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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (敗戦時の郷土部隊)

敗戦時の郷土部隊 突如の敗戦は国内の人々だけでなく、戦地で死闘を繰り返していた部隊にとっても寝耳に水,三一連隊は敗戦時にはルソン島南部で死闘を繰り広げていた。,他の師団と同様、第八師団管下の各部隊も中国や南方方面に派遣され、悲惨な状況下で敗戦を迎えている。,いずれも敗戦直前の編制であり、人員・武器・食糧など、どれもが不足がちで、決して精鋭部隊とはいえなかった,天皇の軍隊として「皇軍」と呼ばれ、戦時中は勢力絶大だった軍隊も、敗戦とともに武装解除を受けた。 / 敗戦時の郷土部隊
通史編5(近・現代2) (敗戦と文書焼却問題)

敗戦と文書焼却問題 これまで見てきた「市長助役書類綴」のなかに、学兵課の事務引継書がある。,これは陸海軍当局が敗戦に伴う連合軍からの責任追及を恐れて、軍事関係はもちろんのこと、兵事関係業務の簿冊,だが敗戦前後の諸事情から、簿冊が偶然に残される場合もあった。,しかしそれ以外の行政文書が、敗戦によって大量に焼却されることが通例だったわけではない。,突然の敗戦という混乱のなかで行政現場の担当者たちは業務に追われていた。 / 敗戦と文書焼却問題
通史編5(近・現代2) (敗戦直後の市政事務)

敗戦直後の市政事務 敗戦後の弘前市政の概要を見るには、市長の引継書類がもっとも有効である。,敗戦と占領政策のなかで、弘前市役所の事務は開始された。,未曾有の敗戦から復興を目指して、市当局は何をしたのだろうか。,厚生課は敗戦後もっとも重要かつ多忙を極めた部局だった。,これが徹底して実施されたのは、敗戦前後の非常事態下だった。 / 敗戦直後の市政事務
通史編5(近・現代2) (敗戦直後の弘前市民)

敗戦直後の弘前市民 敗戦間際の弘前市は第二次建物疎開を計画し、八月二十七日までに完了する段階にあった,写真102 敗戦直後の富田枡形界隈  しかし二度にわたって建物疎開を徹底しながら、突然終戦(敗戦,敗戦後の日本各地では人口の大移動が起こっていた。,ちなみに青森、弘前、八戸三市の十一月現在での人口統計を見ると、敗戦後の興味深い事実が判明する。,人口の急激な増大により、敗戦直後の弘前市街は混雑し、対面通行の徹底が指示された。 / 敗戦直後の弘前市民
通史編5(近・現代2) (敗戦と教育内容の切替え)

敗戦と教育内容の切替え 昭和二十年八月十五日の敗戦を境に、青年学校も教育内容を切り替えなければならなかった,これまで青年学校教育が軍隊予備施設と見なされたことが災いして、敗戦を境に青年学校教育は目標を失ったかに / 敗戦と教育内容の切替え
通史編5(近・現代2) (在日朝鮮人問題)

朝鮮人に対する警戒心の強さは、敗戦前まで植民地としていた朝鮮に対する日本人の態度がどのようなものだったかをよく,示していよう(詳細は中園前掲論文「敗戦前後の世相と民心の動向」を参照)。,敗戦前、朝鮮人は植民地人として冷遇され差別されていた。,しかし日本の敗戦により、朝鮮は独立国の国民として扱われることになった。,ところが敗戦後の在日朝鮮人は、もはや日本人ではないとして、軍人恩給や補償の数々を受けられなくなったのである
通史編5(近・現代2) (軍国主義・国家主義の払拭)

軍国主義・国家主義の払拭 敗戦後、解散・解体されたのは軍事施設だけではなかった。,戦前・戦中、とくに戦時体制下で国家神道による精神主義をたたき込まれた人々にとって、敗戦の現実は裏切られた,そのため敗戦後、神道を中心に宗教へ対する反動が現れていた。,彼らの多くは敗戦の理由を国民全体の道義退廃に求め、敗戦で国民の精神思想が弛緩したと嘆いていたのである。,は、中園裕「敗戦前後の世相と民心の動向」『弘前大学国史研究』第一〇八号、二〇〇〇年三月を参照)。  
通史編5(近・現代2) (復員・引揚げ対策の開始)

復員・引揚げ対策の開始 進駐軍対策のほかに市当局の敗戦処理として重大な業務は、多数の復員兵や引揚者をどう,敗戦直後の復員兵や引揚者に対する最大の配慮は、何といっても食糧供給であり生活物資の配給だった。,膨大な軍需物資は、敗戦と軍隊の解散により名目を失いつつあった。  ,突然の敗戦により、外地とくにソ連の来襲を受けた旧満州地域の人々や、南方の太平洋戦線で死闘を繰り返していた,そのため敗戦直後、青森連隊区では県当局に対し衣類や靴などを払い下げ、県の繊維製品統制株式会社や皮革統制組合
通史編5(近・現代2) (キリスト教の復興)

