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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (本村と新田)

、田舎郡一万一三七六石余・新田高一万八四〇一石余、鼻和郡一万四三五八石余・新田高七九七二石余、ほかに切添新田,この新田高のうち、弘前市域の分を抽出してまとめたものが表10である。,これらの村が新田として扱われた理由は不明である。,表10 初期の新田(弘前市域) 平賀郡新田村名 石   高 (石・斗・升) 鼻和郡新田村名 石   ,鼻和郡の新田にも成立が中世までさかのぼる村が含まれているのだが、それを新田として扱っている理由は不明である / 本村と新田
通史編2(近世1) (本村と新田)

本村と新田 現在の弘前市域における新田開発は、いつ行われたのか時期を特定できないが、他の地域の場合着手年月日等,それらについて考察し、弘前市域における新田開発の参考にしていくことにする。,現在のところ、新田開発の最も古いと思われる史料は、慶長十四年(一六〇九)六月五日に二代藩主信枚が白取世兵衛,ちなみに「津軽知行高之帳」では、柏木町村は平賀郡の新田として高四八九・二八石とある。  ,なお、津軽領の三大新田である木造新田(きづくりしんでん)・俵元(たわらもと)新田・金木(かなぎ)新田が / 本村と新田
資料編2(近世編1) (第三節 検地の実施と新田開発)

第三節 検地の実施と新田開発 一 越後検地 二 領内検地 三 新田開発の展開 / 第三節 検地の実施と新田開発
通史編2(近世1) (廃田復興・新田開発の進展)

廃田復興・新田開発の進展 文化~文政期は幸い気候も温暖で、再び凶作に見舞われることもなく復興も順調に,開発地はやはり現在の西北五地方などのいわゆる新田地方が多く、藩の穀倉である現在の南津軽地域は少ない傾向,廃田復興が一段落すれば、再び新田開発に関心が移ってくる。,開発面積は約二〇〇町歩、新田は短冊形の地割りがなされ、新田を見下ろす河岸段丘上に豊富村と名付けられた新田村,幕末期の本県では、盛岡藩の三本木新田に匹敵する開発である。 / 廃田復興・新田開発の進展
通史編2(近世1) (在宅制度廃止以前の廃田・新田開発)

在宅制度廃止以前の廃田・新田開発 天明の飢饉で荒廃した田畑の面積はどの程度だったのだろうか。,たとえば、寛政六年(一七九四)で開発が成就した田方はいわゆる新田地方(広須・木造新田・金木・金木新田・ / 在宅制度廃止以前の廃田・新田開発
通史編2(近世1) (在宅制度廃止後の廃田・新田開発)

在宅制度廃止後の廃田・新田開発 第三の復興の画期は享和年間(一八〇一~一八〇三)以後に求められる。,すなわち、『記類』下によると、前年の十月三日に九代藩主津軽寧親は家老喜多村監物らを伴って木造新田を巡見,まない現状を憂えて「荒蕪地が多いのは領主の恥」とし、さらに人力を尽くして荒田の復興を進めるべきことと、新田開発 / 在宅制度廃止後の廃田・新田開発
通史編2(近世1) (土着策廃止後の新田・廃田開発)

土着策廃止後の新田・廃田開発 享和元年(一八〇一)二月、以後の開発を基礎づける八ヵ条にわたる書き付けが,翌享和二年十月、藩主が新田地域を巡検後に自筆書付をもって訓諭(くんゆ)したなかで、新田村の開発に力を入,享和初年より文政年中」までに新開村が二八ヵ村(『記類』文政六年三月七日条)、「享和三年より文政年中」までの新田開発高 / 土着策廃止後の新田・廃田開発
通史編2(近世1) (農村の再開発)

荒廃田畑の再開発について、新田地方の事例から津軽藩の実態を検討してみることにしよう(『五所川原市史』通史編,寛永年間から開発された五所川原新田の一つで、この当時は広田組に属していた。,この申し立てを行った後も、藻川新田の開発は清兵衛によって進められている。,享保元年(一七一六)から、金木・広須・俵元三新田の新規開発・諸普請が停止された。,享保十年(一七二五)においても、金木・広須・俵元三新田は諸役御免の地であり、さらに金木・広須新田は石盛
通史編2(近世1) (元文検地の実施)

さらに、新たに開発された新田に村落が形成されたことを見計らい、検地を実施して、保有関係の確認、年貢収取地,俵元・広須・金木の三新田の検地は、享保二十年(一七三五)九月、実施が命じられた。,検地によって厳密に土地の丈量が計測され、それによって知行割が行われた結果、給人にとっては年貢率の低い新田,給人に対しては、元文二年(一七三七)二月に三新田に給地が入り組み年貢収量が不足した場合、蔵米をもって充足
通史編2(近世1) (開発の実行者たち)

