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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (日露戦争と小学校)

日露戦争と小学校 明治三十七年(一九〇四)二月六日の和徳小学校日誌に「日露ノ風雲愈々急ヲ告ゲ昨夜後備兵,三十七年二月十日、日露戦争の宣戦詔勅が下賜されると、その翌日市内小学校は一斉に奉読式を挙行、必勝の信念,写真107 日露戦争凱旋門(百石町)  戦勝に果たした小学校の功績は大きい。 / 日露戦争と小学校
通史編4(近・現代1) (地域と軍隊の密接化)

日露戦争はここに日本側の勝利とともに正式に終わりを告げた。,写真82 凱旋を祝う第8師団御用達の商店(新寺町)  弘前市民にとっても日露戦争は身近な戦争として,日露戦争前後から全国的に在郷軍人会の結成が進んだ。,これには日露戦争で苦しんだ軍人兵士やその遺家族の慰撫・慰安、そして保護・授産対策の意味合いもあった。,写真83 日露戦争の凱旋門(和徳町)
通史編4(近・現代1) (黒溝台の死闘)

黒溝台の会戦と呼ばれるこの戦闘こそ、日露戦争の戦局を決定した奉天会戦の前哨戦として、その後長く国民に語,弘前市民にとっては、この戦闘こそ本当の意味で日露戦争の始まりなのである。,黒溝台の会戦が、何よりも劣勢だった日露戦争の戦局を打開し、最終的な勝利のきっかけとなったことで、その印象,これら重要な年中行事に、日露戦争を前後して、新たに「黒溝台会戦記念日」と、その五日前の「雪中行軍記念日,記念行事が定期的に挙行されるのと併せて、新聞や雑誌、音楽や演劇などで、日露戦争の激戦や悲劇は繰り返し国民
通史編5(近・現代2) (對馬勝雄のノート)

結論として、日本は日露戦争直前の、つまりロシア革命勃発直前のロシアと共通しているという。,日露戦争の際のロシア軍と同じ轍を踏む。
通史編5(近・現代2) (東門会の創立)

昭和四年東京帝国大学の西洋史学科を卒業したが、在学中に大川周明などの国粋主義者と交遊、卒業論文を後に『日露戦争,父の思想を受け継ぎ、日本の日露戦争勝利によるアジアの覚醒、特に反共の砦ともなる満州への積極姿勢が後輩を
通史編4(近・現代1) (第五十九銀行の営業状況)

その史料から(一)営業上の失敗、(二)支店出張所の設置、(三)日露戦争後の景況、(四)本店の新築、の営業状況,めつつあるなり」と青森市において駅の拡張など社会資本整備の計画が出てくると土地買収が活発に行われるが、日露戦争後地価,同 四十年四月一日  八戸支店 同 四十年七月一日  大館支店・扇田出張所(秋田県)  (三)日露戦争後,政府にありては、歳入の増加を計り、郵便為替貯金等の制を設けて銀行業者の範囲を幾分か障害するに至り」と日露戦争
通史編5(近・現代2) (柔道で世界を制覇した男)

三十七年の暮れ、日露戦争の最中、二十七歳の光世は日本と講道館を代表して世界に柔道を広める使命を受けて渡米,しかし、日露戦争に勝利した日本を西欧列強はしだいに敵視し始める。 写真306 前田光世
通史編4(近・現代1) (ロシア人捕虜と弘前捕虜収容所)

ロシア人捕虜と弘前捕虜収容所 日露戦争の間にロシア人捕虜が弘前市に連行されることになった。,殊ニ出征軍人ノ家族若クハ遺族ニ対シテハ不心得ノコトナキ様注意ヲ加フルコト」とあるのは注目されよう(『日露戦争関係書類綴
通史編4(近・現代1) (工業学校の創設と東奥義塾の廃校)

工業学校の創設と東奥義塾の廃校 日露戦争後、本県においても実業教育の必要が叫ばれるようになったが、県自体,しかし、日露戦争の勝利による国力の躍進によって、ようやく工業を盛んにして工業立国を目指すという考えが浸透
通史編4(近・現代1) (私設青年団の結成)

ことに日露戦争が終わると地方改良運動が唱えられ、その一環として地方青年団の設置が奨励された。
通史編4(近・現代1) (陸軍特別大演習の準備と開催)

すでに日露戦争当時から通信設備向上の必要性を日本の軍当局では実感していた。
通史編4(近・現代1) (日清戦争と郷土部隊の出征)

この動きは弘前市や青森県の場合、雪中行軍遭難事件を通じて浸透し始め、日露戦争を経て確立していったと思われる,軍当局が越冬対策や装備に関心をもち、その改良に着手したのは日露戦争前後になってからなのである。
通史編4(近・現代1) (産業組合の設立普及)

特に、日露戦争後の農村不況対策として、政府の推奨もあり、産業組合結成の機運が高まった。
通史編4(近・現代1) (弘高女の運動会)

