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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
戸長
の配置
戸長
も公選となったが、明治十五年任命制に変わった。,明治十二年一月二十一日、県令山田秀典が布達した中津軽郡弘前各町の
戸長
は次の人物である。 /
戸長
の配置
通史編4(近・現代1)
(組合町村制)
中津軽郡第一組
戸長
役場 →中津軽郡弘前本町外十六ヶ町
戸長
役場 中津軽郡第二組
戸長
役場 ,→中津軽郡弘前土手町外十六ヶ町
戸長
役場 中津軽郡第三組
戸長
役場 →中津軽郡弘前和徳町外廿一ヶ,町
戸長
役場 中津軽郡第四組
戸長
役場 →中津軽郡弘前東長町外廿二ヶ町
戸長
役場 中津軽郡第五組
戸長
役場,富田村外八ヶ村
戸長
役場 旧第六組 堅田村外八ヶ村
戸長
役場 旧第七組 新里村外六,ヶ村
戸長
役場 旧第八組 門外村外三ヶ村
戸長
役場 旧第九組 小栗山村外四ヶ村
戸長
役場
通史編4(近・現代1)
(町村会)
投票は用紙に選挙人の住所、氏名、被選挙人の住所、氏名を書いて
戸長
に差し出した。,
戸長
は町村に一人だが、二〇戸未満の小村では隣村と併せて一人でよかった。,五〇戸未満の村の
戸長
は月給八〇銭だが、村は平均二五〇戸に
戸長
一人を置き、その月給は二円五〇銭だった。,
戸長
役場の体制は
戸長
と書役が正式な構成員で、ほかに小使という三人体制だった。,
戸長
の任期は二年だったが、ほとんど一年交代だった。
通史編4(近・現代1)
(戸籍法と戸籍区)
戸籍編成に当たり、政府は、数ヵ町村で一区を作り、ここに
戸長
・副
戸長
という新しい役人を置き、戸籍簿の作成,・副
戸長
に統一 8 野田大参事 免官 6 (1873) 3,が開かれる 16 (1883) 6
戸長
選任法改定 ・
戸長
は官選となる ・
戸長
の配置,を出して、旧来の村役人を廃止して
戸長
(こちょう)・副
戸長
と称し、一切の事務を引き継がせた。,・副
戸長
と改称する方針を示した。
通史編4(近・現代1)
(村制度の変貌)
戸長
は官選とし、
戸長
役場管轄区域を平均五町村、五〇〇戸を標準と定めた。,近代日本の地方自治制度を憂いた井上毅(こわし)は「地方事情」の中で当時の
戸長
役場体制を次のように報告している,
戸長
役場も中央官庁を真似(まね)た勤務態様をして杓子定規(しゃくしじょうぎ)で人民に不便をかけている。,庄屋ノ妻ニ預ケ置キ帰宅スル位ノ簡易ナル政事ナリシニ、今日ノ田舎政治ハ総テ中央官府ノ体裁ニ模擬スル故ニ、
戸長
役場迄,今日民間ノ苦情ハ租税ノ重キニハアラズ、登記法及其他ノ手数ノ六ヶシキト収税役人ノ横行トニアリト云ヘリ、又
戸長
役場
通史編4(近・現代1)
(最初の県会)
場合、明治八年(一八七五)十二月に「青森県会規則」を制定した際、その第一条に、県会は現在の正副区長、
戸長
,いずれにせよ、明治九年の各地域の名望人は、明治六年五月の
戸長
を中心として新青森県の将来を計ったときのような,このとき「名望アル者ヲ公撰スル方法ハ、区
戸長
ヲ除クノ外、管下一般ノ市民各々之ヲシテ代議人タラシメント欲,スル者ヲ、各大区ヨリ、一人ヅツヲ印封投票セシメ、区
戸長
ニテ取集メ、之ヲ県ニ送達シ」長官面前で開封、多数決
通史編4(近・現代1)
(堀越村の場合)
聯合
戸長
役場時代は「中津軽郡門外村三ヶ村外聯合会」の行政組織だった。,町村制による初代村長樋口徳太郎は三ヶ村聯合会時代の
戸長
だった。
通史編4(近・現代1)
(神官僧侶会議での県の方針の伝達)
追々管内一般桑樹繁殖し、養蚕之享利を得、各区人民富饒之基を開かん事、是民間之急務というへきなり、各区
戸長
始村吏等,藤田豊三郎 七小区 三浦能定 八小区 久保田唯男 このほか、各村落の道路掃除が義務づけられ、各小区
戸長
,神官僧侶会議では、これらに加え、正租や雑税の納入につき、区
戸長
が注意して期限を守ることや、旧藩が作成した,さらに、鉱山等の開発につき、区
戸長
が注意すべきことや、水車など、水利についての施設を造る際の出願方法が
通史編4(近・現代1)
(市制の施行)
明治十七年十一月一日から実施された
戸長
役場時代において、弘前は中津軽郡内二〇の
戸長
役場のうち、第一から,第五までの
戸長
役場内八九町がそれぞれの町名にかぶせる地名だったが、明治二十二年二月二十日の町村分合改称,市役所は東長町外廿二ヶ町
