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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(竪穴から掘立柱へ)
竪穴から
掘立柱
へ 中崎館においてはカマド付きの竪穴住居はまったく認められず、かわりに
掘立柱
建物跡を中心,この
掘立柱
建物跡を中心とした住居形態は中世社会の基本となるもので、前述した囲炉裏による煮炊という食生活,
掘立柱
建物跡や溝などの遺構は、時間の変遷によって複雑に重複しているため、整理した結果、一三世紀前半を中心,Ⅱ期 南側と北側に区画性を有する溝が構築され、
掘立柱
建物跡・竪穴建物跡・井戸跡が一体化した関係を有する,Ⅳ期 区画はⅢ期を継承しながら大型
掘立柱
建物跡と中型
掘立柱
建物跡・竪穴建物跡・井戸跡がセットとなり、北東側 / 竪穴から
掘立柱
へ
資料編1(考古編)
(〈建物跡の発見される遺跡〉)
〈建物跡の発見される遺跡〉 (1)城館跡 礎石建物跡・
掘立柱
建物跡・竪穴建物跡 (2)集落跡
掘立柱
建物跡,・竪穴建物跡 (3)屋敷跡
掘立柱
建物跡・竪穴建物跡 (4)寺院跡・神社跡 礎石建物跡が一般的
資料編1(考古編)
(〈地域的な差〉)
として特色のある中崎館遺跡*37では、その出土遺物が12世紀後半代に集中しているにもかかわらず、検出
掘立柱
建物跡,13世紀になると、境関館検出の
掘立柱
建物以外に明確な
掘立柱
建物跡は少なくなり、板留(2)遺跡のような竪穴建物跡,14・15世紀では
掘立柱
建物跡と竪穴建物跡の並存関係が明確になるものの、遺跡によっては
掘立柱
建物跡のみか,17世紀以降になると、浜通遺跡の成果に認められるようにしだいに竪穴建物跡は減少し、
掘立柱
建物跡が主流を
通史編1(古代・中世)
(建物の変化)
建物の変化
掘立柱
建物の母屋の場合は、柱と柱の間の寸法つまり間尺と平面形によって年代の推定ができる。,
掘立柱
建物の倉庫に関しては、基本的に柱が総柱になって、重量を支える構造を有し、間尺の相違はあるものの基本的,図54
掘立柱
建物(母屋)の変遷(高島成侑氏原図) このような建物の在り方は城館という遺跡の例,たとえば、最初に中世の竪穴建物跡と認定した市浦村二ツ沼(ふたつぬま)遺跡のように、
掘立柱
建物がまったくなくて
通史編1(古代・中世)
(四 中世の住居とムラ)
四 中世の住居とムラ 中世における建物は、
掘立柱
建物が一般的であるが、一部には竪穴建物も継続して使用,この場合、
掘立柱
建物や竪穴建物を住居として使用しているのか、倉庫や工房などとして使用しているのか、発掘調査
資料編1(考古編)
((4)12世紀)
城館関係では、大小の
掘立柱
建物と竪穴建物がある。,一般住居は、
掘立柱
建物構造に変化したものと見られる。
資料編1(考古編)
(第3節 中世・近世の住居と集落)
第3節 中世・近世の住居と集落 12~18世紀までの遺跡調査による住居は、
掘立柱
建物跡と竪穴建物跡が,
掘立柱
建物跡の初源は縄文時代にも見られるが、明確に確認できるのは古代に入ってであり(10世紀前後)、特,現在把握できる中世の構造物としては、中崎館の
掘立柱
建物跡が最も古いとされている。 ,表2 青森県内
掘立柱
建物跡・竪穴建物跡検出遺跡一覧 No.
