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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (新聞の発行)

新聞の発行 明治七年、「新聞縦覧所」というものが弘前に開かれたが、これは新聞とはいっても、実際は多く,』を初めとし、次に十二年の『青森新聞』、十五年の『陸奥新聞』があり、雑誌としては弘前の『開文雑誌』が古,)が創設され、五月十九日に『弘前新聞』創刊第一号が出された。,写真127 明治後期の新聞  当時の新聞の編集ぶりはどうだったか。,なお、市内発行の新聞には前記の『弘前新聞』『北辰日報』のほか、『弘前日日新聞』(三十二年創刊『弘前商報 / 新聞の発行
通史編5(近・現代2) (新聞「日本」を発行)

新聞「日本」を発行 陸羯南は明治二十二年(一八八九)二月二十一日、大日本帝国憲法発布のその日に、新聞,羯南の舌鋒がいかに鋭く時の歴代藩閥政府を撃ったかは、新聞の発行停止日数の驚くべき数値がその証左となろう / 新聞「日本」を発行
通史編4(近・現代1) (『弘前新聞』の論評)

『弘前新聞』の論評 事実、大正三年一月十三日の『弘前新聞』は「菊池代議士の責任」と題し、菊池武徳代議士,『弘前新聞』は、さらに、菊池代議士を次のように評している。「我が代議士菊池氏、無論品性の人ではない。,工藤十三雄は以後地元新聞社を経営して地盤をつくり、大正十三年政友本党から弘前で出馬、初当選、以後六回、 / 『弘前新聞』の論評
通史編5(近・現代2) (「日本一の不潔な町」(新聞の投書から))

「日本一の不潔な町」(新聞の投書から) 昭和二十九年(一九五四)六月七日付の『陸奥新報』に、小さな投書,しかし市内、とくに中心部の非衛生状態に対する苦情が多く寄せられ、新聞にも多数投書がもたらされるほど、弘前市中心部 / 「日本一の不潔な町」(新聞の投書から)
通史編4(近・現代1) (竹内兼七について)

話は、やがて幸徳秋水や堺枯川らとともに、世界中どこもできなかった日刊の社会主義新聞『平民新聞』発行へ進,発行部数一万三〇〇〇部、一部一銭、大新聞社並みだった。,幸徳、堺ら二一人の同志は平民新聞社の有給社員になった。,以前の第一次『平民新聞』のときは全員無給であった。,写真149 日刊『平民新聞』発刊記念撮影
通史編5(近・現代2) (少年小説の金字塔)

少年小説の金字塔 紅緑がすでに新聞小説家として流行作家であったことは、すでに述べた。,大正に入ってからも各種新聞に小説を次々と発表し、多くの読者を魅了していた。,特に、大正十年(一九二一)に「東京毎夕新聞」に連載した「大盗伝」は大好評を博し、発行部数一六万部を倍増
通史編4(近・現代1) (青森県の社会運動の始まり)

そして明治三十年代に入り、中央にようやく社会主義思想が研究され、雑誌新聞等により本県にも多少の影響を与,黒石には社会主義協会の支部があり、同町の実業新聞社が応援をし、参会者百余人だった。,万朝報』が日露開戦に対して主戦論をとったために退社した幸徳秋水、堺利彦らの社会主義者たちは週刊『平民新聞,『平民新聞』は三十八年一月に廃刊した。 写真147 週刊『平民新聞』創刊号
通史編5(近・現代2) (郷土部隊の出征)

写真14 柳条湖事件勃発時の『弘前新聞』  出征部隊を歓送した市民は、他の地域と同様に慰問品を募集,出征家族を慰問する活動が盛んに行われ、『東奥日報』や『弘前新聞』は郷土部隊の活躍を逐一報じた。,当時最大のメディアであった新聞は、満州事変勃発以後、さまざまなイベントを講じて人々の戦争熱を煽った。,『朝日新聞』『毎日新聞』などの中央紙は航空機を活用して大画報満載の号外記事を連載した。,『東奥日報』や『弘前新聞』は中央紙ほどの活動こそできなかったが、青森県ないし弘前市の郷土部隊の活躍に関
通史編5(近・現代2) (独立不羈の陸羯南)

新聞記者を「天職」と信じていたからである。鎌田はそこに羯南の心意気をみた。,それによって、社会を改良しよう、というのが、新聞の職分である。それが羯南の心意気だった。,それとおなじように新聞記者もまたひとつの「天職」である。,みずから選んでこの天職に就いているのではないか、というのが、羯南の「新聞記者論」のエッセンスである。
通史編5(近・現代2) (空前のベストセラー)

