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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (日本人の起源)

日本人の起源 しかしながら、アイヌの特徴として喧伝された、鬚や体毛が濃いとか、あるいは二重瞼の人が多,、寒冷地対応の一種である)、そうした特徴が現代和人に見られるということは、ある時点での大量の北方人の日本,モンゴロイド(蒙古系)のうち、東シナ海の大陸沿いに北上したり、あるいは中国大陸を経てそこから東進して日本列島,写真16 縄文美人  縄文時代に先行する旧石器時代については、日本で発見されたこの時代の人骨はそれほど,縄文時代には、温暖化による海水面の上昇により(そのレベルについては地域差がかなりあったらしいが)日本列島 / 日本人の起源
通史編1(古代・中世) (北日本の地域差)

北日本の地域差 ただ同じ北日本であっても勝山館と浪岡城を比較した場合、陶磁器などの共通性とともに一次生産用具,このように混沌とした集団性や精神性は、実は北日本という地域だけが有している特性ではなく、日本列島上の「,中世社会」が前代以来内在している構造であり、たまたま北日本地域が鮮明にみえているにすぎない。,北日本に搬入された陶磁器をはじめとした考古遺物が、遺跡それぞれの顔を示しながら良好な状態で出土するようになると / 北日本の地域差
通史編5(近・現代2) (漆工芸と日本画)

漆工芸と日本画 このように明治期の本県の美術工芸の分野において最も活発な活動を示したのが、漆工芸と日本画,であり、その活動の中心となる工芸家・日本画家が弘前に集中しているのは、弘前藩の体制の下で、中央に通じる,万国博覧会、勧業博覧会、日本青年絵画協会等の明治期の主要な博覧会・展覧会の中で、本県出身者で最も活躍したのが,高橋竹年は日本画家でもあった父・米舟(べいしゅう)(安政三-昭和九 一八五六-一九三四)から絵の手ほどきを,写真268 高橋竹年『群猿』  このように本県の明治期の美術の活動は、幕末から継承した漆工芸や日本画 / 漆工芸と日本画
通史編5(近・現代2) (新聞「日本」を発行)

新聞「日本」を発行 陸羯南は明治二十二年(一八八九)二月二十一日、大日本帝国憲法発布のその日に、新聞,「日本」(同前No.七一八)を創刊し、その主筆兼社主となった。 / 新聞「日本」を発行
資料編1(考古編) (第3節 東北日本弧の古地理)

第3節 東北日本弧の古地理 1970年代以降、島弧としての日本をプレートテクトニクスの立場から解釈する,ここでは、新第三紀中新世以降の古地理図を、「日本の新生界層序と地史」(鹿野ほか編,1991)から転載し / 第3節 東北日本弧の古地理
通史編5(近・現代2) (日本再軍備と自衛隊の誘致)

日本再軍備と自衛隊の誘致 合併後の弘前市政を物語る場合、自衛隊の誘致をめぐる紛糾と争いは避けて通れない,敗戦で日本はアメリカを中心とする連合軍から、陸海軍部隊の武装解除と組織の解体を強制された。,世界で初めて戦争放棄を盛り込んだ日本国憲法をもつことにもなった。,極東政策が逆コースを辿ったことや、進駐軍の撤退に伴う自国の防衛措置が必要だと痛感する政府の動きもあり、日本 / 日本再軍備と自衛隊の誘致
通史編1(古代・中世) (津軽、「日本史」の舞台へ)

津軽、「日本史」の舞台へ 七世紀になると、中央政府によって編まれた正史である『日本書紀』に、現在の津軽地方,つまり中央の人々にも、それまでまったく未知の世界であった日本北方地域のことが、徐々に知られるようになっていったというわけである,それはひとえに、著名な阿倍比羅夫の「北征」と呼ばれる一大事業の経過とその関連史料が、『日本書紀』に記載,津軽が史上初めて『日本書紀』に登場するのは、斉明天皇元年(六五五)七月己卯条で、そこには、大化改新によって,写真22『日本書紀』巻之十二 斉明天皇元年七月条にみえる津軽の初見記事。 / 津軽、「日本史」の舞台へ
通史編1(自然・原始) (日本海沿岸海域に震源のある地震)

