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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(旧幕府軍の軌跡)
旧幕府
軍の軌跡 榎本武揚ら
旧幕府
海軍が品川沖を出帆したのは、明治元年八月十九日のことだった。,、美賀保を座礁させ、咸臨を新政府に奪われながらも仙台へ向かったが、東北戦争が収束に向かっていたため、
旧幕府
軍,したがって、
旧幕府
軍は、大鳥圭介(おおとりけいすけ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)らとともに、蝦夷地へ,
旧幕府
軍勢はおよそ三〇〇〇人に膨らんでいた。,図66.復元された開陽丸
旧幕府
軍の目指すところは、旧幕臣の蝦夷地開拓、つまり、蝦夷地の徳川家 /
旧幕府
軍の軌跡
通史編3(近世2)
(宮古湾海戦)
宮古湾海戦 津軽海峡を挟んで対峙(たいじ)することとなった政府軍と
旧幕府
軍は探索の者を送り、間者を厳,三月九日に品川沖を出航したこれらの軍艦の情報は、
旧幕府
軍のもとにも届いていた。,こうして、
旧幕府
軍の宮古湾(みやこわん)奇襲作戦が実行されたのである。 ,
旧幕府
軍艦回天・蟠龍・高雄が海軍奉行荒井郁之助の指揮のもと、三月二十一日未明に箱館港を出航した。,同じく箱館へは
旧幕府
艦隊が回天・蟠龍の二隻となって帰港した。
通史編3(近世2)
(松前城の恢復)
旧幕府
軍は折戸(おりと)の台場で必死の防戦を行ったが、長州藩・徳山藩の働きが大きく、ついに松前城を恢復,陸・海からの攻撃に
旧幕府
軍は退却せざるをえない。,こうして、
旧幕府
勢は福島方面へ引き揚げ、知内(しりうち)を通り、木古内の守備の強化を図ることになった。,二十日朝方に、
旧幕府
軍の不意をつく形で木古内へ攻め入った。,砲台を奪われ、
旧幕府
軍は敗走するが、松前から引き揚げ知内に残留していた
旧幕府
軍が木古内の応援に現れ、さらに
通史編3(近世2)
(鳥羽・伏見の戦い)
京都南郊で始まった鳥羽・伏見の戦いは、やがて上野戦争・北越(ほくえつ)戦争・東北戦争・箱館戦争と続く
旧幕府
勢力,図44.鳥羽・伏見戦争周辺地図 大坂城にいる徳川慶喜を中心とした
旧幕府
軍は行動を開始した。,、入京を目指して北上する幕府軍とそれを阻止する薩摩藩の軍勢との押し合いが続き、ついに強行前進を決めた
旧幕府
軍,この日、鳥羽・伏見で薩摩・長州軍四〇〇〇人余りと衝突した
旧幕府
軍は、数では圧倒的な優位を誇っていたが、,六日夜、徳川慶喜は密かに大坂城を脱出して海路で江戸を目指し、
旧幕府
軍は瓦解していった。
通史編3(近世2)
(矢不来の戦い)
旧幕府
軍は土方歳三の指揮のもとで、台場山を本陣、天狗岳(てんぐだけ)を前衛として守りについた。,天狗岳から本陣のある台場近くまで進んだ政府軍と
旧幕府
軍の間では激しい銃撃戦となる。,
旧幕府
軍も大鳥圭介が指揮をとり、死守の構えをみせたが、ここでも海上からの援護射撃が功を奏した。,、ついに
旧幕府
軍は夜になって五稜郭まで後退した。,この大敗のため、二股口を守っていた
旧幕府
軍も挟撃を避けるため五稜郭へ退却した。
通史編3(近世2)
(箱館戦争の開始)
そして、十月二十二日、蝦夷地における
旧幕府
軍との最初の戦闘が始まった。,二十二日夜、
旧幕府
軍の使者の軍が峠下村に宿営したのをみて、同夜半に弘前藩兵らが夜襲をかけたのである。,しかし、使者として先発していた
旧幕府
軍には、歴戦を重ねた大鳥圭介隊が合流したこともあって、政府軍は苦戦,しかし、
旧幕府
軍の遊撃隊(ゆうげきたい)・新撰組(しんせんぐみ)などが最後には接戦に持ち込んだため、五稜郭,一方、沿岸沿いを進んでいた土方歳三率いる
旧幕府
軍勢も川汲峠で箱館府兵を破って峠を越えた。
通史編3(近世2)
(箱館の攻防)
箱館の攻防 十一日未明、有川・七重方面から三手に分かれて進軍をはじめた政府陸軍は
旧幕府
