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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(町役負担と御用金)
表7.弘前城下の町
扶
持
人 町
扶
持
人
扶
持
人数 町年寄 100石 2人 町御買物役人 50俵 2人,両2歩2人
扶
持
1人 御鉄炮金具屋 30俵2人
扶
持
20俵 2人 御鑓屋 50俵 3両4人
扶
持
2,3人 御鞘師 25俵 1人 御塗師 7両5人
扶
持
5両5人
扶
持
4両2人
扶
持
30俵 15俵,両5人
扶
持
15俵2人
扶
持
(2人) 4人 御染屋 40俵 5両3人
扶
持
2人 御釜屋 7両7人
扶
持
,7人 薬鑵屋 3両2人
扶
持
2人 指物屋 30俵3人
扶
持
1人 木地挽 30俵2人
扶
持
3人
扶
持
2
通史編3(近世2)
(二等銃隊の創出)
副役の福士は御手廻無足(むそく)組で、奉公見習い中であり、
扶
持
はわずかに五人
扶
持
だが、やがて正式に家督,石郷岡権蔵 〃 3人
扶
持
勤料 御馬廻無足組 5 広島助吉 鼓手 30俵2人
扶
持
諸手足軽,〃 御留守居組寿吉(35俵5人
扶
持
) 〃 14 井上勇作 〃 〃 御留守居組勇之助(6人
扶
持
) 〃,早道之者伊三郎(40俵3人
扶
持
) 〃 28 小寺清蔵 〃 〃 買物役格三郎(3両1歩2人
扶
持
) 〃,両2人
扶
持
) 次男 34 鳥井崎良作 〃 〃 御留守居組御目見得以下支配常作(22俵2人
扶
持
) 〃
通史編3(近世2)
(第一次藩政改革と特色)
; 24 50俵3人
扶
持
外1人
扶
持
24.58石 〃 47俵1升 18.81石 76.53 25 45,45俵3人
扶
持
外10俵2人
扶
持
26.02石 1俵3斗5升入り+5人
扶
持
(8.85石) 49俵1斗4,升外2斗6升 20.0石 76.86 28 30俵2人
扶
持
外20俵2人
扶
持
24.58石 1俵3斗5升入,り+4人
扶
持
(7.08石) 32俵3斗6升外17俵4升 20.0石 81.37 29 30俵3人
扶
持
外,15俵2人
扶
持
24.6石 1俵3斗5升入り+5人
扶
持
(8.85石) 37俵1斗3升外12俵2斗7升
通史編3(近世2)
(御軍政局の発足と組織)
明治1.4 武芸取扱数年精勤につき2人
扶
持
勤料増 33 伊東広之進 〃 御馬廻組 6両6人
扶
持
武芸取扱,35 千田百次郎 〃 御馬廻格 40俵2人
扶
持
御馬廻格金木組御代官 慶応2. ,2人
扶
持
勤料 砲書取扱助役 39 神豊三郎 御軍政局調方助役 作事吟味役格 5両2人
扶
持
砲書取扱,2人
扶
持
勤料 砲書取扱当分助役 41 木村庄左衛門 〃 無役 2人
扶
持
勤料 42 間山広吉 〃,無役 2人
扶
持
勤料 43 野沢得弥 〃 無役 2人
扶
持
勤料 砲術調方 明治2.12 御留守居組御目見以上支配
通史編2(近世1)
(天明期の借り上げと寛政期までの状況)
諸年貢の免除を行うという緊急事態のもとで、藩は初めて藩士の俸禄を禄高にかかわらず一定にするという「面
扶
持
,天明三年(一七八三)十一月三日、知行・切米・
扶
持
方の別を問わず、一律に一日一人四合の支給とし、足軽・小者,それでも、面
扶
持
には麦や悪米などを混ぜて支給しなければならなかった。,この面
扶
持
の制度は、時代が下った天保の飢饉の時も採用された。 ,面
扶
持
の制度は天明五年九月に至って解除されたが(『記類』上)、依然三分の一の支給にとどまった。
通史編3(近世2)
(変わり塗と池田源兵衛)
父源兵衛と同じころに招かれていた塗師の
扶
持
料は、大野山六郎左衛門が金七両五人
扶
持
、大江宇右衛門が金八両五人
扶
持
,であったが、帰国したときの源太郎は、金三両二人
扶
持
(「町年寄役人職人調帳」前掲『津軽塗』)と少ない
扶
持
通史編2(近世1)
