍の撤退命令
通史編2(近世1)
(鷹献上による豊臣政権との折衝)
織田信雄は織田信長の次男で、天正十一年(一五八三)に尾張国清須(きよす)城主、翌十二年(一五八四)、
徳川家
康
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと津軽氏)
またこの屏風は自らの戦勝を記念するものとして、
徳川家
康が描かせたものともいわれ、合戦の実年月と屏風が制作
通史編2(近世1)
(旅行者のみた領内海防)
御庭番を勤めていた際には、自身もたびたび地方の国々に隠密に調査に出向いたり、また将軍
徳川家
慶(とくがわいえよし
通史編2(近世1)
(初代為信の動向)
57.津軽藩主家滞在地一覧 年 月 日 為 信 信 建 信 枚
徳川家
康 年 月 日 慶長
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