軍の必死の防御,さらに箱館方面へ探索の軍勢が出ると、弘前藩の旧陣屋から
旧幕府
軍の攻撃があり、弘前藩は長州藩の応援を得て,このとき、対する
旧幕府
海軍は、既に千代田形を座礁させて失い、また五月七日、回天も機関を攻撃され、軍艦としての,すなわち
旧幕府
勢に残る軍艦は蟠龍のみであった。 ,一時はこれにより
旧幕府
軍の勢いが盛り返したが、青森から延年も到着し、丁卯とともに蟠龍を追い、同艦を弁天台場付近
通史編3(近世2)
(幕府・朝廷の攻防)
幕府・朝廷の攻防 鳥羽・伏見戦争に勝利した新政府は、この戦争を仕掛けたのは
旧幕府
軍であり、徳川慶喜の,一方、
旧幕府
側から出兵命令が出されたのは、一月十日のことである。,また、
旧幕府
側の公式見解(同前)が十一日に出され、二十三日には弘前へ達せられたが、これは新政府側の見解,つまり、
旧幕府
側の見解によると、上洛の内諭があったので上京したところ、新政府軍が待ち伏せをしたうえ、発砲,そして
旧幕府
勢に朝敵の名を負わせ、他藩を扇動したにもかかわらず、新政府側には戦利がなかったが、徳川慶喜
通史編3(近世2)
(松前方面の攻防と青森)
松前方面の攻防と青森 蝦夷地における
旧幕府
軍は、箱館府軍勢を退けた後、十月二十六日、無人の五稜郭を占拠,松前城の攻防は激しいものであったが、
旧幕府
軍は搦手(からめて)門からも一隊を突入させ、とうとう本丸内での,こうして松前は
旧幕府
軍に掌握されていったのである。 ,その事件とは、突如陸奥湾(むつわん)に現れた
旧幕府
軍艦回天と蟠龍に関するものだった。 ,対談を終えた
旧幕府
勢は、回天に戻り、再び二艦で陸奥湾を巡った後、やがて蝦夷地へ戻った。
通史編3(近世2)
(政府軍の乙部上陸)
そこで状況を聞くと、それまで
旧幕府
軍の番兵が二人居合わせたが、艦隊の来航をみてあわてて逃げ去ったという,上陸作業が進む中で、村役人が山上に四〇人ほどの
旧幕府
軍が襲来してきたことを伝えた。,たまらず
旧幕府
軍は敗走し、上陸を終えた政府軍は松前藩を先頭に、江差・松前方面・木古内(きこない)間道方面,加えて江差方面からは艦隊の援護射撃もあり、
旧幕府
軍はこの日、石崎村付近まで退いたのである。 ,しかし、江差を奪われた
旧幕府
軍も、松前詰めの隊と合流し、態勢を立て直して再び政府軍へと向かっていった。
通史編3(近世2)
(京都詰藩士による視察報告)
潰れた家や死者を確認し、その様子を記しているが、それは、
旧幕府
軍不利の状況を象徴するようなものであった,戦いは
旧幕府
軍がさらに南へと押され、淀まで至っていた。,一月六日、
旧幕府
軍は淀から木津川を越え、大坂寄りの八幡と橋本に退いて薩長軍と対峙(たいじ)した。,津藩が幕府勢に攻撃を始めるに至り、
旧幕府
軍の敗北が決したのであった。,このように
旧幕府
軍から離反する藩が相次いだのである。
通史編3(近世2)
(木古内口の攻防)
木古内口は
旧幕府
軍の抵抗が強く、なかなか突破できない難所となっていた。 ,結局のところ、十一日に
旧幕府
軍へ攻撃をしかけた政府軍だったが、実は攻めきれずに弘前藩兵が到達するころには,この日、
旧幕府
軍には大鳥圭介隊も合流し、逆に政府軍が陣をおく稲穂峠(いなほとうげ)へ反撃を開始した。
通史編3(近世2)
(松前徳広の領内落去)
旧幕府
軍の勢いに、藩主松前徳広らは土橋(現北海道檜山郡厚沢部町)へ避難して情勢を見守るしかなかったという,したがって、江差はまもなく
旧幕府
軍の勢力下に入ってしまう。,なお、松前藩に残った藩兵は
旧幕府
軍から降伏を促され、藩主の出帆を知った後の二十日、武装を解除した。,しかし、厳寒期であるうえに、軍艦という決定打に欠ける官軍は
旧幕府
軍の動向を見守るしかなかった。,一方、
旧幕府
軍は着実にその基盤を蝦夷地に築きつつあった。
通史編3(近世2)
(清水谷公考の退去)
清水谷公考の退去
旧幕府
軍の勢いは強く、一方の政府軍に兵力の限界を感じた清水谷公考は、十月二十四日、,青森から浪岡への転陣には、
旧幕府
