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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (弘前手織)

通史編5(近・現代2) / 弘前手織 津軽塗に劣らず数百年の歴史を有する弘前手織は、元禄七年(一六九四)、津軽塗と同様に四代藩主信政,弘前手織が商品として一般に販売されたのは幕末の頃からで、金木屋武田甚左衛門が桐生から織布職人を招いて製糸場,十一年には同業組合の共同設備として起毛工場を中津軽郡藤代村字和田(現弘前市)に設立し、工業試験場に依存,次第に弘前手織は丈夫であるとの名声が高まり、ネルにしても「テオリネル」と称して販売した。 / 弘前手織
通史編4(近・現代1) (菊池九郎の手紙)

通史編4(近・現代1) / 菊池九郎の手紙 この後の菊池武徳の華々しい活躍は周知のとおりである。,これに対し、菊池九郎は二人に次の手紙を与え、忠告している。,「十三雄様の貴翰も 良一の手紙も相達候 繰返し再読いたし 所謂けむにまかれて容易には御答いたし兼罷在候拙老,げらるるなら何か名義の正しきものによらねば成功いたし兼候ものと御承知有之度候」と、大正三年六月廿五日の手紙 / 菊池九郎の手紙
通史編4(近・現代1) (陸羯南の手紙)

通史編4(近・現代1) / 陸羯南の手紙 すでに陸羯南は、明治十五年四月十四日、帝政党結成に積極的な内務省の品川弥二郎に弘前における,陸奥帝政党結党の不調を手紙で伝えている。,原田敢の手紙では大分同志を得たが、田舎だけに学力・才識のある指導者がいなく、政党組織は困難とある。 / 陸羯南の手紙
通史編5(近・現代2) (後藤健次の手紙)

通史編5(近・現代2) / 後藤健次の手紙 後藤健次(ごとうけんじ)は、明治三十五年(一九〇二)、弘前市鷹匠町に生まれた。,大正八年、福士幸次郎に手紙を出す。それが契機となり、「パストラル詩社」が結成されることになる。   / 後藤健次の手紙
通史編5(近・現代2) ((一)近代スポーツと弘前)

通史編5(近・現代2) / (一)近代スポーツと弘前 平成十六年八月十三日に幕を開けた第二八回夏季オリンピック・アテネ大会は、日本,アテネ大会における本県出身の選手は史上最多の八人。,弘前市出身のソフトボール競技の斎藤春香(さいとうはるか)選手もその一人であった。  ,いわゆる近代スポーツがイギリスで誕生したのがその約三〇年前のことである。,つまり、この一三〇年間で近代スポーツは全世界に広がった。 / (一)近代スポーツと弘前
通史編1(古代・中世) (七・八世紀代の津軽地方)

通史編1(古代・中世) / 七・八世紀代の津軽地方 八世紀代の奈良時代に併行する時期には、尾上町李平下安原(すもだいしもやすはら,青森県内で開発に伴う大規模調査が行われる以前には、市浦村十三中島遺跡の土師器甕・球胴甕・坏・高坏・小型手捏,この遺跡に近接して、先に触れた蕨手刀を出土した門外遺跡がある。,するものであって絶対年代を指し示すものではない。,絶対年代の根拠は乏しい。 / 七・八世紀代の津軽地方
通史編5(近・現代2) (虚弱な少年時代)

通史編5(近・現代2) / 虚弱な少年時代 明治三十三年(一九〇〇)、弘前市代官町に生まれる。,十四年、弘前高等女学校、翌年、秋田県立横手高等女学校に勤務。,四年、県立横手中学校へ転任、十三年まで教員生活を続ける。 / 虚弱な少年時代
通史編5(近・現代2) (日中戦争の勃発への着手)

通史編5(近・現代2) / 日中戦争の勃発への着手 当時の男性は、兵役法(昭和二年四月一日公布)で定められた兵役につくのが義務であった,それが銃後奉公会に代表される「前線」将兵を支えるための「銃後」の社会だった。  ,大体横須賀海軍工廠)ニ職員引率ノ上入所セシメ将来幹部行員タラシ」めるよう指導するものとされた(資料近・現代2No,繁忙ヲ際メテ自己ノ周囲ノ仕事ハ殆ド出来ヌ状態二依リ、依ツテ此際軍隊ニ進ンデ行ツテ洗濯、裁縫、理髪其他ニ手伝 / 日中戦争の勃発への着手
通史編2(近世1) (預手形とは)