日本海沿岸海域に震源のある地震 巨大地震は、太平洋側の北海道から四国沖にかけて圧倒的に多く発生している,これに対し、内陸および日本海沿岸の地震は内陸型と呼ばれ、最大規模でもマグニチュード(記号M、地震の大きさを,ところが、昭和五十八年(一九八三)五月二十六日の日本海中部地震は、「M七・七」の大地震で、このため秋田,・青森の日本海西海岸に大津波が来襲し、百余人(青森県一七人)もの人命が失われた。,現地調査では「日本海側には津波がないと思った」という証言が少なくなかった。 / 日本海沿岸海域に震源のある地震
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

名護屋における「日本之つき合」 文禄元年四月ころに名護屋参陣を果たし、それから約一ヵ月過ぎた五月二十五日,がいかに全国の大名らを完全に圧倒した天下人(てんかびと)であるかをまざまざとみせつけられたのであり、「日本,信直は、大名との関係である「日本之つき合」に恥をかけば、「家之ふそく」(御家存続の危機)であると表現し,、そのつきあいに「きつかい(気遣)」ばかりであると述べているが、信直はその「日本之つき合」を前田利家との,図18.南部信直書状にみえる「日本之つき合」  名護屋城周辺の大名の陣屋配置を示したのが、図19 / 名護屋における「日本之つき合」
通史編2(近世1) (二 肥前名護屋での「日本之つき合」)

二 肥前名護屋での「日本之つき合」 北奥の糠部郡において九戸一揆が鎮圧された直後の天正十九年(一五九一 / 二 肥前名護屋での「日本之つき合」
通史編4(近・現代1) (日本聖公会弘前昇天教会(山道町))

日本聖公会弘前昇天教会(山道町) 明治二十九年、米国宣教師メードレー師によって伝道を開始された。 / 日本聖公会弘前昇天教会(山道町)
通史編5(近・現代2) (「日本一の不潔な町」(新聞の投書から))

「日本一の不潔な町」(新聞の投書から) 昭和二十九年(一九五四)六月七日付の『陸奥新報』に、小さな投書,そこには「市中を流れる河川の塵芥、汚物にはこれまた日本一の不潔な町としての資質十分であると感じた、水面附近 / 「日本一の不潔な町」(新聞の投書から)
資料編1(考古編) (1.N1(前期中新世中期-中期中新世前期、22~15Ma*5))

前半のN1a(22~18Ma)のころ、日本海側の火成活動の拡大とほぼ同時期に太平洋側では海退*7が起こる,この時期の水平圧縮応力場は島弧に平行していて、日本海側には島弧に平行する湖盆*8や堆積盆*9が形成され,後半のN1b(18~15Ma)には日本海側の海域が拡大し、各地で火山性湖盆や基盤にオーバーラップ*10,依然として、日本海側の火成活動が活発で、流紋岩やソレアイト*11が大量に噴出している。,この時期の圧縮応力場は、西南日本では島弧*13に平行し、フォッサマグナを境として東北日本では斜交している
資料編1(考古編) (〈参考文献〉)

〈参考文献〉 今井功(1966)…黎明期の日本地質学.ラテイス 193p.,日本地質学会編(1993)…日本の地質学100年.日本地質学会 706p.
通史編4(近・現代1) (シベリア出兵と「尼港事件」)

ウラジオストクをはじめ、ロシア極東方面には多数の日本人居留民が活動しており、日本にとって利害関係が大きく,それとともに日本政府は連合国と共同出兵をはかった。,日本は出兵に当たり、七万人に及ぶ破格の人員を動員した。,それにもかかわらず日本軍だけは駐留を続けた。日本の不審な動向は各国から非難を浴びた。,尼港事件に対し日本国内では、反革命、反ソ感情を煽(あお)る宣伝も実施されたが、日本の大陸に対する野心がもたらした
資料編1(考古編) (2.N2(中期中新世中期-後期中新世前期、15~7Ma))

