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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (本村と新田)

津軽知行高之帳」(資料近世1No.一一六〇)によれば、津軽郡は三郡からなり、平賀郡一万九二六五石余・新田高一万五六三三石余,、田舎郡一万一三七六石余・新田高一万八四〇一石余、鼻和郡一万四三五八石余・新田高七九七二石余、ほかに切添新田,本高四万五〇〇〇石、村数一三四、新田高五万七四六八石余、村数二〇二で、合計一〇万石を越える石高であった,本高四万五〇〇〇石は豊臣政権による検地の高で、新田高五万七四六八石余はその後の開発による高である。,この新田高のうち、弘前市域の分を抽出してまとめたものが表10である。
通史編2(近世1) (宝暦改革の課題)

宝暦改革の課題 十七世紀の前半から後半にかけて、新田高は飛躍的に増大するが、十七世紀の末にはほぼ限界,各期の郷帳によって新田高の合計の推移をみてみると、貞享元年(一六八四)の朱印改め時が一九万七三〇七石余
通史編2(近世1) (飢饉のその後)

他の諸藩も八戸藩が表高二万石のうち一万九二二三石の損毛、盛岡藩が表高新田高合わせて二四万八〇〇〇石のうち
資料編2(近世編1) (【解説】)

さて、第二章第三節でみてきたように、十七世紀の前半から後半にかけて、新田高は飛躍的に増大するが、十七世紀
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