キリスト教の復興 敗戦によって諸教会の合同を強制した宗教団体法は廃止され、諸教会の日本基督(キリスト,しかし、敗戦から約一〇年ほど続いたキリスト教ブームの時代に、弘前では藤田恒男牧師が八面(めん)六臂(ぴ
通史編5(近・現代2) (生活環境の整備)

それほど敗戦後の生活状況は劣悪きわまりなかったのである。,敗戦後の市民にとって灯火管制が解除され、明るい夜を迎えられたことは何よりの喜びだった。,しかしいざ灯火管制が解除されても、敗戦後しばらくは街灯が乏しく、夜は市街地でさえ暗く、治安維持上からも
通史編5(近・現代2) (進駐軍の衛生対策)

進駐軍の衛生対策 弘前市に限ったことではないが、敗戦前後の人々の生活は、現在からみれば大変非衛生的だった,敗戦後、連合国は日本を占領するに際し、各地に軍隊を進駐させた。,敗戦後、とくに南方地域からの引揚者が、チフスやコレラをもたらす傾向が強く、それが人体にもたらす悪影響を
通史編5(近・現代2) (新警察制度の導入)

新警察制度の導入 敗戦による治安の悪化は、市当局が憂慮していたものの一つであろう。,弘前警察署でも敗戦後、初めて迎える年末年始には、特別な警戒態勢をしいている。,敗戦後、占領期にかけてもっとも多かった犯罪は、食糧をめぐる盗難、価格統制違反、闇市取引である。,食糧をめぐる経済犯が多かったのも、敗戦後の大きな特徴といえよう。  
通史編5(近・現代2) (連合軍の弘前進駐)

連合軍の弘前進駐 敗戦直後の行政当局の最大課題は何と言っても進駐軍対策だった。,しかしこれには事前に相応の準備があったからである(進駐軍に対する民心動向については、中園裕「敗戦前後の
通史編5(近・現代2) (福祉事業の推進)

GHQの徹底した指導が正当性を付与されたのは、敗戦後の生活難が直接的な理由となっていたからである。,敗戦直後に治安当局が全国の特高警察に命じて民心の動向を調査させているが、その調査結果からも、多くの人々,外地に夫を残し子供を抱えて引き揚げてきた女性を典型に、男性が復員しておらず女性だけで子供を養う家庭は、敗戦後,敗戦後の復興対策が福祉政策の導入に大きく寄与したことに、改めて注目しておきたい。
通史編5(近・現代2) (家庭に戻る女性たち)

ところが敗戦で男性職員が復帰したため女性職員の多くは退職し家庭に戻ることになった。,敗戦後も生きていくために働き続けざるを得なかった女性たちを含め、このときの体験があったからこそ、その後
通史編5(近・現代2) (戦後の佐藤正三)

戦後の佐藤正三 佐藤は、二学期が始まった直後、弘中大陸班員が福士校長と敗戦原因で紛議を起こした責任をとって,十二月二十五日敗戦後はじめて(石原)閣下にお会いし、閣下の深い、実に深い、そして揺ぎなく、しかも澄み切
通史編5(近・現代2) (新憲法の公布)

市内国民学校の中には、憲法公布記念と名づけて、記念学芸会を開催するところもあって、新憲法の公布は敗戦直後
通史編5(近・現代2) (弘前城内の植物園造営)

弘前城内の植物園造営 敗戦で第八師団が解散させられるまで、弘前城三の丸一帯は兵器廠だった。
通史編5(近・現代2) (めざましい部活動)

めざましい部活動 敗戦の痛手から立ち直るように、いち早く部活動は復活の兆しをみせた。
通史編5(近・現代2) (りんごの唄と空前のりんご景気)

りんごの唄と空前のりんご景気 敗戦後、うちひしがれていた人々を勇気づけた歌謡曲に『りんごの唄』(唄・,敗戦後の県財政は、激しいインフレの中で赤字を免れなかったが、空前のりんご景気に乗じ、昭和二十一年(一九四六
通史編5(近・現代2) (日本再軍備と自衛隊の誘致)

敗戦で日本はアメリカを中心とする連合軍から、陸海軍部隊の武装解除と組織の解体を強制された。
通史編5(近・現代2) (戦時中の弘高女)

敗戦も間近い昭和二十年四月から八月まで、授業日数はわずかに二〇日間であったという。
通史編1(自然・原始) (一 はじめに)

一 はじめに 日本古来の神話伝説を主体とする歴史観は、太平洋戦争の敗戦を契機に見直され、代わって実証的
通史編5(近・現代2) ((三)北の文学連峰の現在)

敗戦後の混乱から立ち直った中央文壇は文化国家にふさわしい活動を再開する。,そして、本県の文学活動もまた敗戦直後からその活動を開始した。
通史編1(古代・中世) (系譜認識の変化)