2.N2(中期中新世中期-後期中新世前期、15~7Ma) N1の上限から後期中新世にかけて、日本全域,前半のN1a(15~12Ma)には西南日本は陸化し、太平洋岸で酸性岩の貫入と噴出があり、日本海側で宍道褶曲帯,また、これに呼応して日本海側の堆積盆が沖合いへと移動する。,これは、西南日本が島弧に直交する圧縮応力場であったことを示す。,一方、東北日本や北海道東部では、N1bに引き続き火成活動が活発で、その活動域が太平洋側へと拡大する。
通史編5(近・現代2) (進駐軍の衛生対策)

身近な例を考えれば、石油のない日本には石けんが不足していた。,敗戦後、連合国は日本を占領するに際し、各地に軍隊を進駐させた。,進駐軍では日本占領に当たり、幕僚部の各部局がさまざまな分野を丹念に調べ上げていた。,そのなかでPHWと呼ばれた公衆衛生福祉局が、日本各地の衛生政策を担当していた。,予防医学の普及から看護制度、病院管理の導入など、これまで日本になかった衛生施策に、日本の衛生関係当局は
通史編5(近・現代2) (高度経済成長の終焉)

このことによりドルの円に対する価値が下がり、円高となり、日本の輸出が不利となって景気が後退した。,この影響は、ニクソン・ショックと重なり、日本経済に深刻な影響を与え、高度経済成長は行き詰まった。,こうした石油価格の上昇は、日本企業に種々の対策を余儀なくさせた。,こうした経過は日本の高度経済成長を終焉させ、安定成長への転換を促した。  ,昭和六十年のアメリカでの五ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議におけるプラザ合意による円高の容認は、日本にバブル
通史編1(古代・中世) (鬼王・安日)

鬼王・安日 安藤氏の始祖的位置に置かれた安日は、神武東征に際して大和生駒で滅ぼされたという日本神話上,この安日については、古代の日本創世神話である『古事記』『日本書紀』中にはまだその名がみえない。,中世に生きた人々の意識のなかでの日本創世神話(すでに『古事記』や『日本書紀』とはかけはなれた神話が流布,していた)において、神武天皇登場以前に日本を統治していた「鬼王」として、安日は極めて重要な役割を担っていた,外浜とは、津軽半島の陸奥湾側(東側)の地域であり、中世において、日本国の東の境界と認識され、まさに鬼の
通史編5(近・現代2) (山鹿学の影響)

『中朝事実』は『日本書紀』などから日本こそが中国(なかつくに)であり、儒教は従であり、仏教は異教であり,)は誤りで、学問・教育・民生・登庸・祭祀・憲章・礼儀・法令・賞罰・武徳・外夷投化の点において、すべて日本,キリスト教の大指導者本多庸一にしろ、大正二年(一九一三)に弘前教会堂に建てられた碑文で「東奥に生れし日本,の国士 日本に出でし霊界の大人」と世界宗教の指導者にあえて国士の称号がつけられた。,陸羯南が自分の新聞に「日本」と名づけたのは、素行が従来のシナ崇拝思想を自己批判して、日本中朝主義へ転向
通史編1(古代・中世) (「蝦夷・蝦狄」表記の創造)

「蝦夷・蝦狄」表記の創造 『日本書紀』のエミシ表記の研究によると、持統天皇四年(六九〇)ころから、『,時代には、日本列島を東西に細長いものとしてとらえるのが普通であったらしい。,ただ日本版ナショナリズムからいえば、中国の単純な物まねだけでは面白くない。,須弥山を中心に見れば、中国も日本もいわば同格である。,また八世紀になると、『日本書紀』に続く、国家の正史である『続日本紀』冒頭の文武紀には、「蝦狄」という用字法
通史編1(自然・原始) (気候境界と地域特性)

気候境界と地域特性 青森県の気候は、日本列島内では北日本または東北地方北部に区分され、日本の気候区(,福井英一郎による)では、西部は東北の日本海側に、東部は三陸に分類されている。  ,本県のように複雑な地形で、東西南北二〇〇キロメートルくらいの範囲内で生じる気候の地域差の原因には、日本海側,また、長い海岸線をもつ本県では、複雑に気流を取り入れやすいだけでなく、日本海を北上する対馬暖流、太平洋側,重要な気候境界ともなっている八甲田山系で区分される気候区は「日本海側気候-津軽地域」と「太平洋側気候-
通史編5(近・現代2) (朝鮮戦争による特需と商店街)

