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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(漆工芸と日本画)
漆工芸と
日本画
このように明治期の本県の美術工芸の分野において最も活発な活動を示したのが、漆工芸と
日本画
,であり、その活動の中心となる工芸家・
日本画
家が弘前に集中しているのは、弘前藩の体制の下で、中央に通じる,高橋竹年は
日本画
家でもあった父・米舟(べいしゅう)(安政三-昭和九 一八五六-一九三四)から絵の手ほどきを,写真268 高橋竹年『群猿』 このように本県の明治期の美術の活動は、幕末から継承した漆工芸や
日本画
/ 漆工芸と
日本画
通史編5(近・現代2)
(文展と帝展)
第八回文展に彫刻の前田照雲(まえだしょううん)(明治一二-大正一三 一八七九-一九二四)、大正四年に
日本画
,なかでも龍岬はこの文展、帝展に連続して入選し、大正期に最も華々しく活躍をした本県の
日本画
家であった。,龍岬の作品は
日本画
の中でも大和絵の系統に属するものであり、水墨画が主流の本県の
日本画
界にあって特異な作家,一九七〇)、岡部陽(おかべよう)(明治三七-昭和五七 一九〇四-一九八二 東京都)らが学び、昭和の本県の
日本画
壇
通史編5(近・現代2)
(個人作家の活躍)
工藤甲人(くどうこうじん)(大正四- 一九一五-)は、戦後に
日本画
滅亡論まで出て
日本画
の復興が叫ばれたなかで,、
日本画
の新しい道を模索し、故郷弘前を創作の源とした幻想性あふれる独時の世界を展開し続けてきた。,平成八年(一九九六)には、作品が大英博物館に収蔵されるなど、今や日本を代表する
日本画
家として注目されている,一九九一年 青森県立郷土館『青森県近代版画のあゆみ展』展示図録 一九九五年 青森県立郷土館『青森県近代
日本画
通史編5(近・現代2)
(国内外の博覧会)
一九〇〇)のパリ万国博覧会では、野沢如洋(のざわじょよう)(慶応元-昭和一四 一八六五-一九三九)が
日本画
,また、明治十五年(一八八二)と明治十七年には、衰退した
日本画
展を振興させるための手段として、内国絵画共進会,内国絵画共進会は、農商務省を主催とし、県庁の勧業課を通して出品する方法をとっており、勧業政策の一環として、
日本画
,多く、江戸後期からの文人趣味とあいまって地方に普及した南画、文人画の勢力が大きく、また、この一三人の
日本画
家,のうち、少なくとも一〇人が弘前の
日本画
家であることを考えると、明治十五年前後の本県の画壇の中心は弘前で
通史編5(近・現代2)
(東京美術学校と弘前の作家たち)
声が起こり、それにこたえて、明治二十一年(一八八八)、東京美術学校(東京芸術大学の前身)が設置され、
日本画
,弘前市出身者では
日本画
の工藤青山(くどうせいざん)(明治六-昭和二一 一八七三-一九四六)、蔦谷龍岬(
通史編5(近・現代2)
(昭和の美術団体)
節堂は、戦後まもない昭和二十二年に「青森県
日本画
家連盟」の代表となり、昭和二十六年まで務めた。,昭和四十四年(一九六九)には、黒滝大休らが
日本画
、洋画、彫塑、書道、工芸、写真、デザインの七部門からなる
通史編5(近・現代2)
(美術団体の躍進)
須藤尚義は、昭和十七年(一九四二)に、青森・弘前地域の
日本画
家で「青丘社」を結成した。
通史編5(近・現代2)
(戦後美術界の復興)
財団となった日展は
日本画
、洋画、彫塑、工芸、書の各分野を包括する我が国最大の美術団体として、現在も大規模
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