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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (戸籍法と戸籍区)

戸籍法と戸籍区 近世の村が地方制度改革の波にさらされたのは、明治四年(一八七一)四月四日、新政府が戸籍法,弘前での戸籍編成作業は明治五年三月に小一区から小六区までの戸籍区割りが終わっている。,この戸籍は、干支(えと)にちなんで「壬申(じんしん)戸籍」と呼ばれた。,戸籍編成に当たり、政府は、数ヵ町村で一区を作り、ここに戸長・副戸長という新しい役人を置き、戸籍簿の作成,が開かれる   16 (1883)  6 戸長選任法改定 ・戸長は官選となる ・戸長の配置 / 戸籍法と戸籍区
通史編4(近・現代1) (戸長の配置)

戸長の配置 戸長も公選となったが、明治十五年任命制に変わった。,明治十二年一月二十一日、県令山田秀典が布達した中津軽郡弘前各町の戸長は次の人物である。  ,中津軽郡役所資料によると、 旧藤代組  石渡外二ヶ村                           石戸谷惣右衛門 / 戸長の配置
通史編3(近世2) (瀬戸師五郎七)

瀬戸師五郎七 五郎七は天保三年(一八三二)、筑前の瀬戸座から、当時毎年のように鰺ヶ沢や青森に着岸していた,瀬戸商人の一人である彦右衛門の口ききで入国していた。,筑前の瀬戸座ではこの引き抜きを怒り、彦右衛門との取り引きを拒否する挙に出ている。 / 瀬戸師五郎七
通史編2(近世1) (九戸一揆の鎮圧)

このため端城(はじろ)にいた兵たちは退却して九戸城に退いた。,仕置軍は、この姉帯・根反両城陥落に引き続き、翌九月二日には早くも九戸政実をはじめ櫛引清長・七戸家国らが,籠城する九戸城に攻め寄せ攻撃を開始した(『浅野家文書』)。,名久井(なくい)を経て九戸城に到着した(『信直記』、資料近世1No.三七)。,また城に残された九戸方の兵は本丸から二の丸に移され、その二の丸に仕置軍は容赦なく火をかけ、九戸方の兵はすべてせん / 九戸一揆の鎮圧
通史編2(近世1) (九戸一揆の背景)

九戸一揆の背景 戦国末期の北奥の糠部郡(ぬかのぶぐん)は、三戸南部氏を中心とした九戸氏・櫛引(くしひき,)氏・一戸氏・七戸氏ら南部一族による連合である「郡中(ぐんちゅう)」、つまり国人一揆(こくじんいっき),(しば)郡の斯波氏、岩手郡の福士(ふくし)氏らの諸領主と縁戚関係を結ぶなど、九戸・二戸を押さえて岩手・,そのため、三戸南部氏の宗家としての地位は、非常に不安定なものであったのである(小林清治「九戸合戦」『北辺,ところが九戸氏は天正十八年七月の奥羽仕置の後も三戸氏をしのぐ勢いを持っており、当主である九戸政実(まさざね / 九戸一揆の背景
通史編3(近世2) (江戸での買い物)

江戸での買い物 津軽弘前藩士小山氏が、慶応二年(一八六六)五月に弘前を出発、江戸へ登って江戸藩邸に勤務,この中から江戸滞在期間の慶応二年六月五日~翌年二月十一日までに、江戸で購入した品物と支払いの費用を記したものの,中で、記帳の頻度の多いものを中心にみていくと、江戸での生活はおおよそ左記のようになろう。,さらに両国(りょうごく)・亀戸(かめいど)、もっと足を延ばして目黒(めぐろ)・品川(しながわ)方面へも,これらは江戸から国元へのみやげであったと考えられる。 / 江戸での買い物
通史編3(近世2) (戸口と住民構成)

戸口と住民構成 江戸時代前期における弘前城下の人口や住民構成は、武家人口についての記録がなくはっきりしたことはわからない,江戸時代後期における弘前城下の人口と住民構成は、明和年間(一七六四~一七七一)ころに作成されたと思われる,このほか、寺院九一宇、庵三宇、社家二五戸、修験(しゅげん)一一戸、祠堂(しどう)(寺で檀家の位牌を祀る,少し時期が下ると、天保八年(一八三七)の「御家中御目見得(おめみえ)已上人別戸数調之覚」(「御定法古格,幕末期の元治元年(一八六四)八月の「弘前町中人別戸数諸工諸家業総括牒(ちょう)」(資料近世2No.一九六 / 戸口と住民構成
通史編2(近世1) (九戸一揆の始まり)