朝鮮戦争による特需と商店街 日本経済がドッジ・ラインの苦境から脱出することになった契機は、朝鮮戦争の,昭和二十五年(一九五〇)に朝鮮戦争が起こると、戦争の当事者となったアメリカ軍が必要な物資を日本で調達し,、その製造・販売のために日本経済は活況を帯びた。,朝鮮戦争の勃発から昭和三十年(一九五五)までに、特需の総額は五七三二億円に上った(前掲『日本資本主義の
通史編1(自然・原始) (第一節~第三節 引用・参考文献)

〇四、日本地質学会 塩原鉄郎・岩木火山団体研究グループ(一九八〇) 岩木火山の形成(その二) 山体の,構造と成立、日本地質学会第八七年学術大会講演要旨二〇五、日本地質学会 守屋以智雄(一九八三) UP,Earth Science 日本の火山地形、東京大学出版会、一三五頁 井関弘太郎(一九八三) UP,、一九九六年度秋季大会、日本火山学会 小池一之・太田陽子(一九九六) 変化する日本の海岸-最終間氷期,、日本第四紀学会、八〇~八一頁 地学団体研究会(一九九六) 新版地学事典、平凡社、一四四三頁 中嶋友文
通史編4(近・現代1) (弘中のスポーツ)

しかし翌十四年、北日本大会では工藤久吉・工藤敏一らの活躍で念願の優勝を勝ちとることができた。,剣道は十三、十四年とも北日本大会で準決勝で敗退。庭球も北日本大会では決勝まで進出している。  ,スキー・陸上競技部は大正十三年に独立した新興のスポーツであったが、二年後の大鰐町で開かれた大正十五年の全日本,スキー選手権大会県予選では優勝しているし、陸上競技部もまた十三年の極東大会兼東北予選北日本選手権大会では,に進み、わが国屈指のスプリンターに成長して、第九回のアムステルダム・オリンピック(一九二八年開催)に日本代表
通史編1(古代・中世) (混血の進展)

帰化人(渡来人)を受け入れたことはよく知られているが、そのため、これまでの想像以上に大量の渡来系集団の日本,こうして西日本を中心に、在来の縄文系の人々との混血が急速に進むこととなり、その影響は次第に東日本にも及,このことは、日本列島の西の方ほど北方的要素が強いという逆転現象を生じさせた。,日本列島の北と南の端とで類似の状況が生じやすいことは、想像に難くない。  ,日本人のミトコンドリアDNAには、アジア各地の人間の特徴が混在しているのである。
通史編5(近・現代2) (無産政党の結成)

さらに、翌大正十三年(一九二四)四月、安部磯雄・石川三四郎・秋田雨雀らは日本フェビアン協会を結成、機関誌,さらに、日本農民組合は、より包括的な立場から無産政党の樹立に動き、大正十四年十二月一日、わが国最初の無産政党,そこで、日本農民組合と官業労働総同盟は反共路線を打ち出し、大正十五年三月五日、大阪で労働農民党を結成した,このほかに三輪寿壮らの日本労農党、平野力三らの日本農民党も結成された。
通史編5(近・現代2) (新憲法の公布)

新憲法の公布 二十一年(一九四六)十一月三日午前八時を期して日本国憲法が公布された。,明治二十二年(一八八九)二月十一日明治天皇が大日本帝国憲法を宣布されてから五八年目、ポツダム宣言受諾の,精神に添い、国民の総意を容れて、その名称も「日本国憲法」と改められた。  ,国民は新憲法を民主憲法と呼び、平和日本再建の大憲章ととらえて公布を喜んだ。
通史編5(近・現代2) (米国より人形贈らる)

米国より人形贈らる 昭和二年(一九二七)、児童国際親善のしるしとしてアメリカの児童から日本に多数の人形,当時日本と米国の関係は、一九二四年(大正十三)のアメリカ議会の「排日移民法」可決、実施をめぐって、きわめて,人形を贈られた日本の小学校は好意を素直に受け、早速答礼の品を送ることにした。,七月四日、弘前市各小学校は図画・作文・習字の成績品を市を通してアメリカに贈り、本県からアメリカに贈る日本人形,費用として、各校が一〇円を醵出し、十月二十一日市内各小学校の児童は時敏小学校に集合して、出来上がった日本人形
通史編5(近・現代2) (在日朝鮮人問題)