戸長
役場をもってし、吏員は弘前の五
戸長
役場から数人ずつ選出し、市長、助役のもと
通史編4(近・現代1)
(鍋島知事の対応)
タリシニ、其内郡書記一二名知事ノ宿所ヨリ帰来タレトモ、予等ト同道セルモノノ中大酔者モアリテ紛雑ニ付立出テテ
戸長
長谷川如泡,言フ如キノ姑息(こそく)論ニアラサレハ到底纏(まとま)リヘキ模様ニアラス 故ニ予モ郡吏
戸長
等
通史編4(近・現代1)
(市制・町村制の公布)
そして、まず郡長が案をつくり、取調委員会が査定し、委員会案を郡下の
戸長
諮問委員会にかけ、さらに町村総代,青森県でも、南津軽郡大杉村のように、明治十六年の
戸長
役場時代に浪岡村の行政区域に編入されたのが、県に運動
通史編4(近・現代1)
(知事辞職勧告)
知事辞職勧告 九月五日、中津軽郡役所は郡長以下吏員が辞職の決意を固め、
戸長
らも同調の方針を決定した。
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
それは郡を大区に、戸籍区をそのまま小区に変えて、大区に区長を、小区に
戸長
・副
戸長
を置き、「大凡百戸に一人
通史編4(近・現代1)
(新暦の採用)
翌六年一月五日には、県の権参事那須均から各区の正副
戸長
に宛てて「太陽暦頒布下令」が布告になった。,次いで、同年三月に
戸長
に対して重ねて布令があった。
通史編4(近・現代1)
(授業料)
極貧ノ者ハ
戸長
ヨリ見聞ノ実証ヲ以テ不納ヲ許スモノトス、一家ニ二人ノ子弟ヲ学校ニ入ルルハ一人半分、三人以上
通史編4(近・現代1)
(最初の事務報告書)
新しい税務掛が旧
戸長
役場時代の帳簿を洗い直し、その未納額など処理しているが、三割から五割の未納金がある
通史編4(近・現代1)
(市会と市役所開庁)
ここは、旧東長町外廿二ヶ町
戸長
役場の建物を買収したもので、翌年元寺町一番地の中津軽郡役所跡に移った。
通史編4(近・現代1)
(村の実情)
中津軽郡宮地村
戸長
山崎彦市が、明治十三年十二月十日に村会に提案した民費減少のための建議は村の実情をよく
通史編4(近・現代1)
(保守派との合同団結)
しかし、青森県では、県庁開設以来官途に就いたのは藩の経歴が物を言って保守派のみで、区長、
戸長
、郡長みな
通史編4(近・現代1)
(市制施行と小学校)
和徳小学校沿革史』二十二年六月一日の項に「本日ヨリ市町村制実施ニ依リ弘前市制実施、弘前市役所開庁シ従来ノ
戸長
役場
通史編4(近・現代1)
(弘前士族の反発)
川越石太郎は、維新後に
戸長
も務めたが、維新政府の文明開化政策に反対し、旧藩主流派に怨念を抱く山田登や藩主
通史編4(近・現代1)
(行在所の奉迎ぶり)
巡幸の際の沿道各県における所要の諸費用は、一応政府負担とはなっていたが、県や末端の
戸長
役場に至るまで物心
通史編4(近・現代1)
(断髪)
この告諭に基づいて、
戸長
がそれぞれ断髪を説諭し勧告して回ったものであろう。,四七号(明治六年四月)に「青森県下金子某より来書に、当三月十(ママ)七日男子断髪可致の御布達ありて、
戸長
通史編4(近・現代1)
(明治二十年(一八八七)の予算審議)
、之ヲ徴収ス 戸別割徴収区別左ノ如シ 一 一戸ノ定率ヲ以テ、十九年一月一日調ノ戸数ニ乗シ、
戸長
役場所轄
通史編4(近・現代1)
(地租改正の経過)
土地の測量(地押)は、村民に委ね、区、
戸長
は関与しなかった。官吏は、測量の際に臨検した。
通史編4(近・現代1)
(家禄制度改革)
総額は一四五万六一〇円、そのうち第五十九銀行の株券に換えた部分が二五万九二二五円、明治十四年に各町の
戸長
通史編4(近・現代1)
(東奥共同会の設立)
10 (1877) 1 西南戦争起こる 11 (1878) 9 町村
戸長
公選法布達
通史編4(近・現代1)
(県政初期の混乱)
元家老の第三大区長大道寺繁禎も
戸長
も辞職を願い出た。
通史編4(近・現代1)
(弘前市財政の整備)
キ、余ハ財産差押前又ハ差押ヘタルモ売却以前ニ於テ完納セリ(中略)該年度ハ市制執行ノ創業ナルヲ以テ、旧
戸長
役場
通史編4(近・現代1)
(弘前市経済改善への提言)
、未納者アルノ際、公売法アリト雖、聯合会并町村会ニ於テ決議ノ科目中未納者有之トモ公売法無之、裁判所ヘ
戸長
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