九戸一揆の始まり 奥羽の各地で一揆が勃発するなか、天正十九年正月、南部氏の居城三戸城では恒例の年賀の,為信自身、その出自について九戸政実方についた七戸系久慈氏出身だという説が有力であり(長谷川成一他『青森県,政実は、天正十九年三月十三日の夜、櫛引清長、七戸家国らと同心し、糠部郡の一戸・苫米地(とまべち)・伝法寺,九戸方には、七戸家国、櫛引清長のほか、かつて信直方に属しながら九戸方に走った吉田・福田両氏、日和見の態度,図9.九戸城全景  この九戸一揆は、明らかに豊臣政権の惣無事令(そうぶじれい)違反であり、なおかつ / 九戸一揆の始まり
通史編2(近世1) (九戸一揆の意義)

九戸一揆の意義 九戸一揆鎮圧後、しばらく浅野長吉や蒲生氏郷らの仕置軍は南部領に駐留し、逃散した百姓の,帰村や九戸城普請などの仕置に当たっていた。,しかし、信直にとっては九戸一揆の鎮圧により、自己の権力に対立する国人衆を掃討し、豊臣政権の直接的仕置と,『津軽一統志』によれば、一揆鎮圧直後、為信はいまだ陣所を引き払わずに九戸に留まっていたとされる(資料近世,また、一揆鎮圧直後の九月十七日、信直は糠部郡五戸の代官であった木村秀勝(ひでかつ)に、代官所廻りの町に / 九戸一揆の意義
通史編2(近世1) (江戸市場への傾斜)

江戸市場への傾斜 安永期(一七七二~八一)と比べた場合、文化・文政期(一八〇四~三〇)の津軽弘前藩の,財政構造の大きな特徴は、江戸での支出が増大していることである。,江戸での米方支出は、安永六年の二万四五〇〇石に比較して四倍近い増加になっているが、逆に上方での支出は半減,この間に、同藩は上方市場に立脚した経済政策から、江戸市場を中心とした体制に転換した。,江戸での常用金も増加する傾向にあった。 / 江戸市場への傾斜
通史編3(近世2) (悪戸村における製陶)

悪戸村における製陶 悪戸焼は文化年間(一八〇四~一八一七)初期から現代にかけて悪戸村(現市内悪戸・下湯口,なお、瀬戸焼は釉(ゆう)がけをしたものか無釉のものかは不明であるが、文化年間初期に悪戸村で製陶が行われていたことは,手ニ而相成罷有候」とあり、悪戸の瀬戸物が国産品として挙げられている。,「国日記」天保六年十二月十九日条の瀬戸仕込み金に関する記述の中に「瀬戸師五郎七(ごろしち)(五良七とも,なお「封内事実秘苑」天保十一年十二月十八日条に、悪戸村瀬戸座で肥前(現佐賀県)の瀬戸師宇吉(うきち)( / 悪戸村における製陶
通史編3(近世2) (江戸勤番と生活)

江戸勤番と生活 江戸藩邸は基本的に上(かみ)・中(なか)・下(しも)の三屋敷があり、上屋敷は藩主やその,図112.正徳5年(1715)柳原中屋敷の図  藩士は江戸藩邸において勤務しながら、どのような生活,藩主(四代津軽信政)が午前七時に江戸城へ参り、正午に帰る。  ,昨日の夕方、唐牛甚右衛門・九戸十右衛門より手紙が来た。,(3)非番の時は友人との交際があり、また亀戸天神へ出かけていることが知られるので、江戸の町々を見物していたことが / 江戸勤番と生活
通史編3(近世2) (辻番・自身番・木戸番)

武家町と町人町は区画が明確に分けられており、町人町の境には木戸が設置され、木戸では怪しい者の通行の警戒,図7.自身番屋・木戸・木戸番屋  木戸は慶安二年(一六四九)ころの「弘前古御絵図」(弘図津)によれば,木戸は朝夕の開閉に念を入れ、盗人などの情報があれば、すぐ木戸の通過を厳しく検査しなければならない。,○馬に乗るか、または大きな物などで潜戸(くぐりど)を通りかねる時は、大木戸を開けて通すように。,このように、木戸には木戸番のほかに木戸番を補佐する役割かと思われる添番もおり、木戸は厳重に管理されていたのである / 辻番・自身番・木戸番
通史編2(近世1) (江戸での借財の増加)