(元禄の大飢饉と家臣召し放ち)
知行米削減が具体的に打ち出されたのは、十月七日に
扶
持
米取に対してのものが最初であり、不作につき
扶
持
米取,の人々に対して、当面の間切米(きりまい)の月割支給、二人
扶
持
以上は半分、それ以下は一〇分の一の上納、賄
扶
持
削減,またすでに前借りしている分については来年次の返納を免じ、また軍用銀を今・来年分を赦免し、軍用に馬を所
持
すべき,藩では、当初下級家臣である
扶
持
方の人々のみを対象とする知行米削減措置によって藩財政逼迫を切り抜けようとしていたが,ただ、この時暇を出された者の多くが藩から
扶
持
米等を支給されていた職人、町
扶
持
人、足軽、小人(こびと)、
通史編3(近世2)
(藩政改革がもたらしたもの)
彼には八人の
扶
養家族がいたが、翌四年四月まではなんとか家計は成り立っていた。,予備銃隊として樋口に月一〇俵の
扶
持
米(ふちまい)が支給されていたからである。,樋口の例は特に極端な話ではなく、廃藩前後の記録には類似した
扶
助願いが散見される。,老齢や病弱といった理由により
扶
持
を失った軽格階層は、弘前城下で為(な)すことなく困窮していったのである
通史編3(近世2)
(紺屋町末紙漉所)
ちゅうすぎ)御鼻紙 仙台奉書 杉原(すいはら) 桑紙 半紙 十二月二十四日、新井・今泉両人は金二〇両七人
扶
持
,紙漉頭喜兵衛が俵子四五俵・白川七右衛門が二〇俵二人
扶
持
だったのに比べ破格の待遇である。,「先年新井・今泉と申す者召し置かれ、金二〇両七人
扶
持
ずつ下し置かれ、手代六人…一ヶ年御
扶
持
切米ばかりも
通史編2(近世1)
(町役)
町役 城下に屋敷を
持
つ町人には、地子銀(じしぎん)・出人足(だしにんそく)(人足役)・時鐘撞茂合(ときかねつきもやい,人足役は、城下に屋敷を所
持
した町人のほか、町方と認定された地域に居住した武家にも賦課された。,、藩主が国元に滞在する時は御用として町役を免除されたが、参勤交代で藩主が江戸にいる間は、ほかの屋敷所
持
者,給禄は、小頭が切米一二三匁三人
扶
持
、小遣は一〇〇匁二人
扶
持
であった(同前)。,町
扶
持
人は人足役ではなく、地子銀を上納することが定められたが、御用屋敷は人夫役を免除された(「国日記」
通史編3(近世2)
(富田御屋敷跡における製陶)
仕込金一〇〇〇両や職人
扶
持
申し出等の記述はあるが、築窯・焼成に関する記録は認められない。
通史編2(近世1)
(天保四年の飢饉)
しかし天明三年の際に比べるとまだ藩の対応にも余裕があり、
扶
助米を一日白米二合五勺、十一月からは三合ずつ,、松前・越後、さらには江戸にも流れ、江戸藩邸では小人(こびと)(掃除人)名目で彼らを雇い、一日四合の
扶
持
通史編1(古代・中世)
(将門の乱との関係)
『将門記』には、 天慶元年(正しくは二年)十月、新任の陸奥守平維
扶
(これすけ)が、任国に向かう途中下野,維
扶
は貞盛を見捨てて陸奥に入った。 とあって、この年の将門の乱の始まりを伝えている。 ,将門の父良
持
は鎮守府将軍経験者であり、そこで将門は陸奥の情勢に通じていた。
通史編2(近世1)
(天明六年以降の飢饉)
天明六年以降の飢饉 天保五年は幸い一転して豊作となり、一息ついた状態で、藩士の面
扶
持
(めんぶち)も停止,藩士の給与は再び面
扶
持
になった。,伝聞があったり(前掲「年中日記」)、飯詰の辺りでは馬や犬を食べる者も出はじめ、二〇人・三〇人と集団で米
持
ちの
通史編3(近世2)
(桐山正哲)
四代正哲は明和七年(一七七〇)に家督(高一五〇石六人
扶
持
)を相続し、表医となった。
通史編2(近世1)
(野本道玄の招聘)
へ招聘されたのは、家老津軽政実の口利きによるものであり、本来知行一五〇石であったが、国元の不作のため
扶
持
米,1695 元禄8 41 銀20枚5人
扶
持
(11月21日改,弘前御家中分限帳の覚)。,1697 元禄10 43 銀20枚5人
扶
持
(分限帳御日記方)。
通史編2(近世1)