昭和二十二年(一九四七)六月八日に「朝日新聞」に連載を開始した「青い山脈」が大ヒットし、記録的なベストセラー,以後も新聞や雑誌に、いわゆる〈青春物〉を次々発表し、流行作家として世に迎えられ、〈青春物作家〉とも〈百万人
通史編5(近・現代2) (虚弱な少年時代)

初めての新聞小説「青い山脈」の成功に自信を得た洋次郎は、二十四年、「山のかなたに」を「讀賣新聞」に発表,民主主義とは、青春とは、恋愛とは何かを問う一連の作品で、青春物作家、新聞小説家としての地位を不動のものとし,五十一年、「朝日新聞」に「老いらくの記」を連載。六十一年(一九八六)、老衰のため死去。
通史編4(近・現代1) (陸奥立憲帝政党の結成)

陸奥立憲帝政党の結成 明治十六年(一八八三)一月の『東京日日新聞』は弘前の反自由民権グループの動きと,制ヲ遵法スベキ事  一、理財ハ交換紙幣ノ主義ヲ持スル事  この弘前の陸奥立憲帝政党について、御用新聞,と言われる『東京日日新聞』は、たちどころに同志が雲集しているように報じたが、実態は違っている。
通史編5(近・現代2) (官立弘前高等学校赤化事件)

昭和三年の三・一五共産党事件後、解散を命ぜられて非合法化されたが、旧社研メンバーは新聞雑誌部をつくり、,「弘前高等学校盟休生一同の声明書」が出され、この活動の中心的役割をなしたのが新聞雑誌部員であり、実質的,しかし、このストライキを契機として、学内における思想・言論・表現の自由はしだいに圧迫され、新聞雑誌部は,を持ちより、上質の真っしろい西洋紙タブロイド版の両面を使用して、ガリ版刷で『赤い太鼓』と名づけた学内新聞
通史編4(近・現代1) (呑気(のんき)倶楽部)

封建的なものに対する反逆児的な団体であったが、中心的な人物は、その後、花柳界の御用新聞ともいえる『茶太楼新聞,大正五年の『弘前新聞』は、「わが弘前市は花に乏しからず、殊に鷹揚園に至りては実に天下の誇りと云うも憚らず
通史編4(近・現代1) (動く写真)

この第一日目の入場者は約九〇〇人という盛況であったが、新聞の評によれば、「写真はあまり結構なものではなく,記者は目が変になり、九時過ぎに逃げ出したから余り詳しく分らない」(『弘前新聞』明治三十九年十月十二日付
通史編4(近・現代1) (陸軍特別大演習の準備と開催)

そのため今回の演習で、新しい軍事技術を導入し、実践的に活用しなければならないとの指摘が新聞各紙にも掲載,新聞各紙が指摘したように、この大演習では飛行機はもちろん、偵察用の飛行船が活用されたり、通信設備の向上
通史編5(近・現代2) (俳句会のリーダー木村横斜)

二十九年、東奥義塾を経て、早稲田専門学校卒業後、東京毎日新聞社、世界日本社へ入社するが、まもなく帰郷する,したがって、本県の俳壇は新聞「日本」に拠(よ)って日本派俳句を唱導した佐藤紅緑と木村横斜が先駆者であったといえる
通史編4(近・現代1) (護憲を巡る動き)

大正二年、第一次護憲運動をめぐる第三次桂内閣の倒壊)を伴った憲政擁護運動は、三田系の政治家・実業家・新聞記者,政友会からは尾崎行雄・岡崎邦輔など三〇人、国民党からは犬養毅ほか数人、そのほか無所属議員や新聞記者を合,来会する者、板垣退助・尾崎行雄・岡崎邦輔・犬養毅をはじめ貴衆両院議員・新聞記者・実業家など三千余人、座長杉田定一
通史編5(近・現代2) (紆余曲折の合併交渉)

新聞社説は、合併の効果を認めながらも感情的な反対論が根強くあり、弘前市の内部でさえ議会内に、大選挙区の,九月十二日付『讀賣新聞』は、合併が遅々として進まない理由を、合併各村の指導層が最大の関心事としている合併後,いずれにせよ新聞は合併交渉の混乱要因に、住民の意向が反映されていないものがあることを鋭く批判していたのである
通史編5(近・現代2) (発禁となった「渋茶」夏の号)

発禁となった「渋茶」夏の号 明治三十九年から四十年の「弘前新聞」に弘前渋茶会の句会(同前No.七三四
通史編4(近・現代1) (遊郭の移転)

