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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (政府軍の乙部上陸)

政府軍の乙部上陸 雪が消えるとともに待ちかねていた軍艦が青森湾に集結し、出兵の条件が整った政府軍はすぐに,青森からは次々と物資や人員が輸送され、こうした後方支援は政府軍の大きな力となった。  ,その情報により、政府軍はあらかじめ決められていたとおりの順番で陸軍部隊が上陸を果たしたのであった。,政府軍の対応は素早く、上陸を終えた松前・大野藩兵などが直ちに布陣して反撃した。,そして、既に松前近くまで進軍してきた政府軍と根部田(ねぶた)村(現北海道松前郡松前町)付近で衝突し、政府軍 / 政府軍の乙部上陸
通史編3(近世2) (政府軍の苦戦)

政府軍の苦戦 七月六日より秋田城下から薩摩・長州・佐賀藩など官軍諸隊が、庄内方面へ向け進軍を開始した / 政府軍の苦戦
通史編3(近世2) (矢不来の戦い)

軍監駒井政五郎率いる政府軍は四月十日江差を発ち、十一日より天狗岳攻略を開始した。,天狗岳から本陣のある台場近くまで進んだ政府軍と旧幕府軍の間では激しい銃撃戦となる。,この銃撃戦は翌日も続いたが、二十四日には、五稜郭からの応援部隊が政府軍を不意打ちして接近戦となり、政府軍,この時の戦いでは結局、政府軍はそれ以上の進軍はあきらめ、二十五日、天狗岳に滞陣を決めた。  ,したがって、とうとう政府軍の標的は五稜郭・箱館付近のみとなったのである。
通史編3(近世2) (松前城の恢復)

松前城の恢復 江差を早々に押さえた政府軍の兵力は、木古内口の攻防と、松前城下の恢復に注がれた。,四月十六日、政府軍は原口(はらぐち)(現北海道松前郡松前町原口)に陣を構えていた。,松前を奪回した政府軍は、次に小競り合いが続いていた木古内口への兵力増強を図った。,が木古内の応援に現れ、さらに、海上から上陸を果たした一中隊も加わって、反撃を始めたため、地理にうとい政府軍,こうした旧幕府軍の動きを知った政府軍は、二十二日、木古内に入り、松前からの隊と合流を果たしたのである。
通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

その後人事の変更があり、二月二十六日、新政府軍は、左大臣九条道孝(くじょうみちたか)を奥羽鎮撫総督(おううちんぶそうとく,しかし、新政府軍に対抗する勢力として、同月二十三日には主に幕臣から成る彰義隊(しょうぎたい)が結成された,次いで四月ころからは、会津・庄内両藩対政府軍の戦いとなり、徹底的に両藩を攻め落とそうとする政府軍の態度
通史編3(近世2) (庄内征討命令をめぐって)

庄内征討命令をめぐって 弘前藩が討庄応援の準備を始め、出兵を繰り返していた間にも、新政府軍と旧幕府軍,四月十九日には、大鳥圭介隊が宇都宮城を攻略するが、二十三日には政府軍が再び回復した。,反政府軍に対する奥羽諸藩の勢いが強くなる中で、閏四月六日討庄の厳命を受けた秋田藩は、七日、庄内藩征討に,その中で、弘前藩から応援隊を率いて出兵していた館山善左衛門より 政府軍と庄内藩の攻防の様子について報告,ところが、逆に閏四月一日になって、今度は宇都宮戦争における政府軍の劣勢の報も入ってきていた。  
通史編3(近世2) (戦線の北上)

五月一日に政府軍が白川を押さえて以後も仙台・会津両藩は奪還を期すべく攻撃を続けていた。,奥羽越列藩同盟に新たな展開をみせた六月十六日、平潟(ひらかた)港(現茨城県北茨城市)に政府軍が上陸を始,閏四月、政府軍は北越地方の平定に動き出した。,政府軍が長岡・新潟方面を完全に掌握するには、八月初旬までの時間を要するのである。
通史編3(近世2) (清水谷公考の退去)

清水谷公考の退去 旧幕府軍の勢いは強く、一方の政府軍に兵力の限界を感じた清水谷公考は、十月二十四日、,さらに浪岡には政府軍の病院が設立される(『青森縣史』第三巻)。
通史編3(近世2) (箱館の攻防)