買い上げに当たり、藩では準備する現金がないため、将来の米穀の領内外への売却代金で支払うことを前提にした,、一種の約束手形というのが本来の性格である。,一三四)、計十種類の手形が出そろった。,破れたり、剥がれてくる手形は、弘前や在方の御用達が一枚に付き額面にかかわらず銭三文の手数料で交換した(,そのため、現金の代わりに預手形を一種の藩札として通用させることにしたとある。 / 預手形とは
資料編1(考古編) ((9)蕨手刀)

(9)蕨手刀 蕨手刀は、把頭の形状が早蕨(さわらび)のように渦巻いた曲線を持つことから付いた名称である,蕨手刀が制作使用された年代は、7世紀後半代より9世紀前半代である。,このため、地域的にも年代的にも、古代国家と対峙した「蝦夷」と呼ばれた人々が所有した刀と考えられている。,室町時代の発見とされているが、発見の経緯や出土地等の詳細は不明である。,図92 青森県内出土の蕨手刀(2) / (9)蕨手刀
通史編5(近・現代2) (洋風建築から近代建築へ)

通史編5(近・現代2) / 洋風建築から近代建築へ 大正期の建築の特徴は、前代の手法を踏襲しつつ、装飾に関しては省略化の道をとったことである,同様の傾向は、その後の弘前市公会堂、「角は」デパートの設計に引き継がれ、大正十年代からが弘前地方における,近代建築の始まりの時期であるとすることもでき、その反対に洋風建築が下降していく時期となるのである。 / 洋風建築から近代建築へ
通史編1(古代・中世) (擦文文化の終末年代)

通史編1(古代・中世) / 擦文文化の終末年代 本州の擦文土器は、土師器と共伴する例が多いことから、鉄鍋・内耳鉄鍋の出現、そして,また、釧路市材木町(5)遺跡では宋代(九六〇~一二七九年)に製造され、国内では平安時代後半から鎌倉時代前半,、住居跡の炭素測定では八五〇±九〇BPの数値が得られていることなども考慮すると、その終末年代は,日本海沿岸ルートを通しての交易関係等も考慮すると、交易に比重を置いた混交文化を継承する擦文文化の担い手たちは / 擦文文化の終末年代
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳時代)

通史編1(古代・中世) / 東北地方の古墳時代 古墳時代とは、一般的には古墳の造営に象徴される時代を指す。,そこでまず、この時代の東北地方全般を概観しながら津軽地方の様子をみてゆくことにしたい。  ,から四世紀前半代には、弥生時代の指標であった稲作農耕を欠き、食料採集に生活基盤をもつ北海道系の続縄文文化,図1 4世紀代の土器  古墳時代中期になると、古墳の分布密度と範囲はさらに濃く広がり、それとともに,そして五世紀末の東北地方北部には、日本最北の前方後円墳である岩手県角塚(つのづか)古墳がただ一基、北上川中流域 / 東北地方の古墳時代
通史編1(古代・中世) (地方色を顕す古代の津軽地方)

通史編1(古代・中世) / 地方色を顕す古代の津軽地方 文献史上では空白あるいは謎とされている津軽地方の一〇世紀後半から一一世紀,また、日常容器をみてもわかるように、土師器坏が極端に減少し、把手付土器や蒸籠形甑(せいろうがたこしき),環壕(かんごう)集落が営まれた一一世紀後半代を盛期とする浪岡町高屋敷館遺跡の環壕からは土師器砂底坏・甕,(かめ)・壺・把手付土器・内耳土器が出土しており、必ずしも画一的様相を呈しているとはいい切れない。,一二世紀代の様相は、古代的土器の衰退とともに不明瞭な点が多くなるが、一二世紀前半では高屋敷館遺跡の最も / 地方色を顕す古代の津軽地方
通史編1(古代・中世) (津軽地方の古代信仰)