江戸での借財の増加 上方での蔵元(くらもと)を勤めていた茨木屋(いばらぎや)・鴻池(こうのいけ)に対,し、江戸での蔵元を主に勤めていたのは津軽屋であった。,津軽屋は元々「米屋」を称する米問屋で、関東・奥州の諸国から民間の流通機構を経て江戸に回送されてくる米の,、寛政十年から文化二年までは菊屋、文化十三年以降は松本平八郎ほか)、津軽屋だけは一貫して蔵元として江戸廻米,津軽屋はこの資金を江戸駿河町(するがちょう)の両替商の三井や幕府勘定所から借りて捻出した。 / 江戸での借財の増加
通史編3(近世2) (瀬戸師林兵衛による製陶)

瀬戸師林兵衛による製陶 「国日記」などの製陶や瓦焼成に関する記述の中に、瀬戸師林兵衛・瓦師林兵衛・石岡林兵衛等,悪戸村(現市内悪戸)の「御用留帳」(個人蔵)の天保十五年三月十八日条(図145)では、瀬戸座の林兵衛が,「国日記」弘化四年(一八四七)四月十七日条には、郡所仕込みの悪戸村林兵衛瀬戸座に見物人が多数入り込み、,図145.悪戸村の「御用留帳」  安政六年(一八五九)の「山方御用留」(弘図津)によると、悪戸村瀬戸師鉄三郎,磁器の下川原瀬戸座ではすでに早瀬野から採掘をしていたので、鉄三郎は悪戸における磁器の焼成を目指したものと / 瀬戸師林兵衛による製陶
資料編3(近世編2) ((二)江戸における屋敷)

(二)江戸における屋敷 弘前藩は、江戸に多くの屋敷を構えていた。,その中で江戸においては、「上屋敷」から「中屋敷」、「下屋敷」があり、さらに浜屋敷や亀戸屋敷などの「御抱屋敷,弘前藩の江戸屋敷の移動については、『津軽史』第四巻において、上屋敷や中屋敷について詳しく述べられている / (二)江戸における屋敷
通史編2(近世1) (一 九戸一揆と動員大名)

一 九戸一揆と動員大名 天正十八年(一五九〇)七月からの奥羽日の本仕置(おううひのもとしおき)が終了,この奥羽の一揆に連動するかたちで九戸(くのへ)一揆も起こることになる。 / 一 九戸一揆と動員大名
通史編3(近世2) (江戸中期の漆工芸)

江戸中期の漆工芸 元禄に入ると、漆工品名・図柄・技法などについても記録されるようになる。  ,れやたばこ盆も盛んに塗られ、それが多くの人の目に触れるようになると、塗師の中には技術改善の必要を感じ、江戸で / 江戸中期の漆工芸
通史編5(近・現代2) (県詩壇の重鎮・一戸謙三)

県詩壇の重鎮・一戸謙三 一戸謙三(いちのへけんぞう)は明治三十二年(一八九九)、弘前市本町に生まれた,写真251 一戸謙三 / 県詩壇の重鎮・一戸謙三
通史編3(近世2) (江戸後期の漆工芸)

江戸後期の漆工芸 江戸時代後半期の津軽の漆工芸は、『塗物伝書』や『塗物秘伝書』(弘図岩)から多彩なものであったことがわかる,なお弘前市立博物館収蔵の手板(五一四枚)の多くは、江戸末期の津軽の漆工技法の特徴をもつ貴重なものといえる / 江戸後期の漆工芸
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

江戸時代初期の大名課役 江戸時代初期における大名に対する軍役動員の事例として、大坂の陣・島原の乱が挙,諸大名は江戸に参集した後、伊達政宗・上杉景勝らは独自編成、相馬利胤(そうまとしたね)・南部利直・秋田実季,信枚は十一月二十五日大坂住吉に到着して徳川家康に拝謁したが、その場で江戸勤番を命じられ、実際の戦闘に参加,将軍の上洛や、徳川家康を祀る日光東照宮に将軍が赴いて拝礼する日光社参は、江戸時代初頭からたびたび実施され,この時江戸より日光まで鞍置馬三疋を上り下りともに差し出すことを命じられている(同前No.五九二)。 / 江戸時代初期の大名課役
通史編3(近世2) (江戸時代中期の建築)

