機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 14件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
通史編3(近世2)
(御軍政局の発足と組織)
さて、三月十八日に任命された軍政局の軍事取調御用懸(かかり)(統括責任者)は御
手廻組
頭(おてまわりくみかしら,)津軽平八郎・留守居組頭格加藤善太夫であり、同時に類役として御軍制取調御用兼として御
手廻組
頭山田十郎兵衛,前 職 備 考 1 山田十郎兵衛 御軍政局御用掛 御手廻大番頭 500石 御
手廻組
頭,秋元伝三郎 〃 御使番 50石4人扶持 御馬廻組 26 小林忠之丞 〃 御馬廻番頭格 55俵4人扶持 御
手廻組
,・御台所頭兼 27 薄田又三郎 〃 御馬廻番頭格 5人扶持勤料 御
手廻組
(無足) 28 館山敏三郎
通史編3(近世2)
(二等銃隊の創出)
(むそく)組で、奉公見習い中であり、扶持はわずかに五人扶持だが、やがて正式に家督(かとく)を継ぎ、御
手廻組
番士,されており、その藩内役職の内訳は足軽頭六、御使番八、同格一、徒士頭格一、中小姓頭格三、番頭四、同格五、御
手廻組
六,また副役は一六人で、御
手廻組
が一三人と圧倒的に多く、伝令士も五九人の内、不明の三人を除いては全員が御
手廻組
通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
それが国元にいる
手廻組
頭大道寺隼人に代わった理由は、検地役人に多く
手廻組
に属する藩士がいたことによると,役 職 氏 名 本来の役職 新規召抱 備 考 1 惣奉行 大道寺隼人
手廻組
頭 国元から呼ぶ 2,29 竿奉行 舟水彦左衛門 寄合 30 〃 原田伊右衛門 〃 31 〃 山本三郎左衛門
手廻組
士,役 職 氏 名 本来の役職 新規召抱 備 考 1 竿奉行 田村郷左衛門
手廻組
頭 2 〃 太田茂左衛門, 〃 8 〃 長内口左衛門 〃 9 〃 角田仁左衛門 〃 10 〃 佐藤五右衛門
手廻組
頭
通史編2(近世1)
(元禄の大飢饉と家臣召し放ち)
さらに、元禄九年四月十三日・十七日・五月九日には馬廻組・
手廻組
などの与力七一人(同前No.八六四)、八月二十三日,には留守居組四一人(同前No.八六五)、同二十四・二十六・二十八日には
手廻組
・馬廻組に属する家臣に対して,さらに、
手廻組
、馬廻組、留守居組の中には、組頭のいない組もあった。
通史編3(近世2)
(薬王院)
貞享四年(一六八七)、客殿から出火して焼失し、再建されたが、翌五年に藩は
手廻組
頭・馬廻組頭に廟所の火消番
通史編2(近世1)
(支配機構の整備)
延宝七年(一六七九)正月十一日、それまでの御本参・新参を改組し、
手廻組
五組・馬廻組七組を置き、また留守居組二組,
手廻組
頭には津軽政朝・津軽為玄(ためもと)・梶川政順(まさより)という藩主信政の弟たちが命じられ、馬廻組頭
通史編3(近世2)
(藩兵の整理)
彼らは番方の中核である旧御
手廻組
を一等銃隊とし、同格が一等銃隊次席、旧小姓組が一等銃隊隊外という具合に
通史編2(近世1)
(請作)
また、代官のみならず、一年作奉行が設置され、奉行には番方上士(本参、または
手廻組
)が多く選ばれている。
通史編3(近世2)
(辻番・自身番・木戸番)
「国日記」延宝六年(一六七八)二月十日条によれば(資料近世2No.二六四)、藩士の御
手廻組
(おてまわりぐみ
通史編3(近世2)
(第二次藩政改革)
杉山龍江(1000石) 大道寺繁禎(1000石) 津軽済(900石) 番 方 要 職 津軽平八郎(御
手廻組
頭,・500石) 山野茂樹(同上格用人兼・300石) 山田誠(御
手廻組
頭・500石) 佐藤源太左衛門(御馬廻組頭
通史編2(近世1)
(貞享検地への影響)
高田領検地の場合、竿奉行は
手廻組
・馬廻組に属する藩士が務めることが多かった。
通史編3(近世2)
(第一次藩政改革と特色)
表21は「分限元帳(明治二年改)」(弘図津)から無作為に選び出した一等銃隊(旧御
手廻組
)一小隊四二人の,表21.明治2年6月12日改正禄高表(旧御
手廻組
=一等銃隊42名) No.
通史編3(近世2)
(出発)
家老、同東の方に城代、その後に用人が控え、さらに白砂東の方に大目付(おおめつけ)が、白砂塀重門の前に
手廻組
頭
通史編2(近世1)
(林政の展開と漆木の栽培)
一方漆の実の採取は最初は足軽組頭などが農民を使役して採取していたとみられるが、その後漆実取奉行には
手廻組
/ 1ページ