通史編1(古代・中世) / 津軽地方の古代信仰 津軽地方では、青森市細越遺跡の九世紀末~一〇世紀前半期とされる水路跡から斎串(いぐし,)が、木造町石上神社遺跡の一〇世紀前半代に中心をおく集落遺跡とされる大小の用排水路からは、斎串と馬形類似品,他にカマド燃焼部から土製勾玉、覆土(ふくど)から手捏(てづく)ね土器四点といった祭祀遺物が出土しており,奈良・平安時代の文献史料から、東北地方で多くの馬が生産されていたことが知られている。,民俗例では、宮城県から岩手県南部にかけては、カマド神の信仰として土間のカマド付近の柱や壁に土や木の面を / 津軽地方の古代信仰
通史編4(近・現代1) (明治時代の市史編纂)

通史編4(近・現代1) / 明治時代の市史編纂 明治四十三年(一九一〇)、弘前市は、明治五十周年を記念して市史編纂事業を計画した,」ハ未完成ナリ 第四編(市制施行後)第一章ヨリ第六章ニ亘ル三十節ハ其間若干ノ材料アルモ大部分ハ未着手ノ,蒐集シタル材料ノ検査ノミニテモ斯ノ如キ有様ナレバ若シ夫レ市史編纂ノ本事業ニ至リテハ未タ半ページダニ着手シ / 明治時代の市史編纂
通史編1(古代・中世) (平安時代の律令祭祀)

通史編1(古代・中世) / 平安時代の律令祭祀 平安時代には、斎串(いぐし)・土馬(どば)・土鈴・鉄鈴・勾玉(まがたま)(土製・,石製)・小玉(土製・石製・琥珀(こはく)製・ガラス製・水晶製)などのほか、祭具と考えられる主に手捏(てづく,弥生・古墳時代に原型をもつとされる木製模造品は、七世紀後半の天武・持統朝における律令的祭祀の最初期に複数,の新種が出現することや、分布が地方官衙遺跡にまで及ぶことで画期が認められ、九世紀代に最盛をみる。,古墳時代から平安時代にかけて使用された土馬の分布も全国的であるが、畿内地方における出土が顕著であるという / 平安時代の律令祭祀
通史編3(近世2) (地織木綿(弘前手織))

地織木綿(弘前手織) 「国日記」宝暦四年(一七五四)十一月四日条には、民間からの申し立てによる地織木綿,の普及について、また天明八年(一七八八)七月八日条には、糸綿を下し小給の御家中の妻女に手織をすすめている,、その後しだいに普及し、弘化三年(一八四六)ごろには地藍も相応のできばえとなり、それとあいまって御国手織木綿,近代に入り弘前手織と称された地織木綿は機械化が進み、弘前木綿として一九五〇年代ごろまで織られている。 / 地織木綿(弘前手織)
通史編5(近・現代2) (同人誌時代-太宰治とともに)

通史編5(近・現代2) / 同人誌時代-太宰治とともに 昭和二年(一九二七)、東奥義塾を卒業し、早稲田第一高等学院に入学する。,おそらく、中学時代にドストエフスキーの小説に傾倒したゆえの選択であったと思われる。,また、代表作の一つに『巨いなる樹々の落葉』(昭和五十一年 津軽書房刊)がある。,官一は中学時代にすでに善蔵の傑作「湖畔手記」所収の、絶唱ともいうべき「秋ぐみの、紅きを噛めば、酸く渋く,その善蔵の文学碑が建立されたのは、今官一が『壁の花』で第三五回直木賞受賞(資料近・現代2No.六六五・ / 同人誌時代-太宰治とともに
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