しかし日本の敗戦により、朝鮮は独立国の国民として扱われることになった。,日本人が朝鮮人を警戒したのも、立場が突然に逆転することに対するとまどいの表れであった。,当初はアメリカの進める民主化政策を踏襲していた日本も、しだいにアメリカの極東戦略に準じ、冷戦の一端を担,朝鮮に対しても、日本政府は朝鮮社会主義人民共和国と国交を断絶することになり、在日朝鮮人の帰国を禁じた。,しかし近代以降、帝国主義日本がとった植民地政策が、戦後も負の遺産を引きずっていたことは、知っておく必要
通史編1(自然・原始) (第五節 引用参考文献)

第五節 引用参考文献 (1)藤本幸雄(一九八九)  (3)白神山地、日本の地質2東北地方、共立出版、,碇ヶ関村における地質調査報告、青森県水産商工労働部商工課、一-一四頁 (3)磯崎行雄(一九九八) 日本列島,(17)久城育夫・荒牧重雄・青木謙一郎(編) (一九八九) 日本の火成岩、岩波書店、二〇六頁 (,一九九八) 生命と地球の歴史、岩波書店、二七五頁 (20)箕浦幸治(一九八九) 3 弘前南方地域、日本,) 青森県岩木山麓から産出したザトウクジラ属化石と東日本中新-鮮新世のナガスクジラ科化石について、日本古生物学会一九九一年予稿集
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

其頃、石碑ヲ城門ノ前ニ建テ去蝦夷国界一百二十里ト記シテ今ノ桃生郡ノ辺ヨリ南ヲ日本ノ地トシ北ヲ蝦夷地ト定,是今ノ蝦夷国界ニシテ日本風土ノ限リトスル也。  ,これによれば、「日本」と「蝦夷」との国界は、第一に恵美朝猲が「桃生郡ノ辺ヨリ南ヲ日本ノ地トシ北ヲ蝦夷ト,東国の古代人を「日本人」化に導いたのは、実は、この政治的な営みを連動した寺社の世界であった。,中世の東国の人々は日本的な神々を祀る神社の世界に、「日本人」としての意識=アイデンティティを抱いたのであり
通史編4(近・現代1) (日露開戦と第八師団の派遣)

日露開戦と第八師団の派遣 明治三十七年(一九〇五)二月十日、日本はロシアに宣戦布告した。,日清戦争を戦って一〇年後、日本は欧米列強と初めて本格的な戦争をすることになった。,ウラジオストク艦隊のゲリラ的な出没と砲撃により、日本側は制海権を奪えず苦戦していた。,当時の日本は全部で一二の師団が常備していた。,それだけ日本軍も苦戦していたのである。
通史編1(古代・中世) (蝦夷はアイヌか)

のことからすると、逆に時代を遡(さかのぼ)れば遡るほど、混血の度合いが低くなっていくわけであるから、アイヌ・東日本人,・西日本人の間の差も、同様に小さくなっていく。,東北から北海道あたりでは、七世紀ころというのはまだアイヌと和人とがはっきり分かれていなかった(単なる日本人,この意味で日本人の二重構造は現代もなお維持され、混血も進行し続けているということになる。
通史編5(近・現代2) (ブラジル開拓の父)

ブラジル開拓の父 排日運動に憤慨した光世は日本民族発展の地を求めて、大正二年(一九一三)、ブラジルに,各地で日本人移民が開拓で苦労し、排日の迫害を受けているのを見かね、ベレンに居を構え、柔道とは別の夢、アマゾン,民族の誇りを胸に、一度も日本に帰ることなく、昭和十六年(一九四一)、ベレンで永眠した。
通史編5(近・現代2) (石油危機の推移と高度成長の終焉)

