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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(上方廻米)
上方廻米 上方廻米は、貞享四年(一六八七)にすべての上方廻米を大坂着とする政策が出される以前は、
敦賀
,なお、同年以後も
敦賀
・大津への廻米は断続的に実施され、大坂廻米の補足的な役割を果たしていたという(印牧信明,一方、「雇船(やといぶね)」はその多くが他国船であり、大きく
敦賀
・越前新保・加賀などの北国海運関係と、,さらにこれら「雇船」は、積み荷の販売権を持たず、廻漕のみをその業務としており、
敦賀
・大坂に滞在する同藩,しかしながら、
敦賀
を廻着地とする上方廻米においては、国元から
敦賀
までの廻漕、
敦賀
の蔵宿、大津の蔵元と、
通史編2(近世1)
(近世初期海運)
その観音堂に、寛永十年(一六三三)、越前
敦賀
の庄司(しょうじ)太郎左衛門が奉納した北国船(ほっこくぶね,」(同前No.四九三)によれば、太郎左衛門は茂右衛門とともに
敦賀
にある弘前藩の御蔵屋敷の留守居を勤めていた,加えて近世初期に、同藩が御蔵米(おくらまい)の払方(はらいかた)を、
敦賀
を経由して京都で行っていたことも,』史料編 第五巻 一九七九年
敦賀
市刊)。 ,庄司太郎左衛門・茂右衛門の二人は、おそらく
敦賀
の有力な廻船商人であったと思われる。
通史編2(近世1)
(豊臣政権の奉行衆)
なお、伏見作事板は、越前
敦賀
・三国(みくに)、若狭小浜(おばま)の豪商によって担われ、すべて
敦賀
湊に一旦陸揚,げされ琵琶湖を経て伏見へと廻漕されたが、木村重茲は若狭府中城主であり、杉板が集結する
敦賀
の城主は、後に,図32.越前国
敦賀
湊・若狭国小浜交通図 仙北の六郷氏・本堂氏・戸沢氏の太閤蔵入地は、「惣而川沿之地
通史編2(近世1)
(一 青森開港と初期海運)
との経済的関係は、寛文年間(一六六一~七三)、上方に至る西廻り航路が成立するまでは、主として北陸地方の
敦賀
,近世初期の段階では、
敦賀
の廻船商人で徳川家康との関係が深かった田中清六(せいろく)正長らが新たに日本海海運
通史編2(近世1)
(伏見作事板の運上と太閤蔵入地)
げ代、かすがい等の分として差し引かれ、残った四二二一石余から二三三三石八斗五升一合が秋田領より越前の
敦賀
湊,この秋田から
敦賀
までの廻漕は、表3のように秋田氏自身のほか、小野寺、戸沢、本堂、六郷、仁賀保、赤宇曽、,滝沢、内越、岩屋、そして津軽氏が担当しており、彼らは杉板を秋田山から山下げし、それを秋田領内の港から
敦賀
港,京に廻漕する旨の朱印状を発給され、実際、米代川中流域に当たる山中で伐採し、それを能代港まで川下げして
敦賀
,秋田山からの杉板の廻漕の担い手は、慶長二年を例にとれば、近江国では前川五右衛門・二郎右衛門、越前国
敦賀
通史編3(近世2)
(浄龍寺)
『新撰陸奥国誌』によると、善覚は越前国(現福井県)
敦賀
の出身で、正保元年にこの地に至り、慶安元年(一六四八
資料編2(近世編1)
(協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))
北海道函館市) 大東急記念文庫(東京都世田谷区) 高照神社(青森県岩木町) 長勝寺(青森県弘前市)
敦賀
市立図書館,(福井県
敦賀
市) 東京大学史料編纂所(東京都文京区) 東京都立中央図書館(東京都港区) 東北学院大学
通史編2(近世1)
(西廻海運と領内の整備)
津軽氏の上方廻米は、為信が京都・大坂・
敦賀
に屋敷を構えた文禄二年(一五九三)ころに開始されたと推測される,
敦賀
の蔵屋敷には御蔵が付設され、後の機能から考えて、主に国元からの廻漕物資、上方で購入した物資の国元への
資料編3(近世編2)
((二)江戸における屋敷)
その他にも大阪や京都、
