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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(自然・原始) (日本海沿岸海域に震源のある地震)

日本海沿岸海域に震源のある地震 巨大地震は、太平洋側の北海道から四国沖にかけて圧倒的に多く発生している,これに対し、内陸および日本海沿岸の地震は内陸型と呼ばれ、最大規模でもマグニチュード(記号M、地震の大きさを,ところが、昭和五十八年(一九八三)五月二十六日の日本海中部地震は、「M七・七」の大地震で、このため秋田,・青森の日本海西海岸に大津波が来襲し、百余人(青森県一七人)もの人命が失われた。,現地調査では「日本海側には津波がないと思った」という証言が少なくなかった。 / 日本海沿岸海域に震源のある地震
資料編1(考古編) (1.N1(前期中新世中期-中期中新世前期、22~15Ma*5))

中期中新世前期、22~15Ma*5) N1には台島植物群の出現に示されるように気候の温暖化が認められ、また日本海側,前半のN1a(22~18Ma)のころ、日本海側の火成活動の拡大とほぼ同時期に太平洋側では海退*7が起こる,この時期の水平圧縮応力場は島弧に平行していて、日本海側には島弧に平行する湖盆*8や堆積盆*9が形成され,後半のN1b(18~15Ma)には日本海側の海域が拡大し、各地で火山性湖盆や基盤にオーバーラップ*10,依然として、日本海側の火成活動が活発で、流紋岩やソレアイト*11が大量に噴出している。
通史編1(自然・原始) (屏風山)

屏風山 日本海に面した鯵ヶ沢町から北部の十三湖にかけては、七里長浜(しちりながはま)と呼ばれる単調な,屏風山(びょうぶさん)」が、東西幅三~四キロメートル、南北に約三〇キロメートルと帯状に発達し、津軽平野を日本海,なお日本海に面した出来島(できしま)海岸の海食崖(かいしょくがい)から、約二万五〇〇〇年前の亜寒帯性針葉樹林
通史編1(自然・原始) (気候境界と地域特性)

日本列島内では北日本または東北地方北部に区分され、日本の気候区(福井英一郎による)では、西部は東北の日本海側,本県のように複雑な地形で、東西南北二〇〇キロメートルくらいの範囲内で生じる気候の地域差の原因には、日本海側,また、長い海岸線をもつ本県では、複雑に気流を取り入れやすいだけでなく、日本海を北上する対馬暖流、太平洋側,暖候期は冷害の原因である「ヤマセ」の障壁になって、津軽地域への影響を弱め、寒候期における季節風時には、日本海側,重要な気候境界ともなっている八甲田山系で区分される気候区は「日本海側気候-津軽地域」と「太平洋側気候-
資料編1(考古編) (2.N2(中期中新世中期-後期中新世前期、15~7Ma))

前半のN1a(15~12Ma)には西南日本は陸化し、太平洋岸で酸性岩の貫入と噴出があり、日本海側で宍道褶曲帯,また、これに呼応して日本海側の堆積盆が沖合いへと移動する。,伊豆-小笠原弧との衝突により関東山地及び周辺地域は隆起を続け、北部フォッサマグナでは堆積盆が浅海化し日本海
通史編1(自然・原始) (冬)

二月末頃になると冬の季節風が次第に弱くなり、日本海の海面層の大気の温度と海水温との温度差が小さくなる(,日本海沿岸、例えば鯵ヶ沢港の水温の最低期は二月中旬)。,このため、雪雲の発生や発達が弱まり、日本海側の降雪日や降水量が少なくなってくる。
通史編1(自然・原始) (津軽への稲作の伝来)

福岡県水巻町立屋敷遺跡採集土器が標式)を伴って北九州を基点に東進し、中国・四国地方を経て近畿に入り、その後日本海,なかでも日本海側は猛スピードで北上し、津軽地方へは、予想を越えた早さで伝来したのであった。,日本の食料供給地といわれる東北地方は、日本海側か夏には高温多湿により稲作に適し、太平洋側は、稲が伸長する
通史編1(自然・原始) (海洋プレートの運動と付加テクトニクス)

