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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (日清戦争終了後の民情)

県内各地で戦死者の葬儀、埋葬、建碑が神社の境内で催されるようになり、全体的に華美になる傾向を見せていた,日清戦争前後の段階では、国家のために戦死し、国家が戦死者を英霊扱いして葬ったというよりも、戦死者の身内,や郷里の人たちが戦死者を悼む風潮が強かった。,戦死者の葬儀に莫大な金員を投じる傾向に対しても、家族救護の費用に転用するよう郡役所を通じて通達している,これ以前からも、たとえば西南戦争での戦死者を弔うために招魂祭を実施するなど、政府は国家のために戦死した
通史編4(近・現代1) (黒溝台の死闘)

とくに第八師団は死闘を繰り返し、たった五日間の戦闘で戦死者一二五九人、負傷者三八九〇人、生死不明者七〇,ちなみに黒溝台の会戦全体で日本軍は約五万三八〇〇人が参加し、戦死者一八四八人、負傷者七二四九人、捕虜二二七人,参加将兵約一〇万五一〇〇人のうち、戦死者六一一人、負傷者八九八九人、失踪者一一〇五人、合計一万一七四三人,それでも戦死者が少なく、全体の損耗率も一〇%程度であるから、日本軍、とくに第八師団の被害と損耗率がいかに,招魂祭は戦死者を祭ることで国家のために殉死した人々を英雄化し、戦争の記憶を市民に植え付ける上で重要な行事
通史編5(近・現代2) (軍人遺家族の援護対策)

軍人遺家族への授産や慰問、生活保護(生活改善)のほか、傷痍軍人への職業斡旋、戦死者の市葬など、総じて戦死者,公的機関による戦死者の供養は、何も日中戦争期から始まったわけではない。,戦死者を英霊とすることは、戦争に出征し戦場で死ぬことを正当化し、英雄化する心情を生み出す装置だった。,そして戦死者は雪中行軍遭難事件の後藤伍長のように英霊となり軍神扱いされるのである。  
通史編5(近・現代2) (郷土部隊の出征)

その一方で四月以降、郷土部隊の戦死者が遺骨となって運び込まれるようになった。,戦死者の遺骨は英霊扱いされ、市内で手厚く葬られた。,戦死者を英霊扱いとし公的機関で手厚く葬ることは、市の行政当局の重要な役割とされた。,戦死者と遺家族の救済は、雪中行軍遭難事件の際と同様、国民の軍や戦争に対する非難や攻撃を避けるための重要
通史編5(近・現代2) (満州事変勃発と小学校)

六年十月二十一日の和徳小学校日誌に「戦死者遺骨出迎ノタメ六学年以上百三十名、二訓導ニ引率サレ弘前駅ニ赴,ク」とあり、柳条湖事件が起こって一ヵ月の間に、早くも戦死者の遺骨が弘前に送られてきていることがわかる。
資料編3(近世編2) ([口絵])

(弘前市立図書館蔵一般郷土資料) 平舘台場跡(青森県東津軽郡平舘村) 野辺地戦争戦死者墓碑
通史編3(近世2) (戦場に駆り出された民衆)

表15は弘前藩が戊辰戦争で出した戦死者の内、明治二年六月の招魂祭(しょうこんさい)で祀られた者の一覧であるが,、総勢六七人の内、五人は軍夫に駆り出された庶民であり、当市域からは二人の戦死者を出している。,さらに、戦死者リストを詳しくみると、最も多く命を落としたのは軍政改革で創設された三等銃隊(創設時は二等銃隊,表15.戊辰戦争戦死者一覧 No.
通史編3(近世2) (野辺地戦争の経過)

図65.野辺地戦争戦死者の墓  敗戦の原因は、弘前藩の統率性の欠如、認識の甘さに集約されるであろう
通史編3(近世2) (戊辰戦争直後の課題)

(現市内小沢)に神式で祭壇をしつらえ、藩主承昭(つぐあきら)臨席のもと、六七柱の慰霊を執行している(戦死者
通史編5(近・現代2) (忠霊塔建設)

忠霊塔建設 西茂森二丁目長勝寺横の禅林広場(平成十五年四月開園)の隣に建っている仏舎利塔は、昭和十六年に戦死者
通史編3(近世2) (箱館の攻防)

、弘前藩の旧陣屋から旧幕府軍の攻撃があり、弘前藩は長州藩の応援を得て反撃を加えたが、この時にも一人の戦死者
通史編1(古代・中世) (蝦夷首長阿弖流為)

官軍の戦死者は二五人、矢に当った戦傷者は二四五人、溺死者は一〇三六人、重い甲冑(かっちゅう)を脱ぎ捨てて
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

敵を攻略し、古くからこの地方の信仰を集めていた旧勢力でもある深沙宮・百沢寺を再建して懐柔し、敵味方の戦死者
通史編3(近世2) (盛岡藩の参戦)

しかし、その代償は大きく、この日の戦闘は両軍合わせて五〇人に及ぶ戦死者を出す激しい戦いとなった。  
通史編4(近・現代1) (第五連隊との遭遇)

彼がそのようにしなければならなかったのは、五連隊の行軍将兵が天皇から戦死者同様の待遇と認められていたからである
通史編3(近世2) (戦局の展開と兵員の不足化)

開始し、弘前藩も八月五日に先行部隊が羽州(うしゅう)矢島領で庄内藩兵と衝突し、足軽頭成田求馬以下九人の戦死者
通史編4(近・現代1) (第三一連隊の壮挙とその後)

五連隊兵士は戦死者同様の名誉ある待遇を受け、天皇からもお墨付きをもらっている。
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

弘前藩側は四九人にも及ぶ戦死者を出して敗退したが、盛岡藩にはもはや戦争を続行する余力はなく、ほどなく降伏
資料編3(近世編2) (【解説】)

成田求馬隊が羽州由利郡吉沢村で庄内藩兵と交戦し、成田以下死傷二一名を出して敗退し、戊辰戦争で初めての戦死者
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長六年(一六〇一)三月、この月、津軽為信、領内清水森において大法会を催し、戦死者を弔う。
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