敦賀
などにも屋敷があったのである。
通史編2(近世1)
(伏見築城と奥羽大名)
実季は、文禄三年に
敦賀
(つるが)城主大谷吉継(おおたによしつぐ)の家臣と考えられる高橋次郎兵衛に「橋板,また、翌文禄二年四月十日に秋田氏は、秀吉から下命された材木のほかに自分自身の材木の廻漕を
敦賀
の豪商道川,(どうのかわ)三郎右衛門に命じており、秋田氏は
敦賀
の道川氏と材木売却をめぐって関係を持っていた。
通史編2(近世1)
(中世の北国海運)
中世の北国海運 若狭・
敦賀
(つるが)を中点として、日本海沿岸地域と畿内とを結びつけた北国(ほっこく),文禄四年(一五九五)からの伏見作事板の運送に、北陸の運送業者が秋田実季(さねすえ)領から
敦賀
への杉板の,このうち、田名部湊は室町期に開かれたといわれるが、具体像が明らかになるのは近世初頭で、酒田・
敦賀
の廻船,、特に最上氏家臣などの蔵元的機能を持っており、上方商人に中継して蔵米の売却を行っていて、酒田と上方(
敦賀
,そして、鎌倉時代の末には、小浜や
敦賀
を拠点として、西は「筑紫船」、東は「津軽船」という航路ができていた
通史編2(近世1)
(西廻海運による大坂廻米)
国元と大坂間の蔵米の廻漕を蔵元が担うことにより、藩が主導していた
敦賀
廻着の段階と異なり、隔地間の価格差,さらに、このとき、蔵米販売は、米とその代銀の脇払いを禁止して行われており、
敦賀
廻着のときにみられた、藩
資料編2(近世編1)
(【解説】)
国立国文学研究資料館史料館所蔵の津軽家文書、京都府立丹後郷土資料館所蔵の丹後国元結屋三上家文書、福井県
敦賀
市立図書館所蔵,沢湊へ回漕する、いわゆる「十三小廻(とさこまわ)し」の態勢がとられ、同湊で西廻り海運へ接続して上方や
敦賀
通史編2(近世1)
(太閤蔵入地の設定)
三月、秀吉は仁賀保(にかほ)兵庫ら由利五人衆に、秋田実季より「伏見向嶋橋板」(伏見作事板)を受け取り、
敦賀
,は由利五人衆らとともに「隣郡之衆(りんぐんのしゅう)」として、伏見城築城のための秋田の杉材の運搬と、
敦賀
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
津軽領には太閤蔵入地が設定され、この太閤蔵入地からの年貢米を
敦賀
の豪商組屋(くみや)源四郎に命じて南部領,その際、北国海運の豪商を利用し、豪商の経済力によって領国支配を強化するとともに、京都への交通を握る
敦賀
通史編3(近世2)
((三)キリシタンの流罪とキリシタン改め)
京都から大津を経て、
敦賀
港から五月二十四日に乗船して、六月十七日に外浜に着いた。
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
為信は、文禄二年ころ、京都・駿府(すんぷ)・大坂・
敦賀
に屋敷を設け留守居(るすい)を置いたが、これは上方,の場合、分権派の前田利家を取次としていたため「隣郡之衆」に組み込まれることはなく、伏見作事板を個別に
敦賀
通史編1(古代・中世)
(阿倍比羅夫の登場)
一説に、比羅夫を越前国
敦賀
(つるが)郡引田(ひけた)郷出身とする地元越の大豪族とするものがあるが、比羅夫
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●文禄二年(一五九三)、この頃津軽氏、京都・大坂・
敦賀
・駿府に屋敷を構えるという。,文禄四年(一五九五)三月二十七日、豊臣秀吉、南部信直へ朱印状を下し、秋田・津軽・南部領内で材木を伐採し、
敦賀
,●慶長元年(一五九六)七月、この月、秋田実季、津軽為信へ伐採した伏見作事用杉板を渡し、為信受領して
敦賀
,●寛永七年(一六三〇)七月四日、
敦賀
の津軽家蔵屋敷の留守居に、庄司太郎左衛門と同茂右衛門を任命する。
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