県内では各新聞が筆をそろえてこの趣旨を書き立てたので、青森、弘前の楼主たちは、新聞社の買収や暴力団による
通史編5(近・現代2) (桜庭芳露の活躍)

東京日々新聞社の校閲部員となる。
通史編5(近・現代2) (在府町に生まれる)

十二年、青森新聞社へ入社。本姓中田を陸に改姓するのもこの年であった。,そして、二十二年、新聞「日本」を創刊し、当代の言論界のリーダーとして社会に警鐘を鳴らしていくことになる,写真243 新聞「日本」  羯南の功績は、名論の誉れの高い「近時政論考」「国際論」をはじめ、多くの
通史編5(近・現代2) (酒造業)

第十六回全国清酒品評会では、津軽酒八点が優等賞を獲得し、特に「一洋」は酒界の王者と称されるようになった(『弘前新聞,写真34 優良八点の銘酒(『弘前新聞』昭和13年11月18日付)
通史編4(近・現代1) (『東奥日報』従軍記者の書いた雪中行軍記)

行軍  発掘された資料は、軍当局による検閲で幻となっていた『東奥日報』明治三十五年二月四日付の新聞,東海記者が連載していたであろう新聞が、前後一〇日間分欠損しており、東奥日報社の保存紙にも見当たらないからである,それが二月四日付の新聞から、行軍二日目の一月二十一日の様子を記した記事が発見されたのである。,さらにこの新聞記事内容から、行軍三日目の一月二十二日の記事が、欠号となっていた一月二十八日付の第三七三五号,この記載により一月二十一日の行軍記録は、『東奥日報』一月二十八日付の新聞に記載されていたことがわかる。
通史編5(近・現代2) (ベビー・ブームと幼稚園不足)

幼児の増加に比して幼稚園が不足で、新聞は「幼稚園浪人」や「狭き門」などと書き立てて幼稚園の増設を訴えた
通史編5(近・現代2) (傷痍軍人の保護)

これには地元の銃後奉公会や地方事務所だけでなく、社団法人映画配給社と毎日新聞社が主催し軍事保護院が後援,毎日新聞社のイベントでもあったのだが、県当局は軍人援護政策として活用した。
通史編5(近・現代2) (進駐軍将兵への対応策)

政府は新聞紙上や回覧板などを活用して通牒を発し民心の安定に努めた。,内務省では各庁府県宛に、進駐軍の不法行為を未然に防ぐよう、新聞などを駆使して呼びかけた。
通史編4(近・現代1) (笹森修一、修二兄弟と社会主義研究団体)

そして社会主義新聞『光』のレポーターだった。   ,事件の発生で、東長町の家は徹底した家宅捜索を受け、手紙・新聞・雑誌など一切が押収された。,しかし、どこに隠されていたのか、『平民新聞』が創刊号から終刊号まで後日発見された。
通史編5(近・現代2) (県債五〇〇万円の成立)

表10 金融機関救済のための県債500万円記載に関する新聞記事見出し 年月日付   見 出 し 新聞,第五回貸付委員会で最後の貸付決定 〃 前掲「昭和初期の青森県における金融機関の動向について」 注) 新聞,の「東奥」は『東奥日報』、「弘前」は『弘前新聞』を指す。  
通史編4(近・現代1) (普選運動の胎動)

期成同盟会には、自由民権派の政客や弁護士、新聞記者がいたが、のちに社会主義研究会、労働組合の主要メンバー,戦時下、『平民新聞』は男女平等普選を主張した。
通史編5(近・現代2) (「草を刈る娘」について)

うっとうしいような気持を抱いているのはどういう理由なのであろう」(『老いらくの記』昭和五十二年 朝日新聞社刊,例えば、長部日出雄は「戦後まもなく朝日新聞に連載された『青い山脈』や、小説新潮に連載された『石中先生行状記,いうまでもない、「青い山脈」の「朝日新聞」への連載である。連載の最終回は十月四日。,さきに、この作品の執筆時期を九月以降と推定したのは、小山内時雄の教示を受け当時の地元の新聞を調査した結果,現場状況などはほぼ新聞報道に近い。
通史編1(自然・原始) (三 津軽地方災害年表凡例)

記事は、第一部では古書・旧記類などが収録されている別掲文献から、第二部では、東奥日報新聞記事を基にまとめてある
通史編5(近・現代2) (弘前銀行の解散)