通史編1(古代・中世) / の世に推し進めようとしたとき、その主たる担い手を天台・真言の両宗に求めなければならなかった。,それを考える上で一つの手がかりを与えてくれるのが、次の『叡山大師伝(えいざんたいしでん)』の史料である,19) 外浜十二所権現 同右 (20) 田舎館大日如来堂 同右 修験 大蔵院 (21) 広船千手観音堂,同右 修験 広住院 本尊は恵心作と伝える (22) 桜庭千手観音堂 未詳 斎藤大和守 本尊は弘法大師作,それゆえ、弘法大師と関係づけられる桜庭千手観音堂、いつの日か真言宗に転じたとされる藤崎熊野大権現、ともに / 一 古代における北奥の宗教世界
通史編2(近世1) (厄介視される預手形)

厄介視される預手形 一方、預手形の流通も藩の思惑どおりにはいかなかった。,同じ品物を預手形の場合には高値で販売した商人を処分した例、さらに些細なことでは、預手形の客には「御定」,預手形は支藩の津軽黒石藩でも通用させた。,そもそも、米穀購入の現金の代わりといいながら、換金の期日、手段などについて詳細な取り決めもなかった。,文字どおり空手形に終わったのである。 / 厄介視される預手形
通史編3(近世2) (一代本尊)

一代本尊 一代守本尊信仰は、干支と八大菩薩を組み合わせ、自分の生まれた干支による守本尊を一代様とする,京徳寺・神宮寺(現南津軽郡尾上町)の十二支堂、袋宮寺の三夜堂(辰・巳・午)にも一代守本尊が祀られた。,表36 津軽の一代本尊 干支 守本尊(八大菩薩) 津軽の一代様 子 千手観音 目屋清水の観音(多賀神社 / 一代本尊
資料編1(考古編) (-古代前期Ⅱ期(8世紀代)-)

-古代前期Ⅱ期(8世紀代)- 8世紀前半代のものは、坏・高坏・長胴甕・球胴甕・甑で構成される。,調整技法は、ヘラケズリ・ハケメ・ヘラミガキで、最終段階のヘラミガキは前代と比較してやや丁寧さを欠く。,また、甕では前代の流れをくむ手法のものと、ロクロやタタキの用いられたものが共伴する。 / -古代前期Ⅱ期(8世紀代)-
通史編3(近世2) (草創期三代)

草創期三代 藩祖津軽為信は十代のころ、近衛尚通(ひさみち)(関白、名は前久(さきひさ)、龍山と号す),二代信枚も歌道を好み、「信枚君御筆歌」を残している。,信義の代には対馬藩の家老柳川調興(しげおき)がいる。,藩では調興を厚く遇し、四代藩主信政も調興について学んだ。,死後は津軽家の菩提寺長勝寺に手厚く埋葬された。 図158.柳川調興の墓 / 草創期三代
資料編1(考古編) ((2)4世紀後半代~5世紀代)

(2)4世紀後半代~5世紀代 この時期のものとしては、天間林村森ヶ沢遺跡を中心として、青森市細越館遺跡,玉類・竪櫛などもあり、副葬された文物の多くは古墳文化のもので、この時期の最北の前方後円墳を築造した岩手県角塚古墳,図4 5世紀代の土器(1・2・5・6土師器、3・4須恵器、7北大Ⅰ式) 図5 5世紀~6世紀 / (2)4世紀後半代~5世紀代
通史編1(自然・原始) (旧石器時代)

旧石器時代 近年は東北地方を中心に旧石器時代の研究が進み、とくに南部の宮城県では前期旧石器の発見が相次,江合(えあい)川流域に多くみられ、化石人骨などの発見はないが、石器の形態と出土土層から、北京原人と同時代人,宮城県仙台市富沢遺跡で出土した旧石器時代の埋没樹  青森県における旧石器文化の研究は、昭和二十四年,結果は残念ながら自然破砕礫であり、ヒトの手による石器製作技法と、自然による破砕との相違が明確となり、以後 / 旧石器時代
通史編2(近世1) (宝暦五年の米切手と標符(通帳))

宝暦五年の米切手と標符(通帳) ここで、従来「標符」として紹介されてきた、宝暦五年(一七五五)の米切手,②米切手の表示内容量はすべて一〇石である。,そして、受け取った御用達から領内の富裕者に、この米切手が金銭供出の代わりとして与えられることになったのである,の米切手  以上が、宝暦五年の米切手と標符(通帳)との関係である。,つまり、宝暦四年時における米切手発行策の策定と準備→同五年三月・四月の米切手発行→同年の大凶作による米切手発行策 / 宝暦五年の米切手と標符(通帳)
資料編1(考古編) (1.古墳時代の概観)