たとえば『秋田家系図』では、中央への反抗伝承を和らげ、また敗戦の歴史などは切り捨てて、相当美化されたものとなっているのは
通史編4(近・現代1) (民次郎を継ぐ心)

しかし、顕彰は敗戦後までできなかった。  
通史編5(近・現代2) (戦後の世相と観光政策)

敗戦後の打ちひしがれた国民に夢を与えたものは観光である。
通史編5(近・現代2) (終戦の詔勅降る)

おそらく敗戦のショックで校長以下教員すべてが虚脱状態で、仕事も手につかず、日誌を書く気力さえ失われたのではなかろうか
通史編5(近・現代2) (弘前大学の誕生と市民の熱意)

弘前大学の誕生と市民の熱意 敗戦により軍都としての機能を喪失した弘前市は、戦後弘前大学を誘致し学都としての
通史編3(近世2) (野辺地戦争の経過)

図65.野辺地戦争戦死者の墓  敗戦の原因は、弘前藩の統率性の欠如、認識の甘さに集約されるであろう
通史編3(近世2) (箱館戦争の開始)

二十三日には、大野村に陣を敷いた松前藩兵も敗戦し、七重村で防御を固めていた兵も大川までの撤退命令を受けた
通史編4(近・現代1) (御真影奉置所の設置)

179 石川小学校奉安殿落成式 (昭和4年5月)  なお、昭和二十一年(一九四六)一月、日本敗戦後
通史編1(古代・中世) (嫡流と庶流)

また助光の系統は一切の文書を今に伝えていないが、それは北条方についたため、その敗戦によって文書が失われたからだともいわれている
通史編5(近・現代2) (忠霊塔建設)

竣工式は二十年(一九四五)十一月五日に行われたが、参列した第八師団長は敗戦後のことなので武装解除され、
通史編5(近・現代2) (インフレとヤミ経済)

敗戦時のインフレが本県に及ぼした影響シンボルはりんごである。
通史編5(近・現代2) (戦争を挟んで)

昭和二十二年三月をもって国民学校は廃止、四月から小学校となり、中学校が三ヵ年の義務制となったが、敗戦の
通史編5(近・現代2) (空襲を受けなかった弘前市)

弘前市民にとっても、まさかの敗戦であった。,もし敗戦がもう少し遅れていたら、弘前市は空襲に遭っていたか、遭っていなくても市内中心部の建物の大半が取
通史編5(近・現代2) (外地引揚者への援護策)

敗戦後の混乱は一つの地域で解決する問題をはるかに越えていたのである。
通史編4(近・現代1) (まえがき)

また、従来は、新市域の記述が手薄であったので、そこに力を入れる方針を立てたが、旧村の資料が敗戦や町村合併
通史編5(近・現代2) (進駐軍将兵への対応策)

進駐軍将兵への対応策 敗戦後まもないとき、進駐軍兵士が婦女子を陵辱するとのデマが全国的に横溢した。
通史編5(近・現代2) (環境整備と衛生対策)

環境整備と衛生対策 敗戦後の混乱を収拾することが市当局の最大の任務だったことは論をまたない。
通史編5(近・現代2) (食糧対策)

食糧対策 敗戦後の日本国民が何よりも望んでいたものは食糧の確保だった。
通史編5(近・現代2) (創立記念)

頂点とし、急激に下降をたどった昭和初年の金融恐慌による不況時代であり、第二次世界大戦による経済統制と敗戦
通史編4(近・現代1) (軍都以前の弘前市)

だが北東北一帯を管轄する大師団の司令部が弘前市内に設置され、弘前市民は軍隊とともに敗戦まで生活し、軍隊
通史編5(近・現代2) (当局による移民の促進)

しかし敗戦間際のソ連侵攻時に、満州移民たちは関東軍に見捨てられ、悪夢ともいえる引揚げをしたのである。
通史編5(近・現代2) (野村三郎と五・一五事件)

敗戦後、夫人はNHKのロシア語放送をしたり、ロシア語教師をし、野村は貿易会社に勤務、平成六年七月二十三日死去
通史編3(近世2) (弘前藩の出兵)

敗戦の続いていた総督府からはすぐさま弘前藩兵に対し、塩越(しおこし)への出張が命じられ、同日夕刻には塩越
通史編5(近・現代2) (ソ連からの引揚げ督促)

大陸に渡った人々にとって終戦(敗戦)という現実は、国内に帰還できるか否かが決定的な意味をもっている。
通史編5(近・現代2) (直木賞を受賞す)

しかし、敗戦後、帰郷したとき悲しい報せが待っていた。限りなく愛していた母の死である。
通史編5(近・現代2) (誘致賛成論)

敗戦で軍隊は解体され、現在は学都ないし観光都市として命脈を保っているにすぎない。
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