当時は日露戦争の大勝をうけて、戦後という一種の風紀退廃の風潮から女学生に附文(つけぶみ)(恋文)を出す
通史編4(近・現代1) (名誉職の町村長・助役)

特に、日露戦争以後の増大する町村事務を名誉職町村長や名誉職助役でこなしていくためには、報酬の増大が特に
通史編4(近・現代1) (招魂祭)

三十九年四月二十一日、公園四の郭(今の護国神社の位置)に祭壇を設け、日露戦争当時の第二軍司令官・奥大将
通史編4(近・現代1) (第八師団の実状)

それを見ると、第八師団長立見尚文の名で、日露戦争を間近に控えた当時の第八師団管下の様子が、概略的ではあるが
通史編4(近・現代1) (日露開戦と第八師団の派遣)

したり、津軽海峡にロシア艦隊が出没したり、樺太からロシア人捕虜が弘前にやってくるなど、弘前市民にとって日露戦争
通史編4(近・現代1) (義務教育の延長)

当時、産業不振の本県とはいえ、日露戦争勝利による北洋漁業海域の拡大、缶詰工業の創業、りんご生産の向上発展
通史編4(近・現代1) (普選運動の胎動)

やがて『二六新報』と『万朝報』が運動を後援し、日露戦争直前には政治的急進グループと一体化し、やがて主戦
通史編4(近・現代1) (藩祖三百年祭)

あたかも日露戦争の勝利で国内が歓喜にあふれ、軍都弘前も凱旋将兵を迎えて沸き立っている時であった。
通史編5(近・現代2) (弘前市にとっての第八師団)

有名な雪中行軍の悲劇を経験した第五連隊と第三一連隊を管下に置き、日露戦争での活躍ぶりから「国宝師団」とも
通史編4(近・現代1) (髪型・化粧品)

日露戦争のころには前髪を高くした「二〇三高地」という髪型があった。
通史編4(近・現代1) (大正天皇の来迎と弘前市民)

明治維新後、憲法を発布し、日清・日露戦争の勝利を導いた明治天皇への国民感情と比較し興味深い事実である。
通史編4(近・現代1) ([口絵])

雪中行軍で遭難した第五連隊の救助を指揮した齋藤長義輜重第八大隊長 (元弘前藩士) 口絵29 日露戦争凱旋門
通史編4(近・現代1) (りんご生産の展開と農業振興)

日露戦争が始まる明治三十七年(一九〇四)の栽培面積一二四一町歩に対して、五年後の同四十二年には三二九二町歩,この急速な拡大の理由は、日露戦争による好景気、他の畑作物に対するりんごの高い収益性である。
通史編4(近・現代1) (二つの雪中行軍)

二つの雪中行軍 雪中行軍は日露戦争を間近に控え、寒冷地であるロシアとの戦いに備えた作戦だった。
通史編4(近・現代1) (伝道の日々)

写真130 福音音楽隊、弘前教会前にて  明治三十七年二月十日、日露戦争が始まった。
通史編4(近・現代1) (校風刷新なる)

時あたかも日露戦争の混迷の時代でもあった。
通史編1(自然・原始) (大正時代)

しかし一方では、大山柏(おおやまかしわ)(一八八九~一九六九、日露戦争時に満州軍司令官として活躍した大山巌
通史編4(近・現代1) ([付図])

〈明治37年〉※『駿馬之図屏風』 27 工藤行幹代議士急逝〈明治37年〉 28 日露戦争
通史編5(近・現代2) (東門会の佐藤正三)

そこへ伊東六十次郎から『日露戦争の世界史的意義』が贈られてきた。
通史編5(近・現代2) (学校における音楽)

以後、日露戦争祝勝、関東大震災救済などの名目で折ごとに音楽会を開催している。
通史編4(近・現代1) (第三一連隊の壮挙とその後)

そして最終的に日露戦争でも前線部隊を任せられ戦死している。  
通史編4(近・現代1) (地主制の確立と在村地主の役割)

特に、日露戦争後の農村疲弊と明治三十年代後半の連続凶作による貧農層の増大に直面したことから、農業生産力
通史編5(近・現代2) (棟梁・堀江佐吉)

このうち、旧弘前市立図書館は、日露戦争にかかわる第八師団諸施設工事の大量請負で多くの利益を得た斎藤主(
年表・索引編 ([弘前市の人口の推移])

35,589人   37年(1904) 36,203人   38年(1905) 35,617人 日露戦争
通史編4(近・現代1) ((一)北洋の出稼ぎ農民たち)

日露戦争直後の明治三十八年十二月の新聞記事では、礼文島の賃金は一人二七円から三十二、三円とあり、弘前地方
通史編4(近・現代1) (新編 弘前市史 通史編4(近・現代1) 目次)

…………  277   三 歩兵第三一連隊の雪中行軍 …………………………………  282   四 日露戦争
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