1.古墳時代の概観 近年の考古学研究において、4世紀から6世紀までの古墳時代併行期には、東北地方に二,一つは福島県・宮城県・山形県を中心とする東北地方南部の古墳文化であり、もう一つは青森県・秋田県・岩手県,日本最北の前方後円墳は、岩手県胆沢町の角塚(つのづか)古墳であるが、この古墳の築造はこのような社会の動,全長45mを有する角塚古墳の築造者は、岩手県南部地方全域を支配下に収めたことは想像に難くないが、この時期,北海道での名称は恵山式(弥生時代中・後期)・後北式(弥生時代後期~古墳時代前期)・北大式(古墳時代中期 / 1.古墳時代の概観
通史編1(自然・原始) (大正時代)

大正時代 大正時代に入ると思わぬ発見があり、それを中心に調査研究が行われている。,なおこの種の土器は、当時厚手(あつで)式土器の仲間としてとらえられていたが、長谷部によって円筒土器と命名,されるとともに、下層式・上層式の分類がなされ、さらに山内は、下層式を縄文時代前期、上層式を同中期に位置付,例えば喜田貞吉は、「徳川時代の末葉までアイヌ人が住んでおり、おそらく彼らが使用していたもの」というように,、亀ヶ岡文化を江戸時代にまで下降させる見解を示したのである(41)。 / 大正時代
通史編1(自然・原始) (昭和時代)

昭和時代 昭和時代を迎えると、本県の研究者の中には、独自の研究方法によって報告ならびに論考等の発表をする,掲載された土器は、縄文時代晩期のものが多く、土器文様はそれぞれ各形式の特徴をとらえており、氏の卓越した,北山峰一郎氏提供)  大正末期から昭和初期のころ、県内における高等教育の役割を果していた県師範学校には、岩手県出身,松本は、宮城県の松島湾に浮かぶ宮戸島里浜(みやとじまさとはま)貝塚と、岩手県陸前高田(りくぜんたかだ),このように窮屈な時代にもかかわらず、若い学徒は学究に懸命な努力を続けていたのである。 / 昭和時代
通史編4(近・現代1) (新編 弘前市史 通史編4(近・現代1) 目次)

通史編4(近・現代1) / 新編 弘前市史 通史編4(近・現代1) 目次 序 まえがき 近現代専門部会執筆編集員 稲葉克夫 ,…………  ⅵ     第一章 明治前期の弘前 …………………………………………  1 第一節 近代自治制度, 497   三 僧衣の〝阿倍仲麻呂〟千崎如幻 ……………………………  499   四 禅画の名手佐藤禅忠, 572   三 歩兵第五二連隊と連隊区の廃止 ……………………………  576 第三節 商工業の近代化,文化活動  第一節 文学活動  第二節 美術界の様相  第三節 音楽界の様相  第四節 近現代の / 新編 弘前市史 通史編4(近・現代1) 目次
通史編3(近世2) (「概略手続」の発表と変更)

「概略手続」の発表と変更 帰田法の推進部局は民事局租税署とされた。,これが「概略手続」と呼ばれるもので、主なものは次の各条項から成っていた(同前No.五九三)。,さらに、「概略手続」発表直後から、地主・農民・士族らにより続々と分地願い・質地請戻(しっちうけもどし),葛西は前に一度、高瀬と同様の理由で分与地の指定願いを出しており、これが不許可となると、祖父源右衛門の代より,そのような事態に先立つ十月下旬、租税署は「概略手続」を撤回し、耕地算定の基準を「分米(ぶまい)」に改めた / 「概略手続」の発表と変更
通史編3(近世2) (江戸時代中期の建築)

