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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (普選運動の結実)

大政友会は分裂し、政友会残留一二九人、政友本党一四九人となった。,青森県の政友会代議士は全員政友本党に走った。,残留組の政友会は、憲政会、革新倶楽部と護憲三派を結成した。  ,政友会本県支部は、十三年二月八日、加藤宇兵衛支部長、竹内清明総務のもとに臨時総会を開いて、支部を挙げて,しかし、残留派の政友会は、同年十一月二十二日、高橋総裁、横田法相を迎えて再出発の発会式を行った。
通史編4(近・現代1) (菊池武徳と中央政治)

四十一年の総選挙で、菊池は政友会の大坂金助に敗れた。,そして政界革新運動を起こし、反政友会勢力の中心となろうとしたが、失敗していた。  ,大臣は、首相・外務大臣および軍部大臣以外はすべて政友会から出た。,原敬が元老と妥協したもので、憲政擁護運動に熱心な二九人が政友会から脱会した。,菊池も脱会したが、他の青森県の政友会代議士は政友会に残った。
通史編4(近・現代1) (青森県における衆議院議員選挙)

この間選出された議員は、第七回憲政本党四人、政友会二人(〔政友〕寺井純司・田中藤次郎、〔憲本〕工藤行幹,・加藤宇兵衛・徳差藤兵衛・菊池九郎)、第八回(明治三十五年十二月)憲政本党三人、政友会三人(〔政友〕寺井純司,(樋口喜輔・菊池武徳・工藤善太郎・伊東祐一・津島源右衛門・広沢弁二)、第一二回(大正四年三月)政友会三人,当選者は第一四回政友会六人、憲政会一人(〔政友〕北山一郎・宇野勇作・原田藤次郎・阿部武智雄・野村治三郎,・梅田潔、〔憲政〕菊池良一)、第一五回政友本党四人、政友会二人、憲政会一人であった(〔政友〕原田藤次郎
通史編4(近・現代1) (地方の政争激化)

地方の政争激化 本県の政友会派と進歩党派との政争は、選挙のときに最も露骨である。,中津軽郡は政友会派の根拠地だったが、進歩党が進出してきた。,既報の如く中郡千年村に於ける政友会派の勢力近頃大に失墜し、近く行はるべき村会議員半数改正選挙に於て進歩派,の勝利に帰すべき形勢となるや、政友会派は暴力的手段に訴へ、勝を万一に制せんことを図り、諸方より無頼漢を,このとき、村長古川一英は政友会側に属し、自派から三人の候補者を立てた。
通史編4(近・現代1) (弘城政社の衰退)

明治四十三年の政治分野では、六人の代議士のうち、国民党は石郷岡文吉、小山内鉄弥、市田兵七、竹内清明の四人、政友会,しかし、四十三年三月十三日、憲政本党を主体に結党した国民党の議員は九二人、これに対して政友会は、明治三十七年一三九人,このため、竹内清明と政友会本部の原敬を軸に極秘裡に国民党県支部解散、政友会入党を幹部らが決断、明治四十四年七月十日青森市,で国民党各郡市代表委員会を開いて、各代議士出席のもと満場一致、国民党脱党、政友会入会を決議した。
通史編4(近・現代1) (普選運動の激化)

九年五月の総選挙における政友会の圧勝と、アナルコ・サンジカリスム(無政府主義的急進的労働組合主義)の労働界,政友会は依然普選に反対した。,門事件で辞職、後任の清浦内閣が貴族院の内閣だったため第二次護憲運動が起き、憲政会・革新倶楽部・分裂後の政友会
通史編5(近・現代2) (市会の勢力図)

しかし、政府を支える政友会は鈴木喜三郎総裁のもとにあったが、四大派閥に分裂して内紛を繰り返していた。,が行われたが、各党の得票数は、政友七万三〇票、民政四万四〇〇〇票、無産五九〇票、中立一万六〇〇票で、政友会,立憲政友会青森県支部弘前分所長 近藤東助        ″      分所顧問 石郷岡文吉 工藤十三雄
通史編4(近・現代1) (護憲を巡る動き)