江戸時代中期の建築 最勝院(さいしょういん)の五重塔は、平成三年の台風によって甚大な被害を受けて、解体修理,岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書』には、「貞享四年(一六八七)が将軍綱吉の四十二歳の厄年に当たっており、各大名が江戸神田,中門は一間一戸の平唐門(ひらからもん)であり、形の良い門である。,図238.高照神社拝殿  随神門は県内では珍しく三間一戸の八脚門(やつあしもん)であり、切妻造の,旧大光寺村から移されたとの伝えもあるようだが、江戸時代中期の築造らしい。 / 江戸時代中期の建築
通史編2(近世1) (三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)

三戸南部氏の津軽進出と大浦築城 戦国時代の初期、三戸南部氏は、当主信時(のぶとき)あるいはその子政康,そしてこの天文十五年以後、三戸南部氏は、鹿角(かづの)・比内(ひない)に通じる津軽南部の要衝石川城に三戸南部当主安信,この大浦為信の時期、三戸南部家では当主晴政に実子晴継(はるつぐ)が誕生し、家督継承をめぐって養子信直を,この抗争に、櫛引氏・九戸氏・七戸氏らも巻き込まれ、糠部郡は混乱に陥ったのである。,こうした三戸南部家が内部で動揺していた元亀二年(一五七一)五月、為信は三戸南部氏に反旗を翻し、石川城を / 三戸南部氏の津軽進出と大浦築城
通史編3(近世2) (江戸時代初期の建築)

江戸時代初期の建築 慶長八年(一六〇二)の棟札(むなふだ)(長勝寺蔵)をもつ岩木山神社拝殿(はいでん,その詳細は江戸時代前期のところで述べたい。  ,十九年(一六〇八~一四)に二代信枚によって造られたとされているが、これは「慶長・寛永期とみるよりは江戸時代前期 / 江戸時代初期の建築
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

三戸南部氏による領国支配の強化 三戸南部氏の動きについては、一五世紀半ば以降、不明な点も多い。,写真189 南部(大浦)光信倚像  津軽氏の系譜である『前代歴譜』に光信が九戸郡下久慈から南部氏,また、江戸中期に盛岡藩主南部氏が編纂を行った家臣の系図集である『系胤譜考』などによれば、久慈氏の流れをくむ,一六世紀前半、政康から子安信の時代には、当主の子ども・弟たちが本拠地三戸周辺の要地に配置され、本家を支,まず、政康の次男(安信の子という説もある)高信(たかのぶ)を三戸西隣の要衝田子(たっこ)(三戸郡田子町 / 三戸南部氏による領国支配の強化
通史編3(近世2) (江戸時代前期の建築)

江戸時代前期の建築 寛永期になると、東照宮の本殿が寛永五年(一六二八)に建立されている。,岩木山神社の楼門は、もともと百沢寺の山門として建てられたものであり、五間三戸の大規模な建築であり、量感豊 / 江戸時代前期の建築
通史編3(近世2) (江戸時代末期の建築)

江戸時代末期の建築 蘭庭院(らんていいん)の栄螺堂(さざえどう)は、天保十年(一八三九)に、東長町の / 江戸時代末期の建築
通史編3(近世2) (江戸時代後期の建築)

江戸時代後期の建築 津軽家霊屋のうち、最後は六代信著(のぶあき)を祀る凌雲台(りょううんだい)で、その / 江戸時代後期の建築
通史編3(近世2) (軍制への戸惑いと浸透)

軍制への戸惑いと浸透 軍政局が発足して間もなく、広範な藩士たちの軍事調練が開始されたが、城中だけでは,このような急激な改変がごく短期間に行われたため、やがて藩士間には強い戸惑いと不満が出るようになった。 / 軍制への戸惑いと浸透
資料編1(考古編) (7.井戸沢礫層Ⅵ)(いどざわれきそう))