「平沢三右衛門由緒書」(弘図八)によると、平沢家は新田地方に土着していた藩士で、俵子二〇俵二人扶持の下士,に過ぎないが、代々新田普請奉行や土淵堰(どえんぜき)奉行などを務めるなど、開発については専門職的立場にあった,五年にかけて二五七八人役を開墾、潰村二五ヵ村を復興したといい、天明飢饉後に豪農や一般農民層を使役して新田地方,)、幕末の津軽弘前藩の山田登(やまだのぼる)(豊富(とよとみ)新田)、盛岡藩の新渡戸伝(にとべつとう),(三本木新田)など、新田開発を担った者に共通にみられる発想である。  
通史編2(近世1) (災害の続発とその影響)

新田地帯を中心に農作物に大きな被害をもたらしたものの一つに「虫付(むしつき)」がある。,六月十二日の時点で、俵元新田の浅井村(あさいむら)(現五所川原市浅井)で虫害が発生した(同前史料編2上巻,特に外浜の浦町・横内・油川の三組と新田地帯の被害が大きかった。,日 風害 碇ヶ関,西海岸,青森 仮屋・並木松に被害,破船  3月18日 火災 木作村(木作新田,領内沿岸地域 家屋破損,難船多数 享保13(1728)  7月末 水害 弘前城下・南津軽・新田
通史編2(近世1) (農村部での騒動)

しかし、内陸の農村部では七月二十七日に木造新田など二八ヵ村の者が徒党を組み、貯米の返却と年貢強化策として,これも組織化されたもので、広須・木造新田へ結集を呼びかけ、不参加の村には「後日難儀」があるという回状が,図129.木造新田の者たちが町奉行と対峙した石渡川原  「貯米」は元来、飢饉対策として安永期から
通史編2(近世1) (宝暦の飢饉)

深沢・上磯(かみいそ)・下磯(しもいそ)および三新田では田畑がいっさい稔らず、十月に藩が幕府に届けた損毛高,は表高四万六〇〇〇石のうち三万四二八〇石、新田一九万六三五三石余のうち、一六万一一三〇石であった(同前
通史編2(近世1) ((四)改革の諸政策と藩士土着政策)

切米・金給への引き戻し、城下の屋敷割や町割などがその主なものであるが、これ以後の藩政の動向は積極的な新田開発,そこで、まず新田開発・廃田復興の面から土着策施行期とそれ以後の政策基調をみていくことにする。
資料編1(考古編) (12.大落前川層Ⅲ)(おおらくまえかわそう))

模式地及びその北東の山地、大鰐町三軒新田の西方に分布する。
資料編3(近世編2) (第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立)

)改革の諸政策  (三)藩士土着政策の実施   二 化政期藩政の動向と黒石藩  (一)廃田・新田開発
通史編2(近世1) (民兵の登場)

藩では海岸を持つ油川両組(油川・後潟組)・浦町両組(浦町・横内組)・金木両組(金木組・金木新田)・広須両組,(広須・木造新田)・赤石組の各代官、および九浦のうち碇ヶ関を除く八浦(野内・青森・蟹田・今別・十三・鰺,広須両組では二二二人が地域ごとに広須組の隊と木造新田組の隊に分けられていた。
通史編2(近世1) (下級藩士への開発奨励(I期))

また、藩士が開発に従事するという点については、弘前藩における新田開発の在り方にその底流があるということが,いわゆる藩政初期の新田開発の推進力となった「小知行派立(こちぎょうはだち)」と「御蔵派立(おくらはだち,開発を、その申し出によって、しかも禄高に応じて土地を割り付けたのは、まさに「小知行派立」によって藩の新田開発,にあったことから、上層農を機構的に組み込んだ廃田開発の中で天明四年令は出されたのであり、したがって、弘前藩新田開発
通史編2(近世1) (地方支配機構の確立)

また、主に知行地が新田開発地に与えられる新参家臣を中心に編成されていた。,したがって、彼らは、本来は前期一般にみられる小知行など、新田開発の中核となっている極めて在地性の強い階層,前期の新田開発では、小知行は三〇から一〇〇石以下の知行高であるにもかかわらず、普請にかかる労働力を自らの
通史編4(近・現代1) (二つの雪中行軍)