昭和四十七年夏、日本列島改造をひっさげた田中角栄が首相になった。,「日本列島改造論」は、田中が各省庁の専門家集団を動員して作り上げた高度成長期以後の日本の設計図である。,そのころ、日本はエネルギー源を石炭から石油に転換し、石油化学製品の増加、自動車や電気によるエネルギー多消費型,列島改造論の石油認識は「大型タンカーの活用によって日本は世界最大の油田をもっている」ということだった。,このとき日本は、エネルギー危機を技術革新と産業構造の転換、合理化で乗り切った。
通史編1(自然・原始) (津軽への稲作の伝来)

福岡県水巻町立屋敷遺跡採集土器が標式)を伴って北九州を基点に東進し、中国・四国地方を経て近畿に入り、その後日本海,と太平洋側のルートを通って東日本へ伝播して来た。,なかでも日本海側は猛スピードで北上し、津軽地方へは、予想を越えた早さで伝来したのであった。,弥生時代の始まりが西日本において今から約二四〇〇年前、東北北部などで約二三〇〇年前とすると、津軽地方へ,日本の食料供給地といわれる東北地方は、日本海側か夏には高温多湿により稲作に適し、太平洋側は、稲が伸長する
通史編4(近・現代1) (中国革命の義士)

さらに日本青年を集めてキリスト教青年会をつくった。  ,孫文は、日本の援助を受けて恵州で挙兵、広東省城を占領して革命に突入する計画を立てた。,日本の同志はこの計画を疑問視した。山田もむしろ清朝の三傑の李鴻章、劉坤一、張之洞の暗殺を考えた。,しかし、対清政策を変更した日本から武器の応援がなく、やがて総崩れとなった。  ,政府軍は山田が日本人であることを覚って、国際紛争となることを怖れ、箝口(かんこう)令を敷いて証拠の湮(
通史編5(近・現代2) (国内外の博覧会)

国内外の博覧会 明治期における万国博覧会・内国勧業博覧会などの国が主催する内外の博覧会は、開国まもない日本,これにより、ヨーロッパでの日本の美術工芸への関心を一気に高め、その後の日本への評価を固めることになった,一九〇〇)のパリ万国博覧会では、野沢如洋(のざわじょよう)(慶応元-昭和一四 一八六五-一九三九)が日本画,日本青年絵画協会は毎年絵画共進会を開催した。,明治二十九年三月に日本青年絵画協会は日本絵画協会と改称、同年九月洋画の白馬会と提携して第一回絵画共進会
通史編5(近・現代2) (弘前学院大学の開学)

昭和四十五年九月三十日、短期大学英文科、国文科を母体として、四年制大学文学部英米文学科、日本文学科の設置,同年四月十五日に入学式を挙行、第一回入学者は英米文学科三九人、日本文学科二一人であった。,入学定員は英米文学科五〇人、日本文学科五〇人である。,教員免許状は、英米文学科は中学校教諭一級普通免許状、高等学校教諭二級普通免許状で、教科はともに英語であり、日本文学科,平成十四年には、文学部英米文学科および日本文学科をそれぞれ英語・英米文学科および日本語・日本文学科に改称
通史編5(近・現代2) (経済九原則の実施、ドッジ・ラインと不況の到来)

アメリカは、多額の援助を必要とする日本経済の現状を改革し、自立的な日本経済の再建策を実施することを目指,このため、昭和二十三年(一九四八)十二月に経済安定九原則を発表して、その実施を日本政府に迫った。,昭和二十四年(一九四九)に、経済安定九原則を実施するために、デトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジが公使として日本,ドッジは、日本経済が、価格差補給金とアメリカの援助による輸入物資という二本の竹馬の足に乗っているとして,ドッジ・ラインの実施とほぼ同時期に、アメリカからシャウプ使節団が来日し、日本の税制を調査してその改革を
資料編1(考古編) (3.N3(後期中新世-鮮新世、7~1.7Ma))

前半のN3a(7~3Ma)は日本全域で隆起-海退が起きる時期である。,日本各地の背弧側にある堆積盆は Volcanic front を中心とした地域の隆起に伴って日本海やオホーツク,東北日本弧や千島弧では Volcanic front から背弧側にかけてカルデラを生じるような大規模な
通史編1(古代・中世) (毛人)