7.井戸沢礫層Ⅵ)(いどざわれきそう) 小高ほか(1970)の命名による。,模式地は、黒石市東部の井戸沢付近。黒石市南中野及び琵琶ノ平付近に分布する。 / 7.井戸沢礫層Ⅵ)(いどざわれきそう)
通史編3(近世2) (江戸から明治初期への漆工芸)

江戸から明治初期への漆工芸 お抱え塗師青海源兵衛の弟子のなかに成田伊太郎(文政十一年~明治二十二年・,しかし、津軽の江戸時代の変わり塗技法の多くは、明治維新で絶えることがなかった。 / 江戸から明治初期への漆工芸
通史編1(自然・原始) (江戸時代~明治十七年(一八八四))

江戸時代~明治十七年(一八八四) 永禄日記(えいろくにっき)(館野越(たてのこし)本)にある、亀ヶ岡城,一方、この時代における政治の中心地であった江戸では、滝沢馬琴(たきざわばきん)ら一二人の文人が集まって,時代が江戸時代末期のいわゆる幕末期に入ると、樺太や蝦夷地探検で名をはせた松浦武四郎(まつうらたけしろう / 江戸時代~明治十七年(一八八四)
通史編2(近世1) (領内戸数・人数・諸家業調べおよび諸家業・諸職の統制)

領内戸数・人数・諸家業調べおよび諸家業・諸職の統制 さて、人返し令において、農村人口を増加させるための,させることとしたことや、また引っ越し者の受け入れ先の把握や、田畑の受け渡しの問題などから、必然的に領内の戸籍,「戸籍方仕向之義」(同前No.六九)には、戸籍調査の実施理由と内容について次のように記している。  ,そこで、領内の戸数・人別、諸工・諸家業の新古の別、さらには出所・生所の出入りまで詳細に取り調べることとする / 領内戸数・人数・諸家業調べおよび諸家業・諸職の統制
通史編4(近・現代1) (組合町村制)

中津軽郡第一組戸長役場   →中津軽郡弘前本町外十六ヶ町戸長役場  中津軽郡第二組戸長役場   ,→中津軽郡弘前土手町外十六ヶ町戸長役場  中津軽郡第三組戸長役場   →中津軽郡弘前和徳町外廿一ヶ,町戸長役場  中津軽郡第四組戸長役場   →中津軽郡弘前東長町外廿二ヶ町戸長役場  中津軽郡第五組戸長役場,富田村外八ヶ村戸長役場    旧第六組   堅田村外八ヶ村戸長役場    旧第七組   新里村外六,ヶ村戸長役場    旧第八組   門外村外三ヶ村戸長役場    旧第九組   小栗山村外四ヶ村戸長役場
通史編4(近・現代1) (不況からの脱却)

商工戸数は、明治四十二年(一九〇九)に合計二七四六戸(うち商業、一七八一戸、工業、九六五戸)であったのが,、大正六年(一九一七)には三四〇五戸(うち商業、二〇五一戸、工業、一三五四戸)、同八年には三四七四戸(,うち商業、二〇六五戸、工業、一四〇九戸)と増加している(弘前商業会議所『弘前市商工案内』各年次による),もっとも、年によって増減に波があり、大正十二年(一九二三)には合計二四九六戸(うち商業一五三九戸、工業九五七戸,)と減少し、翌十三年には合計三五六一戸(うち商業、二二八七戸、工業一二七四戸)と、再度増加している。
通史編4(近・現代1) (町村会)

議員定数は村の戸数によって定められ、五〇戸未満の七人から一〇〇〇戸以上の二〇人までの一二段階に決められた,戸長は町村に一人だが、二〇戸未満の小村では隣村と併せて一人でよかった。,五〇戸未満の村の戸長は月給八〇銭だが、村は平均二五〇戸に戸長一人を置き、その月給は二円五〇銭だった。,戸長役場の体制は戸長と書役が正式な構成員で、ほかに小使という三人体制だった。,戸長の任期は二年だったが、ほとんど一年交代だった。
通史編1(古代・中世) (南部晴政の登場と一族間の対立)