政友会からは尾崎行雄・岡崎邦輔など三〇人、国民党からは犬養毅ほか数人、そのほか無所属議員や新聞記者を合,弘前出身の政友会代議士菊池武徳(きくちたけのり)が発起人総代として「時局の争いは官僚対非官僚、武断派対文治派,写真139 柾木座内部  また、政友会中郡分所は一月三十日総会を開き、石郷岡文吉、佐藤要一、石岡粕太郎,五月七日には、国民党の犬養毅一行と政友会の山本権兵衛内閣との妥協に反対して脱党し、政友倶楽部を組織した
通史編4(近・現代1) (助役問題)

助役問題 当時、弘前市会は、佐田正之丞市長代理の政友会派一一人、伊東重の市政刷新会系の自治派一〇人、,その後任が政友会の推す長尾義連となったが、非政友の推す市会議長佐藤英司と決選投票も同点で、年長者ゆえに
通史編4(近・現代1) (『弘前新聞』の論評)

得たが、八月、大隈内閣の改造に反対して多くの懇願を無視して幹事を辞任、翌大正五年二月中正会を脱党し、政友会,やや軽躁独善的な進退で弘前の人心は離れ、翌年四月の総選挙直前に政友会入りした伊東重に苦杯を喫し、政治生命,大正デモクラシーは弘前では語られることなく、私設知事の綽名(あだな)で地方へ利益誘導をした政友会竹内清明
通史編4(近・現代1) (普選運動の胎動)

戦後、院内でも、戦争を担った国民に選挙権を拡張せよとの声が上がり、政友会、憲政本党とも三十九年の第二二議会,これは政友会の勢力を発展させる策でもあった。
通史編4(近・現代1) (青森県における普通運動)

このとき、政友会北郡分所は長尾角左衛門を中心に、衆院選挙区の基準人口が郡部一三万人以上、市部三万人以上,これに対し、同年十二月十二日の政友会支部総会の決議の第一は米価の暴落による農民救済、第二は青森港改築の,また、県下政友会でも、竹内清明の横暴に一部党員が反発し、中郡でも小山内徳進らが脱党し、憲政派の藤田重太郎
通史編5(近・現代2) (市民の政治意識の変化)

さらに、政友会から公認の津島文治(金木町)と非公認の對馬桑太郎(石川町)、民政党からは公認で藤田重太郎,ごろから健康がすぐれず、後任問題が起きていたが、市議たちも非常時下無益な政争を続けることは恥辱と反省し、政友会内
通史編5(近・現代2) (総選挙での戦い)

(労農) 三〇四〃 石渡春雄(労農新) 二六八五〃  昭和三年(中弘地方)政党役員   立憲政友会青森県支部, 工藤道生  同 坂本安蔵 △分所長     中津軽郡 大高喜八郎  弘前市 工藤道生   立憲政友会青森県政友倶楽部,(昭二、十二、十二 県政友会より脱退した旧政友本党系) △会長      南郡六郷村 宇野勇作 △
通史編4(近・現代1) (郷田県令と保守派)

後年政友会代議士や青森市長として活躍した阿部政太郎は、浪岡八幡宮の神主阿部文助の長男である。
通史編4(近・現代1) (郡制の施行)

しかし、山県有朋系の藩閥官僚勢力は、自分たちの勢力の弱体化を恐れ、貴族院を中心に反対し、また、政党の側も政友会
通史編4(近・現代1) (弘前市政の乱れ)

とした)は、権力的にけんもほろろに答弁したので、古田昌三郎議員に叱られ、さらに仲間の石郷岡文吉--当時政友会代議士
通史編4(近・現代1) (市会乱闘事件)

のため退職しており、弘前市政刷新会の伊東重が十月二十三日から第八代市長に就任する空白期間中の出来事で、政友会
通史編4(近・現代1) (県内遊説)

南郡は竹内清明、彼はのち政友会の実力者となり、原敬をバックに青森県の私設知事の異名をほしいままにした。
通史編5(近・現代2) (県債五〇〇万円の成立)

一九三一)十一月二十五日が県会議員選挙にあたり、二十七日に県会が召集されたが、長い間政争を繰り広げてきた政友会
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