資料編1(考古編)
(4.中崎館遺跡)
中でも、SB05及びSB14
掘立柱
建物跡は、ある時期、本館跡の中心的施設であった可能性が高い。,この「かわらけ」は、Ⅱ郭に多く分布し、中でも大型の
掘立柱
建物跡周辺に集中する。,第Ⅱ期は本城館の最盛期でもあり、大部分の
掘立柱
建物群はこの時期に属する。,(1) 図49 中崎館遺跡
掘立柱
建物跡(2) 図50 中崎館遺跡
掘立柱
建物跡(3),図51 SB05
掘立柱
建物跡復元図 図52 SB14・15・24
掘立柱
建物跡復元図
通史編1(自然・原始)
(縄文集落)
岩手県紫波(しわ)町の西田(にしだ)遺跡(中期後半)では、中央部に墓壙が円形をなして設けられ、それを数十棟の
掘立柱
建物群,)遺跡も類似の形状をなし、中央部に広場が設けられ、それを取り巻いて墓壙、フラスコ状ピットなどの土坑、
掘立柱
建物,三内丸山遺跡は外見すると異なる構造に思われるが、各遺構の配列は「北の谷」の南を東西の方向に並んだ高床式
掘立柱
建物群
通史編1(古代・中世)
(大浦氏関係の中世城館跡)
主曲輪から束になった銭(備蓄銭か)や、光信が居住したと考えられる主殿跡、区画溝によって区切られた状態の
掘立柱
建物跡,また大浦城跡(写真219)も、二ノ丸曲輪で
掘立柱
建物跡と思われる柱穴や、竪穴建物跡と思われる遺構などが
資料編1(考古編)
(5.荼毘館遺跡)
検出された遺構は、竪穴住居跡30軒、
掘立柱
建物跡15棟、井戸跡6基、土壙94基、焼土遺構19基、溝状遺構,②
掘立柱
建物 15棟のうち、第8号
掘立柱
建物跡を除く多くは小規模なもので、梁間1間のものが10棟、2間,第8号
掘立柱
建物跡は、梁間3間、桁行4間の総柱の建物に1間×2間の施設が付随するものである。,構築物は、荼毘館本体とそれに伴う3号堀、16号井戸、208号井戸等であるが、このほか、時期の判明しない
掘立柱
建物跡,荼毘館遺跡遺構配置図 図74 荼毘館遺跡地形図(中央網かけ部分が調査区) 図75 荼毘館遺跡
掘立柱
建物跡
資料編1(考古編)
(〈時期的な変遷〉)
〈時期的な変遷〉
掘立柱
建物跡 柱間の基準 12世紀 Ⅰ型-①とⅡ型が主屋の主体をなしⅣ型が付属屋として,型がある 7尺代を含む6尺代 16世紀 Ⅰ型-①にⅠ型-②を含む主屋が多い 6尺5寸~6尺8寸
掘立柱
建物跡
資料編1(考古編)
(6.独狐遺跡)
)遺構・遺物の概要 2次にわたる発掘調査の結果、平安時代では竪穴住居跡・土壙・溝状遺構、中世では
掘立柱
建物跡,12世紀後半の遺構は、
掘立柱
建物跡の一部や溝跡、あるいは竪穴遺構の一部があるものと考えられるが、遺構内,独狐遺跡遺構配置図(第1次調査分) 図86 独狐遺跡遺構配置図(第2次調査分) 図87 独狐遺跡
掘立柱
建物跡平面図,独狐遺跡出土遺物 図90 独狐遺跡出土陶磁器 図91 独狐遺跡出土古銭 独狐遺跡
掘立柱
建物跡柱穴群
資料編1(考古編)
((2)9世紀~10世紀前半)
また、一部では竪穴外側に外周溝を巡らせたり、あるいは竪穴に付属させた2間×3間の
掘立柱
建物を,竪穴外に
掘立柱
の建物を付属させる建物は、津軽地方を中心に、一部県南地方、あるいは秋田県北にも認められるが,また、外周溝は竪穴を囲うものと、前述の
掘立柱
建物を含む全体を囲うものがあるが、いずれも機能的には排水施設
資料編1(考古編)
(〈建物跡の種類〉)
〈建物跡の種類〉 (1)
掘立柱
建物跡(図1参照) 図1
掘立柱
建物跡の分類(「北の中世」より)
資料編1(考古編)
(資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)
10 青森県における平安時代の刻書土器一覧 第4章 中世・近世………………393 図1
掘立柱
建物跡,陶磁器に書かれた文字 図24 浪岡城出土墨書例 表1 青森県中世・近世遺跡一覧 表2 青森県内
掘立柱
建物跡,(1) 図49 中崎館遺跡
掘立柱
建物跡(2) 図50 中崎館遺跡
掘立柱
建物跡(3) 図51 SB05,
掘立柱
建物跡復元図 図52 SB14・15・24
掘立柱
建物跡復元図 図53 中崎館遺跡ST01竪穴遺構,の変遷 図104 境関館遺跡SB01
掘立柱
建物跡の構造と復元図 図105 境関館遺跡竪穴建物跡・井戸跡
資料編1(考古編)
(〈機能の違い〉)
〈機能の違い〉
掘立柱
建物跡と竪穴建物跡の個々の機能を結論づけることは困難であるが、両者に同じ機能(
資料編1(考古編)
(3.野脇遺跡)
掘立柱
建物跡13軒、竪穴遺構2基、土坑14基、井戸跡6基、溝・堀跡12本、かまど状遺構2基、埋甕遺構1,
掘立柱
建物跡の年代観を溝・堀跡及び土坑の出土遺物年代観からと補正を加えて、遺構変遷を示したのが図126,16世紀末から17世紀初めは並立する
掘立柱
建物跡群があり、井戸跡(SE01)も近接して存在する。,19世紀前半になるとまたも東側に南北に走る堀が存在し、