一方、同じ年、晴政は、居館の聖寿寺館(しょうじゅじたて)(本三戸城、三戸郡南部町)の焼失を機に、三戸城,(三戸郡三戸町・写真195)に移る。,それは八戸南部・九戸・久慈・一戸・七戸などの有力な一門を完全に統制できなかったことである。,この九戸五郎こそ、九戸政実(くのへまさざね)(?~一五九一)ではないかと考えられている。,九戸氏は周辺の浄法寺(じょうぼうじ)氏・久慈氏、さらに七戸氏、岩手郡の福士(ふくし)氏、八戸南部家の支族新田
通史編4(近・現代1) (堀越村の場合)

堀越村の場合 中津軽郡堀越村は、明治初年、門外村一〇三戸、堀越村五五戸、堀越村の支村川合村五三戸、取上村三三戸,、大清水村四七戸の合計二九一戸からなる小村であった。,聯合戸長役場時代は「中津軽郡門外村三ヶ村外聯合会」の行政組織だった。,町村制による初代村長樋口徳太郎は三ヶ村聯合会時代の戸長だった。  
資料編3(近世編2) (●乳井神社 拝殿 乳井字外ノ沢--市指定文化財)

正面中央に両開桟唐戸を吊り、脇間と端間および両側面の前二間を蔀戸とし、右側面では第三間を板壁とし第四間,に引き込みの板戸を建てるが、ほかは横嵌板壁である。,背面は中央に両開板戸を吊るが新しいもので、すべて板壁であったものである。,内部は前三間を外陣とし、内外陣境では中央間に両引きの格子戸を建て、両脇間では格子戸を嵌殺しとし、両端間,は引違板戸である。
通史編4(近・現代1) (村制度の変貌)

戸長は官選とし、戸長役場管轄区域を平均五町村、五〇〇戸を標準と定めた。,近代日本の地方自治制度を憂いた井上毅(こわし)は「地方事情」の中で当時の戸長役場体制を次のように報告している,戸長役場も中央官庁を真似(まね)た勤務態様をして杓子定規(しゃくしじょうぎ)で人民に不便をかけている。,ノ届ナリ、衛生上病人ノ届ナリ、戸長役場トノ関係ハ昔日ニ十倍セルヲヤ、(中略)或ル田舎ノ一人ノ話ニ今日民間,ノ苦情ハ租税ノ重キニハアラズ、登記法及其他ノ手数ノ六ヶシキト収税役人ノ横行トニアリト云ヘリ、又戸長役場
通史編4(近・現代1) (授業料)

亀甲小学とも明治七年の開校当初は授業料六銭六厘(当時、米一升は五銭)であったが、七年七月二十四日に「上戸十銭,中戸六銭六厘六毛 四十俵以上。下戸三銭 右以下。,極貧ノ者ハ戸長ヨリ見聞ノ実証ヲ以テ不納ヲ許スモノトス、一家ニ二人ノ子弟ヲ学校ニ入ルルハ一人半分、三人以上,上戸、中戸、下戸の判定は年収を米穀高に換算したもので、当時仮に米一俵を二円とすると年収一六〇円以上のものは,上戸と見なされ、その子弟は授業料一〇銭となった。  
通史編3(近世2) (時期・日数・通路)

江戸から弘前城へ到着するのは五月と六月が多く、文化三年以後は四月が比較的多いが、三・五・七・八・九・十月,江戸~弘前間の往復に必要とした日数について二、三例を挙げると、  ○四代藩主津軽信政(つがるのぶまさ,)の参勤は、寛文六年(一六六六)三月九日に弘前出発、江戸到着には一八日間。  ,○七代藩主信寧(のぶやす)は宝暦九年(一七五九)三月十五日に弘前出発、江戸到着には一九日間。  ,図107.羽州街道(小坂通江戸道中)の参勤交代通路
通史編3(近世2) (近世漆工芸の発展)

近世漆工芸の発展 慶長八年(一六〇三)、徳川家康は江戸に幕府を開き、幕藩体制をつくり上げた。,江戸の将軍が京都から蒔絵の名工を招いて抱え蒔絵師としたことで、京都に住んでいた蒔絵師の一部が江戸に移り,、江戸蒔絵、江戸漆器が生まれた。,弘前城築城のために、大工などの職人を江戸その他から数百人も呼び寄せ、周辺の村にも日割りの人夫を課している
通史編4(近・現代1) (明治二十年(一八八七)の予算審議)