もとは大円寺(だいえんじ)の五重塔として、明暦二年(一六五六)に着手されたが、なんらかの事情により、その,最勝院五重塔(災害復旧)保存修理工事報告書』(一九九五年)によると、その貫は「――解体しない限り後世には手を,貞享三年(一六八六)から元禄七年(一六九四)までの九年間の歳月をかけており、現状の構造手法からも、装飾類,であるが、ここに保存された拝殿の棟札には、幣殿のことはいっさいなく拝殿のことだけが記されており、その構造手法,拝殿とほぼ同時期の築造とみられ、構造手法も同一であり、均整もよく保たれている。 / 江戸時代中期の建築
通史編5(近・現代2) (新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次)

通史編5(近・現代2) / 新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次 新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次     ,…  447   三 戦後のキリスト教 ……………………………………………  450   第六章 現代の,790 第六節 医学都市の衛生対策 …………………………………………  794   一 衛生対策への着手 ,の夜明け(明治の文学) …………………………  810   二 近代文学の成立(大正の文学) …………,…………………  917   二 大正時代の近代建築 …………………………………………  926    / 新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次
通史編3(近世2) (一一代順承の治世)

一一代順承の治世 弘化元年(一八四四)十二月、一一代藩主津軽順承(ゆきつぐ)は従四位に叙せられ、正式,一〇代信順(のぶゆき)には暗君の評判がつきまとったが、一一代順承(ゆきつぐ)は信順と同年ながらも性行は,宛てた書状によると、七月上旬に承祜は風邪をひいて熱を出し、食事がとれない内に脚気(かっけ)を併発して手足,さて、一一代順承(ゆきつぐ)の時期は、ペリー来航に代表されるように対外交渉が深刻な問題となったり、安政二年,御持鑓(おもちやり)・長柄(ながえ)の者を足軽に取り立てたり、足軽の家禄を大幅に改善したり、さまざまな手段 / 一一代順承の治世
通史編1(自然・原始) (中新世という時代)

中新世という時代 地球史の最も新しい時代である新生代は六五〇〇万年間続いているが、その大部分は第三紀,(六五〇〇万年前から一六四万年前まで)と呼ばれる地質時代で占められている。,古第三紀の地層の分布域は我が国では非常に限られていて、弘前に最も近い所では、岩手県北部の野田村から久慈市,新第三紀以降の地層は青森県内の各所でみることができ、それ以前の地質時代の地層に比べると時代的に欠損が少,なく、地層中に保存されたさまざまな記録を基に比較的詳しい時代の様子が復元できる。 / 中新世という時代
通史編3(近世2) (一〇代信順の治世)

一〇代信順の治世 本項では最初に一〇代藩主津軽信順(のぶゆき)から一一代順承(ゆきつぐ)の政治基調を,概観し、一二代承昭(つぐあきら)の時代に推移させていく(以下の記述は、篠村正雄「近衛家雑事日記(4)」,一〇代藩主信順は、寛政十二年(一八〇〇)九代寧親(やすちか)の長子として生まれ、文政八年(一八二五)四月,彼の父笠原八郎兵衛皆当(ともまさ)は九代寧親の代に江戸家老として活躍していたが、派手な生活を好む寧親に,劣勢を挽回するために笠原は天保四年九月に弘前に下ってきた側室の増衛と接触し、十月には大寄合格用人手伝い・ / 一〇代信順の治世
資料編1(考古編) ((6)縄文時代晩期)

(6)縄文時代晩期 後期を引き継いだ晩期は、亀ヶ岡式土器の盛行した時代である。,の出土層による対比、整理分類、並びに文様等の形式学的方法を背景とした編年的研究を岩手県大船渡市赤崎町の,芹澤長介は、昭和28年(1953)に発掘した岩手県二戸市(当時は二戸郡金田一村)舌崎にある雨滝遺跡の成果,永峯光一は、亀ヶ岡式土器を搬入品として受け入れ愛玩した地域(A伝播圏)のほかに、入手することが困難なために,大洞B式注口土器… 岩手県二戸市・舌崎遺跡 (青森県立郷土館蔵) 大洞BC式注口土器 / (6)縄文時代晩期
通史編3(近世2) (江戸時代前期の建築)