太平洋プレートのように、南米の西側の西経一一〇度付近の海嶺で生まれてから日本列島の東側にある千島海溝や日本海溝,東太平洋海膨から日本海溝までは一万キロメートル以上も離れている。,そうすると、日本海溝に沈み込む直前の海洋プレートは一億年以上も前に東太平洋海膨で生成されたものであり、
通史編1(古代・中世) (湊の始まり)

から、鎌倉幕府による全国的な開発が進展していた時期であり、奥大道を中心とする陸の道、そして古代以来の日本海域,このことは一四世紀後半には、十三湊と日本海経由で瀬戸内海までの広域な流通経路ないしは人的交流の道が存在,また、十三湊の重要性は日本海交易の中核港湾であった三国湊(みくにみなと)(福井県三国町)の事例にも認められる,を主要湊とする船であると考えると、船の所有形態は別にしても、北条得宗管轄下の船が一四世紀初頭段階から日本海
通史編1(自然・原始) (大雪と豪雪)

したがって、シベリア気団は日本海を南下するとき、下層が対馬暖流による高温な海表面水温により変質するので,日本海側の雪の降り方に、山雪(やまゆき)型と里雪(さとゆき)型がある。,両者の区別は、シベリア大陸から南下する約五〇〇〇メートル上空の氷点下四〇℃前後の寒気が、日本海中部に入,るか(里雪型で、地上天気図では日本海が袋状になって季節風が弱い)、北海道方面に進むか(山雪型で、等圧線,また、寒気の強弱は、日本海に発生した雪雲の大陸からの離岸距離が近いか(強い寒気団)、遠いか(比較的に弱
通史編2(近世1) (一 青森開港と初期海運)

近世初期の段階では、敦賀の廻船商人で徳川家康との関係が深かった田中清六(せいろく)正長らが新たに日本海海運,二代目の田中九兵衛も津軽へ進出し、深浦・鰺ヶ沢・十三の各湊へ入津している(和泉清司「近世における津軽藩の日本海交易
通史編1(自然・原始) (春)

春 三月中旬になると、シベリア高気圧が勢力を弱めて後退し、日本の南岸コースを通っていた低気圧が日本海,このころに日本海で急速に発達する低気圧があって、突風を伴った南寄りの乾いた強風が吹くことがある。
通史編1(自然・原始) (中新世という時代)

中新世の中頃には日本海が誕生したと考えられており、また、遠く離れたアフリカ東部では、同じころ、地球規模,日本海としてくぼ地が拡大を開始するときには、現在我々が身近に経験する火山の活動からは想像がつかないような,青森県に限らず日本海に面した地域では、中新世の中頃の地層にはこのような大量の溶岩や凝灰岩、凝灰角礫岩からなる
通史編1(自然・原始) (位置と地勢)

北は津軽海峡を隔てて北海道の渡島(おしま)半島に相対し、東は太平洋、西は日本海に面し、南の西半分は秋田県,浅瀬石(あせいし)川、平(ひら)川、十川(とがわ)を合流し津軽平野の中央を北北西に流れて日本海に入る。,西海岸地域の赤石(あかいし)川、中村(なかむら)川も北流して日本海に注ぐ。
通史編1(自然・原始) (台風のコース)

日本海側のコースでは強風被害が主体となり、リンゴの収穫の季節には甚大な被害を被る。,図60 台風コースと災害特性  Aの日本海側コースは、白神山地で雨量がやや多い。
通史編1(自然・原始) (春)

春 三月中頃になると、シベリア高気圧が後退し、日本の南岸コースを通っていた低気圧が日本海を通るようになる,このころに、日本海で急激に発達する低気圧があって、突風を伴った南よりの乾いた強風が吹くことになる。
通史編1(古代・中世) (渡嶋津軽津司)