ニ付金五銭五厘八毛壱弐〇七壱壱五トナルヲ、五銭五厘八毛壱糸弐〇八トス 一金七百八拾円三拾四銭五厘 戸別割,但、戸数四千八百弐拾六戸壱戸ニ付、金拾六銭壱厘六毛九糸六〇弐壱トナルヲ、金拾六銭壱厘六毛九糸七トス,、戸数割ノ例ニ依ル    地価割徴収区別左ノ如シ 一 地価割半額ハ、前年度ニ於テ之ヲ徴収シ、残半額,ノ如シ 一 一戸ノ定率ヲ以テ、十九年一月一日調ノ戸数ニ乗シ、戸長役場所轄ノ課額ヲ定リ、其町会ノ評決ニ,テ竈ヲ異ニスルモノハ各一戸ト見做シ、之ヲ徴収スルモノトス 一 戸別割ハ両度区分シ、本年度ニ於テ之ヲ徴収
通史編3(近世2) (下川原における製陶)

下川原における製陶 「国日記」によると、下川原(現市内桔梗野)に白焼瀬戸(磁器)座が取り立てられたのは, 瀬戸師五良(ママ)七 同久米次郎・同金蔵 同嘉太良 奉寄附之」。,由来している〉酒類・薬種等を蒸留する器具)を悪戸村の瀬戸師に造らせるよう注文が来たところ、悪戸では出来,かねるというので下川原の瀬戸師に回している。,文久二年(一八六二)十月には、石焼瀬戸(磁器)の製陶法について皆伝となり帰藩。
通史編4(近・現代1) (日清戦争後の商業活動)

日清戦争後の商業活動 日清戦争後の明治三十年(一八九七)と翌三十一年につき、商家の営業形態別戸数を見,表37 商家営業別 明治30年 明治31年 卸  売 戸 戸  東津軽郡 17 6  西津軽郡 50, 南津軽郡 131 125  北津軽郡 50 52  上北郡 56 55  下北郡 21 20  三戸郡,16 16  南津軽郡 44 90  北津軽郡 21 22  上北郡 5 11  下北郡 1 1  三戸郡, 北津軽郡 1,171 1,319  上北郡 1,569 1,165  下北郡 777 808  三戸郡
通史編4(近・現代1) (学制の実施)

北津軽郡 第一五中学区 弘前、中津軽郡、西津軽郡 第一六中学区 上北郡、下北郡 第一七中学区 三戸郡,、十三、五所川原、板柳 第一五中学区 白銀(現朝陽小学校)、和徳、鰺ヶ沢、深浦 第一六中学区 七戸、,野辺地、三本木、田名部、大畑、大間、川内 第一七中学区 八戸、五戸、三戸、福岡、二戸、浄法寺(福岡、,二戸、浄法寺は後に岩手県管轄となる)
資料編1(考古編) (2.13世紀の様相)

七戸町から出土している常滑三筋壺(図6-1)・同大甕(図5-2)などはその重要な資料であり、浪岡町出土瀬戸瓶子,破片としては浪岡城跡や根城跡、境関館跡、大光寺城跡から瀬戸瓶子や青磁鎬蓮弁文碗・梅瓶、白磁口禿碗・皿などが,2七戸町出土常滑壺(個人蔵) 図6 陶磁器写真・実測図(2) 1七戸町出土常滑四耳壺(七戸町教育委員会蔵
通史編3(近世2) (災害と生活)

災害と生活 江戸勤番の藩士が、江戸で遭遇した災害などにどのように対処していたか、「江戸日記」にみえる,○「生類憐みの令」施行の実態――「江戸日記」貞享四年(一六八七)六月九日条。  ,これは江戸勤番の藩士が悪法の施行に忍従した例である。  ,○江戸の大火――「江戸日記」享保六年(一七二一)三月四日・八日条、五月四日条。  ,そして江戸詰の藩士は無事であることを国元へ連絡するよう飛脚を出発させている。
通史編5(近・現代2) (青森県における恐慌の影響)

昭和二年(一九二七)の本県農家戸数は自作農二万五一四五戸、自作兼小作農三万二五二七戸、小作農二万四九七九戸,だったが、四年後の昭和六年には自作農一万七五七八戸、自作兼小作農二万九三四八戸、小作農二万四四七五戸と,また、失業者は、昭和四年から五年にかけての青森・弘前・八戸三市とその付近の月々の統計では、一般労働者およそ
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