江戸時代前期の建築 寛永期になると、東照宮の本殿が寛永五年(一六二八)に建立されている。, 長勝寺の三門は、先に挙げた百沢寺の山門ができたすぐ後の寛永六年(一六二九)に完成しており、「構造手法,が酷似することから、同人もしくは同系統の技術者の手になるものとの想像に難くない」と『重要文化財 岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書,図236.長勝寺三門  津軽家霊屋は菩提寺である長勝寺の境内に、歴代藩主やその奥方の霊屋が、為信,から三代信義までかかって、寛永十七年(一六四〇)に入仏供養式(にゅうぶつくようしき)を挙げた。 / 江戸時代前期の建築
通史編3(近世2) (江戸時代初期の建築)

江戸時代初期の建築 慶長八年(一六〇二)の棟札(むなふだ)(長勝寺蔵)をもつ岩木山神社拝殿(はいでん,その後も手が加えられて、二代信枚(のぶひら)・三代信義にいたって、ようやく完成した。,その詳細は江戸時代前期のところで述べたい。  ,図234.革秀寺本堂  長勝寺については、本堂も庫裏も、年代を示す調査結果は得られていない。,蟇股(かえるまた)や手挟(たばさみ)や虹梁(こうりょう)の木鼻などは、ほぼこの時期のものとして誤りはない / 江戸時代初期の建築
通史編5(近・現代2) (スーパーマーケットの登場)

通史編5(近・現代2) / 昭和四十年代初頭までの弘前市内のスーパーマーケットは表30のとおりである。,スーパーマーケットは、セルフサービス方式を採用した小売店の業態で、全国的にも昭和三十年代以降に普及した,21 36.8.1 食品 グリンマート 代官町15 36.5.2 食品 丸三弘前店 山道町31 41.12.23,総合衣料・食品(41.11.15まで中央百貨街) (株)今勝土手町店 土手町45 37.11.1 衣料,  〃 代官町店 代官町3 41.11.19   〃  中三弘前店 土手町61 37.11.16   
資料編1(考古編) ((4)12世紀代)

(4)12世紀代 11世紀後半から12世紀前葉期にかけては、遺跡の内容がまだ十分把握されておらず不明,この時代の本県の遺跡は、青森市内真部(うちまっぺ)遺跡、弘前市境関館遺跡、浪岡城内館跡、市浦村十三湊遺跡,また、同時にロクロ製や手づくね製の二種類の「かわらけ」と呼ばれる素焼きの土器も出土している。 / (4)12世紀代
資料編1(考古編) (1.時代区分と弥生土器の編年)

1.時代区分と弥生土器の編年 我々は、この時代の変遷を理解しやすくするために、前・中・後期の3期分類,前期以前に早期を加える考え方もある)のほか、土器についてはⅠ期~Ⅴ期に至る分類、畿内については弥生時代前期,’式に続いて、谷起島(やきしま)式(岩手県一関市谷起島)→志藤沢(しとうさわ)式(秋田県南秋田郡若美町,)→田舎館式(本県の田舎館村垂柳)→常盤(ときわ)式(岩手県水沢市佐倉河)土器という編年が提起された*,→烏間(からすま)式*149、近年は、(弥生時代前期)砂沢式→五所式・二枚橋式→(弥生時代中期)宇鉄Ⅱ / 1.時代区分と弥生土器の編年
通史編3(近世2) (二代信枚)

二代信枚 信枚は、慶長十五年(一六一〇)に高岡(たかおか)(現弘前市)に築城を開始すると、城下町形成,参道の両側には塔頭一二院を配し、亀甲(かめのこう)町からは道路をかぎの手に曲げ、八幡・熊野宮の神主二人 / 二代信枚
資料編1(考古編) (3.縄文時代の集落)