渡嶋津軽津司 以上見てきたように、太平洋側でも日本海側でも、徐々に律令国家の力は北へ北へと浸透していったわけであるが,名前の方の「鞍男」は和人的ではあるが、中央から派遣された人物であるのか、どこか日本海岸の地方の人物であるのかの,おそらく津軽あたりの日本海側から、渡嶋の北限である道南部にかけての地域の港や、さらにはその後背地、そしてそれらの,これはもう少し格下の郡衙(ぐんが)付属施設を指す可能性が高いが、当時の主要交通路である日本海側には、こうした
通史編1(古代・中世) (陶磁器と地域社会)

貯蔵具・調理具は、越前焼を基本とする日本海交易の中に組み込まれている。,陶磁器に関しては日本海交易圏でありながら、かわらけという器ををほとんど使用しない地域であり、基礎的な生活文化
通史編2(近世1) (鷹献上システムの成立)

かい津、大みそ、坂本、  右の朱印状は、津軽為信が御鷹を津軽から上方へ献上するのに、その道筋に当たる日本海側,この文書を携帯して津軽からの鷹献上使が、日本海沿岸を上方を目指して南下したと推測される。,同様に夷島の蠣崎(かきざき)氏も鷹献上を下命され、文禄二年(一五九三)正月、豊臣政権から日本海沿岸の各大名
資料編1(考古編) (〈地域的な差〉)

を含む北上川流域では各時期を通じて普遍的な平面形であり、Ⅰ型-②を主屋とするものは14~16世紀まで日本海側,このⅠ型-②の建物跡は、日本海交易による珠洲・越前・唐津陶磁器の分布範囲と一致している。,宮城県北上川流域では15世紀まで7尺代の柱間寸法が多用されるのに、日本海側では14世紀から6尺代の柱間寸法
資料編1(考古編) (5.青森県における弥生時代の終局)

ともいう)は、本県を越えてさらに南下し、太平洋側における南限は、江合川流域の宮城県玉造郡岩出山町であり、日本海岸,は最上川中流域の山形県寒河江市と、さらに日本海沿いに南下して、新潟県の柏崎市に近い刈羽(かりわ)郡西山町,ただし、分布に濃淡が見られ、特に日本海側では秋田県の米代川流域の密度が高い。  
通史編2(近世1) (中世の北国海運)

中世の北国海運 若狭・敦賀(つるが)を中点として、日本海沿岸地域と畿内とを結びつけた北国(ほっこく),となる瀬戸施釉陶器小型品や、珠洲(すず)の壺・甕(かめ)・すり鉢、越前甕貯蔵具・調理具などの流通による日本海交易,そして、十五世紀前半には、名実ともに日本海屈指の貿易港としての形態を整えていた。,そして、中世の十三湊は、東日本の中核港湾都市というべき物資集散の拠点であった(宇野隆夫「日本海に見る中世,しかし、弘前の町年寄松井四郎兵衛らの由緒書から、十六世紀の中ごろには、日本海交易の拠点としての機能を持
通史編1(古代・中世) (十三湊空白の百年)

類似した現象は、日本海沿岸の湊機能をもった遺跡にも認められ、普正寺(ふしょうじ)遺跡(金沢市・写真169,このような発掘調査の事例を参考にすると、日本海沿岸部は一五世紀末から一六世紀代という時期には、寒冷化等
通史編5(近・現代2) (鉄道敷設の請願)

さらに昭和十七年にはこの予定線を五能線岩崎駅もしくは深浦駅に延長する日本海貫通鉄道の敷設が申請された(,昭和十八年に出された調査概況説明書によれば、弘前以西砂子瀬付近までは鉱区が密集しているが、その先から日本海
通史編1(自然・原始) (平野内の水系と等高線の配置)

岩木川は総延長約一〇二キロメートルあって、白神山地の雁森(がんもり)岳に発源し、津軽平野を縦断し日本海,)川・赤石(あかいし)川・追良瀬(おいらせ)川・笹内(ささない)川などがあるが、いずれもほぼ北流して日本海
通史編1(自然・原始) (日照時間からみた地域特性)