この事件は小説家の新田次郎が『八甲田山死の彷徨』を発表し、映画『八甲田山』でも上映されたことで有名である,新田の巧みな筆致や、優秀なスタッフのもとに大物俳優が多数出演して製作された映画によって、この悲劇的事件,当初は秘匿されていたことだったのだが、新田次郎が『八甲田山死の彷徨』で発表し、映画でも上映されたため、
通史編2(近世1) (民次郎一揆)

現弘前市・中津軽郡岩木町・西津軽郡鰺ヶ沢町)・広須組(ひろすぐみ)(現西津軽郡柏村・同郡木造町)・木造新田,藩の対応は素早く、武勇で知られる大組物頭山本三郎左衛門に防御を命じ、願書の取り次ぎは新田代官と工藤仁右衛門,このほか、高杉組立石村(たていしむら)(現西津軽郡鰺ヶ沢町)庄屋作太郎と木造新田山田村(やまだむら)(
通史編2(近世1) (町年寄の由緒)

最勝院無住時 衆徒支配) 寛文4年 寛永年中 為信代 寛文4年 信義代 寛永14年 寛永19年(新田仕立,) 信義代 (隣国見聞役) 慶安元年(新田仕立) 為信代~ 籠奉行  同 籠守 時の鐘撞き
通史編2(近世1) (飢饉に至るまでの経緯)

七月には青森や鰺ヶ沢で廻米の停止を求めて暴動が起こり、弘前郊外では木造新田(きづくりしんでん)の者が貯米,九月十六日の郡奉行の作柄の調査では飯詰・金木・俵元(たわらもと)新田・広須(ひろす)・木造新田・油川・,後潟(うしろがた)の各組、すなわちいわゆる新田地方と外浜(そとがはま)は皆無作(かいむさく)、ほかの組
資料編1(考古編) (48.虹貝凝灰岩Ⅷ)(にじかいぎょうかいがん))

模式地は、大鰐町虹貝字新田付近。碇ヶ関カルデラの地形的カルデラ縁及びその外縁に広く分布する。
通史編1(古代・中世) (北畠顕家の死)

明けて暦応元年(延元三年、一三三八)五月には、北畠顕家・南部師行が和泉国石津で、また閏七月には新田義貞
資料編2(近世編1) (【解説】)

第三節では、「検地の実施と新田開発」として、津軽領における検地と新田開発に関する史料を掲げた。,いずれにしろ、天和・貞享の検地は、藩初以来の新田開発の成果を掌握する目的で実施されたのであって、本節では,津軽領で行われためざましい新田開発の展開を記録する史料も掲げた。  
通史編2(近世1) (生産力の把握)

さらに、この時期は新田開発が集中し、生産量の増大が期待された。,しかし、その反面、このような自然条件の下での新田開発は、生産が不安定な耕地を広く展開させることになった
通史編2(近世1) (信義の襲封)

信義は元和五年(一六一九)元旦、上野(こうづけ)国勢多(せた)郡大舘(おおたち)(現群馬県新田(にった,信義の出生地上野国勢多郡大舘(正しくは上野国新田郡大舘)は、藩祖為信が関ヶ原の戦いでの戦功で加増された,その一方で、新田開発や治水事業に意を用い、領内開発に大いに力を注いでおり、その成果が現われていることも,新田開発に関するものとしては、寛永十六年(一六三九)に飯詰高野(いいづめこうや)村(現五所川原市高野)
通史編2(近世1) (宝暦改革の課題)

宝暦改革の課題 十七世紀の前半から後半にかけて、新田高は飛躍的に増大するが、十七世紀の末にはほぼ限界,各期の郷帳によって新田高の合計の推移をみてみると、貞享元年(一六八四)の朱印改め時が一九万七三〇七石余
資料編1(古代・中世編) ((1)立地と遺構の現状)

(1)立地と遺構の現状 坂本館跡は、弘前市館後字新田、館後集落の東方二〇〇メートルに位置し、割山南西山麓
通史編2(近世1) (殖産政策の前提)

従来、藩がとった領内の新田開発や検地などによって年貢を増徴しようとする策は、開発すべき土地に限りがあったり
通史編2(近世1) (寛延の飢饉)

七、八月には米価も高騰して乞食が出て空き屋敷が目立つようになり、特に青森や海辺・下在新田通(現五所川原市
通史編2(近世1) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

東京国立博物館 東京大学史料編纂所 東京都板橋区立公文書館 東北大学附属図書館 東楊寺(群馬県新田郡尾島町
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