同様の規則性を持つ集落は、縄文時代後期にも見られる。,岩手県一戸町の御所野(ごしょの)遺跡でも、縄文時代中期後半期に中央部を整地して配石墓を造り、それよりも,縄文時代の集落の中に、しばしば形状の大きな住居跡が発見される。,不動堂遺跡の調査を境として、東北地方北部でも発見が相次ぎ、岩手県では東北自動車道(八戸線を含む)や国道,特に秋田県能代市磐の杉沢台遺跡にて発見された縄文時代前期末のSI07と称する住居跡は、小判形(長楕円形 / 3.縄文時代の集落
資料編1(考古編) (5.青森県における弥生時代の終局)

ただし、分布に濃淡が見られ、特に日本海側では秋田県の米代川流域の密度が高い。  ,かつて渡島半島沿岸の漁民が、せいぜい青森県沿岸の集落で入手し得た物資が、集落の激減により、かなり南下した,地域の集落を訪ねて、そこで入手するほかなく」と述べている*159。,いずれにしても、東北地方の北部を中心に、後北式土器の担い手たちが来着し、本拠地(北海道)と同様な生業を,恐らく彼らが稲作農耕を営むのは技術的に無理であり、かつての弥生時代前・中期に行われていた稲作は、後の平安時代 / 5.青森県における弥生時代の終局
資料編1(考古編) (-古代後期Ⅳ期(10世紀末~11世紀末)-)

-古代後期Ⅳ期(10世紀末~11世紀末)- 高館遺跡・古館遺跡・砂沢平遺跡の主体的な遺構群、蓬田大館遺跡,外面の大胆なケズリが全面に施されるが、これは前代と同一手法である。把手付土器の調整も同様である。,また、底部が体部に比して厚手であるのも本時期の特徴と言えよう。,土師器長胴甕 図45 10・11世紀の土師器長胴甕・同球胴甕  土器組成の特徴では前代から,Ⅲ期で盛行した須恵器生産も、本時期ではほとんど消滅し、伝世品として残る貯蔵具も稀少となるが、これに代わるものとして / -古代後期Ⅳ期(10世紀末~11世紀末)-
資料編1(考古編) ((2)縄文時代早期)

(2)縄文時代早期 青森県のみならず、東北地方北部の縄文時代早期の土器は、昭和26年(1951)の八戸市鮫町,縄文時代早期については、その後、県立郷土館による東通村下田代納屋B遺跡*22、県教育委員会文化課並びに,ところが、昭和39年(1964)における岩手県気仙郡住田町の蛇王洞洞穴遺跡調査で、下層の第Ⅵ層から関東地方,前期 (塩釜)4C代 中期 (南小泉Ⅱ)5C代 (住社)6C代 後期 (栗囲)7C代 古代 飛鳥,奈良 8C代 (国分寺下層) 平安 9C代 (表杉ノ入)10C代 11C代 12C代 (青森県埋蔵文化財調査 / (2)縄文時代早期
通史編5(近・現代2) (市制施行百周年)

通史編5(近・現代2) / 追手門広場は東奥義塾高校跡地に建設された。,写真232 追手門広場の落成記念式典  市制百周年記念事業として、追手門広場とともに忘れてはならないのが,もともとこの敷地は弘前市出身の実業家で、日本商工会議所初代会頭を務めた藤田謙一が、大正八年(一九一九),市立図書館には藩政時代からの貴重な古文書が多数あり、弘前藩の研究には不可欠な資料が揃っている。  ,とくに歴代の合併で弘前市に編入された旧町村時代の公文書もたくさんあり、今では貴重な歴史資料として書庫に
資料編1(考古編) ((4)縄文時代中期)

(4)縄文時代中期 前期に続く中期は、前半が円筒上層式土器(正確には円筒土器上層式土器)の盛行した時代,円筒上層式土器の中で最も華やかに器面を飾るのは、b式(b類と呼ぶのが正確だが今日では類に代えて〝式〟が,縄文時代の前期と中期に栄えた円筒土器は、その下層式土器の段階において、北は津軽海峡を越えて北海道の石狩川河口,にある石狩町から室蘭市を結ぶ線を北限とし*49、南は太平洋側で岩手県一関市付近、日本海側は秋田県南部ないし,図6 縄文時代中期の土器(円筒土器) 石神遺跡(1) 円筒上層a式土器 円筒上層a式土器 / (4)縄文時代中期
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