その最古の用例は、中国の昇明二年(四七八)に、日本から南朝・宋の順帝に差し出された、著名な倭王武(わおうぶ,この上表文は、大変立派な漢文で書かれているので、はたしてこれを書いた者が日本人であるかどうか、いささか,写真6『宋書倭国伝』「毛人」の表記  これが、漢語・漢文の技法に通じた帰化人の手によって日本で書,それが、倭王武の上表文が書かれた五世紀には、すでに日本にも伝わっていた可能性が高い。  ,ちなみに日本では、この毛人という用字は、八世紀から九世紀初めにかけて、人名に盛んに使用された。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

……………………………… 日本書紀 2 ●景行天皇二十五年、武内宿禰を北陸・東国に派遣。,……………………………… 日本書紀 2 ●景行天皇四十年、東国で蝦夷の反乱が勃発。日本武尊の東征。,……………………………… 日本書紀 5 ●清寧天皇四年、蝦夷等内付。,……………………………… 日本書紀 6 ●敏達天皇十年、蝦夷数千反乱。,また日本は、黒龍江以北から済州島以南に及ぶ大国と記す。
通史編1(自然・原始) (第二節 注および引用・参考文献)

四六 一九七一年 (5)A 成瀬洋 『第四紀』 岩波書店 一九八二年  B 湊正雄、井尻正二 『日本列島,野尻湖発掘調査団 『最終氷期の自然と人類』 共立出版株式会社 一九九七年  B 小谷凱宜 「第4紀学」『日本,の旧石器文化』 (総論編) 雄山閣 一九七五年 (7)A 亀井節夫 『日本に象がいたころ』 岩波新書,雄山閣出版 一九九〇年  D 木村英明、小野昭 「2・道具の組合せ、a石刃技法成立以前」 『図解・日本,の研究』 講談社 一九七四年 (11)村越潔 「大森勝山遺跡」『日本の旧石器』二 雄山閣出版 一九七五年
通史編5(近・現代2) (前田光世の記録)

本書は日本柔道家前田光世氏の通信百余通を資料にして作成されたものである。,前田氏が強いばかりではない、日本柔道其の物が、精妙な体術として発達し、欧米にはそれだけの工夫修練が積んでなかつたために,従来幾多の日本柔道家が海外に進展したのであるが、誰人も未だ前田氏の如く華華しい記録を作つたものはなく、,体格の上から小児あつかひにされる日本人の小身非力も、精神の働きによつて世界の強力者を制圧し得る好(よ),能く、小国の大国、小人の大人といふ事が言はるゝが、我等日本人は、誠に見上げた大国の大人たる実質を有する
通史編2(近世1) (帝政ロシアの南下)

図149.蝦夷地関係図  こうして、ロシアの日本探索は千島列島経由が主流となっていくが、その対日南下政策,イルクーツクに日本語学校を設立し、カムチャッカやその付近の島に漂着した日本人を厚遇してペテルブルクでロシア,語を学ばせてその教師に任じ、日本語と日本研究を進めている。
通史編5(近・現代2) (青少年団の動向)

そのため、文部省は指令を与えて、昭和十六年(一九四一)一月十六日、大日本青年団、大日本女子青年団、大日本少年団連盟,、帝国少年協会といったすべての青少年の組織体は一つに統合されて、「大日本青少年団」が結成された。  
通史編5(近・現代2) (新教科書の採用)

一例として二年用の『ヨイコドモ 下』の第一九課には、日本の国が世界で最高の国で、しかも強い神の国であることを,日本 ヨイ 国、キヨイ 国。世界ニ 一ツノ神ノ国。  日本 ヨイ 国、強イ 国。,このような日本を神国とする修身教材は各学年に採り入れられ、日本の国を守る考えを持たせて、戦争完遂に努めさせようとしている
通史編1(自然・原始) (冬)

二月末頃になると冬の季節風が次第に弱くなり、日本海の海面層の大気の温度と海水温との温度差が小さくなる(,日本海沿岸、例えば鯵ヶ沢港の水温の最低期は二月中旬)。,このため、雪雲の発生や発達が弱まり、日本海側の降雪日や降水量が少なくなってくる。,このころから三月初めにかけて、日本の南岸沿いに北上する低気圧に吹きこむ東寄りの風で、冬期間雪の少なかった
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