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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (二 肥前名護屋での「日本之つき合」)

二 肥前名護屋での「日本之つき合」 北奥の糠部郡において九戸一揆が鎮圧された直後の天正十九年(一五九一 / 二 肥前名護屋での「日本之つき合」
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

名護屋における「日本之つき合」 文禄元年四月ころに名護屋参陣を果たし、それから約一ヵ月過ぎた五月二十五日,信直は、大名との関係である「日本之つき合」に恥をかけば、「家之ふそく」(御家存続の危機)であると表現し,、そのつきあいに「きつかい(気遣)」ばかりであると述べているが、信直はその「日本之つき合」を前田利家との,図18.南部信直書状にみえる「日本之つき合」  名護屋城周辺の大名の陣屋配置を示したのが、図19,信直は西国大名らと陣屋を接し、長期にわたって「日本之つき合」に配慮していかなければならず、ただひとり取次 / 名護屋における「日本之つき合」
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

南部氏も津軽氏も「日本之つき合」を名護屋から今度は伏見城下に移して行わねばならなくなった。  ,この伏見における「日本之つき合」は、名護屋とはまた質の違う「つき合」であった。,伏見という「日本之つき合」の場は、北奥羽の大名にとって領国支配の維持を左右する重要な場であった。,しかし、この伏見での「日本之つき合」の中で北奥羽の大名らは保身を図ることはできなかった。,関ヶ原の戦いにおいて彼らの行動を決定的に規定したのも、この伏見における「日本之つき合」であったといえよう
通史編2(近世1) (新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)

41   一 九戸一揆と動員大名 …………………………………………  41   二 肥前名護屋での「日本之,つき合」 …………………………  54   三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ …………………  
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