になると大蔵省の斡旋を受け入れ、経営陣の刷新を図るが、昭和八年に元重役による背任横領疑惑が出てくると、新聞
通史編5(近・現代2) (ボクシング部の全国制覇)

写真199 弘前電波高校東北高校ボクシング選手権大会優勝の新聞記事(昭和48年7月2日)  部活動
通史編5(近・現代2) (女性校長第一号)

佐藤校長の出現は、戦後の民主教育と、男女同権を具現したものとして歓迎され、新聞もまた好意をもってこれを
通史編5(近・現代2) (東北振興)

東北振興会は八年十一月に活動の一環として、東北各県および中央の有志者、新聞関係者を招致して実行座談会を,そこで新聞社が、凶作問題に対する義捐金の募集や東北救済の特集記事、政財界人の東北振興論を特集すると、東北
通史編4(近・現代1) (事件の波紋)

事件は東京の諸新聞でも大々的に報じられた。,故郷のこの事件の行く末を案じていたのは、事件発生四ヵ月前の三月十六日内閣官報局編輯課長を退職し、四月に新聞
通史編5(近・現代2) (昭和弘前市民の一側面)

昭和三年(一九二八)の夏から秋にかけて、『弘前新聞』は一万号記念事業として津軽十景の選出を行った。,それにちなむ形で市と弘前新聞社が主催し、弘前市歌を募集している。,『弘前新聞』は昭和九年の夏以降、「県下スポーツの華」として岩木登山競争を開催した。,一番町にあった弘前新聞社前から岩木山神社を経由し、頂上まで往復三〇キロ弱を踏破するものである。
通史編4(近・現代1) (在府町の偉人たち)

木村静幽、養蚕指導の山野茂樹、津軽塗復興の山田浩蔵、息子で中国革命に殉じた良政、筋向かいの中田家から新聞
通史編4(近・現代1) (市立図書館の設置)

一階は真中に事務室(兼図書貸借場)を挟んで左右に新聞閲覧室と婦人閲覧室があり、二階と三階に上がる階段は
通史編4(近・現代1) (菊池武徳と中央政治)

東奥義塾から東京専門学校、慶応義塾に学び、時事新報記者として活躍し、朝野新聞の経営や九州鉄道などにも関係,が、縁もゆかりもない青森市からの立候補で憲政本党の元代議士徳差(とくさし)藤兵衛に勝ったのは、中央で新聞記者
通史編5(近・現代2) ((三)北の文学連峰の現在)

過剰兵」(資料近・現代2No.六六四)を「サンデー毎日」に、翌年「農婦」(同前No.六五二)を「讀賣新聞,旧浪岡町出身の作家の平井信作(ひらいしんさく)(大正二-平成元 一九一三-一九八九)もまた地元の同人誌、新聞紙上
通史編5(近・現代2) (弘前高校の生徒自治会)

このころに、自治会役員でもあり、新聞編集局員でもあった長部日出雄は、その辺の消息について、「生徒大会」,という一文を『弘高新聞』一四一号(昭和四十八年七月)に寄せている。
通史編4(近・現代1) (普選運動の激化)

主要全国紙九新聞社も普選要求共同宣言を発した。運動は農村にも広がった。政友会は依然普選に反対した。
通史編5(近・現代2) (飛躍の年を迎える)

四十三年に「東京毎日新聞」に連載した「地上」あたりから大衆小説に転じた紅緑は量産態勢に入る。
通史編5(近・現代2) (市役所のケチケチ運動)

各課に古新聞、印刷物などを集める回収箱を置き、再生できるものは細かく利用するよう心がける。
通史編5(近・現代2) (大火の遺産と廃娼運動)

松森町一帯には小料理屋が集中しており、『弘前新聞』も「附近一帯の善良なる風俗が脅され町内に(ママ)勿論市全体,当時『弘前新聞』が「東北一安く遊べる弘前の花柳界」と報じたように、弘前市の花柳界は軍隊御用達のような印象
通史編4(近・現代1) ([付図])

藤田葡萄園」開設〈明治16年〉 10 無神経事件〈官報〉〈明治21年〉 11 陸羯南 新聞,弘前図書館〈明治39年〉 30 角み呉服店呉服陳列所設置〈明治39年〉 31 日刊『平民新聞
通史編5(近・現代2) (桜田市政と合併対策)

県は啓発宣伝用としてメディアを重視し、『町村合併ニュース』というタブロイド版の新聞を発行した。,『町村合併ニュース』は昭和二十九年四月一日を創刊号に、毎月一日に刊行される月刊新聞の体裁をとっている。
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