(宝暦―天明期の借財)
両者とも見返りに藩から
扶
持
を受けており、安永四年の段階では茨木屋万太郎が七〇〇石、鴻池新十郎が五五〇石余,鴻池は他の諸大名からも
扶
持
を受けていたので、その総額は一万石にも達したという。
通史編4(近・現代1)
(弘前市青年団分団の結成)
…忠孝ノ本義ヲ体シ、品性ノ向上ヲハカリ、体力ヲ増進シ、実際生活ニ智能ヲミガキ剛健勤勉ヨク国家ノ進運ヲ
扶
持
,指導方針は政府の訓令に明らかなように、勤労青少年に対して国家意識や公民精神を堅
持
させることにあった。
通史編2(近世1)
(飢饉への対応)
また領民約一七万人への
扶
助米として幕府から雑穀を含めて一万二〇〇俵の拝借を受けた。,藩士の俸禄も天明三年十月には半知となり、十一月からは石高に関係なく、一律に一人一日四人
扶
持
とされる「面
扶
持
通史編3(近世2)
(神事能)
してつれ)・脇師・脇連・地謡・小鼓打ち・太鼓打ち・狂言師・装束着せ・髪結いがいて、藩主が国元にいる時は
扶
持
米,宝暦四年(一七五四)には地謡の町役が免除され(同前)、天明五年(一七八五)には茂森町に屋敷を
持
つ西岡伝之助,能役者が神事能を奉納して五穀成就を願うことは、藩より
扶
持
米を与えられる者の役割の一部と考えていたものとみられる
通史編1(古代・中世)
(湊安藤氏の誕生)
また、湊安藤氏は将軍直属の御家人の「京都御
扶
持
衆」に位置づけられ、「屋形」号を許されて、守護大名並みの,室町幕府の北方政策は、先にみたように下国・湊の両安藤氏をそれぞれ京都御
扶
持
衆扱いの家柄、このほか、浪岡城
通史編2(近世1)
(土着対象者)
同五年十月二十四日令(「要記秘鑑(御家中在宅御触)」寛政五年十月二十四日条)によって下限が俵子四〇俵三人
扶
持
以上,の切米取家臣、金六両三人
扶
持
以上の金給家臣と定められた。
通史編2(近世1)
(家臣団構成)
の分限帳には、八〇の役職名と家臣団一六九人の名前が記され、さらに職人頭・庄屋・町年寄・用達商人などの
扶
持
人二一人
通史編2(近世1)
(飢饉への対策)
藩士へも知行を止め、すべて蔵米渡しとし、藩が藩士への
扶
持
を一括管理することにした(同前No.三六)。,国元仕送制度自体、藩内での米の買い入れについて豪商・豪農層の負担に依拠していたが、翌宝暦六年に窮民
扶
助,五所川原村の原庄右衛門、蒔苗(まかなえ)村の蒔苗七右衛門らは一〇〇〇両に及ぶ献金をし、そのほか「町・在の金
持
」,いわゆる新田地方では宝暦五年十一月に、鶴田村の兵蔵ら七人が村々の難儀の者に米・金銭・塩・味噌・薪などを
扶
助
通史編3(近世2)
(養老礼)
式典の当日、領内の九十歳以上の男子には終身二人
扶
持
が、九十歳以上の女子と八十歳以上の男子には銭一貫匁が
通史編2(近世1)
(近世初期海運)
施主の庄司太郎左衛門の奉納意図は、おそらく航海中、嵐に遭った際、無事避難できたことへの感謝の気
持
ちを表,このことによって、当時の敦賀は、日本海海運の中継地としての重要性を中世以来、依然として維
持
し続けていたことを,なぜならば、前述の重臣宛ての書状において、御蔵屋敷の修理などは、自分の費用で行うとし、同藩から
扶
持
を下賜,相応の財力を
持
った商人であったのであろう。,このような初期豪商の系譜を引く北陸地方の海商(かいしょう)たちによって、初期海運が維
持
経営されていたのである
通史編2(近世1)
(文化~文政期の藩財政)
国元の支出の中心を占めるのが人件費たる藩士の知行切米
扶
持
米で、六万五三〇〇石と国元の支出の半分以上に及,表62 子年(文化13年)米払方 (国元) 費 目 米 高 比率 備 考 ⑧ 家中知行切米
扶
持
米,両浜払米,一番相場払米等 41,220 16.22 ⑩ 代官手代・浦々町同心等賄米・
扶
持
米,37,362.5石 14.70% 江戸常用金25,000両の内公儀買上米代差引24,500両分代米 ⑳ 家中
扶
持
米,ほかに江戸詰めの藩士への
扶
持