日照時間からみた地域特性 全国的にみて、北日本の日本海側では年間の日照時間は少ない。,日照時間と日照率について、青森(日本海側として)と八戸(太平洋側として)との比較の中で、津軽地域における
資料編1(考古編) (第1節 地質の概要)

当然のことながら、当時日本海はまだ形成されていなかった。,り返しながらしだいに東方へ移動することによって、アジア大陸東縁の東方海上に火山列を載せた島弧となり、日本海,つまり、引張テクトニクスの下で日本海が誕生し、火山弧が成熟した後に応力場が逆転した結果、日本海側の平野,この時の移動速度については、古地磁気学的資料からの推定では極めて短時間での拡大・移動を示しているが、日本海,テクトニクスや火山活動史のほかに、拡大しつつある日本海で起きた地質事変についても分かってきた。
通史編1(古代・中世) (日の本の将軍と地域の自立性)

これに対して、たとえば、「奥州日の本の将軍、岩城の判官正氏殿」という表現がみられる(史料一一三三)日本海,を舞台とする説経『山椒大夫』は、日本海での交易活動の展開の中で、そこを横行する人々を荷担者として生まれたもので
通史編1(自然・原始) (前期)

一方南下した当該土器は、太平洋側においては岩手県の中部で南から北上して来た大木(だいぎ)式土器と接触し、日本海側,ところが一部は日本海沿いに南下を続け、富山県氷見(ひみ)市の朝日(あさひ)貝塚(24)や、能登半島の富山湾
通史編5(近・現代2) (台風災害)

この台風は時速一一〇キロという猛烈なスピードで日本海を駆け抜けた風台風だった。,この台風は沖縄県に上陸した後、日本海を縦断し、各地に甚大な被害を与えた。  
通史編5(近・現代2) (高速交通体系の整備)

と青森県議会議長の招集による「新幹線建設促進に関する協議会」が開かれ、青森市を接点とする東北新幹線と日本海新幹線,なお、日本海新幹線に関しては、当時の田中首相が小畑秋田県知事に東北新幹線盛岡以北と同時期着工を確約したことを,受けて、東北と北陸の両経済連合会が「日本海沿岸新幹線」の早期実現のため、政府の鉄道建設審議会に要望書を
通史編1(古代・中世) (斉明天皇四年の「北征」)

その征討の対象は、雄物川河口以北の、秋田県の日本海沿岸地域である。,こうして津軽・渟代の蝦夷を固めた後、四月に、比羅夫は多数の船からなる水軍を率いて越国を出発し、日本海岸,日本海の海波が穏やかなときに実行しているのである。  『日本書紀』では一八〇艘(翌五年次も同様。,古代から中世にかけて、日本海側では十三湖に代表されるような発達した潟湖を拠点に海人集団を率い、海上交易
通史編1(自然・原始) (ヤマセとは)

太平洋側から日本海に向かって吹く冷湿な風で、天候の特徴は低温と曇雨天である。
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳時代)

さらに、青森県内では、太平洋に面する東側と、日本海に面する西側とでは遺跡や遺物の分布状況からみるかぎり,その分布は、太平洋側では宮城県、日本海側では新潟県にまで認められる。
通史編2(近世1) (近世初期海運)

北国船とは、近世初期から前期にかけて羽賀瀬(はがせ)船と並んで、日本海海運の主役として活躍した廻船であった,このことによって、当時の敦賀は、日本海海運の中継地としての重要性を中世以来、依然として維持し続けていたことを
通史編3(近世2) (瓦の移入)

移入ルートは上方から海路日本海を北上して鰺ヶ沢に着岸、ここでいったん荷揚げのうえ、藩庫に収納され、小廻
通史編5(近・現代2) (弘西林道の開通)

この完成によって、ブナ材の搬出のほか、弘前市と西海岸(日本海)を結ぶルートができたことになった。
通史編2(近世1) (近世の十三湊)

川湊(かわみなと)」(正保・承応年間にはすでに「川湊」と称される湊へと変貌していた)として岩木川舟運と日本海海運
通史編1(自然・原始) (海底火山の崩壊)