同じ日に、盛岡藩主南部利剛(としひさ)の名代盛岡新田藩主南部信誉(のぶのり)にも津軽家と同内容の達しがあり,会津の各藩は、これまで仙台・秋田両藩が警衛を担当してきた「奥地」を分割して「不毛之地」であるその地域の新田開発,幕府は、仙台・秋田・庄内・会津の各藩に与える地域を「奥地」の「不毛之地」と認識していて、その地域の「新田開発
通史編1(古代・中世) (鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏)

元弘三年(一三三三)閏二月の後醍醐天皇の隠岐脱出に始まり、同年五月の足利尊氏による六波羅陥落と、新田義貞
通史編2(近世1) (農政の転換)

元禄五年(一六九二)の場合、岩木川中流域の新田地帯は籾、外浜(そとがはま)は米、弘前周辺の古村地域は銭,新田地帯や外浜は、生産が不安定であり、なかでも、外浜は不作の原因となるヤマセの影響を受けやすいことから,つまり、新田開発の成果の一部を放棄して、新たな年貢収取の途を選択したことであり、「高無」の「成立」という
通史編2(近世1) (津軽領の知行制)

(一七六〇)の段階では知行地は実に九七ヵ村にわたり、津軽領の穀倉地帯である現在の南津軽郡域をはじめ、新田地方
通史編4(近・現代1) (民次郎百年忌)

仝組立石村庄屋   鞭刑 参拾鞭永牢      作太郎(大赦により十二月廿九日十里四方追放)    木造新田山田村,       彦四郎    仝 上貝沢村五人組   仝 戸〆十五日       専右衛門    木造新田山田村庄屋
通史編3(近世2) (半紙の増産事業)

喜兵衛の親が紙漉をしていた時に、楮を仕立てさせた楮新田として次の地名を挙げているが、近年は入手できる楮
通史編3(近世2) (新楮町の取り立て)

享保四年(一七一九)七月、熊谷喜兵衛は屋敷・畑を持たない弟子一五人のために、富田村の大野の畑六町を見立て楮新田町
通史編2(近世1) (乏しい国産品)

津軽弘前藩の場合、盛岡藩・八戸藩など太平洋岸の諸藩と違い、寒冷地とはいいながら米の生産に適する領地を持ち、新田開発
通史編3(近世2) ((三)キリシタンの流罪とキリシタン改め)

寛永年間(一六二四~四三)の記録(同前No.六六一)によれば、「青森新田」「津軽かねほり」と記し、一〇,流人は青森の新田開発や、津軽の鉱山で働いていたとみられる。
通史編2(近世1) (天保四年における藩の対応)

五所川原市の藤田家文書(『五所川原市史』史料編2下巻)によれば、飯詰組・俵元新田組計一八ヵ村から藩に御用金,「年中日記」(豊島勝蔵編『津軽新田記録』三 私家版 一九八七年)にも同様に、弘前で秋田領出身の袖乞(そでごい
通史編1(古代・中世) (南北朝の動乱と曽我氏)

直後、長征によって北畠顕家(写真154)が京都を奪回し、また摂津国では楠木正成(くすのきまさしげ)・新田義貞
通史編2(近世1) (新施策の実施と知行制度の転換)

家中の知行割についての原則を示しており、それによると、三〇〇石以上の者に対しては、知行高の三分の一を新田地帯
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

藩内においては新田開発が推進され、岩木川の治水、屏風山植林、山林制度の整備、鉱山の開発、養蚕・織物の振興,信政も含めて、こういった人々に共通する点は、藩政機構の整備・確立、新田開発などによる農業生産の伸張、大名課役
通史編2(近世1) (土着対象地と在宅分布)

   22   ㉓ 油 川 8   5   26   ㉔ 後 潟 4   4   40   ㉕ 木作新田,11   9   79   ㉖ 俵元新田 2   2   8   ㉗ 計 796人  257ヵ村
通史編3(近世2) (帰田法の発令)

きづくり)村・羽野木沢(はのきざわ)村・金木(かなぎ)村・十三(じゅうさん)村など、現北・西津軽郡の新田地域
通史編2(近世1) (林政の展開と漆木の栽培)

つまり、藩主や領民の家計用材を得るため、また新田開発政策の一環として天和二年(一六八二)から植林が開始,はんの種は広須新田に植林。,これを各組ごとにみると、横内組・大鰐組・駒越組など、比較的面積が広い山間部に多く、広田・広須・柏木・金木新田,・俵元新田・和徳・大光寺・猿賀組など岩木川・平川流域の水田地帯には栽培が少ない(前掲『津軽の伝統工芸 
通史編2(近世1) (騒動のその後)

青森・弘前はそれでも藩からの多少の払米はあったが、在方はなきに等しく、木造新田の農民たちは、今度は飢民
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