米が六六二五石あり、この両者が江戸藩邸の運営費というべき性格のものであった
通史編3(近世2)
(平清水三右衛門による作陶)
平清水三右衛門について、三右衛門は跡
扶
持
二人
扶
持
の藩士で、宝永二年(一七〇五)四月六日条によると、御切米三,〇俵、二人
扶
持
、御長柄組とあり、当時五十五歳。
通史編2(近世1)
(宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)
一方、人件費といえる藩士への蔵米渡・役知・切米・
扶
持
米等は六万一〇一石(二八・五九パーセント)である。,買受米他 16,911 8.04 在方1万俵之元利 4,800 2.28 知行の蔵米渡・役知・切米・
扶
持
米,28.59 諸役人賄米 4,000 1.90 銅山木山杣飯米払米 1,320 0.63 浦々渡切米・浦々
扶
持
米
通史編3(近世2)
(信寿・信著・信寧時代)
破笠は芭蕉門の俳人、画師で工芸家として知られており、享保八年に細工人として三〇両五人
扶
持
、御近習なみの,で助教を務めていた蘭洲は、享保十二年(一七二七)に江戸に出て、同十七年江戸屋敷において御手廻格三〇人
扶
持
,七代信寧は弓馬・刀槍・兵法・儒道・柔術などさまざまな技芸に関心を
持
ち、剣術は小野派一刀流の免許皆伝を受
通史編1(古代・中世)
(秀衡と義経の死)
母太郎」と呼んでいるが、その母太郎泰衡が後継者となったということは、家の母が、家督継承に大きな発言力を
持
っていたことを,後述するが、東北地方では、女系の系図が残されるなど、女系が大きな意味を
持
つ存在であった。 ,義経を討つことによってしか平泉の独立を保
持
する道はないと考えたのである。 ,ここに義経は、
持
仏堂にて妻と四歳の娘を殺したのち自害したという(写真92・93)。,写真92 『
扶
桑見聞誌記』義経らの死亡 写真93 源義経 たしかに院から討伐命令の出
通史編2(近世1)
(幕末期の藩財政)
米方の支出のうち、家中への知行切米・
扶
持
の合計は五万三〇三四石(歩引渡をしている)、江戸廻米は五万石、,あとは参勤交代にかかる経費、武器庫の維
持
・武器新造の経費などもみられる。
通史編3(近世2)
(金木屋による養蚕と製織)
現福島県伊達郡梁川町)あたりから養蚕の指南を招き、廻郷のうえ指導にも当たった結果、繭の生産が増加し、藩から一〇人
扶
持
養蚕方取扱
通史編3(近世2)
(戊辰戦争直後の課題)
金一万七八九六両余と二九万三三〇〇疋(ひき)、銀一八〇匁(もんめ)、銭二七八六貫六〇文目(もんめ)、二〇人
扶
持
通史編2(近世1)
(天保四年における藩の対応)
さらに、天明飢饉の措置に倣って、八月二十日から藩士の給与は、石高にかかわらず一律に一人一日四合になる「面
扶
持
,また、藩士の面
扶
持
の手当である「菜銭(さいせん)」も豪商農の御用金によって賄われた。
通史編2(近世1)
(預手形とは)
であり、買い上げ制により不足・高騰しがちになる藩内の穀物の流通を管理し、藩の統制力によって一定の価格を維
持
しようという,また、藩が困窮者に安く穀物を販売することで、凶荒対策も併せ
持
っていた。,「国日記」天保八年九月二十八日条(資料近世2No.一二六)によると、天保四年以来の凶作で、家中の
扶
持
米
通史編2(近世1)
(騒動の要求と結果)
騒動にかかわらず、廻米は藩の基本政策として堅
持
されたのである。,するために極貧の者に三五〇俵の補助米を差し出し、また青森町一九六〇軒の家々に対し、一軒当たり一斗ずつの
扶
持
米
通史編2(近世1)
(土着策実施への布石(Ⅱ期))
(1)近年の物価高により、
扶
持
米だけでは小給で家内人数の多い者は生活が困難である。,その結果、代官を農村支配の前線に置き、しかも代官職にこれまで以上に強力な権力を
持
たせ、上級藩士を任命することにした
通史編5(近・現代2)
(ホーリネス教会への弾圧)
昭和十七年六月二十六日、教団の第六部(旧日本聖教会)および第九部(旧きよめ教会)に属する教職九六人が治安維