掘立柱
建物跡も比較的大型の建物となる。,そして幕末から明治にかけては
掘立柱
建物跡だけになり、溝や堀などはなくなるようである。
資料編1(考古編)
((3)10世紀後半~11世紀)
砂沢平遺跡地形図 この時期の集落を構成する建物では、作りつけのかまどをもった竪穴住居跡と総柱の
掘立柱
建物跡,なお、11世紀をもって日常的な竪穴住居はなくなり、
掘立柱
建物の構造に変化するとされている。
通史編1(古代・中世)
(種里城と町)
(一九九二)から種里城跡の中心部である「主曲輪(しゅぐるわ)」の発掘調査が行われ、その調査によって、
掘立柱
建物跡,(図61)などが検出されており、
掘立柱
建物跡の中には光信などが居住したと考えられる「主殿(しゅでん)」,図61 鯵ヶ沢町種里城跡検出
掘立柱
建物跡の平面図 その北西側に位置するⅡa曲輪は、斜面に何段もの
通史編1(古代・中世)
(農民の住まい)
東田遺跡(群馬県)では、中世後半の農村や農民が暮らしていた家屋(図60)などが発見され、竪穴の建物や
掘立柱
建物
通史編1(古代・中世)
(湊の最盛期)
北側では遺構の重複が激しいばかりでなく、溝などの区画施設が発達すること、さらに
掘立柱
建物跡と竪穴建物跡,県内で発掘調査された中世遺跡の遺構群の在り方からすれば、
掘立柱
建物跡・竪穴建物跡・井戸跡は生活空間を構成
通史編1(古代・中世)
(城館発掘の成果)
荼毘館遺跡は出土陶磁器によると一三世紀後半から一五世紀にかけて成立している城館であるが、堀跡の確認や倉庫風の
掘立柱
建物跡
資料編1(考古編)
(3.縄文時代の集落)
本県でも縄文時代中期における六ヶ所村富ノ沢(2)遺跡の例を見ると、柱穴群(
掘立柱
建物跡群)の外側を多数,八戸市是川にある風張(1)遺跡では、中心部に遺構はほとんど見られず、土壙群が中心部を取り巻き、その外側に
掘立柱
建物跡群
通史編1(古代・中世)
(平安時代の大規模集落)
すなわち、九世紀中葉から一〇世紀前半にかけては、竪穴住居跡と一体の施設としてカマド側に
掘立柱
建物跡、これらを
通史編1(古代・中世)
(ムラの建物)
この富山遺跡の例のように、中世後半に至っても竪穴建物跡だけ(調査面積を拡大すると
掘立柱
建物跡を検出する
資料編1(考古編)
((5)縄文時代後期)
また、石を用いた石棺墓、葬法と深い関連を持つと思われる環状列石(ストーン・サークル)や、墓壙・
掘立柱
建物跡
資料編1(考古編)
((1)7・8世紀)
この時期の集落は、一般的に数軒から数十軒ほどの、かまどを持った竪穴住居と、数棟の
掘立柱
建物跡(倉庫)、
通史編1(自然・原始)
(食料)
らがある目的のために力を合わせて築き上げたその証明の一つに、三内丸山遺跡のシンボル的存在である巨大な
掘立柱
,青森市・三内丸山遺跡の復元された巨大
掘立柱
建造物 この柱間の距離はきわめて正確であり、この時期
資料編1(考古編)
(1.境関館遺跡)
(4)検出遺構 検出遺構としては、
掘立柱
建物跡23棟、かまど遺構129基、堀跡7本、竪穴遺構(建物跡,〔
掘立柱
建物跡〕 23棟検出された建物跡は、平面配置及び出土遺物の分析から13世紀から15世紀までの約,これらの
掘立柱
建物跡の中で特にⅡ郭南側から発見されたSB01は15世紀半ばの建物として出色の建物である,図103 境関館遺跡
掘立柱
建物跡配置の変遷 図104 境関館遺跡 SB01
掘立柱
建物跡の構造
資料編1(考古編)
(7.小友遺跡)
柱穴及び柱穴列は、
掘立柱
建物跡の一部と推定される。
通史編1(古代・中世)
(大浦城と大浦城下町)
そして二の丸部分は平成八年度(一九九六)の発掘調査などにより
掘立柱
建物跡などが作られていたことも確認された
通史編1(自然・原始)
(住居)
もし統率者も居ない無秩序の状態であるとなると、
掘立柱
の建造物をはじめ、墳墓・盛土や大型を含めた住居などの
資料編1(考古編)
((2)集石・配石遺構)
)からの周辺分布調査と整備のための調査によって遺跡の範囲は拡大し、特に万座の環状列石は、列石の外側に
掘立柱
建物跡
通史編1(自然・原始)
(発掘調査の成果)
朝日山遺跡では、前年の平成二年の調査だけで、九世紀後半から十一世紀前半に至る平安時代の竪穴住居跡六七棟・
掘立柱
建物跡一四棟等,一九九二)、県営野球場建設予定地であった三内丸山遺跡に対する緊急発掘調査が開始され、大小の竪穴住居跡・
掘立柱
建造物跡,・盛土遺構・墓地・大型
掘立柱
建物跡などの各種遺構の発見と、膨大な量の遺物が出土し、県は平成六年(一九九四
資料編1(考古編)
((4)漆器・木器生産)
なお、この遺跡は、比較的規模の大きい
掘立柱
建物跡や墨書土器も共伴することから、律令制社会と深くかかわり
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