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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (幕府・朝廷の攻防)

幕府・朝廷の攻防 鳥羽・伏見戦争に勝利した新政府は、この戦争を仕掛けたのは旧幕府軍であり、徳川慶喜の,こうして新政府側は公式に見解を表明し、続いて諸侯へ国力相応の人数を率いての上京を命じる一方で、徳川慶喜,それは、徳川慶喜反逆につき、その追討のため、東海・東山・北陸三道を「官軍」が進発することを告げ、応援協力,そして旧幕府勢に朝敵の名を負わせ、他藩を扇動したにもかかわらず、新政府側には戦利がなかったが、徳川慶喜
通史編3(近世2) (鳥羽・伏見の戦い)

図44.鳥羽・伏見戦争周辺地図  大坂城にいる徳川慶喜を中心とした旧幕府軍は行動を開始した。,六日夜、徳川慶喜は密かに大坂城を脱出して海路で江戸を目指し、旧幕府軍は瓦解していった。
通史編3(近世2) (各藩使者の来弘)

」とするが、両者の戦争経過説明に食い違いがあり、不明な点があることを挙げ、また、すでに大政奉還をした徳川慶喜,もいったんは「朝敵」とされたが、汚名を返上して現在に至っているのに、明白ではない発砲前後の事情をもって徳川慶喜,しかし、仙台藩への返答の根拠には、仙台藩使者来弘以前の二月二十五日に江戸からの知らせで徳川慶喜の謹慎を
通史編3(近世2) (英学寮)

英学寮 慶応三年(一八六七)十月十五日、徳川慶喜は大政を奉還し、十二月九日に王政復古が宣言され、新政府
通史編3(近世2) (大政奉還時の状況)

西舘らは慎重を期していったん藩邸に帰って意見書を上呈したいと申し出たが、徳川慶喜が大政奉還を申し出たため,この後、事態は徳川慶喜の京都離脱、慶応四年(明治元)一月三日の鳥羽伏見の戦いと推移していくが、戦局の展開
通史編3(近世2) (戦線の北上)

一橋家家臣渋沢成一郎・天野八郎を中心として結成された彰義隊(しょうぎたい)は反政府的な色彩を濃くし、徳川慶喜,一方、藩主松平定敬(さだたか)らは徳川慶喜とともに江戸へ下っており、再挙も念頭にあったという。
通史編3(近世2) (戦争の波紋)

戦争の波紋 当時の様子について、青森商人滝屋善五郎は二月四日の日記に、大坂で徳川慶喜が朝敵になり、蒸気船
通史編3(近世2) (維新期の弘前藩)

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は早い時期に恭順の姿勢をみせていたが、根強い一部の旧幕府勢力の反抗と朝廷側
通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

一方旧幕府側は、恭順の意を示すために、二月十二日より徳川慶喜が上野寛永寺大慈院(かんえいじだいじいん)
通史編3(近世2) (庄内征討応援命令)

それによると、庄内藩の罪状は、徳川慶喜の恢復をいまだ主張していること、なおかつ、同藩が関東見廻役を勤めていた
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

われ負傷(坂下門外の変) 4月23日 薩摩の過激浪士,京都寺田屋で弾圧される(寺田屋騒動) 7月6日 徳川慶喜,将軍徳川慶喜,大政奉還を請う(翌日許可) 12月9日 朝廷,王政復古の大号令。
通史編3(近世2) (答礼使の出発)

新たに提出された建白書は、恭順謹慎の意を示している徳川慶喜らに対して、武力を発動せず、公平な評議によって
通史編3(近世2) (庄内征討命令をめぐって)

四月十一日には江戸城が開城され、徳川慶喜は水戸に向かった。
資料編3(近世編2) (【解説】)

この時期は幕末の京都守衛に始まって、続く徳川慶喜の大政奉還、明治元年(一八六六)の東北戊辰戦争、翌二年,慶応三年(一八六七)十二月、徳川慶喜の大政奉還によって政治情勢は混迷の極に達するが、この前後に京都留守居役
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