持
法違反,可哀そうに思った慈善館主で町会長だった佐々木寅次郎の好意で一家は生活
扶
助を受けた。
通史編2(近世1)
(町年寄の由緒)
表29 弘前における町支配担当者の由緒 町支配の職 出身 召し抱え時点 高
扶
持
拝 領 時 町年寄
通史編2(近世1)
(農書の成立)
目録を見る 精細画像で見る 中村喜時は庄屋役を勤め、水田約一〇〇〇役(約七〇ヘクタール)を
持
つ,彼らは飢饉の際には藩の求めに応じて飢民
扶
助も行っており、その農書の記述は、自らの体験によって裏付けされたものであった
通史編3(近世2)
(織)
によると、家老津軽監物(つがるけんもつ)の口ききによって知行一五〇石積りの擬作(あてがい)(国元不作のため
扶
持
者,なお江戸出立に際して、江戸屋敷御用人から国許御用人への書状を
持
参していたが、それには織物師両人が領内各地,なお道玄が京都へ
持
参した生糸について、和糸問屋の間では日本最上、高級品にも使えるとの評価を得ていた(「
通史編5(近・現代2)
(福祉事業の推進)
けれども公的
扶
助が地域の人々の好意で支えられていたように、これまで基本的には地域の人々によって保障されていた,昭和二十一年(一九四六)二月二十七日、GHQ覚書(SCAPIN第七七五号)が発せられ、公的
扶
助に関する,とくに外地引揚者の生活困窮問題は、治安維
持
上からも対策が急がれており、全国各地で大きな社会問題となっていた
通史編2(近世1)
(城下弘前の変化)
いで元禄八年(一六九五)の飢饉によって、弘前藩では「減少」と呼ばれる、藩士・足軽・小人・中間や藩から
扶
持
米,をもらっていた職人・町
扶
持
人の召し放ちを大量に行った。
通史編2(近世1)
(津軽地域の確保と蝦夷荒)
同氏の勢力は、一つには津軽平野の中央部に
扶
植(ふしょく)させることに力点が置かれ、その過程でアイヌとの,したことに端的に表れているように、大浦(津軽)氏が近世権力としての基盤を確立してゆく過程で、重要な意義を
持
つものであった
通史編3(近世2)
((二)相撲興行)
彼らは、切米・
扶
持
・居宅を与えられた抱え力士であるので、ここでは四股名(しこな)を
持
った者がそれに当たるとみられる,売買で細々と生活していたが、とうとう妻子を養うことができなくなり、秋田領へ出かけ、檜山で切米三両・五人
扶
持
,まれの抱え力士大関柏戸(のち伊勢海)利助の病気が重くなったので、その功績により、老母・妻子に生涯五人
扶
持
通史編2(近世1)
(御用金の賦課)
この時は江戸藩邸も困窮し、藩士の
扶
持
米の支給にも事欠くありさまで、藩としても蔵元の機嫌を損ねるわけにいかなかったのである
通史編1(古代・中世)
(蝦夷の乱と安藤氏の乱)
つまり、この乱は、第一義的には、実は中世国家の東夷成敗権と密接な関係を
持
つ「蝦夷」の反乱なのであり、安藤氏一族内部,としてこの乱を特に選んだのは、「凡神ノ奇特、三韓征罰以来延暦桓武ノ御宇ニハ将軍ト身ヲ現シテ官兵ノ戦功ヲ
扶
助
通史編3(近世2)
(戦場に駆り出された民衆)
という高級士分の私的従者六人を除けば、残り六七人は炊夫(すいふ)(食事係)・浮夫(うきふ)(雑役夫)・
持
夫,5石2斗1升 南部野辺地 永世15俵 家督は息子常吉へ 19 大川元太郎 30歳 諸手足軽 5石2人
扶
持
,秋田矢島領吉沢村 永世50俵・物品 家督は息子郡太郎へ 63 工藤善司 22歳 以上支配 12石2人
扶
持
通史編2(近世1)
(土着策の展開と農村)
の分布が、よりその支配者意識を増長させたと同時に、年貢収取対象である農村に密着しているという安易な気
持
によって,からの経済的分離を目指してはいたものの、切米取や金給家臣については自己の開発地がその相当高に達するまでは
扶
持
米,単にその生活を維
持
するには、あえて農耕従事の必要はなかったのである。
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