しながら噴火活動が断続的に続き、溶岩や凝灰岩、凝灰角礫岩からなるマグマからの産物が、開き始めたくぼ地(後に日本海,日本海が開裂する時の火山活動を記録した地層の中で最も古いものは、弘前市域では大和沢(おおわさわ)川上流部
通史編1(自然・原始) (地層に記録された過去の出来事)

①は「海の時代の終焉と古いカルデラの活動」,②は「深い海に泥が堆積した時代」,③は「日本海の誕生と海底火山,約一五〇〇万年前(中新世中頃)の珪質泥岩や硬質頁(けつ)岩からなる地層(一七六頁参照)は、本州や北海道の日本海側,すなわち新しい方から「海の時代の終焉(しゅうえん)と古いカルデラの活動」「深い海に泥が堆積した時代」「日本海
通史編1(自然・原始) (津軽平野を覆っていた海)

日本海側から陸地深く侵入した海は、現在の津軽平野となっている広大な低地はもちろんのこと、その周辺を含めた,この日本海側と陸奥湾側の海を結ぶ海峡には、現在の瀬戸内海でみられるうず潮のように、干潮・満潮に伴って潮流
通史編2(近世1) (津軽地域の確保と蝦夷荒)

としても機能していたと思われ(資料古代・中世No.一〇二五)、大浦氏は鰺ヶ沢を確保することによって、日本海交易,これによって、十三湊(とさみなと)を含む岩木川下流域の地域を掌握することになり、日本海交易につながる経路
通史編1(古代・中世) (種里城を中心とした城館群)

日照田館跡は内陸に位置する種里城と日本海との中間で、日本海側を望むことができる地点に位置していることから
通史編4(近・現代1) (軍艦見学)

日本海軍の第一、第二、第三艦隊が青森港に入港したのを機会に、海軍になじみの薄い弘前市小学校児童に、軍艦
資料編1(考古編) (-五所川原古窯群生産須恵器の供給先-)

南限は、日本海側では米代川流域、太平洋側では馬淵川上流域を結ぶ線上である。
資料編1(考古編) (3.N3(後期中新世-鮮新世、7~1.7Ma))

日本各地の背弧側にある堆積盆は Volcanic front を中心とした地域の隆起に伴って日本海やオホーツク
通史編1(古代・中世) (柵の設置)

『日本書紀』には日本海側の越(こし)国内に関する動きが記録されている。  ,近年の考古学の成果は、文献史料には記されていない柵が東北地方各地に存在していたことを裏づけつつあって、日本海側
通史編1(古代・中世) (一六世紀の湊)

一六世紀末から一七世紀初めの遺物を大量に出土した東通(ひがしどおり)村浜通(はまどおり)遺跡の状況をみると、日本海,また日本海域では十三湊に代わって、鰺ヶ沢町の種里(たねさと)城を中心とした地域や深浦町の元城(もとしろ
資料編1(考古編) (〈注一覧…第4章〉)

市浦村教育委員会・山王坊跡調査団 『青森県北津軽郡市浦村山王坊跡昭和57~昭和62年度調査中間報告』(北方日本海, 「下北半島西通発見の人骨と陶器」(北奥古代文化第6号) 1974年 *8 桜井清彦 「津軽十三と日本海沿岸文化,遺跡発掘調査報告書」(青森県埋蔵文化財調査報告書第59集) 1980年 *17 佐々木達夫 「津軽出土の陶磁器と日本海交易,」(白水7号) 1979年   佐々木達夫 「日本海の陶磁交易」(日本海文化8号) 1981年,弁天島遺跡発掘調査報告書』(小泊村文化財調査報告書第1集) 1985年 *25 加藤孝・佐藤智雄 『北方日本海
通史編2(近世1) (町支配の役人)

日本海沿岸地域の各城下町で町支配を担当した人々は、このような支配の技術を持つ集団として、お互いに連絡・つながりがあったと
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