、決死の覚悟で白兵戦に持ち込み、多くの死傷者を出しながら、とうとうここを突破し、亀田村で海岸道を進む政府軍,一方、海軍も陸上の政府軍の進攻に足並みをそろえ、朝陽と丁卯が七重浜沖へ向い、甲鉄・春日は輸送船箱館攻撃部隊,蟠龍は七重浜へ向い、加えた攻撃の一弾が政府軍艦朝陽の火薬庫へ命中して同艦を沈没させた。
通史編3(近世2) (総督軍の集結)

この時政府軍の総勢は約一二五〇人で、ここに奥羽鎮撫総督軍の秋田総集結が実現したのであった。  ,とりもなおさず、越後方面、会津方面に加え、平潟からも政府軍が上陸し、戦線が同盟諸藩に迫っている時期である,同盟軍にとっては外からの政府軍の侵攻のみならず、内からの攻撃にも備えなければならない状況となり、互いの
通史編3(近世2) (木古内口の攻防)

結局のところ、十一日に旧幕府軍へ攻撃をしかけた政府軍だったが、実は攻めきれずに弘前藩兵が到達するころには,この日、旧幕府軍には大鳥圭介隊も合流し、逆に政府軍が陣をおく稲穂峠(いなほとうげ)へ反撃を開始した。
通史編3(近世2) (宮古湾海戦)

宮古湾海戦 津軽海峡を挟んで対峙(たいじ)することとなった政府軍と旧幕府軍は探索の者を送り、間者を厳,一方政府軍の方も戊辰が砲弾に当たって大きな被害を受けたため、負傷者を乗せて東京へ引き返さざるをえなくなった,結局短時間のうちに実戦は終了したが、旧幕府軍の死傷者はおよそ五〇人、政府軍の死傷者はおよそ三〇人という
通史編3(近世2) (京都詰藩士による視察報告)

・広島の手勢が検問を張っていたこと、戦いは砲撃戦であり、刀や槍はその補助にすぎなかったこと、そして新政府軍,は負傷者を病院へ送り、兵糧や弾薬等の補給もおびただしく行っていたことを報告しており、これらも新政府軍優位
通史編3(近世2) (庄内戦争の結末)

この時角館方面には総督府の沢副総督も詰めており、一時は退却を余儀なくされる状況に陥ったが、最後には政府軍
通史編3(近世2) (箱館戦争の開始)

しかし、使者として先発していた旧幕府軍には、歴戦を重ねた大鳥圭介隊が合流したこともあって、政府軍は苦戦
通史編3(近世2) (幕府・朝廷の攻防)

つまり、旧幕府側の見解によると、上洛の内諭があったので上京したところ、新政府軍が待ち伏せをしたうえ、発砲
通史編4(近・現代1) (中国革命の義士)

政府軍は山田が日本人であることを覚って、国際紛争となることを怖れ、箝口(かんこう)令を敷いて証拠の湮(
通史編3(近世2) (箱館戦争の終結)

箱館戦争の終結 五月十二日より、甲鉄から五稜郭に照準を合わせた激しい砲撃が行われ、政府軍は降伏勧告の
通史編3(近世2) (庄内征討応援命令)

しかし、政府軍の勢いは依然として続いていた。
通史編4(近・現代1) (弘前県から青森県へ)

明治新政府は軍務官太田亥和太(いわた)を政府軍参謀として奥羽に派遣したが、太田は同門同郷の野田を周旋、
通史編3(近世2) (藩論の統一)

藩としては、一連の動向からみて、新政府軍に従うことに藩論を統一したかったとみられるが、その諮問の結果、
通史編3(近世2) (盛岡藩の参戦)

およそ五〇〇人にのぼる援軍の加勢により、翌二十九日、すぐさま大館奪回を目指した反撃が行われ、政府軍は苦戦
通史編3(近世2) (箱館戦争をみた農民)

明治二年四月三日、政府軍の蒸気艦「春日」・「甲鉄」以下一一隻が今度青森に集結し、近日松前表へ出撃するので
通史編3(近世2) (松前方面の攻防と青森)

浪士からは庄内酒井氏や盛岡藩に対する処分についてや政府軍の状況について、また清水谷らの行方についての問
通史編3(近世2) (松前徳広の領内落去)

明治二年二月の段階で、対旧幕府軍のために集結した政府軍の兵数は総員六四〇〇人弱であり、その内半数近くが
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