軍の蝦夷地侵攻を許した責任をとっての謹慎の意味があった(『弘前藩記事』
通史編3(近世2)
(維新期の弘前藩)
一八六七)十二月九日の小御所会議(こごしょかいぎ)で決められた徳川氏の辞官・納地を不服として出兵した
旧幕府
側,徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は早い時期に恭順の姿勢をみせていたが、根強い一部の
旧幕府
勢力の反抗と朝廷側
通史編3(近世2)
(庄内征討命令をめぐって)
庄内征討命令をめぐって 弘前藩が討庄応援の準備を始め、出兵を繰り返していた間にも、新政府軍と
旧幕府
軍,しかし、
旧幕府
内には新政府の処置に異論を唱えるものも多く、大鳥圭介は
旧幕府
軍を率いて江戸を後にした。
通史編3(近世2)
(弘前藩の対応)
この時期はいまだ新政府と
旧幕府
側との争いの決着の方向はみえず、両者からの出兵要請を受けたものの、藩では,工藤のもたらした風聞では、戦端を開いたのは新政府側であるとしており、新政府の表明した見解と
旧幕府
側の見解
通史編3(近世2)
((一)箱館戦争の開始)
十月十七日、政府から派遣され、箱館府知事に任じられていた清水谷公考(しみずだにきんなる)から、八月に品川から
旧幕府
海軍
通史編3(近世2)
(近隣諸藩の動向)
箱館裁判所は箱館府、総督は府知事と改称されて、五稜郭(ごりょうかく)で
旧幕府
箱館奉行からの引き継ぎを受,戊辰戦争勃発当初、八戸藩の行動は、
旧幕府
勢力に敵対するものではなかったにしろ、政府に従う方向で進められていた
通史編3(近世2)
(戦争の波紋)
こうして、戊辰戦争が始まり、
旧幕府
側と新政府側という二極対立の構図が誰の目にも明らかになったが、結局、
通史編3(近世2)
(箱館戦争期の兵員補充)
榎本武揚(たけあき)の
旧幕府
脱艦隊による箱館襲撃である。
通史編3(近世2)
(各藩使者の来弘)
各藩使者の来弘 明治元年一月二十四日、弘前藩では藩主諭告を出し、
旧幕府
側からの出兵催促についての対応,つまり、この時点では、
旧幕府
軍からの出兵催促にも新政府からの催促にも応じる様子はなかったといえよう。
通史編3(近世2)
(箱館戦争の終結)
青森口総督清水谷公考も箱館へ戻り、降伏した
旧幕府
軍のうち六一〇人は弘前藩へしばらく預けられることとなった
通史編3(近世2)
((一)東北諸藩と弘前藩)
一方
旧幕府
側は、恭順の意を示すために、二月十二日より徳川慶喜が上野寛永寺大慈院(かんえいじだいじいん)
通史編3(近世2)
(庄内征討応援命令)
庄内征討応援命令 しかし、新政府は大きな不安要素である
旧幕府
陣営を一掃すべく、行動を推し進めていた。
通史編3(近世2)
(旧弘前藩の債務処理)
80,554両3分2朱 3貫420文 2 東京の部 52 102,185両3分2朱 68匁1分1厘
旧幕府
間
通史編3(近世2)
(戦線の北上)
松平定敬らは、やがて榎本武揚(えのもとたけあき)らと合流し、箱館戦争が終了するまで
旧幕府
軍として行動した
通史編3(近世2)
(町方の軍事負担)
さらに、人的負担も大きく、たとえば明治元年十一月に榎本武揚(たけあき)の
旧幕府
脱艦隊に攻められて、松前藩主徳広
通史編3(近世2)
(野辺地戦争の動機)
実は、弘前藩首脳部では九月五日の段階で、中牟田隊が単独で野辺地を攻撃する懸念を抱き、そのうえで、
旧幕府
資料編3(近世編2)
(【解説】)
戦端が開かれてすぐに弘前藩は
旧幕府
・朝廷の両方より参陣を求められるが、時の同藩がとった方針はまず領内を,ところが、その直後の十月十八日に箱館府知事清水谷公考(きんなる)卿から榎本
旧幕府
脱艦隊襲来の飛報がもたらされ
通史編3(近世2)
(戦局の推移と戦費負担の増加)
箱館に
旧幕府
脱艦隊榎本武揚の軍が来襲し、同地を守る府知事清水谷公考(しみずだにきんなる)が弘前藩に対して
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